三十二章 公正な警備隊長&異端な神父(6)
夕刻、最後の祈りの時間が始まる、一時間前。
セカンド教会に、こそこそと入っていく一人の聖職者の姿があった。下の階級のクラス分けを示す白い帽子、衣装には縁取りのラインしか入っていない布を一つ掛けている。
男の年齢は、二十代中頃。彼は扉をくぐり抜けて中に入ると、人の目がなくなったところで、ようやくホッと肩の強張りを解いた。
そのまま祭壇へと目を向けたところで、男の目が縋るように潤みを増す。
「ああ。ああ、なんと神々しい」
元の生まれ高さを思って、彼は両手を合わせてしまう。普段ならば、庶民の自分には到底届かないであろう大貴族の血筋の人物に、畏れと憧れとで『勝手に』神聖視してしまっているせいだ。
つい、動けず立ち止まってしまっていた彼は、相手に手招かれてハッとする。
「神の前には皆同じ。さぁ、いらっしゃい」
ああ、なんと尊い御方か。
遠く王族の血を引く、特別な人間の一人。
信仰心と特別視を持った男は、ふらふらと畏れ多くも足を進め出した。大司教候補にも名を連ね、だからこそ、ここへも修業と神を学びに来たと言われている上級司教様――。
そこには、美しい微笑みを浮かべたジョナサンの姿があった。
男は彼の前まで向かうと、そのまま懺悔を乞うように膝をついた。
「ああ、ブライヴ司教様。私はあなた様のおっしゃったように、大司教様に『あなた様はこの神の土地の主、全てはあなた様のお心のままに『もっと』すればよろしいでしょう』とお伝えし、引き続き、彼の望むままに全てを叶え続けています……ですが、これで良かったのでしょうか? 私が尊敬したあのお方は、いまだ止まらずにいます」
彼は、以前からジョナサンに相談に来ている、大司教の側仕えの聖職者の一人だった。
奴隷のように扱われていた孤児だったのを救われて、大司教を慕っている。とても信心深い彼は『大司教が神の正しい裁きにより、罪を償い悪魔から解かれる』と信じていた。
救うために神は、間違った行い分の罰を与える。
そうして赦しをお与えになられ、魂と心は救われる。
ジョナサンは、本気でそう信じている彼を見つめ、――くすり、と形のいい唇で笑んだ。
「それでいいんだよ。神は、一年前までの君の苦しみさえも見ていらした。君は今、過去の苦しみも和らぎ、一心に神を信じ祈りを捧げられている――そうだろう?」
「はい。その通りです。それは神が、正しいと私の背を押してくださっているから……?」
「そうだよ」
にっこり、とジョナサンは『慈愛に見える』美しい微笑みを浮かべる。
「僕は何度だって君に言ってあげよう、それは神が正しいとして見守ってくださっているからだ。神は、今の君のお心も見ていらっしゃるだろう。きっと、良きように神が導いてくださる」
まるで悪魔のような甘美なる囁きだ。
けれど男は、尊き者に陶酔するようにして「ああ、神よ」と両手を組んだ。自分の美しさに見惚れているのを分かっていて、ジョナサンは優しく美麗に微笑みかける。
彼は白い指先を、そっと滑らせて男の額をなぞった。
どこかあやしげな、ゆったりとした動きで祝福を与える。おかげで、男はぼうっとなってしまって、いよいよジョナサンの完璧な美しさに見惚れてしまっていた。
「大司教様が、神の導きによって救われるその時まで、君が幻想の罪悪感を抱いてしまうたび、この僕が赦してあげよう」
「は、はい! 私にはあなたの赦しが必要です」
心から感謝しております、と、男は入ってきた時とは比べ物にならないほどの明るい雰囲気で答えた。あなたは神の手をお持ちなのだと、ジョナサンに最上級の礼を取る。
神を信じ、そうして神に認められた者は、不思議な力を持つという。
聖職機関内で信じられている聖人説だ。
「――ハッ。そんな人間、見た事ねぇよ」
男が去っていくのを見届けたところで、ジョナサンが、持ち前の気性が滲む、ニィッとした笑みを浮かべて不良じみた言葉を吐き捨てた。
※※※
日が暮れたところで、迎えの馬車が到着した。
世話になった店主に礼を告げたあと、用事の帰りがけに立ち寄ったのだと、マリア達は見送りに来たジョナサンと再会した。
「ジーンさん達が次に来るまでの間は、僕が見ているから安心してよ。例の隊長さんとも話せたんでしょ? 僕の方で彼の事、『監視』していた方がいい?」
来て早々、ジョナサンがそう言ってにこっと笑った。
自ら提案するのを見たレイモンドが、ちょっと警戒したように片頬を引き攣らせて後退していた。積極的な協力姿勢でもって確認されたジーンは「いや、別にいい」と、あっさり断った。
「あの警備隊長は信用出来る。だからお前も、興味がそそられなかったんだろ?」
するとジョナサンは、バレたかと白状するように「――まぁね」と肩を竦めて見せた。
「僕は、ああいう真っ直ぐで、正しさしかない真面目人間はあまり興味がないんだよね」
彼は、どこか含むような口調でそう話をしめた。
タイミング良く来た事もあり、彼にも手伝ってもらってマリア達は馬車へと荷物を詰めていった。道中分に必要な携帯食料については、きっちりしているポルペオの指示のもと、ニールとヴァンレットが積極的に足を動かして運び入れた。
「なんか、色々と助けてもらってすまない」
最後の荷物を積んだところで、二人で話せるタイミングに気付いたマリアは、向こうにいる友人たちを気にしつつ、こそっと素の口調で声を掛けた。荷物を運ぶなんて面倒な事を、ジョナサンが好きじゃない性格だったのを思い出したのだ。
すると、大人になって少し変わったんだよ、とでも言うように彼がにこーっとした。そうやって笑っていると、若々しい純粋無垢な美青年にも見えた。
「だってオブライトさん、つまり『王宮に帰って来た』んでしょう?」
不意にそう言われて、マリアは、何言ってんだこいつという顔をした。
ジョナサンは、機嫌がいいようで引き続きにこにこしている。
「それに、またジーンさん達と一緒に、ここへ来るんでしょ?」
「ん? ああ、まぁ、そうだな……?」
「ふふっ、そうやってまた、僕のところに帰って来てね」
帰る帰ると先程から言ってくれているが、私は王宮所属ではないし、今は軍人ですらないし、そもそも正式には侯爵家の専属メイドなんだが……。
マリアは、よく分からないジョンナサンから夜空へと目を向けた。そういえば元気にやっているだろうかと、自分よりも二日前には帰宅する『旦那様』と『小さな主人』を思った。
とうとう全ての荷物が馬車へと詰め込まれた。
そうしてマリア達は、ジョナサンに一旦の別れを告げ、そのままステラの町を出た。