二十九章 進む準備の中で(2)
マリアは、リリナとサリーと共に、迎えにきた王宮の馬車に乗って王宮に向かった。
到着してすぐ、待っていた近衛騎士に迎えられて「こちらへどうぞ」と第四王子の私室へと案内された。一旦席を外しているのか、護衛担当部隊の隊長・副隊長格の姿はなかった。
第四王子クリストファーは、日差しに透けるような柔らかな金髪を持った十歳の王子だ。国王陛下と同じ金緑色の瞳をしており、どちらかと言えば女の子寄りの顔立ちをした美少年である。
こちらの入室に気付くなり、クリストファーがぱぁっと笑顔を浮かべた。
マリアは、そんな彼を見て「天使」と言い掛けた口を咄嗟に塞いだ。彼は最近『お揃いのリボン』にはまっているのだが、何故か本日は、片耳の上に細いリボンが留めてあった。
なんで女の子みたいに髪を留めているのだろう。
いや、愛らしいウチのリリーナ様と並べても全然違和感ないし、めちゃくちゃ似合うからいいんだけど……いや、やっぱりなんで頭に?
ぐるぐると言葉が頭の中に湧き起こる。そんな中、クリストファーがリボンを揺らしながら、パタパタと走り寄ってきて、リリーナとにこやかに挨拶を済ませて愛らしい会話を始めた。
と、思ったら、すぐに彼の目がマリアへと向いた。
「マリアさん、お揃いにしてみたくて頭に着けてみたんです! どうですか?」
すっかり懐いてくれている彼が、見て見て、と朝のリリーナと同じ反応でくるりと回った。そのうえで、立ち止まって幼い指でリボンをつまんで「どう?」と小首を傾げてくる。
か…………ッ、……可愛い過ぎる!
マリアは、もう少しのところで崩れ落ちそうになった。ガツンと頭の中を殴られるような衝撃を覚えて、全理性を総動員させて両足を踏ん張り、どうにか表情筋を引き締めた。
なんという破壊力だろうかと、愛らしい十歳の王子を思う。
そういうところ、全然ほんと父親である陛下に似てない。
多分、いや恐らく絶対に王妃寄りだ。自分がまだオブライトだった頃、当時まだ婚約者だった彼女が、そうやってリボンをつまんで窺ってきた事があったのを思い出した。
「すごく、可愛いです」
マリアは、どうにか男の叫びが出てこないよう抑えながらそう言った。その途端に安心したかのように表情を緩めて、クリストファーが「えへへ」と嬉しそうにする。
「ルクシア兄上にも、朝に自慢しちゃったんです。そうしたら、滅多にあまりご感想されない兄上が『いいんじゃ、ないでしょうか』とおっしゃってくれて」
その台詞の区切り方からすると、多分、ルクシアは困惑していたのではないだろうか。
そういえば兄弟だったな、とマリアは考えながらも、ぶるぶると小さく震えていた。そもそも普段から容姿にも無頓着なところがあるから、ルクシアにとっては余計に未知の事で戸惑っただろう状況が推測された。
今や周りのメイドも、どうにか視線をそらして一生懸命に悶絶を堪えている状況だった。警備の衛兵は廊下に避難して口を押さえているし、護衛騎士が「今日、俺めっちゃ頑張れるわ」と感激の涙を浮かべている。
それにも気付かない様子で、リリーナがまるで自分の事のように嬉しそうに微笑んだ。正面から覗き込んで「良かったわね、クリス」と、手を叩いて愛らしく言った。
「私、まだ三番目のお兄様には会えていないの。舞踏会の日に会えのを、楽しみにしているのよ」
「うん。いつもお忙しい兄上だって、きっとそう思っているよ」
クリストファーが、自然に彼女の両手を取って相槌を打つ。婚約者になってからそんなに経っていないというのに、まるでもうこの距離感が当然かのように二人は笑い合う。
もう、無理。
マリアは、ずしゃあっと膝から崩れ落ちた。サリーが「マリアっ」と慌てて膝をつき、どうにか彼女が四つん這いになってしまわないよう肩を支える。
「マリア、まさか鼻血とか」
「出てない大丈夫、今日一日めっちゃ頑張れる気がするありがとう」
慌てて声を掛けたサリーが、マリアからその返事を受けた途端、ちょっと顔色を青くして「それ大丈夫って言わないよ」と呟いた。
その時、室内に上質な衣擦れの音と装飾品が立てる音がして、凛、とした一人の男の声が響き渡った。
「――これはまた、見事な崩れっぷりだな」
よく耳に通るその声を聞いて、マリアはハッと咄嗟に目を向けてしまった。
するとそこには、護衛も付けずに入室してきた、巣の表情でやや顰め面を浮かべた国王陛下アヴェインが立っていた。すぐに声も出ないくらいに驚いた。
なんで、ここに陛下が……?
どうやら予定になかった顔出しのようで、騎士達も戸惑っているようだった。どう対応していいのか判断が付かない様子で、互いを見合って「ヴァンレット隊長はまだか」「アロー隊長の戻りは」と小さな声で交わし合う。
すると、老いの気配一つ見えないでいる絶世の美貌を持ったアヴェインが、すっと手を上げて「良い」とそのざわめきを止めた。
「これは私用で勝手に立ち寄ったまでだ。とりあえず、気にするな」
威厳ある風の口調で切り出したかと思ったら、後半、相変わらずの軽い口調でざっくりと指示する。
「お父様!」
クリストファーが、嬉しそうにして駆け寄り飛び付いた。国王陛下としての作った表情ではなく、アヴェインは口角を少し引き上げるような笑みで受け止めた。リリーナが侯爵令嬢らしい挨拶の礼を取るのを見て、彼はこう言った。
「堅苦しい挨拶はいらんぞ。おいで、俺の未来の娘」
リリーナも、彼にはよく懐いているらしい。パッと頬に赤みが差したかと思ったら、嬉しそうに飛び込んで、クリストファーと一緒になってアヴェインに抱き締められていた。
「うむ。俺の小さな息子と娘は、今日も元気いっぱいだな。良い事だ」
お揃いの柄のリボンを目に留めて、彼がフッと笑う吐息をこぼして手を離した。少し屈めていた背を起こすと、私情の窺えない冷静な表情で近くの騎士を見る。
「二人に支度を。先に『マナーの先生』が到着された」
「えっ、もうご到着ですか!?」
促された騎士が、びっくりしたように言ってすぐ「失礼しました」と軍人式の礼を取った。呼ばれたメイド達が動き出して、クリストファーとリリーナの身なりを整え始める。
騎士の一人に呼ばれて、サリーがパタパタと走り寄った。担当するアロー隊長の到着が会議で遅れているので、先に自分達と一緒に二人と移動してもらう事になる、と彼は小さな侍従に丁寧に伝え教える。
リリーナに驚かれる前にと立ち上がっていたマリアは、その様子を呆けて見つめていた。引き続き困惑していると、アヴェインがふっと振り返ってきて、真っすぐ切れ長の金緑の目を向けられた。
「メイド、今暇か?」
「は……?」
質問の意図が分からなくて、マリアは素の表情で声を上げた。
アヴェインが、こちらに向かって歩き出した。目の前で足を止めたかと思ったら、王族衣装の袖部分の装飾品をシャラリと鳴らして、部屋の開けられた扉の方を指す。
すると、そこからひょっこりグイードが顔を出してきた。短髪は清潔感を漂わせて軽めにセットされており、胸元には位を示す勲章等もされて、きちんと師団長のマントも付けている。
「やっほー、マリアちゃん」
目が合ってすぐ、室内を覗き込んだグイードが、片手を上げて挨拶してきた。
「実はさ、せっかくレイモンドを身代わりにして、さっきベルアーノを撒いたんだけどさ」
「それ、レイモンドさんが可哀そうすぎじゃありません……?」
話を聞きながら、マリアは思わず口を挟んでしまった。しかし、グイードは全く聞いていないのか、それとも気にもしていないのか、さらさらと言葉を続けてくる。
「そっちに珈琲飲みに行こうと思って時間作ったのに、向かっている途中で、この通りアヴェインに捕まっちまってさ」
いや何やってんだよお前、とマリアは思った。
するとアヴェインが、表情から見て取ったのか「全くだ」と口にしてきた。なんでグイードをここに連れて来たのだろうかと疑問を覚えて目を向けて見たら、彼がくいっと親指を部屋の外へと向けて、こう続けてきた。
「とりあえず、お前も『珈琲休憩』に付き合え」
え、なんで?
呆気に取られていると、アヴェインがいつも通り勝手な様子で歩き出した。慌てて動き出したマリアは、結局、部屋の前で立っていたグイードと合流して、彼の後に付いて行った。
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