三十章 開幕にして、動き出す任務(2)
朝の勤務が始まって少しの王宮内は、移動している使用人たちの姿も多くあった。そのせいか、周りからチラチラと向けられている視線も二割増しである。
多分、見られていると感じるのは気のせいではないのだろう。
マリアは、左右を師団長のグイードと、騎馬総帥のレイモンドに挟まれている状況を思った。
「ジーンのやつ、なんかテンション高かったなぁ」
「泊りなのが嬉しいんじゃね? 久々だし」
グイードが、小さなマリアの頭越しに、相棒と目を合わせてそう言う。
「結婚したらなかなか外泊もしないしなぁ」
「嘘付け、この前ちゃっかり飲んでジーンのところに泊まっただろうが」
「あれ。酒ぶっこんで酔わせたの、まだ怒ってんのか?」
「――言っとくが、お前とアヴェインのアレはまだ許してねぇ」
おかげで妻に少し心配かけただろうが、とレイモンドの顔に小さな青筋が立つ。
だんだん彼の声は苛々してきている。マリアは十六年前まで、ずっとあった光景と雰囲気を思い出して、なんだか嫌な予感がしてきた。
「しかもさ、少し休みたいからって、今朝も予定よりも早くに入室するなよな。ジーンのところにいたメイドがびっくりしていただろうが。俺の部下もなッ」
「別にいいじゃん、友達んところに顔出してるだけだし」
「ジーンのところでゆっくりするっていう今回のもそうだけど、そのたび俺を巻き込む必要ある!? お前はッ、いちいち人を引きずるなって言いたいんだよ!」
俺を執務室から引きずり出しやがって、おかげで俺の若い部下が戸惑いまくって可哀そうだったろうがッ――と、部下と後輩から人気のあるレイモンドが説教しながら、マリアの上からグイードを掴んで揺らす。
人の頭の上で、自由に会話すんなよ……。
マリアは頭にある大きなリボンが、ぎゃあぎゃあ騒ぐ彼らの腕に時々掠って揺れるのを感じた。十六年経っても、レイモンドは相変わらず切れどころが早いなぁと思う。
その様子はかなり目立っていて、何人かの軍人もチラチラと目を向けていいた。元名コンビを知っているのか、隊長クラスの男二人組みが困惑した顔で立ち止まり、目で追いかけて呟く。
「…………あの二人、今度は間にメイドを挟んで言い合って、何やってんだ?」
「…………なんか、昔似たような光景があった気がするなぁ」
ありましたね。当時、間に挟まれていたのは私でした。
マリアは、聞こえてきた声に対して、そう心の中で答えた。あの頃、とうとう目の前でレイモンドが掴みかかって、グイードに絞め技をかけ始めた時は『俺はどうしたらいいのだろう……』と思ったりしていたものだ。
「――まぁ、私としては、今も引きずられているレイモンドさんが、可哀そうだとも思うんですけどね」
「マリアはそう思ってくれるかッ」
思わずポソリとマリアが口にしたら、その声をバッチリ拾ったレイモンドが感動の目を向けた。
「そうだよな、この馬鹿力持ちに引きずられる俺が可哀そうなんだよッ。なのに誰も分かってくれねー!」
「ははっ、ひどい言われたようだなぁ。だってロイドも『――別に。持ってけ』って、この前言ってたし?」
「あいつ仕事が関わらないと、ほんっと俺のこと平気で見捨てるよなッ。持ってけって、どんな物言いだよ!?」
ついレイモンドが足を止めて、グイードの胸倉を掴んだまま床に向かって吠える。
マリアは、ロイドはロイドで面倒になってグイードを放置することにしたのでは……という想像が脳裏に浮かんでいた。
「毎度思うんですけど、誰か他に止める方は周りにいないんですかね……?」
「俺の周りには常識人がいない」
「レイモンドさん、急にスッと真顔になってそういうこと言うの、やめましょう」
見ているこっちがつらくなるわ、と思ってマリアは深刻顔で口を挟んだ。
そこでようやくレイモンドが静かになった。そのまま胸倉を離されたグイードが、片手で襟元を整えながら「なんだかなぁ」と声を出す。
「相棒に、正面から非常識人って言われている気がする」
「『気がする』、ではなく事実そうなんだよ」
レイモンドが顔を上げ、切れ気味に説得口調でそう訴えた。グイードは実感がないのか、きょとんとして「朝飯でも抜かしてきたのか?」と指を向けて尋ねる。
それを見ていたマリアは、もうなんとも言えなくなってしまった。乾いた笑みを浮かべると、そっと顔をそらしてこっそり呟いた。
「まぁ、私もグイードさんはそうだと思ってます」
「マジかよ。ひでぇ」
またしても囁き声を拾われてしまったらしい。冗談口調で、グイードがそう言ってきた。
「マリアちゃん、俺はめちゃくちゃ愛妻家の紳士なんだぜ」
「騒ぎ起こす愉快犯で、仕事はサボるわ妻娘話題で我を忘れてソファまでぶん投げる紳士が、どこにいるってんだよ」
そう指摘を受けたグイードが、これといって何も思っていない呑気な顔を、苛々しているレイモンドに向けた。
「何、この前の当たったの? ごめんね」
「おいこの馬鹿、俺じゃねぇわ」
「あれ、違った?」
「当たったのはルーカスだ。ったく可哀そうに……。つか、俺に当たっていたら、俺はソッコーでお前をとっ捕まえに行って、説教がてら殴ってる」
確かに。レイモンドも意外と打たれ強くて、彼だったら即立ち上がって『あの野郎グイードめッ』と堪え性なく走り出して向かっているだろう。
そう思ったマリアは、懐かしいなぁこの感じ、と、フッと柔らかな苦笑を浮かべてしまった。あの頃まで、こうやって途中まで一緒に歩いたのになぁ――。
それが唐突に終わってしまったのは、オブライトとして最後の戦いに向かった時で。
ふと、ここで十六年ぶりに再会した際、ジーンが泣いていたのを思い出す。自分は、当時この二人も泣かせてしまったのだろうか……そんな事が脳裏をよぎった。
もしかしたら、少しの間、泣かせてしまったかもなぁとマリアは申し訳なく思った。
自分は、好きな女性を選んだ。
そうして終わる事を選択した。
生きるよ、と、あの頃、何気なく先輩として問い掛けてきたグイードに答えた。でも自分は知っていながら、そう約束して破ってしまったのだったのだ――とも思い出した。
「行きましょうか。遅れてしまいますよ」
そう声を掛けて、ポンっと適度に力を抜いて二人の腕を叩いた。
仲裁するような声色で言って、柔らかく苦笑しているマリアの横顔を、グイードが少し目を見開いて追いかける。
「あ、――」
彼のマントが背中で揺れて、手が僅かに伸びかけ、
「待てよマリア!」
一瞬遅れでレイモンドが慌てて言い、グイードがビクリとして口を閉じた。
「そのままつっ立ったままだったら、俺らを置いてくつもりだったろ」
「当たり前じゃないですか。私はルクシア様のところに行かなければならないんですから」
マリアは、隣に追い付いた彼を見ずに、小さく笑みを浮かべてしれっと言った。
レイモンドが「ったく」と呟いて、頭をガリガリとする。
「なぁんか、一瞬すげぇ懐かしい感じがして、ビックリしたんだよ」
出遅れた事への言い訳のように、彼がごにょごにょと言う。
そうやって戻ってくる感じもそっくりで、マリアはまたあの頃の事を思い返してしまっていた。よく聞こえていなくて、ハタと我に返り、空色の大きな目を上げて友人の姿を目に留める。
「レイモンドさん、眉間に似合わない皺が出来てますよ」
「ちぇ。考えていた事も一瞬で飛んだとか白状したら、また『らしいですね』とか言うんだろ」
――悩んで考えても、分からない事があるとしたのなら。
以前、そうレイモンドに相談された事があったのを思い出した。それは覚えているんだなと、マリアは素の表情でチラリと笑ってしまう。
「そうかもしれません」
「おい。もう顔に全部に出てるぞ」
「怒って近くから指を向けないでくださいません? ――グイードさん、行きますわよ」
ん? あいつ来ないな。
そう気付いて、マリアは一度足を止めて振り返り呼んだ。レイモンドも同じようにして目を向け、まだちっとも動いていない相棒にこう声を掛ける。
「何してんだ?」
「あっ、いや、別に」
グイードがぎこちなく答えて、それから「うーん」と少し上を見やり――唐突にフッと苦笑した。
「なんでもないんだ」
いつもの調子に戻ってそう言いながら、彼がマリアとレイモンドに合流する。
そうして再び三人で歩き出した。
「自分では、強いって分かってるんだけどなぁ」
ふっ、と独り言のようにグイードが呟くのが聞こえた。
マリアは、今となっては、随分上にある彼の横顔を見上げた。
「こんなにも引きずっちまってるとか、今更昨日みたいに揺れるとか――歳のせいなのかねぇ」
誰に言い聞かせる訳でもなく、珍しくグイードが独り言をしている。よくは分からない。だけど、なんだかそれは見慣れない大人しい感じの彼だ、とマリアは思った。
レイモンドが、何言ってんだこいつと顔を顰める。けれど考えるのが苦手な彼は「あ」と唐突に思い出して、ポケットから珈琲の入った袋を取り出してマリアに手渡したのだった。