二十七章 臨時班の始動、混乱の魔王とジーンの不安(1)序
その屋敷には、複数の立派な馬車が停まっていた。開けた庭へ回ると、整えられた芝生にはテーブルセットが数組置かれ、紅茶に合う品のいい菓子も用意されている。
穏やかな午前の日差しがあった。
集まっていた貴族たちは、複数の男女で年齢層も幅広い。華やかに談笑する彼らの元へと進むのは、――執事長フォレスを連れたアーバンド侯爵だ。
彼が黒いハット帽を取って挨拶すると、気付いた四十代になったばかりといった風貌の紳士が、パッと目を親愛に輝かせて「よく来てくれたね!」と嬉しい声を上げて歩み寄る。
「やぁ我が友、アノルド! 君も茶会に来てくれて本当に嬉しいよ」
「元気そうで何よりだよ、トレッド」
そう答えたアーバンド侯爵からハット帽を受け取り、フォレスが形式的な礼を取って後退した。
定期的に開催されているこの特別な茶会では、一般の使用人は入れていない。主催者である彼の執事を手伝うべく、向こうから手招きしているその中年執事のもとへと向かう。
既に集まっていた参加者たちが、屋敷の主であるトレッドに連れられたアーバンド侯爵へ目を向け、それぞれティーカップを手に親しげに挨拶をした。
「アノルド様ったら、今日は最後の到着ですわよ?」
妖艶な貴婦人が、真っ赤な唇に美麗な笑みを浮かべて声を掛ける。
その耳元でキラリとダイヤの飾りが揺れる中、彼女の形のいい尻の動きに注目していたお洒落な紳士が「ひゅー」と口笛を吹いた。集まった中では三十代と若い彼は、続けて茶化すように言う。
「まぁそう言ってあげるなよ。時間ピッタリじゃないか、我々の到着が早かっただけさ」
「放っておけ、ロード・マスター。彼女は昔っから、アーバンド侯爵にぞっこんなのさ」
「お若い話だねぇ。でもワシが聞いた話だと、旦那が一番じゃなかったのかな?」
品のある小柄な老紳士が、彼女が気に入っているのが一人の男性としてではないと察していながら、ジョークに乗ってそう述べた。
紅茶の香りを楽しんでいる老紳士の方も見ず、女は「うふふっ」と笑んでティーカップを口許に引き寄せる。
「ええ、旦那様が一番ですわ。だって、あの人、わたくしにぞっこんなの。ちょっと血が出てもダメな、普通の貴族――ベッドで少しからかっただけで泣くんですのよ、可愛いでしょ?」
「なんとも可愛い旦那さんだ。我々とは大違いだね」
複数の大きな指輪をした別の紳士が、目元を少し隠している紳士帽子の鍔を、白い手袋をした指先で少し押し上げてそう相槌を打った。
「この前、私が主催した劇の鑑賞会でも、君の旦那様は感動して泣いてくれていたねぇ。私も彼の事は昔から好んでいるよ、数少ない純粋な男だ」
その会話を楽しげに聞いていたアーバンド侯爵が、給仕に回ってくれている別の者の専属執事からティーカップを受け取りながら、「確かにそうだねぇ」と賛同する。
「本当に良い男だよ。私はね、彼が趣味で書いている本の愛読者でもある」
「彼、元々は小説を生業にしたかったのだろう? けれど長男だからと、ひっそり諦めた夢だと言っていたのは覚えているよ」
少し老いの見える中年紳士が、そう愉しげに口に言った。
するとトレッドが、「彼は、酒を飲むと当時の話をよくするよなぁ」と思い出しながら、少しおかしそうに口を挟んだ。自分のティーカップをテーブルから取り、こう続ける。
「絶望していたところ、一目惚れしたと女性の方から見合いの申し込みがあって、自分の許へ天使が現われた。本当に自分なんかでいいのかと驚いている間にも、デートを重ねていくうちに心まで救われた、と」
「その通り! それを、今ここに一つしかない美しき華である彼女が、良き妻として支えて執筆してみるようアドバイスしたというわけだ。ははぁ、実に美しい話だよ全く」
少々演技かかった口調で、この中で一番若い例のお洒落な紳士が述べる。彼女が彼に流し目を向けて、同じく美しい笑みを返した。
「あら、女でも領地経営と管理くらい出来ますのよ?」
「俺はね、君には頭が上がらないと思っているんだよ」
「嘘おっしゃい。あなた、わたくしの尻ばかり目で追いかけているじゃありませんか」
そう茶化すように言い返された若いお洒落な彼が、「だって姉さんの尻ほど、見事ないい形のボディを見た事がないものでね」とあっさり答えて肩を竦めて見せる。
途端に、場は再び華やかな笑い声に包まれた。
それからしばらく、美味しい紅茶を片手に菓子を楽しみながら談笑が続いた。
いくつかのグループに分かれての会話が始まると、トレッドがアーバンド侯爵を木陰のベンチへと誘った。
「こうしてゆっくり話せるのも、一週間ぶりだな。そっちの『家族』は引き続き息災か?」
座ってすぐ、彼はアーバンド侯爵へ親しげに問う。
「みんな元気だよ。君のところの末娘は、もう文字の読み書きは出来るようになったかな?」
「最近は、自分の名前の綴りを書けるようになった。上の子達より成長が早そうだ」
二人はそれから少しの間、互いの近況を含めた会話を楽しんだ。
頭上には青い空が広がっていて、時たま吹き抜ける風が足元の芝生と、すぐそばの木の葉を揺らす心地良い音がしていた。
それぞれの家から付いてきた執事たちは、必要がなければ出てこない。二人が話している間に一度だけ、外国風のお洒落な執事衣装に身を包んだ男が来て、一杯分のグラスを彼らに差し出して、そしてまた屋敷へと戻って行った。
「年月が過ぎるのは、早いものだねぇ」
互いに話し終え、通り抜ける風の音を聞いたアーバンド侯爵がそう口にした。
「トレッドの子も、あっという間に四人の大家族だ」
「それを言うなら、アノルドのところもだろう。数が倍にもなっているものだから、たまに誰が誰の名前だったのか忘れてしまうくらいさ。――一番幼かった子もいただろう?」
「ああ。サリーも、もう十五歳になったよ」
それを聞いたトレッドが、ようやく実感したかのような顔で「月が過ぎるのは、あっという間だなぁ」と呟いて、ベンチに背をもたれた。
ふと、彼は思い出して目を戻す。
「そういえば、最近はアルバート君も忙しくなっているみたいだな。俺がガネットの店に行った時も、『相手さん方』と仕事の話をしていたよ」
自慢の息子だろう、と親しみのこもった目でトレッドが言った。その視線を受け止めたアーバンド侯爵は、肯定するように優雅に微笑み返した。
「そろそろアルバートにも、本格的に動いてもらおうかと思っていね。私がやろうとしていた大きな仕事の一つを任せて、様子をみようかと考えているんだ」
「ああ、そうだったのか。今や暗殺部隊もほとんどとりまとめていると聞くし、本当に頼もしくなったもんだな。――とはいえ、アノルドは気を抜けない、か」
「まぁね。おかげで、これからもっと忙しくなりそうだ」
アーバンド侯爵は、青年のような打ち解けた柔らかな口調で言うと、心地良さにつられたかのように青い空を眺めやった。
それを見たトレッドが、ふっと笑いをこぼして同じ空を見上げる。
「ははは、アノルドも大変だなぁ。大丈夫だ、任せておけ、俺もせいいっぱい協力するさ」
「分かっているよ。いつもありがとう、トレッド」
不意に、パシュ、と小さな乾いた音が上がった。
会話が途切れて、トレッドがゆっくりとアーバンド侯爵の肩にもたれかかった。アーバンド侯爵の右手には隠し銃が握られていて、その銃口は彼の胸元に押し付けられてあった。
ふと、お洒落な紳士が気付いて目を向けた。
「おや。もうしまいか、アノルド」
彼がそう口にすると、賑やかにしていた他の面々が「もう終わりかい」「終わりみたいね」と話し、けれど引き続き華やかな茶会を楽しんで紅茶を口にする。
声を掛けた若い彼が、洒落たスカーフを直し、先に茶会を抜けてアーバンド侯爵のもとへ向かった。歩み寄りながら、愛想良く声を掛ける。
「もう少し、生きた彼との最後の茶会を楽しむかと思っていたよ」
「だって、もう話す事なんてないからねぇ」
アーバンド侯爵が答えていると、ガネットの紹介でトレッドの執事となっていた男が、用意の整ったシャンパングラスを持って現われた。
「お一ついかがです? ロード様」
「気が利くね。ならば一つ頂こうか」
「アーバンド侯爵は、いかがです?」
「私も一つもらおうかな。喉が渇いてね」
いつの間にか、他の執事たちも出てきてシャンパングラスを配る姿があった。彼らは続いて、テーブルの上のティーカップを丁寧な仕草で片付けていく。
同じようにシャンパングラスを受け取った貴婦人が、ぴたりと膝まで引き締まったドレスの先の膨らみを揺らしながら、アーバンド侯爵たちの方へ歩み寄った。その妖艶な唇がほくそ笑んで、「ねぇアノルド」と言葉が紡がれる。
「そこの彼のこと、随分目にかけていたのではなくて?」
「目をかけていたよ。この時のために、十六年も飼いならしていた者だ」
問われたアーバンド侯爵は、純粋な青年みたいな様子で微笑んで『普通に』そう答える。
続々と歩み寄ってきた面々の中、ロード、と呼ばれていたそのお洒落な貴族の男が、わざとらしく肩を竦めてこう言った。
「おお、怖いね、アーバンド侯爵。私は『君だけは』敵に回したくないよ。たとえ個人的な事情であったとしても、ね」
暗殺貴族、通称『ロード・マスター』はそう言うと、優雅にシャンパングラスを口許に近づける。
「後処理はどうしようか?」
すると暗殺貴族、トニーポートの三男が、無害そうな目尻の皺を穏やかに緩めて問い掛けた。
どこにでもいるような画家の庶民衣装に身を包んだ彼に目を向けられて、小奇麗な初老の紳士が「ふむ」と形の整えられた見事な三角の顎をなぞる。
「火事なんてどうだ?」
「ふふっ、前にやったばかりだろう」
「ならば事故死かな、自然に仕上げてくれるところを知ってる」
「そうね、馬車の事故とでもしてしまえばいいわ」
内容に不似合いな華やかさで、談笑のような話が交わされていく。この場に漂う場ど不一致な空気が、狂気であると違和感を覚えるモノはいない。
その時、一人の精悍な面差しをした中年紳士が、どこか面白そうな表情を浮かべてアーバンド侯爵に言った。
「しかし、少々生ぬるくないだろうか? どうせなら直前に、裏切りへの報復で絶望させて、その表情を残してお殺しになられたらよかったのでは」
「十六年は『誠実に』頑張ってくれたからね。楽に殺してあげることにしたんだよ」
アーバンド侯爵は穏やかに言いながら、寄り沿うようにしてトレッドの頭を引き寄せた。そして、絶命している彼の耳元に別れの言葉を囁きかけた。
「『僕』はね。僕に騙されている君が、愚かで滑稽で大好きだったよ」
勿論返事はない。
前触れもなく終わりを迎えたトレッドの死に顔は、まるでうたた寝でもしているみたいにあどけなくもあった。
本来の一人称を口にした彼は、言葉を続ける。
「おやすみ、トレッド」
そう告げたアーバンド侯爵は、嬉しくて、喜びに満ちていて――とても愛情深い微笑みを浮かべていた。