二十九章 進む準備の中で(4)
王族専用の休憩サロンを出たマリアは、薬学研究棟に向かった。
先程の急な『お誘い』は、つまり息子を元気付けろというのが目的だったのかな、と歩きながら考えた。噂にある第三王子の人嫌いについては、これまでのルクシアの様子から人一倍警戒心が強いところ、それでいて一種の人見知りも少なからずある気がしていた。
毒薬学を専門とし、たった十五歳という年齢で最高学院も卒業した第三王子ルクシア。彼を見ていると、なんというか『人との接し方に慣れていない感』を覚えるのだ。
どうして毒を学ぼうと思ったのかは分からない。でも自分の感覚的な印象にはなるのだけれど、彼が何かしら使命感にでも突き動かされるかのようにして、たった一人で歯を食いしばって頑張ってきたのだろうなとも感じる部分があった。
だから、支えてやりたいとも思った。
大切な友人である国王陛下の三番目の息子で、誰よりも聡明に物事を見て、今も学び続け、すぐ上の二番目の兄王子を支えようとしている毒薬学の第三王子。
その彼が所長を務める薬学研究棟は、緑に遮られた少し離れた場所に建っていた。
相変わらず、ここはとても静かだ。マリアは周りに茂っている木々の葉の音を聞きながら、その薬学研究棟の一階裏手へと回った。
研究私室の扉を開けてみると、作業台にはアーシュの姿しかなかった。
入室するなり、気付いた彼が懐かない犬みたいな目を向けてきた。本日も文官服の上から白衣を着けていて、今やすっかり馴染んで見慣れた格好である。
「ルクシア様は、まだ来てないぜ。昨日、別れる際に『少し遅くなる』とは言われた」
ライラック博士は、学会の予定が入っており、本日は登城がないのだという。ニールの方も、今のところはまだ姿を見ていないらしい。
ニールは、一応『大臣の秘密の部下』だ。ジーンが次の臨時任務の件で忙しくしているというのであれば、助っ人として彼も用を頼まれたりしている可能性がある。
「もしかしたら、ニールさんは今日来ないかもしれないわね」
チラリと考えて、マリアはそう言った。いつものようにキッチンへ行かず、真っすぐ作業台へと向かって自分の椅子に座る。
何やら話があるらしいと察して、アーシュは彼女が来るまで目で追いかけていた。隣に腰掛けたのを見届けると、話を促すように「それで?」と言葉を掛けた。
「なんかあったのか?」
「うん。――実はね、ルクシア様、今日は王族として少し出席するところがあるらしいの。クリストファー様のところから出る時、そう伝言をもらったわ」
誰から、とは言わずにマリアは説明した。
あの時、アヴェインは一見すると平然ながらも、父親らしく息子を気に掛けていた。そう思い返す彼女の口許に、少し柔らかな苦笑が浮かぶ。
「話してくれたその人、ルクシア様の事を心配しているみたいだったわ」
「そっか……、それで帰り際、ちょっと元気がない感じがしたのか」
アーシュが顎に手をやって、後悔の皺を少し眉間に刻んだ。
「気にはなったんだけどさ。質問したら、余計な負担をかけるかなと思っちまって」
「でも尋ねても、多分、ルクシア様はご公務については話されなかったと思うわ」
彼は聡明な王子だ。自分の立場を分かって、気を付けているところもある。口にする言葉が、時にどれほどの重みになるのかを知っているから、発言も慎重になるのだろう。
これまでの付き合いから、マリアと同じくそれを感じていたアーシュが「だろうな」と言って、筆記用具を作業台に置いた。
それでいて二人は、やはりこれまでのルクシアと過ごした時間の長さから、同じ思いと意見を抱いてもいた。
強い意思を宿した目を、ほぼ同時にピタリと互いが合わせる。
「ルクシア様のご公務が終わる時間、分かるか?」
無駄な前置きなどせず、アーシュがそう訊いた。
「約一時間後らしいわ」
マリアも間髪入れず答えた。片手を少し上げて、こう尋ね返す。
「ついでの散歩、という名目でルクシア様を迎えに行かない?」
「俺もそう思ってた」
立ち上がったアーシュが、それに続く彼女に提案を投げた。
「昼メシにしては早い時間だし、なんか気晴らしでもさせたいよな」
マリアとしても同意見である。とはいえ、ここにくるまで色々と考えていたのだが、王宮には知り合いも少なくて思い浮かばなかったのだ。
すると、こちらに尋ねた矢先だというのに、アーシュが思い付いた顔で「待てよ?」と言った。
「一時間後くらい、か……」
そう思案顔で呟いた彼が、何事か決めた様子で一人頷く。
「なら、『時間的にちょうどいい』かもな」
「何か案があるの?」
「ちょうど今、暇な奴らが一組いる。そいつらに元気付けを協力させる」
そう言った彼が、強気でニヤリと不敵な笑みを浮かべる。なら任せるかとその案に乗る事にして、マリアは了承を伝えるように、ニッと少年みたいな笑みを返した。
「んじゃ、ルクシア様を迎えに行きますか」
「おう。ちなみに言っておくけどな、女が『んじゃ』なんて言わないぜ」
アーシュはそう言ったが、注意するような口調ではなかった。その顔には、同じく悪ガキのような笑みが浮かんでいる。
そのまま二人は視線も交さず、研究私室を出るべく揃って歩き出したのだった。
※※※
王宮の軍区にて、誰もが通るのを緊張してしまう廊下がある。その部屋の扉が内側から開かれれば『反射的に警戒』してしまうし、出来れば入室したくないと思っている。
そんな中、ふんふ~ん、と鼻歌をうたいながら、平気でそちらに向かっている軍人がいた。
師団長のマントを背中で揺らした細身の男だ。その足取りの通り、王宮の軍区で一番フットワークが軽い――というか『問題児でじっとしていられない逃亡癖の大臣の同類』とされ、軍人枠の中でもっとも自由な男と言われている、グイード師団長である。
国王陛下アヴェインの朝一の休憩に付き合った後、彼は早速スケジュールの一番目をこなすべく動いていた。
約束の時間であるからと、ノックもせずその部屋の扉に手をかける。
その途端、廊下に居合わせた軍人達が、ビクッと警戒したように目を向けた。何故なら、そこは銀色騎士団の総隊長の執務室だからだ。
けれどグイードは、全く気にせずに「おーい、入るぞ―」と軽く言いながら扉を開けていた。いつも通り入室し、少し遅れて書斎机に目を留めたところで「おわ!?」と声を上げる。
「うわっ、びっくりした~。なんだよ、ぴくりとも動かないから、一瞬マジで気配が分からなかったぜ」
言いながら彼は、反応させてしまった手を戻して胸を撫で下ろす。
書斎机にいるロイドは、組んだ手に口許をあててじっとしていた。その真剣な目は机の上を見続けており、瞬き一つせず、真面目に思案し続けているといった様子だった。
その背には、常人であれば気絶するレベルのオーラを背負っていて、室内には重々しい空気が満ちている。グイードは不思議に思いつつも、歩き出しながらきょろきょろと辺りを見やった。
「『裏』の案件報告だし、やっぱりモルツには席を外させているのか」
そう自分なりに推測して納得したところで、彼は目の前にしたロイドを見た。それでも視線が返されない状況を珍しく感じて、そんな後輩の様子に首を捻る。
「お前、ずっと机見てるけど――どうした?」
「こうなったら、正面から正攻法で行くしかないのか、と」
深刻そうな声が、ロイドの形のいい唇からこぼれ落ちて机の上を這う。
ただただ聞いていると、普段の『殺す』と言う時と全くニュアンスが同じである。真剣過ぎて気持ちが入り過ぎている、と思い至らなかったグイードが、かなり不思議そうにして「なんの話?」と尋ね返した。
「何。正攻法っていうと、プロポーズとかじゃなくて、誰かに見合いでも申し込むとか? まっ、ロイドに限ってそれはないか――んで、この前の件だけどさ」
グイードは、ただの思い付きをさらっと言い流すと、次の仕事の予定に遅れないよう本題の報告を始めた。
実のところ、昨日からずっと自分の事で頭がいっぱいの状態でいたロイドは、組んだ手に額を押し付け「やはり告白が先なのか……」と、口の中に絶賛苦悩中の思考をもらした。