二十九章 進む準備の中で(5)
「続いて、第三王子ルクシア殿下のご入場!」
そう張り上げる声を聞いて大広間へと進み入った時、自分はただの『所長』であるのになと思ったりした。
そう紹介はしないのか、と普段ならしないような皮肉を考えてしまった。
ルクシアの聴覚は良い。華やかさをまとった社交上の、形ばかりの、それでいて誰もが自分を主張する多くの話声の中で、毒薬学の、と外国からの客人が囁く声も聞いた。
同じようにして他の貴族たちが入場していく声を聞き、そして形ばかりの必要性も感じないこの話し合が始まってから、どのくらいが経っただろうか。第三王子としての挨拶の他はする事もなく、ただただ両親と兄と並んでじっと座っていた。
たった一人だけ、いつもの白衣姿であるのを誰も指摘しない。
気になさらなくていいのですよ、と先日にこの件で話してくれた学会の幹部たちが、遠くの席から気遣うような目を送ってきている事には気付いていた。その際、今回はそちらの席での参加が出来なくてすまないと謝ったら、どうしてかますます心配されてしまったのだ。
ようやく退出の許可がされた。隣にいたすぐ上の兄、第二王子ジークフリートにそっと合図をされて、ルクシアは少し遅れてそれに気付いた。
「あとは、大丈夫だ」
冷静沈着で滅多に自分の話をしない兄が、そう囁いてきた。それは無駄を嫌うかのように日々軍人としても活躍されている時と違って、短い言葉には配慮だけがあった。
続く公務の中、一つ頷き返してルクシアは先に大広間を出た。
勿論、気に留める者は誰もいなかった。毒薬学に専念している第三王子が、ゆくゆく王位やら政治やらに重要とはならないだろうと『ほとんどの者が期待していない』のだ。
大扉から廊下に出て、後ろから聞こえていた声が扉越しに遮断されてようやく「――ふぅ」と口から吐息がこぼれた。
すぐには歩き出せなくて立ち止まった。朝から、ずっと気が重かった。実際に足を踏み込んでみれば、案の定、予想通りのままでなんだか皮肉にも笑えた。
王族としての務めだとは分かっている。それから逃げるつもりはないし、父や兄を支えるためにも、自分はきちんとしっかり向き合わなければならない。
それでも、息が詰まりそうになるのだ。
「殿下。お顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
いつになっても慣れない大勢の視線と、責任の重圧にドクドクとしている胸の音を聞いて嫌な汗を覚えていたら、不意にそう声を掛けられた。
そちらに目を向けてみると、警備にあたっていた衛兵が、いつの間にかすぐそこまで歩み寄って来ていた。
何故かその若い衛兵は、若干不自然な姿勢で軍服に皺が出来るくらい腹の辺りを押さえながら、今にも死にそうな顔でこちらを心配そうに見ている。
その後ろの警備位置で、別の衛兵が青い顔をして「ラスキン、胃は大丈夫か」と声を掛けている様子も目に入ってきた。極度の胃痛、という言葉がルクシアの頭に浮かんだ。
「………………私は問題ありませんよ」
あなたこそ大丈夫ですか、と物凄く言いたくなった。でも人見知りで社交に苦手意識のあるルクシアは、すんなりとその言葉を口にする事が出来なかった。
ああ、やはり私はダメだ。
そう考えた途端、自分の喉が強張るの感じた。
マリアやアーシュがいる時は、緊張も少ないのに、今、どうやって相手を気遣えばいいのか全く分からなかった。思わず、ぎゅっと白衣を握り締めてしまう。
その時、こちらを見ている相手の衛兵が――フッと、直前までの印象がガラリと変わってしまうほどの『柔らかな笑み』を浮かべた。
「大丈夫、どうか落ち着いてください」
「え、あ、いえ私は」
「お声を掛けて呼び止めてしまい、大変申し訳ございませんでした」
とても慣れた様子でつらつらと声をかけられて、少し意外に思って見つめ返してしまった。その衛兵は、ただただ深い敬愛を示すようにして丁寧に頭を下げている。
頭を上げた時、男の表情は元に戻っていた。
なんだか彼がよく分からなくなった。すると彼が胃の辺りを押さえつつも、にこっと笑って「あちらを」と指を向けた。目を向けてみると、遠くにマリアとアーシュの姿が見えた。
あ、と思って目を留めた途端に、どうしてか身体からふっと重みが抜けていった。
王都や王宮では見掛けない特注のメイド服。けれど、最近は一目で誰か分かってしまうほどに見慣れた衣装だった。
子供向けと思えるような膝丈のスカートとエプロン、背中に流したたっぷりのダークブラウンの髪、そして目印のような頭の大きなリボンを揺らしてマリアが歩いてくる。彼女の大きな瞳は、意外と強い芯がある物怖じしない輝きを宿しているのが、遠目からだとよく分かった。
その隣にいる文官のアーシュは、机仕事一本という感じがない生粋の軍人みたいな強い目をしていた。でも不思議と、やっぱり最近は白衣を羽織った姿がとてもよく似合っていた。
すぐ目の前まできた二人が、引き続き真っすぐ自分だけを見てくる。
そのカラッとした印象がどこか似ている、愛想のいい二人の眼差しは、所長だとか、毒薬学だとか、第三王子だとか関係無しに――ただ、ルクシアという一人の少年を瞳に映していた。
「すみません、ルクシア様。勝手ながら迎えにきてしまいました」
マリアが、そう言って少年みたいに笑った。
たったその一言だけで、ルクシアは胸がいっぱいになって言葉が出なくなった。らしくなく、よく分からない感情が込み上げて、涙腺が緩んでしまいそうになるのは、どうしてか。
彼女だけでなく、アーシュも隣から『当たり前みたいに』自分に笑いかけてきていた。それだけで、息が詰まりそうになっていた何かが完全に抜けていった。
※※※
その少し前。
研究私室を出たマリアは、近くを歩いていた騎士を呼び止めて、公務が行われている場所をさりげなく聞き出した。
それは中央にある、三番目に大きな大広間だった。国外からの賓客まで来ているのなら、そこが使われるのも当然かと思える立派な開催場所でもあった。
「ここから歩くと、――のんびり足を進めても三十分はかからないな」
廊下で足を止めたまま、思案しつつ素の口調で呟く。
離れていく騎士を目で追っていたアーシュが、どこか大人び彼女の横顔に目を戻した。不思議そうに見つめられたマリアは、視線を察して「ん?」と彼の方を振り返る。
「何?」
「いや? なんつうか、お前がスムーズに訊き出してんのが、ちょっと意外だった」
「私はメイドだから、少しは出来る事だってあるのよ」
前世でもそうだった。
人殺し部隊の、悪魔みたいな隊長の、そう言われて距離を置かれて連絡連携が取れていなかったから、呼んだアヴェインの許へ向かう際にもよくやったものだ。
そうオブライトだった頃を思い出したマリアは、けれど教えずに「行きましょうか」とアーシュを誘った。懐かしさで口許に小さく笑みを浮かべ、迷わず右へと歩き出す。
のんびりと歩いて向かったものの、やっぱり一時間もかからずに目的の大広間が見えてきた。国外の賓客たちまで来ているとあって、さすがに警備は厳重で、廊下は許可ががないものは一時通行が禁止となっているみたいだった。
「ここで待つしかないな」
廊下前の壁に背をもたれて、アーシュがそう言った。少し癖のある短髪が目元で揺れて、キリッとした切れ長の目にさらりとかかっていた。
マリアは「そうね」と相槌を打って、真っすぐ廊下が見える位置に立った。
「そこだと、向こうの警備の衛兵に不審がられないか?」
ちらりと目を向けて、アーシュが問い掛ける。
「廊下の入り口ド真ん中に立たれると、さすがにお前の格好だと目立つぜ」
「今、どこ見た?」
彼の視線が、言いながら頭へと向くのを見て、マリアは思わず突っ込んでしまった。けれど「まぁいいか」と口にすると、肩にかかったダークブラウンの髪を払って仁王立ちする。
「警備の任務にあたっている彼らは、問題がない限りは指摘してこない。――だから、視線なんて関係ないわよ、だってこうして待っていた方が『待ち人』からは、よく見えるでしょ」
オブライトだった時も、こうしてアヴェインを待っていたものだった。貴族や要人の臨時護衛を任された際にも同じで、自分はこうして、ただただ彼らの用が終わるのを待っていた。そうして「お疲れ様でした」と労い笑顔で出迎えた。
キッパリと言われたアーシュが、迷いもなく告げたマリアに少しだけ関心したような目をした。
「お前ってさ、なんか暴れ馬っぽい感じがあるのに、結構聡いというか、芯が通ってハッとさせられるところがあるよな。出会い頭に俺を叱り飛ばした時とか」
「何それ?」
よく分からなくて見つめ返したマリアは、ふと、廊下の向こうの動きを視界の端で拾った。
身に馴染んだ癖のように反応して自然と目を向けたところで、開かれた大扉から、小さな人物が出てくるのが目に留まって、大きな空色の瞳をパチリとさせる。
「あっ、ルクシア様」
そう口にしたら、アーシュも遅れて気付き、壁から背を離して向こうを見た。
大広間を出たルクシアは、どこか重そうにして足を止めた。調子が悪いのかもしれないと見て取ったのか、警備に当たっている衛兵の一人が声を掛けるのが見えた。
立ち止まって何やら言葉を交わしている様子を、マリアはアーシュと一緒にしばし見つめていた。
だが、唐突に彼女は廊下に踏み込んで歩き出していた。気付いた彼が追いかけ、けれど止めずに彼女の隣に並んで「なぁ」と声を掛ける。
「ルクシア様がまだなんも言ってねぇのに、勝手に向かって大丈夫だと思うか?」
「うん。なんかね、こうして向かった方がいいような気がして」
マリアは思い出しながら、柔らかな笑みを口許に浮かべた。ここで軍人としてあった時、臨時で護衛を任された際にも、やっぱりたびたびあった事だったの一つだった。
歩いてくるのを遠くでじっと待つより、なんとなく、こうして少しでも早く出迎えてあげた方がいいように感じた。だから今も、自分のその感覚に従ったまでだった。
すると、その衛兵がこちらを手で示して、続いてルクシアが目を向けてきた。
容姿に無頓着といった様子の彼の、長めの赤みかかった栗色の前髪が目元にかかって揺れた。どうやら驚かせてしまったらしく、パチリと目が合うなり、眼鏡越しにアヴェインと同じ金緑の瞳が小さく見開かれるのが見えた。
「すみません、ルクシア様。勝手ながら迎えにきてしまいました」
笑ってそう声を掛けたら、どうして彼が言葉を詰まらせたかのように口をつぐんでしまった。アーシュと二人でどうしたんだろうと見守っていると、そのままルクシアは俯いてしまう。
「――…………どうしてあなた達は、私が『いて欲しい』と思う時に、そうやってそばにいてくれるんでしょうね」
ぽつりと、十五歳には見えない幼いルクシアが呟きを落とした。
唐突な珍しい独白のようにも感じるし、それでいて問われているような気もして二人は首を捻った。公務で何か問題があったわけでもなさそうであるし……と、マリアは少しばかり考えた。
「難しい事は分かりませんが、友人だから、じゃないですかね」
マリアは、思った事をそう口にした。思い返せば、ルクシアの父親からも同じ事を問われ、自分は同じようになんとなく答えたのだったと思い出す。
そして同じ台詞を、自分も友人たちから聞くようになった。まだ二十代そこそこだった頃、ポルペオにも「友人だからだ」と言われたのも覚えている。
するとルクシアが、どうしてか咳払いをしてきた。
アーシュが察したように小さな苦笑を浮かべ、続けて友人と言おうとしていた言葉を止めて一度口を閉じた。
「ルクシア様、少し休憩がてら気晴らししませんか?」
それから、彼の照れ隠しに気付かない振りをして、そうアーシュは提案した。