二十九章 進む準備の中で(6)
王宮の勤め人なら自由に使える二階のサロン前には、広々とした一本の廊下が伸びていた。回廊にも続くその廊下には、日中は全て開けられている休憩用テラスが並んでいる。
そこは一階の裏庭園の部分が見晴らせる造りがされていた。すぐ向こうに良い景色が広がっているおかげで、新鮮な外の空気を味わえるテラス席は、いよいよ長閑な空気に包まれていて心地良い。
「で、なんで僕らなの?」
テラスの大きめの休憩用のテーブル席には、休憩中の救護班四人の姿があった。全員二十歳の青年で、白衣の腕に『救護』の腕章を付けている。
そんな疑問をようやく口にしたのは、アーシュの幼馴染である救護班四人組のうちのラジェットだった。
彼は普段、幼馴染に容赦のない『激不味の気付け薬』を作っている青年だ。きつくもなくとっつきにくさもない顔に眼鏡を掛け、非運動派といった細めの身体をしている。
そこには班のリーダーであるキッシュだけでなく、残り二人の同班の青年たちの姿もあった。四人組の救護班である彼らが見守る中、向かいの席でマリア、ルクシア、と並んで座っているアーシュがこう答えた。
「けったいな軍人のおっさん達よりマシだからだッ」
「ひっでぇ言いようだなぁ」
半笑いで口を挟んだキッシュが、頬杖をついて「そもそもさ」と続ける。
「なんで『軍人のおっさん』が出てくんだ?」
「――マリアに任せると、よく分からんが、いつもけったいな軍人が出てきて『ひどい騒ぎ』になる」
「わぉ、そりゃ『ひでぇ』な」
アーシュが、俺もよく分からねぇんだがと思い返す顔で、テーブルを睨み付けて言う。それをキッシュは眺めて、どちらでも構わないけどという口調で「色々と噂通りなんかね」と適当に感想を述べた。
唐突に連れて来られたルクシアが、やや困惑気味にちょこんと椅子に腰掛けている。騒ぎに巻き込まれるのは私のせいじゃないんだが……とマリアは意見しようかと思った時、アーシュが彼に改めて自分の幼馴染の四人について紹介した。
所属と名前を、ざっくり教えられた彼らが「どーも」と揃って軽く挨拶する。その中で、痩せ型の青年が「スーマです」とのんびりした声で名乗り、糸のような目をしたごつい青年が「ジェイだ」とにこやかに元気良く、改めて名乗った。
「そういや、あのファンクラブ、あの後進展あったか?」
頬杖をついていたキッシュが、そう言えばといった様子で話を振ってきた。
しばしルクシアの反応と様子を窺っていたマリアは、少し遅れて自分への質問だと気付いた。視線を返すと「いや?」と素の口調で答えて、首を傾げてしまう。
そういえば、そんな事もあったなと今更のように考えた。あの日、どうなる事かとは思ったものの、結局のところ『以前と変わらず』大きな問題は何も起こっていない。
今になって思い返しても、アレはよく分からない出来事でもあった。改めて考えてみると、貴族の少年たちが思い付きで一時的に騒いでいただけなのでは――と思わないでもない。
「あの後は全く何もないですし、正直言うと色々と唐突過ぎてよく分かりませんわ」
「あ~……その反応だと、ファンクラブの『今』の様子は知らないのか」
どうしてかキッシュが、悟ったような目で適当に笑顔を作って、ほぼ棒読みでそう言った。
なんだか気になる言い方だ。マリアが訝って「何が?」と首を捻ったら、ラジェットが、「ま、今はいいんじゃないの」と友人たちを促して今一度ルクシアの様子をチラリと見た。眼鏡を押し上げると、気晴らしという名目で『元気付け』の協力を頼んできたアーシュに問う。
「休憩中に突撃されたのは驚いたんだけど、この通り僕ら、何も用意してないんだよね。ただの休憩だから」
「休憩って二回言ったな……」
アーシュが、口許を引き攣らせ気味に「さりげなく圧を掛けてくるなよ」と呟いた。それに対してラジェットは、悪びれも全くなく肩を竦めて見せる。
「だって本当の事じゃない。僕ら、いつ急に呼び出しがあるかも分からないから、紅茶やら珈琲やらを用意してまでの『優雅な休憩』とかは取らないからね」
「前もって聞いていたら、菓子くらいは持って来たんだが」
身体の大きな青年ジェイが、ちょっと申し訳なさそうにして白衣のポケットをつまんで見せる。元部下もよくやっていた経験から、マリアはもしやと思って小首を傾げつつ尋ねた。
「飴玉とかですか?」
「うん。仕事の合間に、糖分摂取で口に入れるんだ」
アーシュが気絶した際に見掛けていた時と違って、愛想がいい。
マリアは、そう思って意外にも話し方がゆっくりで、どこか子供っぽいジェイを見つめてしまっていた。すると、ルクシアを挟んで隣にいたアーシュが「おい、マリア」と言ってきた。
「横顔に言葉が出てんぞ」
「そんな器用な事した覚えがないんだけど」
「お前は、自分が意外と顔に全部出る事があるのを自覚した方がいい」
切れ気味に彼が言う。
その様子を眺めていたラジェットが、眼鏡のつるを指で持ち上げるようにして掛け直した。同じく、やや珍しそうにしている友人たちを代表して口を開く。
「アーシュが、そうやって女の子と話しているのも珍しいよね。なんやかんや言って紳士だし」
「なんだよ、紳士って?」
「あ~、確かにな――」
すぐに相槌を打ったキッシュが、直後にパチンと鳴らして指を向けた。
「――だから過剰に反応するんじゃね?」
「おい、面白がって言うなよキッシュ」
アーシュが睨み付ける。
確かに彼は、女の子扱いしてくるところもある。マリアがそう思い返していると、痩せ気味のスーマが、間延びする声で「その可能性はあるんじゃないかな」と意見した。
「女性がダメなのが二十歳になっても続いているとか、もう病気」
「そのたび俺らが駆け付ける。うん、腐れ縁の長さもなかなかだよなぁ」
「ジェイは呑気でいいな。俺なんて、班長だから毎度記録を追記して報告するのもだりーのに」
頬杖をついたまま、キッシュがズバッと本音を暴露した。
アーシュが、途端にピキリと青筋を浮かべた。今にもテーブル越しに掴みかかりそうな切れ顔の笑みを浮かべて、ぶるぶると拳を作る。
「てめぇら、好き勝手言いやがって」
「そりゃあ言うよ。僕が君のために『特別にクソ不味い』気付け薬まで作ってあげているのに、ちっとも進歩しないじゃない」
同じく遠慮もなく言ってのけたラジェットが、そこでルクシアを見た。
「アーシュが女性恐怖症でぶっ倒れたのを見て、はじめはルクシア様もびっくりされたでしょう? いつも急ですからね」
唐突に話を振られたルクシアが、「え」とラジェットへ目を向けた。
あっさり話を向けられたのが意外だったのか、それともすんなりと呼ばれた事が意外だったのか。どこか信じられなさそうに、それでいて珍しいものを見るかのように凝視している。
マリア達が不思議そうに見守っていると、遅れて気付いた彼が「あ」「いえ」と戸惑いがちに目を落とした。大きな眼鏡を掛け直しつつ、やや慌てた口調で切り出す。
「その、初対面の方にそのように呼ばれるのも、あまりないもので」
「ああ、呼び方についてもアーシュから聞いていますよ」
にこっとラジェットが笑い掛ける。
なんだ、そういう事かと一同の中に察した空気が広がった。そんな中、彼がのんびりとした眼差しで続けた。
「それとも、僕らは『所長』とお呼びした方がいいですか? そちらがいいと言うのなら、僕らはそう呼ばせてもらいますよ」
「いえ、そのままで構いません」
気遣わせたようだと気付いて、ルクシアがいつもの調子を戻して答えた。
「今更『所長』やら『ルクシア所長』と呼ばれるのも、なんだか慣れそうにありませんから。どうぞそのまま『ルクシア』とお呼びください」
そう伝えた彼の顔に、ようやく少し普段らしい苦笑が浮かんでいた。
はじめの頃よりは慣れたようだ。キッシュとラジェットに関しては、あの美少年軍団の来訪の際、研究私室まで尋ねてきていたのを見ていた事も、大きいのかもしれない。
「まだ休憩戻りには早いんで、途中までどうっすか、ルクシア様」
短い世間話を終えたところで、キッシュが言いながら立ち上がった。白衣の裾が揺れて、ぱさりとテーブルに当たって音を立てた。
強引に距離を縮めようとはせず、たださりげなく帰り道の同行を提案しただけだった。なんだかマリアは、そういうところにアーシュの友人らしい感を覚えた。
「いい友達ね」
思わず、チラリと笑って声を掛けると、アーシュが「まぁな」と認めるように肩を少し竦めて立ち上がった。マリアはルクシアが立つのを見てから、自分も遅れて席を立った。
全員が立ち上がったところで、白衣の襟元を引っ張って伸ばした大柄なジェイが、自分よりも随分小さなルクシアを見てニッと笑い掛けた。糸みたいに細い目は、やっぱりほのぼのとした空気が漂っていて優しげだ。
「よければ、俺らもアーシュ共々いつでも話し相手になりますよ。気にせず誘ってください」
「心配は御無用ですよ。僕らの班の日程は、だいたいアーシュが把握してますから」
いつも五人でつるんでいるので、とラジェットが眼鏡を掛け直しつつ、手振りを交えてそう言った。会わない日はないくらいの腐れ縁な幼馴染同士なのだと、四人がそれぞれ好き勝手に喋って補足した。
皆でテラスから廊下へと戻り、マリア達は歩調を揃えてゆっくり歩き出した。
するとスーマが横に並んで、薬学関係についてルクシアに質問し出した。現場で対応にあたる身としては、一から薬を作る事にも少し興味を抱いていたらしい。医師としての資格も持つ彼の視点からの話について、興味深そうに聞いていた。
キッシュ達はのんびり歩きながら話し、途中で別れるはずの道も通り過ぎて、結局最後まで付き合って離れの薬学研究棟へと降りる廊下まで一緒に来ていた。彼ら自身がそういう配慮を口にしないところにも、マリアはアーシュが長く付き合っている友人の良さを感じた。
「んじゃ、気を付けて戻ってくださいね」
そうリーダーのキッシュに声を掛けられて、ルクシアはようやく気付いたようだった。救護班である彼らが、曲がるべき道をとっくに過ぎているのを訝って後ろを見やる。
道中ずっと相手をつとめていたスーマが、そんな彼に笑い掛けた。
「また話を聞かせてください」
「えっ。あ、はい」
戸惑い気味に答えるそばで、ジェイが「またな」とアーシュと軽く拳を当て、慣れたように彼が「おぅ、今日はありがとな」と答える。
ラジェットがマリアを見て、にこっと笑って小さく手を振った。
「メイドのマリアちゃんも、またね」
「はい。今日はありがとうございました」
「僕らはたいした事はしてないよ。あんまり話にも付き合えなかったしね。――ルクシア様も、これからも引き続きアーシュをバンバン使ってやってください。一応、ああ見えて僕らの中で一番『頭脳は』優秀です」
「おいラジェット、それは嫌味か? あ? 頭脳だけって強調して言うんじゃねぇよ――言っておくがな、俺は体力にも自信があるんだぞッ!」
「アーシュは文官でしょ? なんでそっちで張り合おうとするの」
これまでになかった反応をされて、ラジェット達が揃って不思議がった。掃除の体力と馬鹿力で彼を負かしていたマリアは、文官なのにアーシユが変な主張してんな、と首を傾げていた。
すると、先に別れを告げて、ルクシアが廊下の階段を降り始めた。
その時、彼が珍しく足元を取られて「あ」と躓いた。ハッと目を向けたマリアは、アーシュと一緒になって「ルクシア様!?」とかなり驚いて叫んだ。
何せ通い慣れた道だ。彼が階段を踏み外してしまうなんて思わなかった。
公務を終えてからの緊張が、ようやく完全に抜けたのだろうか。気を張っていた分の疲労感が一気にきたかのように、ルクシアが自分で体勢を立ち直せないまま前へ傾くのが見えて、二人はさーっと背筋が冷えた。
救護班のキッシュ達が、歩き出していた足を止めてギョッと振り返る。マリアとアーシュが、すかさずルクシアを助けるべく踏み込んだ時――。
近くから野太い叫びが上がって、マリア達は揃ってビクッとした。
「ルクシア様あああああああああ! 危なああああああいッ!」
そう叫びながら、横から騎馬隊のバレッド将軍が飛び出してきた。熊のような巨体で「うおおおおおおおっ」と叫びながら突進してくると飛び込み、ルクシアを抱き留め、そのまま階段の向こうまで吹き飛んで茂みに突っ込んでいった。
直後、しばしマリア達の間に沈黙が漂った。
これ、もっと被害の少ない助け方があった気がする。なんで助ける人ごと吹き飛んでしまうような勢いで、ぶつかって行くの?
そう一同、ぐるぐると色々思うところを考えていた。ようやくアーシュが、呆気に取られた顔でこう言葉をこぼした。
「いや、まずお前が危ない。護衛が何やってんだよ」
「それ同感」
ラジェットが、ずれた眼鏡を押し上げつつ同意する。ややあって動き出した班のリーダーのキッシュが、「とんでもない『専属護衛』もあったもんだなー」と棒読みで感想を述べた。
マリアは階段を一つ飛びで降りると、廊下の塀をひらりと飛び越えたキッシュと一緒になって、茂みに埋もれているルクシアを迎えに向かった。心配で慌てて茂った小枝と葉をかきわけ出したところで、彼が「俺に任せて」と淡々と言って役を変わった。
「メイドちゃん、女の子なんだから無理すんな」
「いえ、大丈夫ですわ」
そう答えた矢先、開けた茂みの中にムキムキのバレッド将軍の背が目に留まった。庇われるように下にいたルクシアを見て、マリアとキュッシュは真顔で動きを止めてしまう。
頭に葉っぱを付けたルクシアは、躓いた時よりも心臓がドクドクしているような顔をしていた。すぐには声も出ない様子の十五歳の彼は――なんだか、バレッド将軍に対する苦手意識と警戒心が、ますます増したみたいだった。