五章 厄介事が当然のように湧いてくる巣窟で(3)
マリアはロイドに解放された後、ヴァンレットに案内されてようやく、リリーナの元へ戻ってくる事が出来た。
疲労感は半端なかったが、リリーナとクリストファーに揃って「おかえりなさい」と言われたのは癒された。
リリーナは楽しい時間を過ごしたおかげで、寂しさを感じる暇もなかったらしい。クリストファーの襟のリボンは、彼女とお揃いの色と柄になっていた。露骨に満足そうな彼を見て、マリアは、大きなリボンを髪に止める王子を妄想せずにはいられなかった。
サリーはリリーナの気遣いで、二人の席の間にもう一脚椅子を置いてちょこんと腰かけていた。
というのも、王子付きメイド達にも、サリーの姿と性格は好評だったようで、なぜか彼の襟にも王子と同じリボンが結ばれていた。不安げにこちらを振り返った顔は、やはり女の子にしか見えなかったのは、マリアの秘密である。
「マリア、その、なんだか疲れてる?」
「まぁ、王宮は広いから、道中いろいろとあって……」
馬車の中で気遣うサリーには、それだけしか言えなかった。
次に王宮に行く時は、たらふく食べ物を胃に詰めてエネルギーを蓄えないともたないな、とマリアは遠い目でそんな事を考えていた。
その時のマリアは、ロイドの話しの中にあった「交渉」「見直し」という言葉を、すっかり忘れていたのだった。
※※※
「……アルバート様、もう一度おっしゃっていただけます?」
「うん。だから君にはね、総隊長のお手伝いをしてもらおうと思って。君の事を話したら陛下も興味が出たみたいで、息子の事をよろしくと伝言を頼まれたよ」
「…………」
「リリーナも、続けて殿下に会えるのが嬉しいみたいでね。ああ、リボンは急ぎ一組だけ用意しておいたから、明日持っていってあげてね。君の分はこれだよ。リリーナには、マリアは第四王子の婚約者付きメイドとして学ぶ事があるから、と言ってあるから、それで話しを合わせてね?」
王宮から戻った夜、アルバートの私室に呼び出されたマリアは、唐突にそう指示されてしまった。
アルバートは、終始優しい笑みを浮かべており、まるで悪い話だとは思っていないようだった。室内にはマシューもいて、彼も「良かったじゃないですか」と前向きである。
こんな事は一度もなかったから、マリアは、予想外の決定に戸惑ってしまった。
「私、リリーナ様のメイドですよね……?」
「うん。君は可愛い僕の天使の、専属メイドだよ。このアーバンド侯爵家の大切なメイドで、なくてはならない子で、僕とっても、とても大切な人だ」
まるで愛の告白をされているようだな、とマリアは現実逃避しかけた。
アルバートは愛情深い人だから、彼が許可を出したというとは、頼まれた『協力』に不安を覚える要素はないと判断した結果なのだろう。つまり、マリアにとって難しくない程度の『協力依頼』だと判断したうえで、総隊長側に貸し出す事にした、と。
しかし、王宮にはオブライト時代の同僚、友人、先輩、後輩……と知り合いが多いのだ。今日だけでも散々被害を被ったので、本音を言えるのなら、ドSゲス野郎の提案に許可しないで欲しかったなぁ、とは思う。
とはいえ、アルバートはそれを知らないのだから、無理ではないと推測したうえで、マリアを『表』に貸し出す事にしたのだろう。
「難しい事はないから、動けない僕の代わりにも頑張ってもらえると嬉しいよ。僕は、ちょっと別件にあたっているから、その状況でマシューを貸す事も難しい」
「別件、ですか……?」
「うん、陛下から頼まれている事があってね。ちょっと調べている事があるんだよ」
アルバートは柔和に微笑み、それ以上の詳細は語らなかった。
代わりに頑張ってと言われれば、アーバンド侯爵家の顔に泥を塗らないためにも、頑張らない訳にはいかない。迷惑な野郎共についてもどうにかなるだろう、と前向きに考え直し、マリアは使命感に燃えて頷いた。
「分かりました。このマリア、お役に立てるよう立派に頑張らせて頂きます!」
「あはは、まるで騎士みたいな言い方だねぇ。王宮に通うついでに、リリーナにも向こうで授業を入れてあるんだ。宰相のベルアーノさんが協力的で助かるよ。ダンスも殿下と一緒に受けるから、きっと退屈しないと思う」
「結局、リリーナ様には甘いですよね、アルバート様は」
アルバートは言葉として答えなかったが、蕩けるような微笑みが全てを語っていた。愛しているから、手に届く間は甘やかしていたいのだと、彼の慈愛に満ちた瞳が告げている。
「そういえば、僕も遠くないうちに婚約者を持とうと思う」
そろそろ退出しようと構えていたマリアに、アルバートが、唐突にそう告げた。
彼も十九歳であるので、早い話ではない。いずれアルバートは【国王陛下の剣】の当主の座を引き継ぐ人なのだ。
マリアは、彼と出会ってから経った、十年の月日を感慨深く思った。
「お相手様は、もう選定されているのですか?」
「父上が候補を見繕ってくれているよ。見合いはこれからだ。次にある社交界シーズンまでには婚約をして、遅くとも二十二歳までには結婚する予定でいる」
つまり、一年内では婚約者を決め、二、三年内には結婚する予定でいるのだろう。
「アルバート様なら、きっと良い方と巡り会えますわ」
「そうだと嬉しいな」
にっこりと微笑まれたので、マリアも微笑み返した。
その時、椅子に腰かけていたアルバートが手を差し伸ばしたので、マリアは、いつものよう歩み寄って「どうぞ」と自分の手を差し出した。
昔から彼は、リリーナに対するように、マリアの手を取って近くから「おやすみ」の挨拶を述べるのが常だった。九歳の頃から六歳のマリアを見ているので、本当に妹のように思っている節もあるのだろうと思う。
優しく指を握りこみながら、アルバートが、慈しむような眼差しでマリアを見つめた。
「マリアを見ていると、いつまでも子供のような気がするよ」
「えぇと、童顔で、すみません……?」
「ふふふ、そういう事じゃないんだけどね」
もう十六歳か、とアルバートが愛おしげに目を細めた。壁際に控えていたマシューも「早いものですね」と、二十三歳にしては達観したような口調でしみじみと呟く。
「十六歳は子供じゃないのかな。マシュー、おやすみのキスを額にするのは拙いかな?」
「親愛のキスは、何歳になっても問題ないかと思われますが。リリーナ様が十六歳になられたら、貴方様は親愛のキスをしないでいられるのですか?」
「無理だね。抱き締めて頬ずりして、ものすごく甘やかすよ。ねぇ、マリア。久しぶりに親愛のキスを送ってもいいかい?」
そういえば最近はなかったなと思い出しながら、マリアは少し背を屈めて「どうぞ」と笑った。
アルバートの顔が近づいて、前髪と額に触れる程度の温もりが少しくすぐったかった。彼が身につける柔らかな芳香が鼻に触れて、いい匂いだなと思う。
今日は、どうやら血の匂いをつけるような仕事はなかったらしい。
「愛してるよ、マリア。僕は、いつでも君の幸せを願ってる」
おやすみ、と告げて、アルバートがゆっくりと手を離した。
マリアは改めて二人に「おやすみなさい」と告げてから、部屋を後にした。
すぐに部屋を出てしまったから、彼女はアルバートの「僕が普通の貴族だったのなら、きっと君をもらいうけたよ」という静かな呟きを聞く事はなかった。
 




