三十一章 大聖堂のある町(2)下
いや…………待て待て待て。なんで、その名前で私を呼ぶ?
何故か一発で言い当てられ、マリアは動揺した。すっかり紳士として成長したジョナサンは、まるで疑っていない様子でこちらを見ている。そのピタリと向けられた新緑の目に、胸がドクドクした。
「…………いや、あの……私は、」
少し遅れて、慌てて手を振って否定した。しかし、言葉を続けようとした矢先、ジョナサンが前触れもなく動き出して一気に距離を詰めてきた。
彼のゆったりとした聖職者衣装の下から、国王軍に支給されている立派な剣が引き抜かれるのが見えた。
「はぁ!? ちょ、嘘だろ……っ」
神父が、国軍公認の武器持ちってどういう事だ!?
マリアは何がなんだか分からないまま、護身用として持たされていたやや短目の剣を、スカートの内側の腿から抜いて慌てて攻撃を受け止めた。
ジョナサンと近くから目が合った。すっかり幼さの抜けた大人の顔で、彼は穏やかに笑う。
「久しぶり、オブライトさん」
「~~~~~~っ」
「今までどこにいたの?」
うふふ、と男が自然な天使の微笑みを浮かべている。
マリアはゾワッとした。体格の違いによる力の差があるのは否めない。咄嗟の判断で剣を弾き返すと、彼が実に愉快そうに口角を引き上げるのが見えた。
「ジョナサン……!」
チクショーこいつめっ。
思わず悪態のごとく口にしたら、距離を取り直したジョナサンがにこっとする。
「すごいね。そうやって一発で僕らを見分けられるのも、相変わらずだ」
いやいやいや、何言ってんだこいつ。
マリアは唖然として、表情にそう浮かべた。その後ろで、もう止められないと察して諦めモードのジーンが、「完璧に見分けられてたの親友だけ……」とぼそりと呟く。
昔からジョナサンはそうだった。何を考えているのか分からないところがあって、近くでオブライトが切れていたら『感知した』のだとか言って、唐突に突撃してきたりするのも日常茶飯事だった。
その辺は、ある意味ジーンの親友感知やら何やらと、似ているところがある気がした。今になって思い返してみても、やっぱりほんとわけが分からないでいる。
いや、ここで流されてどうする。自分はまだ肯定さえしていないぞ。
いきなり剣を向けられたとはいえ、今なら話せるチャンスだ。マリアは上手く笑顔を作れないまま、緊張気味に素の表情に近い感じで、ひとまず口許にぎこちない笑みを浮かべた。
「その、誰と勘違いされているのか分かりませんが、私は『女の子』のマリアですわ」
そう声を掛けると、ジョナサンが無害そうな笑顔で「ふうん」と首を傾げた。柔らかな髪が、くすんだ色合いを滲ませてパサリと揺れている。
「真っ向から否定されると、さすがにショックだから、言わせたくなかったんだけど」
「へ?」
「だって、まるで僕の事を知らないみたいに言うんだもの」
マリアは、唐突にそんな事を言われて動揺した。
いつだって平気そうな顔をしていた彼。しかし、咄嗟に脳裏に過ぎったのは、そんな彼を今、自分が傷付けてしまったかもしれないという事だった。
彼と弟は、少し不器用なところもある素直な『子供』でもあった。たびたびチラリと寂しさを漂わせて、こっそり傷付いていたのを、オブライトだった頃に何度か目にしていた。
「あ……、その、ごめ――」
その時、ジョナサンが「ふふっ」と笑ってマリアの言葉を遮った。
「そこも相変わらずだね、そんな顔しないでよ。ねぇオブライトさん――僕の事を知らないただの女の子、だなんて面白い遊びだね?」
その声が不意に冷気を帯び、彼が唐突に動き出して剣を向けてきた。
振るわれた剣が煌めきを放ち、裾の長い神父服がふわりと揺れる。マリアは驚きつつも自分の剣で防ぐと、続けて放たれた斬撃についても咄嗟にいなした。
型を変え、体勢を変え、両者の剣が交わって音を立てている。
すっかり傍観者になったジーンが、誰かが入ってきたらビックリするだろうなー、と独り言を呟いて扉の鍵を一旦降ろした。
「嬉しいな。またこうしてオブライトさんと『遊べる』なんて」
ジョナサンはのんびりとした表情で、けれど一般兵であったとしたら僅かで勝敗が決まってしまっていただろう怒涛の剣裁きを次々に出してくる。
全く話を聞かないままの戦闘だ。
おかげでマリアの驚きと戸惑いは、次第に苛立ちに変わっていった。
「……この阿呆っ、いい加減にしろよジョナサン!」
マリアはとうとう素の口調で怒鳴って、本気で打ち返した。殺気で開いた瞳孔にロックオンされたジョナサンが、その穏やかな新緑の目を微笑ませる。
「ああ、いいね。やっぱりオブライトさんほどの『Sの気』はないよ」
「おいコラ、Sな性格はお前の方だろうが」
ざけんな、とマリアは青筋を浮かべて口許を引き上げた。
「ああそうだよ、私はオブライトだった。でも今は違う、マリアだ――それで満足か? あ?」
「切れどころが短いのも、相変わらずだねぇ」
強い声で言い聞かせてやったのに、彼はくすくすと上品に笑う。
「でもさ、どうして過去形にするの? だってそうやって生まれ変わったとしても、オブライトさんは、オブライトさんでしょ」
ねぇ、と凍えるような彼の天使みたいな目がこちらを見据えて、今のマリアの姿を焼き付けるように一瞬だけ止まった。
その直後、戦い向けではない衣装だというのに、ジョナサンが再び素早い攻撃を放ってきた。片手で軽々と振るわれる剣は、遊んでいるかのように空気を裂く。
全然隙が見当たらない。こいつ腕上げてんな、とマリアは今の小さな自分の身体を考えて忌々しく思った。仲間内や味方に本気で斬りかかれない彼女は、両刃の剣でどうにか出来ないものかと、必死に考え続ける。
「ふふ。なんて愉しいんだろう」
器用にも、館内の破損を避けているジョナサンが言う。
こんの、根がドSの愉快犯め。窮屈な闘いをしばらく続けられていたマリアは、こらえようとしたものの、そう思った直後にブチリと切れていた。
「ナメるなよ。斬らずに、お前を殴ってくれる」
とりあえずこいつを、一発本気で殴って沈める。
マリアはそう考えてすぐ、カチリと思考を切り替え、躊躇いなく全防御の意識を捨てた。空色の瞳を、ひどく落ち着いた殺気一色にすると、剣をくるりと持ち直した一瞬後にジョナサンの懐目掛けて急発進する。
笑顔のままの彼が、剣で突きを放とうとするのが見えた。
でもマリアは、先程と違って、もう止まる事をしなかった。
頬くらいは切れてもいい、と、敵軍に飛び込んでいたあの頃と同じく捨て身で行った。真っ直ぐ剣先から目をそらさない。最低限かわして懐に飛び込んでジョナサンをぶん殴る――そう決めて、ただただ身体が動くままに突き進んだ。
その時、ジョナサンが不意に、殺気を解いて剣を途中で止めた。
向かってくるマリアを見つめている彼の新緑色の瞳から、ふっと力が抜ける。
「――ダメじゃないオブライトさん。怪我、しちゃうよ」
戦闘モードが、ふっと唐突に解ける。
そっと微笑んではいるけれど、何を思っているのかは分からない目だった。唐突に終了となったのを感じて、マリアは拍子抜けて「は……?」と身体から一気に力が抜けてしまう。
そのまま飛び込んできた華奢な彼女を、ジョナサンが腕を取って転倒しないよう支えた。
取られた腕が温かい。
ふわりと近くから目が合って、マリアは大きな空色の目を見開いた。
「ほんと相変わらずだなー、オブライトさん。身体は大事にしなきゃ」
「え。……は?」
「僕、最後の全開の殺気で満足したし、もういいよ」
戸惑うマリアを見下ろして、ジョナサンはにっこりと笑う。
扉に背を預けていたジーンが、その様子を見てやれやれと身を起こした。
「これで満足か、ジョナサン?」
「ふふっ、ありがとうジーンさん。――邪魔するなら殺そうと思った」
彼が笑顔のまま、小さな声でさらっと物騒な言葉を続ける。
腕を離されたマリアは、一緒に武器をしまいながらドン引きした。同じくばっちり耳にしたジーンが、口角を引き攣らせて「……そうだろうと思ったよ」と言った。