二十九章 進む準備の中で(3)
リリーナ達を見送る事も出来ないまま、マリアはクリストファーの私室を後にした。連れて来られたのは、何故か王族専用の休憩サロンである。
国王陛下ただ一人用とは思えないほど広々としていて、足元には刺繍入りの上質な絨毯が敷き詰められている。高い天井にはシャンデリア、開かれた大きな窓のカーテンも調度品も全てが豪華だ。
何度も来た事があるから、場所は知っている。
とはいえ、なんでメイドである今の自分が、このテーブルの長椅子の一つに座っているんだろうな、とマリアはもっともな疑問を思っていた。
久しぶりに見た王族執事長は、初老に差し掛かってはいたものの元気そうだった。相変わらず無駄のない動きでテキパキと動き、珈琲休憩メンバーの中にメイド少女が加わっている事にも全く動じないまま、三人分の珈琲だけを入れて一旦退出して行った。
あの人も、よく分からないところがあるんだよな……と、つい退出していくその執事長を目で追ってしまった。初めてオブライトが連れて来られた時も、眉一つ動かさず「あなた様も珈琲でよろしいでしょうか?」と確認しただけだった。
アヴェインが予測不可能、想定外の行動を起こすのはいつもの事だ。少年時代からの付き合いで信頼も厚い人であるし、すっかり慣れた対応力だったりするのだろうか?
そう訝っていると、カチャリ、と食器がぶつかる小さな音が聞こえた。
目を向けてみると、グイードが真っ先に珈琲カップを手に取っていた。立ち上る湯気をふぅっとやって、少し口を付けてから、楽に足を組んでいるアヴェインを見やる。
「でもさ、アヴェインが軍区まで来るのも珍しくね?」
グイードが、今更のように気付いた疑問を口にした。
薬学研究棟に向かおうとしていたと聞いていたから、てっきり軍区外で鉢合わせたと思っていた。同じく不思議に思ったマリアは、両手で珈琲カップを手に取りつつ話を見守る。
「時間がないし、いつも近場でジーンあたりを引っ張ってるだろ?」
「ちょっと暇になって顔を出してみたら、次の臨時任務の準備で忙しいみたいでな」
ああ、なるほど、とグイードとマリアは共通の友人を思い珈琲を飲んだ。
というか、少し暇になったからって軽く足を運ぶの、お前とグイードとジーンくらいだぞ……なんとも言えず思ったマリアは、やっぱり腑に落ちなくて残る疑問を尋ねてしまっていた。
「あの……、でも、なんで私を連れて来たんですかね……?」
そうしたら、アヴェインの金緑の目がこちらを向いた。そのままじっと見据えられて、一体なんだと答える気配のなさに顔を顰めたところで、マリアはふと気付いた。
使用人が許可もなく口を開くのも、マナーとして駄目だろう。既に発言してしまった後であるし、どうしたもんかと困って、考えながら癖のように珈琲を口にした。
「そのタイミングで飲むのか。面白いメイドだな」
淡々としたアヴェインの声が聞こえて、遅れて「あ」と目を戻した。
「えっと、その、申し訳ございませ――」
「別に構わん。好きにしろ」
彼が面倒そうに片手を振った。珈琲カップを持ち上げて一口飲むと、カップの湯気を眺めつつこう続ける。
「俺はな、グイードが珈琲を飲みに行くと言っていたから、『ついでにいいと思って』お前も呼んだまでだ」
「はぁ、なるほど……?」
いや、だからなんで未成年の使用人を、国王陛下の休憩に招待するんだよ……。
相変わらず自由というか、なんというか、と思いつつマリアは珈琲をチビリと口にした。じっと見つめ返してくるから、なんだかそらすタイミングが掴めなくて、目を合わせたままでいた。
その時、グイードが思い出したように視線を寄越しきた。
「なぁマリアちゃん。昨日、なんかしたか?」
「昨日?」
また唐突な質問だな。ゆったりと長椅子に背をもたれた彼に顔を向けられて、マリアは珈琲カップを両手に持ったままチラリと眉を寄せる。
「これといって変わった事はなかったように思いますけれど――ああ、昨日は途中で、マシューと一緒にアルバート様と少し会いましたわ」
「ふうん。なんかさ、レイモンドが『またマリア辺りじゃ』って、頭抱えてぶつぶつ言ってたんだよなぁ」
んじゃ関係ないのかという表情で宙を見やったものの、なんでだろうなとグイードが首を捻る。
それを聞いたマリアは、少し考えた。思い返してみるが、レイモンドとは顔を会わせていないなと今一度思い出して、一つ頷く。
「やっぱり身に覚えはありませんわね」
これといってパッと浮かぶものもなくて、真っすぐ彼の横顔を見て改めてそう告げた。
「そっか。まぁ俺もさ、そのタイミングで書類を放り込んできただけから、よく分からないんだよな。扉開けたら、なんか相棒が頭抱えてた」
「その光景を見て、いつも通り書類を押し付けて『逃げた』グイードさんが信じられません……」
「だってあの書類、俺じゃなくても出来るし」
だからってなんで相棒のとこに放り込むの、可哀そうだろ。
マリアは、騎馬隊時代から何も変わってなくね、と今更のように思ってしまった。騎士団側の師団長なのに、騎馬隊側の騎馬総帥に『ついでにこれやっといて』で仕事を押し付けるなよ。
そう思って見つめ合っていると、珈琲カップをテーブルに戻す音が耳に入った。
アヴェインが長椅子に背を戻しながらも、こちらを眺めていた。指先がほんの数秒ほどトントンと肘置きを叩き、思案気に「ふむ」と目が窓の向こうへと流し向けられる。
「なんだよ、どうしたアヴェイン?」
「友人になったとは聞いているが、お前がそういう風に話しているのも珍しい気がしてな。レイモンドも、そこの娘を呼び捨てか」
ぴたり、と肘置きを叩いていた彼の指が止まる。
どうやら考え事は終わったらしい。そのまま、ふっと視線を寄越されたマリアは、今度はなんだろうと問うように小首を傾げてみせた。
「今日もルクシアのところに行くんだろう、メイド?」
「はい。これから向かいますわ」
「実はな、今日は王族として少し出席させる事がある」
出席、とマリアは口の中で反芻して「ああ、なるほど」思い至る。
「ご公務ですか?」
「そうだ。必要なのは『第三王子の出席』であって、難しい内容ではないんだが、いつもより時間を取るやつでな。来国している賓客もいる」
すると、やりとりを聞いていたグイードが「『ルクシア』かぁ」と呟いた。何度か接した『第三王子』の事を思い返すような表情を浮かべたかと思うと、アヴェインを見てこう続けた。
「あの子、なんかそういうのは苦手そうだよな」
「得意ではないだろうな。一見するとそうではないが――『息を詰めているのが』分かる」
父親として、アヴェインがそう口にする。
その台詞の間に、俺と違って、という言葉が見えたような気がした。マリアの知る限り、幼い頃にたった一人残されて『王』となってからずっと、アヴェインは誰よりも強い完璧な国王だった。
「ルクシアは、今ちょうど王妃と一緒にいる」
どこか思い返すような目をよそに向けたまま、アヴェインがそう言った。そう語る横顔を、マリアは手に持った珈琲カップも動かさないまま、じっと見ていた。
「その公務はこれからで、一時間後には先にルクシアを解放する予定だ」
そこでアヴェインがこちらを見た。
パチリと目が合った途端、話しはしまいかと察して、彼女は身分が上の者の許可が出されたわけでもないのに、珈琲カップをテーブルに置いて自然と立ち上がっていた。
マリアは、少しだけ不思議そうにしているアヴェインに、思案しつつ「了解です」と答えた。退出しようと歩き出そうとしたところで、ようやく思い出して、二人を見るとぺこりとメイドの少女らしく頭を下げた。
「美味しい珈琲をごちそう様でした」
明確な言葉を答えるわけでもない。
それでも、マリアは口にされていない用件を任されたかのような顔で、真っすぐ国王陛下を見つめ返し――それから部屋を出た。