二十七章 臨時班の始動、混乱の魔王とジーンの不安(6)
結局休憩を挟む事も出来ないまま、気付けば午後の休憩時間も超えてしまっていた。
宰相ベルアーノは、自身の執務室で、それに気付いて一旦手を止めた。椅子をギシリと鳴らして身体を預けると、深い溜息をこぼして目頭を押さえる。
「はぁ~……、差し入れのサンドイッチ以外、食べ損ねた」
思わず呟いた。
ほんと、女性にしか気が利かないどこかの暴れ馬の馬鹿と違って、レイモンドは上司部下関係無しに気遣いと配慮が優しい。彼が「もしかしたら必要になるかと思って」と完成した書類と一緒に、サンドイッチを掲げて見せてきた時はうっかり感動した。
苦労は日々増し増しだ。初めて【国王陛下の裏の剣】の戦闘メイドを助っ人に、となって動かせる人員も増え、まぁこれで少しは楽になるかなと思っていた。
だが、どうしてか以前の倍以上の騒動が連発して、王宮内はますます落ち着かないでいる。おかげで最近、「宰相様の白髪が心配だな」「宰相様、ますます白髪化が進んでいるのでは」と、気にかけてくれるのは嬉しいが言い方に悪意を感じ会話もよく耳にした。
「ったく、何度も言っているが、私の髪は持ち前の銀髪だからな」
もう怒る気力も湧いてこない。若い頃はさほど誤解されなかったというのに、年齢を重ねると、元々濃くなかった銀色部分が余計目立たなくなったみたいだ。
本当に毎日胃が痛いくらいに忙しい。
でもどういう訳か、心は疲労のぐるぐるとした重さはあまり覚えていなかった。少し前までならば、数週間くらい精神的なダメージで、まともに食事もとれない日々もあったというのに。
そう今更のように気付いて、ベルアーノは先程、自分がペロリとサンドイッチを平らげたのを思い出す。
思い返してみれば、王宮の問題児連中も『どことなく雰囲気がいい』気がした。いつも以上に前向きというか、まるで所属を飛び越えて動いていた、当時みたいに『皆がいればどうにかなるでしょ』とフットワークも軽く、仕事のペースも速く、予定よりも進められているというか――。
こうして自分の気も、少し楽でいられるのは一体どうしてだろうか?
そう考えて、ふと、どうしてかマリアの笑顔が浮かんだ。ルクシアの事は任せて下さいと、微塵も不安などないような、真っ直ぐの目で言い切られたせいでもあるのだろうか。
労ってくる苦笑も、不思議と気持ちがいい娘だった。
午前中の早い時間にバッタリ会った時も、その姿を目に留めてすぐ「マリアだ」と思って歩み寄っていた。つい愚痴をこぼして少し話に付き合わせ、レイモンドにするようにして「じゃあヨロシク」と言って別れた。
そういえば、彼女が薬学研究棟に通うようになってから、ルクシアも変わった。どこか耐えるように唇を引き結んで『独り』でいた彼が、最近は単身でいるのが珍しいくらい王宮生活に馴染み始めている――と護衛にあたっている者たちからも嬉しい報告が来ていた。
昨日の夕方、ベルアーノも休憩を取っていた時、珍しくルクシアと遭遇した。いつもはペコリと挨拶をして通り過ぎていくだけだというのに、誘ったら紅茶に付き合ってくれたのだ。
――午前中、どうやら楽しい場所に連れていかれていたみたいですね。来るのが遅くなった理由については、詳しくは口にしていませんでしたが、彼女は嘘が下手です。
――ごほっ。実はその、任務を手伝ってもらっていたから、その連中が少し息抜きに、だな……。
――ああ、そうだったのですか。仕事とは別件だと当ててしまったら、マリアの事だから申し訳なさを感じてしまうだろう、とアーシュが言って、何かしらイベントに参加していたのかとは尋ねませんでした。私は子供でもないのに、イイ笑顔で『お土産です』と出店の菓子を頂いてしまいまして。やっぱり見た目の色通り、これがまた無駄に甘いのです。
以前なら、そんなに長く話す事もしなかったのに、ルクシアは少し苦笑して自分からそう語っていた。一旦、終業のため文官区へ顔を出しているアーシュと、これから合流して、もう少し論文作業をしながら残りの菓子を食べるつもりなのだという。
昨日のそんなやりとりを思い返したベルアーノは、おかしくなって小さく笑ってしまった。
「もうすっかり『友達』じゃないか」
業務時間が終わっても、引き続きアーシュと少し一緒に過ごす事も最近はあるようだ、とは報告を受けて知っていた。
実のところ、ルクシアはこれまで興味がなくて口にしていなかっただけで、他の兄弟王子たちと同じく、甘いものが嫌いではないのだろうとも分かってきた。それから紅茶よりも、珈琲を好んで口にしている。
「ロイドがマリアを引き入れる事にした時は、どうなる事かと思ったが――うん、アーシュの手伝いをさせて良かった」
ほんの少しだけではあるのだが、アーシュの女性恐怖症による弊害も若干は減ったと聞いた。以前まで一匹狼のように仏頂面で過ごしていたというのに、最近は雰囲気も少し丸くなって、同僚女性との仕事のやりとりも、ある程度スムーズになっているのだとか。
とはいえ、うっかり相手が書類を渡す際に指先で触れてしまって、例の救護班が呼ばれるのは引き続きだ。一見するとアーシュの容姿が、女性恐怖症とは思えない『クールな文官』として通っているせいもあるのだろう。
その時、叫びが上がって扉がバターンッと開いた。
「宰相様ああああああああああ!」
ベルアーノは大変驚いて、「おわっ!?」と椅子から滑り落ちそうになった。一体何事だと目を向けてみると、片腕に書類を抱えた、見覚えある部下の右腕の書記官がいた。
「机仕事に耐えられなくなったグイード師団長にッ、通りすがりだったルーカス様がソファごと吹き飛ばされました! この場合、王妃様にご報告した方がよろしいでしょうか!?」
その報告を聞いたベルアーノは、こめかみに青筋をピキリと立てて椅子から腰を上げた。思わず「またかよッ!」と宰相らしくない、若かりし頃が窺える口調で叫んだのだった。
※※※
本日の手伝いを終えたマリアは、最後に三人分の珈琲を淹れてから研究私室を出た。
「あれ? ジーン?」
王宮の廊下に上がったところで、柱の影から視線を送ってくる友人に気付いた。なんでそんなところに隠れているんだろうか、と首を捻ってしまう。
柱に両手をついてこちらを伺っている『大臣』の様子は、豪華な衣装もあってかなり目立っていた。一体何をやっているんだろうなと思いながら駆け寄ってみたら、姿勢そのままにジーンがぎこちない愛想笑いを浮かべて応えてきた。
「えっと……、親友よ。その、お疲れ様」
なんだか元気じゃなさそうだった。
周りからチラチラと向けられている目を感じたマリアは、長身の彼の顔を覗き込むように見上げて、こっそり話しかけた。
「こんなところで何をしているんだ? またサボリか?」
「その、なんというか、ちょっと心配になって……」
もう仕事に全く集中出来ないくらいそわそわしちゃって、と彼が独り言のようにごにょごにょ言ってくる。
「あいつさ、メンタル鋼の癖に、本命には激弱っていう意外すぎる面倒臭さを発揮してるし。もういっそのこと、しばらくは独りで勝手にぐるぐるやっているだろうから放っておこうかな、って思わないでもないというか。俺も色々と考え疲れちゃったというか」
「お前が何を言っているのか、全然分からないんだが……」
マリアは、いよいよ困惑してしまった。すっかり肩が落ちているジーンを見ていると、ふと思い出して、メイド衣装のエブロンのポケットを探る。
「そういえば、ニールから飴玉もらったんだった」
言いながら、ジーンの大きな手を取って、取り出した飴玉の包みをその掌に乗せた。
「なんでか『宝石飴』をもらってしまってさ。仕事で疲れているようだし、お前が食べるといいよ」
手伝えなくてごめんな、と少し困ったように微笑みかける。
その途端、ジーンが元気になったと言わんばかりに、パッと口許を押さえた。感激しきった様子で瞳を潤ませて、手の内側に「親友よ……っ!」と感極まった声をこぼす。
「俺、こうして近くにいるのに、仕事している俺のそばに親友がいないとか、もう耐えられないッ」
「はぁ? 普通に大臣の仕事しろよ。私は今、リリーナ様のメイドだって言っているだろ」
アーバンド侯爵家を守り、リリーナを守る。今の自分にとって大切な仕事だ。それと同じく、彼の方も国王陛下アヴェインを助けるための『大切な大臣業』だろう。
そう思っていると、向こうからバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「王妃様専属の護衛騎士様が飛ばされたのって、どこだ!?」
「一階に落ちたらしいけど、多分東じゃないかっ?」
「次のご移動までに捜せって言われても、俺ら近衛部隊でもないから顔も分からないってのに! つか、特徴が『犬の尻尾』ってなんだよ!?」
「仕方ないだろ、近衛騎士のメイン護衛班は、殿下の方にあたっているし――」
目を向けてすぐ、廊下の途中から若い軍人たちが飛び出してきた。
あ、と互いの目が合った時には、もうぶつかりそうになってしまっていた。これはまずい。そう思った直後、マリアはジーンの腕にひょいっと抱き上げられて回避させられていた。
足を止めるのが間に合わなかった男たちが、転びかけつつそばを通過して急ブレーキをかける。ジーンがマリアをそばに置いてから、ギッと若い軍人たちを睨み付けた。
「おいコラああああああ! 今の親友は小さいんだぞッ、柔な身体なんだから吹き飛ばされたら無事じゃすまないし、うっかり怪我して骨でも折れたりしたらどうしてくれるんだっ!」
「は? え、つか、なんで大臣様がここにい――」
そう困惑する男たちをよそに、ブチ切れたジーンがくわっと目を見開いた。
「テメェら覚悟はいいだろうな。この俺が、直々に根性叩き直してやらああああああああああ!」
突如、彼が雄叫びを上げながら急発進した。向かって来られた男達が、あまりの威圧感と怒り具合に怯えて脱兎のごとく逃げ出す。
「ひぃ!? 大臣がめっちゃ走ってくるぞ!?」
「なんなのあの大臣!?」
「んな事いってる場合か――って、うわああああ来たぁぁぁああああッ!」
悲鳴を上げて逃げる男たちのうち、一人がとっ捕まって、ジーンが「ふんっ」と思いっきりぶん投げた。彼は続いて床を割る勢いで跳躍すると、くるっと一回転して、次の軍人の背中を両足で踏む。
廊下が一気に騒がしくなった。居合わせた他の軍人や使用人たちが、「応援を呼べっ」「大臣がまたサボッてるって知らせろ!」「死ぬ気で大臣を確保――――ッ!」と騒動が広がる。
「……………あいつ、一体何してんだ」
柱のそばに置いてけぼりにされたマリアは、しばし呆気に取られて傍観してしまっていたのだった。