二十九章 進む準備の中で(1)
朝のアーバンド侯爵邸は、主人達の朝食も終わって落ち着いた雰囲気に包まれていた。
直近の予定としては、第四王子の婚約者であるリリーナの迎えの馬車の到着待ちである。アーバンド侯爵も本日は、正午前にこの土地の町長と話し、午後に社交として数組の貴族と会うくらいなので、朝一番の時間を私服でゆっくりと過ごしているところだ。
そんな中、一階のサロンで寛ぐ主人達の様子を、マリアが「なんてことだ」と無意識にこぼし、入口からこっそり眺めていた。
使用人コンビである令嬢付侍従のサリーが、それに付き合わされて同じ姿勢で『盗み見』ている。男女使用人の中で最年少組とあって、後ろからだと二人の姿はかなり目立っていた。
長いダークブラウンの髪と大きなリボンを、身体ごと傾かせている十六歳――なのに外見年齢十三、四歳くらいのマリア。そして、ふわふわとした蜂蜜色の髪をした十五歳――だけれど、やっぱり実年齢より幼く見える、美少女系少年なサリーである。
「………………何してんの?」
他の使用人達が『大人の対応』で見ていない振りをする中、マリア達と同じく十代の使用人仲間、見習いコックのギースが廊下で足を止めた。
彼は十九歳なのに、やや華奢で幼い顔立ちをしており、侯爵家嫡男であるアルバートと同年齢に見えない青年である。頼まれた雑用仕事で一旦厨房を出ているのか、コック服衣装の腰元にはエプロンを着けていた。
声を掛けられたマリアとサリーが、ゆっくりと目を向けた。少女らしからぬ真顔と、儚げ美少女系の無表情を見たギースが、何を考えているのかさっぱり分からんと首を捻る。
「いや、なんだよ。じっと見てくんなよ」
すると、マリアが表情そのままに歩み寄ってきて、ギースを引っ張って入口まで連れて行った。そこで「ちょっと見て」と言い、彼の顔を思いっきりグキッとやってサロン側へと向けた。
彼が「ぐはっ」と痛みの声を上げるのも構わず、彼女は真剣な声でこう続ける。
「今日のリリーナ様の外出用ドレス、めっちゃ可愛い」
すると、頭をギリギリと固定されているギースが「あ、確かに」と呑気な声で同意した。サロンにいる主人達のソファ横に控えていた執事長フォレスが、その様子を見て「あの子達は一体何をやっているのですかね」と小さく息を吐いている。
本日のリリーナは、王都に出来た新しい店の新作衣装に身を包んでいた。秋先も過ぎ始め、少し肌寒くなり出しているのを考慮した、重ね着タイプの外出用ドレスだ。
きゅっとウエスト部分が絞られた下部分は、いつもとは違って少し動いたらふんわりと揺れるくらいに、数種類の生地がたっぷり使われてあった。彼女はとても嬉しそうにスカートをつまんでひらひらとさせて、父親であるアーバンド侯爵に見せている。
実は、今日の王宮での授業は、午前中いっぱいをダンスの練習にあてられているらしいのだ。そのため、本番衣装と同じくらいの生地量と広がりを持ったスカートが選ばれていた。
アーハンド侯爵は、今後の茶会デビューも見越して新作衣装を複数の店で注文してあった。そのうちの一つが、今リリーナが着用している物なのである。
マリアは、サロンの入り口から『こっそり』顔を覗かせて、深刻顔で息を飲み込んだ。
「リリーナ様、マナーの先生も朝からダンスの練習を見てくれるって言って、すごく喜んでるの。私、その先生まだ見た事もないんだけど、それくらいに懐いているみたいなの」
「……お前の真顔さ、嫉妬なのか喜びなのか分からないんだけど――どっちだ?」
ギースが同じく深刻気味な様子で、彼女の横顔を見て指摘した。
すると、それを聞いたサリーが、冷やかな横目を流し向けた。マリアやリリーナには絶対にしないような冷淡な眼差しで、彼にかなり手厳しい意見を口にする。
「嫉妬にも値しないでしょ」
「え、あ、うん…………って、何が?」
「だって」
僕の方が、二人にとって『美人』で『可愛い』でしょう?
サリーの女の子みたいな唇が、そっと少女的な笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。女性にモテないでいるギースが、「……うん、まぁ、確かに……」と納得せざるを得なくて見つめ返す。
そんな横で、サロンの中を覗き込んでいるマリアは、リリーナをアーバンド侯爵が抱き上げる様子を目撃し、マジかよと表情に浮かべて「羨ましい」とこぼしていた。
「サリーの話だと、マナーの先生ってすごく素敵な人みたいなのよね。あのリリーナ様が大人の女性として憧れているみたいだし……」
そこで、女の子らしく「ふぅ」と吐息をもらして片頬に手を当てる。こうやって大きくなっていくんだろうなぁ、とちょっとした子離れ始めの寂しさを思ったりした。
「なぁマリア、その独白バッチリ口に出てんだけど――お前まだ十六歳だろ。俺より三つ年下だよな? 言い方がめっちゃ成人済みっぽくなってるぞ」
「ギースは、全然成長しないよな」
「なんだよそんな目で俺を見るなよッ、つか口調が拾われたばっかの頃に戻ってるぞっ!」
女がそんな風に言うんじゃない、とギースが力を込めていつものように言ってくる。
身長に関しては、モテない要素なんじゃないかと若干気にもしていた。彼はちょっと潤みそうになった目で、「というか!」と指を突き付けてマリアに言い返す。
「マリアだって全っっっ然、胸も成長してな――ぐはっ」
マリアは即、黙らせるべくギースの首に腕をぶつけていた。
サロンからずっと様子を見ていた執事長フォレスが、額に手をあてて吐息をもらした。アーバンド侯爵がこっそり「ふふっ」と笑うそばで、さりげなくリリーナの肩を叩いて促す。
「あっ、マリア! お掃除は終わったの?」
リリーナの大きな藍色の瞳が、入口を見てパッと輝いた。
名を呼ばれた瞬間、マリアはギースを放って素早く彼女の前に向かっていた。小さな主人の前に片膝をつくと、そばに寄る事を許して呼んでくれた彼女を、凛々しい笑顔で見つめ返す。
「はい。つい先程終えたところです」
「マリアったら、スカートとエプロンが汚れてしまうわよ」
くすくす笑うリリーナの後ろで、フォレスが無表情でこう言った。
「それは『メイド』がする姿勢ではないと、何度も教えているはずですが」
「サリーの『騎士姿勢』だよね」
ほんと面白いなぁ、とアーバンド侯爵が口許に拳を当てて笑いを堪えながら言う。
マリアが立ち上がると、リリーナが「ねぇ見て見てマリア!」とくるりと回って衣装を披露した。ふわりと広がる裾と一緒に、頭のリボンと背中に流れている蜂蜜色の髪が揺れていた。
「これね、新しいお店の人に仕立ててもらったのよ! お父様が一緒になってデザインしてくれたの!」
「ははは、先程も見せて頂きましたよ。とてもよくお似合いです」
何度も見せたくなるくらいに気に入っているのだろう。満面の笑みと楽しげな声、その全身から嬉しさや喜びが伝わってきて、マリアは爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。
大変愛らしい。めちゃくちゃ可愛い、抱き上げて甘やかしたい。
マリアは、十歳のリリーナを前に『天使』という言葉以外思い付かないでいた。ひとまず使用人仲間のギースを助け起こしたサリーが向かってくる中、リリーナが「あっ」と声を上げる。
「そういえば今度ね、エレスティーナちゃんとお料理をする事になったのよ。伯爵夫人の故郷のサンドイッチを、一緒に教えてくれるんですって!」
それはリリーナの数少ない令嬢友達の一人だった。あの伯爵家の領地は、リゾート地となっているため、ちょっとした家族旅行ついでに二泊三日で会いに行くとは聞いていた。
日程からすると、もしかしたら一回目の臨時班の調査に重なるかもしれない。アルバートも王宮の仕事を空けられないので、今回は父と娘だけで訪問するとは聞かされている。
ああ、だとすると、それも考慮して日取りを調正してくるかもなぁ。
マリアは推測して、数日はかかる距離にあるというステラの町の一回目の調査を思った。フォレスからは、屋敷不在の間の事については「いつも通りに」と話をされてもいた。
あとは『戦闘使用人を貸しだす王宮側』のスケジュールに合わせて動くだけだ。それに関しては、既にアーバンド侯爵からも直接指示を受けて待機状態だった。リリーナのそばを離れるというのは心苦しいものの、サリーが全面的に協力すると請け負ってくれてもいた。
そんな事を思い返し考えていると、リリーナがアーバンド侯爵を振り返ってこう言った。
「ねぇ、お父様。サリーだけじゃなくて、マリアも連れて行ったら駄目なの?」
「お屋敷の仕事があるからね。マリアはまた今度誘おう、可愛いリリーナ」
にこっと微笑んだアーバンド侯爵が、おいで、と呼んで自分の隣に座らせた。その口調は、やっぱりどこか若々しくて柔らかい。
リリーナは、頭を撫でる彼の胸にぎゅっとした。我が儘をこれ以上言わないとするかのように、きゅっと唇をつぐんであと、でも少しだけ残念そうにこう呟いた。
「……マリアと一緒にサンドイッチ作りが出来たら、もっと嬉しかったのになぁ」
その時、ちょうどタイミングよくその言葉を拾った庭師のマークが、ひょこっと窓から顔を覗かせた。身長に合わせて作られている作業着が、少しだぼっとなってしまうほどの細身で、切ったり整えたりするのを面倒臭がって、くすんだ赤毛の先を適当に後ろでまとめている。
容姿に無頓着な彼は、相変わらず本日も無精鬚をはやしていた。やや垂れた気だるげな目元が、普段からの熱意低めなサボリ癖を滲ませてもいる。
「ははっ、マリアが料理に参加したら危な――ぐはっ」
そうマークが面白がって口にした途端、勢いよく飛んでいったマリアの膝が直撃した。彼が「スカートを考慮し、ろよ、太腿まで見えちゃってるか、ら……」と言い残して窓の向こうに崩れ落ちる。
アーバンド侯爵にタイミングよく目隠しされていたリリーナが、「どうしたの?」「何?」と可愛らしい声で言う。そばにいたフォレスが動き出して、外に飛び出たマリアを迎えに行く。
「マリアさんは、料理が出来る嫁をもらった方がいいでしょうね」
窓の向こうを見下ろしたところで、彼は料理長と同じ意見を口にした。
それを聞いたマークが、仁王立ちしているマリアを前に「いてて」と言いながら身を起こして、ちっとも手を貸す気がない執事長へと目を向けた。
「夫の間違いじゃね……?」
そう言い返したマークが、「つか」と思い浮かべる顔で指折り上げ始める。
「それなりに地位があるとすると貴族辺りで、マリアより強いってなると軍人職で、そんなでもってマリアのほぼ皆無な女子力を補う。つまり料理も裁縫も――って、そんな奴いなくね?」
手料理で弁当作る貴族様ってのも想像出来ねぇしな、とマークは自分が抱く女子像から考えて首を捻る。
マリアは、軍服の上から『自作の刺繍入りエプロン』を着ていたポルペオが浮かんだ。今の自分なら、あの頃と違ってサンドイッチくらいならイケるのでは、と怒りを忘れて思った。