三十三章 王宮にて~愛と擦れ違いと騒がしき…~(3)
ジーンのもとを出た後、マリアは薬学研究棟へと向かった。
ルクシアの研究私室に顔を出してみると、そこには既にニールが居座っていた。アーシュの隣にあるマリアの席を挟んで、自分の作業椅子を引っ張り寄せて腰掛けている。
しかも彼は、かなりくつろいで菓子を食べていた。
作業台には、見事な焼き菓子の詰め合わせが広げられている。そのせいか、ルクシアはどうしたら良いのか、といった様子で困惑しているようだった。
先にこちらに気付いたアーシュが、口を押さえたまま目を向けてきた。
「やべぇよこの大人、朝から吐きそうだ……」
「……………」
なんか、すまない……とマリアは無言で伝えながら扉を閉めた。
お前ほんと仕事しているのか?
またしてもちょっと心配になっていると、ニールが外側にはねた見事な赤毛を揺らして首を傾げてきた。両手には焼き菓子を持っていて、口をもっきゅもっきゅしている。
「ねぇお嬢ちゃん。それ、一体どういう感情からの表情なの?」
「いえ、別に……」
ついさっき、大臣の部屋で聞いたような台詞が自分の口から出た。やっぱりモルツのやつ、色々何か思っていたのでは、とマリアは今更のように考えてしまう。
歩み寄っていくと、ルクシアが大きな眼鏡越しに金緑の目を向けてきた。父親である国王陛下アヴェインと同じ瞳だ。その癖の入った柔らかな髪の、赤みかかった栗色は母親と一緒である。容姿は十五歳にしては幼いが、表情や雰囲気は大人びている。
「無事に帰宅したと、昨日知らせが届いて安心していました。お元気そうで何よりです」
「ありがとうございます、ルクシア様。こちらの方では変化はありませんでしたか?」
マリアは、作業テーブルの上のコーヒーを確認しながら言った。ニールの方には、恐らくはアーシュが面倒になって甘くして淹れたのだろうか、甘い香りの紅茶が出ていた。
問われたルクシアが、少し考え考える間を置いてからこう言った。
「いえ。平和なものでしたよ」
「…………」
気のせいか、一瞬、彼がチラリとニールを見た気がした。マリアはルクシアが続き部屋にこもっている時、アーシュがブチ切れて、ニールを放り投げていたのを思い出す。
こいつ、ここに要るか?
そんな事を考えていると、二十歳にしてはやや華奢なアーシュが、文官服の上に羽織った長い白衣の裾を揺らして、今更のように菓子を見渡した。
「それよりも、この菓子どっから持って来たんだろうな?」
「聞いてないの?」
マリアが思わず口を挟んだら、彼が懐かない犬みたいな目を返してきて「入って来たのも唐突で、うっかり聞くのも忘れてた」と言ってのけ、菓子のタワーへ指を向けた。
「これ、どう見ても結構いいとこの焼き菓子だろ。多分、上流階級の貴族向けだぜ」
確かに、そう言われてみればそうだ。
マリアは、自分のコーヒーを用意しに行くタイミングを逃して考えた。そばからニールが「お嬢ちゃん座らないの?」と言ってきたが、無視した。
思い返せば、視察先にいくまでは何度か拳骨を落としたものの、ニールは任務先ではまぁまぁ大人しくしてくれていた。とすると、ジーンからご褒美で分けてもらった、とか……?
そんな可能性が頭に過ぎったものの、ジーンは何も言っていなかった。
では、彼は一体どころから高級焼き菓子を持って来たのか?
そう考えたところで、マリアはハッとした。元黒騎士部隊、それでいてニール、とくると、もう一つの可能性が浮かぶ。
まさか、またポルペオじゃないだろうな?
「ニールさん、一つ確認したいのですけれど」
不安になってサッと言葉を投げたら、ニールがパッと表情を明るくして見てきた。
「いいよ! なんでも聞いて!」
なんで嬉しそうにしてんだよ……。
マリアは、両手に焼き菓子を持った満面の元部下を前に、よく分からんなと困ってしまった。首を傾げつつも、気を取り直して指を向けて続ける。
「このお菓子、一体どうしたんですか? ここがもっとも聞きたいポイントなんですけど、――まさか、ポルペオ様のところのものじゃありませんわよね?」
そう切り出した途端、コーヒーで一旦落ち着こうとしていたアーシュが噴き出した。げほっごほっとやっているのを、ルクシアが同情混じりの心配な目を向ける中、彼はガバッとマリアを振り返って言う。
「こいつ、あのポルー師団長様のところにも出入りしてるのか!?」
「アーシュ君、俺、そばにいるのになんでお嬢ちゃんに確認してんの?」
ニールは、指まで向けられてとても不思議そうだった。そのまま「変なアーシュ君」と自身の結論を口にするなり、マリアへと向き直って、顔をぶんぶんと横に振った。
「違うよ? ヅラ師団長のとこは寄ってないもん」
そう聞き届けたマリアとアーシュの間に、なぁんだ、と安堵の空気が漂った。ルクシアが「そもそも彼との関係性もよく分からない……」と呟いている。
だがその直後、ニールがこう言葉を続けた。
「これはねぇ、ロイドのところから取ってきたの」
今度はコーヒーカップを作業テーブルにダンッと置いて、アーシュが「ごほっ」と大きく咽た。ルクシアが「総隊長、ですか……」と口にする中、さすがのマリアも「は!?」と声を上げてしまっていた。
これ、ロイドのところから取ってきたのか?
恐らくニールの事なので、勝手にもらってきたのだろう。そもそもロイドが彼に「やる」と言っているところは、想像出来ない。
朝から何してくれちゃってんの、阿呆なの?
マリアは、込み上げる思いのままの素の表情で、両手を少し上げてしまいながらニールに詰め寄った。
「ニールさん、なんて事してくれちゃってんですか」
「あはは、お嬢ちゃん言い方がなんか変。だってさ、通りすがりいい匂いがして、顔を出してみたら、テーブルに沢山あったんだもん。覗き込んでる時に、後ろをグイードさんが通ったから訊いてみたら、『一つならいんじゃね?』って」
いや、多分あいつ、また適当に言っただけだろ……。
マリアは「またかよ」と顔を手で押さえてしまった。それから丹念に目頭を揉み解すのを、ニールが不思議そうにしばし眺めたところで「あ」と思い出したように続けた。
「それから、ロイドが午後のこの時間に来いって」
「え。それ絶対やだ」
このタイミングでそれ伝えてくるって、お前阿呆なの?
マリアは、片方の手にあった焼き菓子を一旦置いて、畳まれたメモ用紙を差し出してきたニールを見つめ返した。すると彼が、やっぱり青年にしか見えない顔できょとんとして言ってきた。
「俺もね―、昨日予定聞かされたんだよねぇ」
「昨日?」
「今日、登城再開した皆スケジュールぎっしりで、取れる時間バラバラだし。集団で行ったら目立つから、ひとまず一人ずつ話聞いてくんだってー」
「あ~……なるほど」
「俺はね、変態野郎がいない時間がいいって言って、時間を伝える役目受けた時にざっくり報告したよ! ただねー、午後の終業前に、ヴァンレットを連れて行かないといけなくて」
そう好き勝手に話していくニールの声は、マリアの耳を素通りしていった。
個別報告の件が、この菓子の件よりも前の話であるにせよ、乗り気はしない。けれど元軍人としては、納得も出来るので仕方ないかとも思ってはいた。
めんどい……が、きちんとしなければならないだろうしなぁ。
以前ロイドが、紙の上よりも、本人の口からの話しに信頼を置いていると言っていた事も思い出していた。それはマリアとしても、前世の軍人時代から理解はしているのだ。
「はぁ……。分かりました『臨時班』のお仕事の一つですから、私も予定されている時間に顔を出しますわ」
考え渋った末、溜息交じりにそう答えた。
ルクシアとアーシュが「このタイミングで……」と、同情したようにマリアを見ていた。