二十八章 マリアと使用人仲間と王宮と(2)
第三宮廷近衛騎士隊は、貴族で固められている部隊の一つだ。
他の部隊に比べれば雑務もかなり軽減されており、最近、どこぞの騎馬隊の部隊が第三王子ルクシアの専属護衛となった事で、一旦バタつきも落ち着いていた。
王宮にて、午前の仕事も始まって数時間。軍区にあるそんな第三宮廷近衛騎士隊の執務室で、他の隊長達との予定に向かった上司を見送り、副隊長アルバートが残された。
「僕のリリーナが可愛すぎる」
唐突に、真面目な顔でアルバートがそう切り出した。 しばし書類にも手を触れず、組んだ手に口許をあてて真剣な表情でいる。
「普段からも愛らしいというのに、殿下を前にした彼女はまさに天使の微笑みだよ。こっそり遠目から『覗き見た』けど、はぁ……同じ王宮にいるのに距離が遠い」
憂うような横顔は、世の女性がうっとりしてしまうほどに美しい。蜂蜜色の髪は、長いまつ毛の先に掛かり、形のいい藍色の瞳は『疑いもないほどに』優しげだ。
自分の執務机にいるアルバートの横には、これから別件で用があるため、騎馬隊の軍服に着替えて、支度を進めている部下兼侍従の姿があった。
ネクタイを整えにかかっていたマシューは、思わず手を止めて、ゾッとしたような表情で自分の主人を見ていた。「え」と童顔よりの端正な顔が向けられた際、癖のない灰色の髪が、日差しを知らないような白い肌の上でさらりと揺れていた。
「廊下を歩いているとね、リリーナの匂いがふっと鼻先を掠める時があるんだ。たまらなく抱き締めに行きたくなる。それなのに僕は会いに行けなくて、……王宮にいる彼女を甘やかしに行くことも出来ないだなんて」
普通の人間の嗅覚だと察知出来ないくらい離れているはずですし、まず嗅ぎ分けすら出来ないかと。
マシューは、そう言ってしまいたくなった。
「ファンが増えている事も知っているんだ。皆がリリーナを愛してくれるのは、とても嬉しい。でもね、僕以上にリリーナの愛らしさを分かっている人間は、いないと思うんだ」
「…………」
「『第四王子の婚約者、侯爵家令嬢リリーナ様を愛でる会』というファンクラブが出来ているようだけれど、彼らの語彙力で、彼女の素晴しい愛らしさを完全に表現出来ると思うかい? だからね、今日は少し暇があるし、もうこうなったら僕が突入して説いてこようかと思うんだ」
彼の中では、既に今日のポッカリとあいた休憩時間の使い道が決まってしまっているようだ。
それを聞く優秀な侍従、マシューはさすがに言葉が出てこないでいた。
ウチのアルバート様が、そろそろヤバイ。
主人から離れるのはかなり不安があったものの、マシューはスケジュール通り『騎馬隊のセザリウス・オーディー』として潜り込み、アイワード第四騎馬隊長の行動を見張った。
仕事に集中していても、頭の片隅にはアルバートの事がぐるぐると回っていた。
どんなに考えても、自分一人で彼をファンクラブに突撃させない方法が思い浮かばない。ここ最近は、各仕事も色々と続いていて、定時に帰れるのも少なかった。
おかげでリリーナと触れ合う時間が減っているものだから、アルバートなりにストレスも溜まっているのは知っている。この間も、彼は「可愛いのはリリーナだよ」と、同僚の頭すれすれに剣を放っていたほどだ。
他にもあった事が思い出された途端、やっぱりもう一人では無理だと思った。
不意に、パッと頭に浮かんだのは、王宮に来てくれている使用人仲間のマリアの存在だ。
ここは、マリアに協力してもらおう。スケジュール的にもチャンスだと考え、マシューはアイワード隊長の件が終わった足で、そのまま薬学研究棟の方を目指した。
どこで変装を解こうかと考えながら歩いていると、ふと、廊下の向こうから存在感が凄まじい大男が歩いてくるのが見えた。
その人物を目に留めた途端、マシューはピタリと足を止めてしまっていた。
それは、この前も屋敷に来ていた、ヴァンレット・ウォスカー隊長だった。近衛騎士隊長の軍服に身を包んだ、特徴的な緑の芝生頭を持った超大型級の騎士である。
片頬に大きな傷跡がある彼が、隊長格を示すマントを揺らして、ずんずん歩いてくる。
マシューは、理解不能、という言葉が脳裏に飛び出てきて警戒を覚えてしまう。何しろこの騎士は、思考構造が未知というか、かなり行動が読めないのだ。
以前、マリアとマークとの買い出しで遭遇した際、それを強く感じた。経歴や実績を見るに、決して馬鹿ではない……とは思うのだけれど思考回路は『謎』だった。
いや、こちらは『完全に完璧に変装中』なのだ。彼にバレる事はないだろう。
同じ近衛騎士隊だというのに、全く顔を覚えられていなかった事もマシューは思い出した。こっちでは挨拶程度に何度か自己紹介したし、屋敷ではマリアも教えていたというのに、結局は最後まで名前さえ覚えていなかったのである。
そんな事を考えていると、パチリ、と目が合った。
するとヴァンレットが、のんびりとした表情のまま、じぃっとこちらを見つめてきた。どこか笑っているようにも見えるというか、目だけ子供みたいな屈強な大男だ。
おかげで、何を思って真っ直ぐ見られているのか全く分からない。
マシューは目をそらした方がいいのか、何食わぬ顔で歩き出した方がいいのか判断がつけられないでいた。そうしたら、歩き続けていたヴァンレットが、とうとう目の前まで来た。
ピタリと立ち止まったかと思うと、ようやく思い出したみたいに彼が「あ」と指を向けてきた。
「『マリアの使用人仲間』」
「…………」
いや待て、なんで変装中なのにピンポイントで当ててくるんですか。
マシューは、こちらを見下ろしているヴァンレットが、確信たっぷりでいるのを見て「えぇぇ……」と複雑な心境をこぼしてしまった。気のせいか、この人を見ていると『犬』『野獣』『動物属性』という単語が浮かんでくる。
つまり、野生の勘でも働いたという事なのだろうか?
それでもピンポイントすぎるでしょ、なんなのこの人。顔も名前も覚えられないというのに、変装を見破るって一体どういう思考構造をしているのか――とマシューは色々と思うところがあって、自分にとって苦手な人物が一人増えたのを感じた。