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五章 厄介事が当然のように湧いてくる巣窟で(1)

 ロイド・ファウスト。

 モルツの直属の上司で、実質軍のトップにある国王陛下直属の銀色騎士団の総隊長。


 少年師団長時代の呼び名は魔王、もしくは大魔王の息子――


 宰相の執務室に現れたのは、他でもないその男だった。オブライトが一番に「話が通じない相手」「会うと厄介事に発展する」「最凶の問題児だ」と警戒していた相手でもある。


 これほどまでに魔王の名が相応しい男も、他にないだろう。静かに怒りを露わにする今のロイドの姿は、まさに恐怖の大魔王そのものだった。


 強がりな笑みを浮かべるグイードと剣を交えているロイドは、目が完全に捕食者と化していた。納得するまで敵を叩き潰しに入る時の目だ。マリアはオブライト時代の経験から、彼への説得は完全に不可能だとも悟った。


 緊張が一気に膨れ上がる中、ヴァンレットが、遅れてロイドの姿を目に止めた。



「久しぶりだな、ロイド総隊長。三日前にそっちに行ったんだが、会えなくて残念に思っていたんだ。やけに苛立っているみたいだけど、便秘?」



 一方的に仲良し認識しているヴァンレットの口の利き方は、マリアにも想定外なほど失礼で軽かった。騎士学校時代でロイドが元後輩とはいえ、相手は総隊長であるし、そもそも使う状況を完全に間違えている。


 ロイドの視線が、ゆっくりとヴァンレットへ向いた。彼がまとう殺気が鋭利さを増し、それに比例するかのように妖艶な笑みが深まる。


 あ、やばい。


  マリアがそう思った時、瞬斬とうたわれていたロイドの剣が、ヴァンレットに向かって炸裂していた。ヴァンレットはそれをどうにか受け止めたが、本気の殺気と受け取っていないのか「機嫌が悪いなぁ」と困ったように呟いた。


 机の下に隠れていたベルアーノが、物騒な音を聞いてすぐ「勘弁してくれ!」と喚いた。


 グイードが真面目な目付きで「止めて、振り切るぞ」とモルツに短く言い、ロイドに切りかかった。モルツが短い息を吐き、「この状況では止まりそうにもありませんし、仕方ないでしょう」と抜刀する。



 室内で、剣を抜いた四人の男による戦闘が始まった。



 マリアは慌てて書斎机の方へ後退したのだが、その間にも床に敷かれたカーペットが裂け、天井のシャンデリアが破損し、書棚が切り刻まれ、止まる事無く嫌な剣圧を肌で感じた。


 グイードの動きを見ていると、ロイドを出入り口から遠ざけようとしている事は察せた。恐らく、少しでも距離をあけて逃げるチャンスを狙っているのだろう。


 そう推測しつつも、マリアは思わず目頭を押さえていた。まるで十六年前と同じ光景だが、当時よりも全員の殺傷力が各段に上がっているせいで、余計に性質が悪くなっている事に頭痛を覚えた。


 そもそも、昔からロイドは、興奮が高まると見境がなくなる狂戦士だ。


 このままでは巻き添えを受ける確率が高く、マリアは、彼らの暴動を注視しつつも防衛に役立ちそうな物を目で探した。すると、それを見越したかのように、背中からベルアーノの「これ使っていいぞッ」という声がした。



 ゴトリ、と音がしたので振り返ると、書斎机の上に、飾られていた剣の一つが置かれていた。



 マリアは、すぐさま机の下に戻ってしまったベルアーノと、剣を交互に見た。言われた内容を理解するのに、たっぷり数秒を要した。


「ッて、ぇぇえええ!? 待って下さい宰相様! 普通か弱きメイドにこれを渡します!?」

「こっちには一人しか入らないし、君はアーバンド侯爵家の使用人だから、多分一撃ぐらいなら受け止められるだろうッ」

「冒頭の台詞が本音ですよね!? マジで勘弁して下さ――」


 不意に殺気が肌に刺さり、マリアは言葉を途切れさせた。久しく感じていなかった総毛立つ敵意を覚え、考えるよりも先に、身体が書斎机の上の剣を掴み取っていた。


 マリアは、抜刀する暇もなく鞘のまま重い斬撃を受け止めた。


  片手でこちらに向かって振り降ろされた剣の先には、ロイドの殺気立った深い紺色の瞳があった。少女の手にビリビリと響く衝撃に、マリアは思わず顔を歪めた。


 切羽詰まった状況には、罵倒を浮かべる余裕もなかった。


  マリアは、近い距離にある彼の開き切った瞳孔に、一切の躊躇もないと見て取り、本気なのだと悟って舌打ちした。受け止めた剣を、瞬時に力任せに薙ぎ払うと、間髪置かず構えを取って突き上げた。予想通りの形で受け止められたのを見て、続いて、剣を絡め取るべく切っ先をぐるりと回した。


 ロイドの瞳が、半ば冷静さを取り戻したように、僅かに見開かれたような気がした。


 しかし、彼はすぐに動揺を抑えると、すかさず主導権を奪い返してきた。マリアはロイドの動きを見逃さないとばかりに睨み付けたまま、前世から身体に沁みついた反射行動のように抜刀すると、体制を立て直すように彼の剣を押さえ込んだ。


 左手に持った鞘を構えて叩き入れたが、ロイドは、涼しげに剣の柄の向きを変えて、それを器用に受け止めてしまう。


「……ッ」


 この戦闘狂の鬼畜野郎! というかモルツといい、こいつといいッ、女の子に本気で切り掛かるとか有り得ないだろうが!


 マリアは内心罵倒し、一旦後方に飛んで体制を整え直した。


 後ろに退いてすぐ、間髪入れずロイドとの間合いを詰めるべく床を蹴り上げ、それと同時に、右手に持っていた剣の切っ先を、彼の顔面目掛けて真っすぐ投げつけた。


 まさか主力武器を手放すとは予想していなかったのか、ロイドがハッとしたように剣で防いだ。


 マリアは、その一瞬の隙を逃さず接近した。鞘を床に突いた反動で、進行方向を急転換させ、彼の剣の反撃可能範囲から外れた位置につくと、床を蹴って跳躍し、憎たらしいドS鬼畜野郎である、ロイドの脇腹目掛けて踵を打ちこもうと身を躍らせ――



 ガシッと背後から襟首を掴まえられて、マリアは「うぉ!?」と淑女らしかぬ声を上げてしまった。



 目が回るような浮遊感に包まれたと思ったら、次の瞬間には、走り出すグイードの脇腹に抱えられていた。


「とんでもねぇじゃじゃ馬っぷりだが、助かった! 今のうちに逃げるぞ!」

「彼女、護身術の達人らしいです」


 グイードの隣を走り出したモルツが、冷静に告げて、眼鏡の横を揃えた手で押し上げた。「なるほど、そういう事な」と相槌を打つグイードのそばには、「いやぁ、まいったまいった」と、ちっとも深刻さを理解していないヴァンレットの姿もあった。


 マリアはグイードの脇腹に腕一本で抱えられたまま、しばし呆気にとられていた。


              ※※※


 宰相室から一目散に飛び出したグイード達は、何事だろうと騒ぎ出す人間をかいくぐりながら、廊下を一直線に駆け抜けた。


 後方から爆発するような破壊音が上がり、マリアは、グイードの脇に抱えられたままビクリと身体を揺らした。


 既視感を覚えるのは、大魔王が少年だった時代にも全く同じ逃走劇があったせいだろう。当時であれば「相手は子供なのだし……」と諦めていた部分もあるが、三十四歳になってもこの暴君振りは、有り得ないと思う。


「てッ、どういう事ですかコレ! 後ろから嫌な爆音も聞こえるんですけど!?」

「ははははは! 大丈夫、逃げ回っているうちにあいつの気も落ち着くから!」

「自信たっぷりに何言ってんだこの阿呆!」


 思わず素で口から暴言が飛び出た。グイードは、気にした様子もなく走り続けている。


 ロイドも廊下に飛び出して来たようだ。後方から、廊下にいた若い軍人達の阿鼻叫喚が響き始め、「ぎゃぁぁああ!」「また総隊長がご乱心だぁ!」「皆端に寄るんだッ、道を開ければ死にはしない!」と、――聞こえる内容が既に日々の物騒さを物語っていた。


 騒ぎに気付いた兵士達が、走るグイード一向を見て、すぐに状況を察したように道を開け始めた。さっと血の気が引いた顔は「またあの人達か」と雄弁に語っていた。



 もう嫌だ、帰りたい。



 脇に抱えられているせいで、マリアは視界が揺れて吐き気も覚えた。口に手をあてた際、近づいてくる後方の騒ぎにちらりと目を向け――


「…………」


 見なければ良かったな、とすぐに後悔した。少し距離を置いた先に、剣をしまったロイドの、混沌の象徴のような鋭い紺色の瞳と、バッチリ目が合った。


 ニコリともしない美貌が恐ろしい。


 真っ直ぐ視線を向けられているさまは、まるで肉食獣に舌舐めずりされている気分だった。人間というのは、怒りが限度を超えると表情が抜け落ちるもんなんだよなぁ、と場違いな感想が、現実逃避のようにマリアの脳裏を過ぎった。


 現実逃避のように考えながら、しばらく目を合わせていると、ロイドがすぅっと目を細めるのが分かった。



 狩られる。そう感じさせる凶暴な気配に襲われた。



 マリアは慌てて視線を戻すと、届く範囲にあるグイードの身体を忙しなく叩いた。


「ッグイードさん、すぐそこまでドS野郎が迫ってます!」

「マジか。やっぱ歳には敵わんなぁ。お、いいところに生贄――じゃなくて同志が」


 前方を見据えていたグイードの目が、悪戯を思いついた子供のように光った。


 彼の見ている方へ視線を向けたマリアは、そこに懐かしい男がいる事に気付いた。通常の隊士格よりも凝ったデザインをした紺色の軍服には、騎馬隊の所属を示す白のラインが入っている。


 そこにいた男が、何事だろう、という感じで悠長にこちらを振り返った。


 目尻には薄い皺があったが、間違いなくレイモンドだと分かった。十六年分の歳を取り、グイードと同じように四十も半ばを過ぎているレイモンドは、堪え症のなかったあの頃に比べると、落ち着いた雰囲気をまとっていた。ゆるくウェーブを描く柔らかな髪には、白髪も目立つ。



 優しい色合いをしたレイモンドの鳶色の瞳が、こちらの状況を見て、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。


 

 その肩の装飾と胸元に輝くバッジを見て、マリアは、彼が騎馬隊の総帥になっている事を知った。


 遅れて騒動に気付いたレイモンドが、途端に動揺の色を浮かべてうろたえ始めた。


「え!? なんでグイードがここに……って、待てコラ、こっちに来るなッ、お前の後ろに何でまた総隊長がいるんだよ! しかもモルツとヴァンレットまでッ」

「はははははは、会いたかったぜ親友」


 グイードがほぼ棒読みで声を掛けながら、顔を引き攣らせたレイモンドを爽やかな笑顔で容赦なく掴まえた。


 否応なしに走らなければならなくなったレイモンドが、混乱しつつも、走る面々に目を走らせた。


「これ一体どういう事なんだ、つか何でこんな事になってんの!?」

「お久しぶりです、レイモンド騎馬総帥。ご覧の通り、うちの総隊長が見事に切れました」

「いや、よく分からんが俺を巻き込むなよ!」

「レイモンドさん、昨日振りですね。あの腹巻きどうでした?」

「おいヴァンレットッ、今それを訊くのか!? つか俺のは胃痛なんだッ、お前が総隊長の地雷ばっか踏み抜くのをまともに止められる奴がいないせいで、こちとら胃に穴が空きそうなんだよ! くれるなら胃薬にしとけよ!」


 レイモンドの悲痛な叫びが廊下に響いた。



 マリアは、自分の補佐としてヴァンレットを連れ歩いていた理由が、実はストッパー兼世話役だったな、と思い出して遠い目をした。



 改めて逃走メンバーの顔ぶれを確認したレイモンドが、額を押さえて「最悪だ」と呻いた。


「お前らと揃って総隊長の部屋で説教コースとか、最悪だ……巻き込まれただけって言っても、あの人には通じないし、最悪だ」

「はっはっは、最悪続きだなぁ相棒。乗りかかった船だろ、とりあえず破壊衝動が収まるまで逃げ切れば病院送りになんねぇから、な?」


 おい、『な?』じゃないだろう。 

 確かにその通りだとしても、ほぼ一方的に巻き込まれたレイモンドが可哀そう過ぎる。


 マリアは、三回も最悪だ、と口にしたレイモンドに同情の眼差しを向けた。今はグイードと所属部隊が別れているようだが、それにも拘わらず、相変わらず苦労を掛けられているらしい。


 そう他人事に考察していたマリアは、次のグイードの台詞に、自分も現在は当事者の一人として巻き込まれている事を思い出した。


「よし、それぞれ分かれて逃げようぜ。逃げ切って知らぬ存ぜぬは懲戒ものだし、とりあえず、総隊長の殺気が落ち着いた頃に皆で説教を受けるってことで、後で総隊長の部屋に集合しよう。な、マリアちゃん」

「はッ? グイードさんちょっと待って下さい。というか――ふざけんな! たんに逃げる的を増やしたいだけだろ!」


 グイードの顔がニヤリとしたのを見て、マリアは、彼の思惑を察し強く反論した。


 先輩に対する礼儀も吹き飛び本気でなじるマリアを、レイモンドが驚いたように見やった。グイードが、そんな彼女の耳元で声を潜めてこう言った。



「なぁに、お嬢ちゃんは『あのアーバンド侯爵家』の戦闘使用人なんだろ? あれぐらいの護身が出来るなら、きっとイけるって」



 その台詞に、マリアは彼がアーバンド侯爵家の秘密を知っている事に気がついた。そういえば、剣を寄越したベルアーノも、知っている素振りであった事を遅れて思い出す。


 マリアの顔に質問を見て取ったのか、グイードがニヤリとした。


「詳しくは知らないけどな、俺、個人的に近衛騎士隊のアルバート副隊長から、そっち方面の仕事の手助けをちょいちょい頼まれるんだよ。……まぁ、お嬢ちゃんの型破りなやり方には、ちょっと驚かされたけどな」


 途端に、グイードが語尾を弱めた。マリアは、視線がそれた彼の横顔を不思議に思って見上げていたのだが――グイードが寂しげに、懐かしむように目を細めていた事を把握する前に、思考が途切れてしまった。



 顔の真横を、銀のナイフが通過したからだ。



 戦慄が走った。思わず振り返り確認してみると、後方から追い駆けてくるロイドが、剣を腰の鞘にしまって投げナイフを手に構えていた。


「なるほど。私たちはいい的ですね。グイード師団長の言う通り、バラけないと被害者が続々と出そうです」

「馬鹿野郎! 被害どころか死ぬわッ、お前、全力で上司を止めて来い!」


 冷静に分析したモルツに、レイモンドが堪え症がなかった頃のように切れ、感情のままにまくし立てた。


 上司を全力で止める、というのも大事な仕事であるのは確かなのだが、昔からモルツはその程度では動かない男だった。というのも、切られる暴力は、彼の趣味の範囲外であるからだ。


 腹を締めつける腕をマリアが叩くと、意図を察したグイードが、タイミングを見計らって地面に降ろしてくれた。マリアは、彼らと共に走行しながら、数秒ほど考えてこう言った。


「仕方ないですが、バラけましょう。というより私は関係がないので、リリーナ様のもとへ戻ってはいけないかしら?」


 その時、レイモンドがようやく気付いたといった様子で、マリアを見下ろした。


「……というか、そういえば君は誰だ? 俺らについてこられるぐらいに足が速いんだけど。スカートも膝まで上がっちゃってるけどさ、少しぐらい恥じらおうか。男の走りに平気な顔でついて来られるメイドとか、有り得なくない?」


 レイモンドは唖然と呟いたが、そのそばからモルツが首を伸ばし、グイードの隣を走るマリアを冷ややかに見やった。


「お前は薄情ですね、無責任にもほどがあります。お前がヴァンレットを連れてきたのですから、しっかり最後まで責任を持って下さい。彼を野放しにすると、もれなく迷子を発動しますから、手綱を握ったうえで、総隊長室まで連れてきて頂けないと困ります」

「いやいやいや、ちょっと待てッ、こっちが面倒を見ることになってるとか、か弱いメイドに対して無謀すぎやしないか!?」


 彼を補佐としていたオブライト時代ならともかく、マリアは案内されて巻き込まれただけのメイドに過ぎないのだ。ヴァンレットが迷惑を起こさないよう、普通ならモルツか、グイードがその役目を担うべきではないのか。


 思わず素で反論するマリアのそばで、レイモンドが「俺の意見がスルーされている。俺がおかしいのか……?」と悩ましげに呟いた。



 その時、後方から数本のナイフが煌めき、モルツとヴァンレットが同時に抜刀してナイフを叩き落とした。グイードが楽しそうに笑い「出来る後輩を持つと楽だなぁ」と口にした。



 背後に迫るロイドを直視したレイモンドが、「うげっ」と声をもらし、覚悟を決めたように半ばやけになって叫んだ。


「俺は右手に行くぞ!」


 レイモンドがそう宣言すると、剣を仕舞ったモルツが、嘆息混じりに「じゃあ私は真っ直ぐですかね」と興味もなさそうな口振りで答えた。マリアが「私はどうしよう」と慌てる心情などお構いなしに、グイードが「じゃあ俺は――」と問答無用で選択する。


「よし決めた。俺は左に行くぜ」

「~~~~~~ッ」


 これも、いつもの流れだ。こいつらは、いつも本当に勝手すぎる。


 マリアは、一同の視線がこちらを見下ろすのを感じた。仕方がないが、やるしかないのだという気持ちと、またこのパターンかよ、というレイモンド同様の投げやりな気持ちが込み上げた。


 なんだって毎回、こんな事になるんだろうか。


 マリアは「ああクソ!」と吐き捨てて顔を上げた。うまく考えがまとまらないまま、いつものパターンだとヴァンレットの方へ視線を投げて、勢いのまま叫んだ。



「行くぞ、ヴァンレット! ついて来い!」



 右手を軽く振って、進行方向を指示するよう合図を出した。ヴァンレットは目を丸くしたが、反論もせず、懐いた犬のように目を輝かせて肯いた。


 マリアは角を曲がった先の回廊で、進行方向を急転換させた。


 向かう先の廊下の、左右真っ直ぐの選択が取られてしまっているので、こっちは脇にそれるしかない。マリアはそう考え、迷わず回廊の窓枠に手を掛けて、一気に足を持ち上げて廊下から外へと飛び出した。


 空中に躍り出た一瞬、ふわりと広がったスカートを、手で押さえる。


 数人のメイドの高い悲鳴を聞いたが、こんな状況で行儀が悪いも何もないだろう、と開き直った。着地と同時に走り出すと、すぐにヴァンレットが後方に追いついた。マリアは、チラリとその姿を確認して、視線を前に戻した。



「あの子は猫なのか!?」



 驚愕の声を上げるレイモンドの言葉が聞こえて、マリアは疑問を覚えた。


 こちらを観察して、そんな事を悠長に述べられるような状況ではないと思うのだが……レイモンドたちは足を止めたのか? でも、どうして?


 疑問に思って肩越しに後方を確認したマリアは、軽々と回廊から飛び出してきたロイドの姿を見てギョッとした。


「マジかよ……!」


 どうやら、ヴァンレットの失言の方が腹に立っていたらしい。ロイドはグイードたちを追わず、真っすぐマリアとヴァンレットに狙いを絞っていた。


 ロイドは殺意と悪意には忠実な男である。先程マリアは、グイードの脇に抱えられ、位置的にはヴァンレットの隣だった。つまり、近くをかすめたナイフは、ヴァンレットを狙っていたものかもしれないと推測すれば腑にも落ちる。


 というより、今考えてみると、防御のためとはいえ、総隊長に向かって剣を投げつけたのはまずかったように思う。


 ……もう、色々と最悪だ。


 マリアは必死に走りながら、内心頭を抱えた。黒騎士部隊の隊長であった時も、役職的の立場が上であったロイド少年に剣を向けてはいたが、あの時とは状況が違う。


 先に手を出したのはロイドであるので、多分、ベルアーノが気を利かせて擁護し、先程のモルツ同様に咎めはない……と、思いたいなぁ。


 先の事を考えたくなくて、マリアは逃げる事に意識を向けた。


              ※※※


 ヴァンレットを引き連れ、中庭を全力で走り抜けたマリアは、いつの間にか迷路のような果実園に抜けていた。


 記憶にない光景に戸惑い、僅かに足が遅れてしまう。

 

 通常の樹木よりも低い丈の青い木々の茂みには、重みで枝の先を垂らしたアルプの実がついていた。それは、桃のような味をした、ピンク色の果肉を持った外国産の果実だった。


 マリアは、王妃であるカトリーナが、産後にアルプの実が好きになっていた事を思い出した。年中収穫出来るだとか、成長が早いだとか、隣国の使者に聞いた知識を、国王陛下アヴェインに熱く語って「専用の果樹園を造ってほしいのよ」とアピールしていたはずだ。


 そうか、とうとう専用の果実園の設置に成功したのか、と茫然と思った。


産地の土であっても上手く育てるのは難しい品種だと聞いていたが、腕のいい庭師がいるのかもしれない。



「まっすぐ抜けられるから」



 声が聞こえて、マリアは我に返った。


 視線を向けると、ヴァンレットが危機感のない顔で、果樹園の向こうを指差していた。なんだか楽しそうな顔が癪に障るような気もしたが、こういう時には緊張感が解れるのも確かなので、マリアは、仕方なく彼の続く言葉を待った。


「グイードさんが逃げろと言っていたし、ここで一旦、ロイド総隊長を撒こうと思う。二手に分かれて、出た先で合流しよう」

「……ヴァンレットさん、迷子になりません? なったら置いていきますよ」


 さすがにそこまで面倒は見られない。そうなったら置きざりにして、第四王子の私室まで誰かに案内してもらうからな。


 心の声のままにマリアが睨み付けると、ヴァンレットはニコニコと「ここはよく知っているし、俺は迷子になった事はないぞ」と自信たっぷりに言い切った。マリアは、ちっとも信用ならないな、と思った。


 ヴァンレットと分かれ、マリアは、木々の間を縫うように走った。


 緊迫感ある戦闘後の全力疾走は、さすがに少女の身には堪えて、マリアの息も上がっていた。風を切るたび、桃のような甘い匂いが鼻をついて、何故かくらくらした。まるで十六年前のようなメンバーで、十六年前とは違う成長しきった魔王に追い駆けられる状況に、訳が分からなくなってくる。



 どうして、こんなに必死になって走っているのだろう。



 クリストファーの私室で話す、リリーナの姿が脳裏を過ぎった。先程王子付きのメイドが持っていった明るい緑色のリボンは、もう仕上がっただろうか。あれから、どのぐらい経った?


 

 ――これ、アルプの実なの。食べるのも好きだけれど、こうして香水も出回っているぐらい人気で、私も持っているのよ。



 押し込めていたはずの記憶の向こうで、漆黒の髪をした彼女が微笑んだ。いつも『彼女』が好んでいた甘い果実の香りに、マリアは眩暈を覚えた。


 どうやっていつもその果物を手に入れているのだとか、平民なのに、どうして綺麗な指をして、兵士の月給よりも高いネツクレスをしているのだとか、あの頃は疑問にも思っていなかった。



 ああ、テレーサ。君はアルプが大好きだったね。



 マリアは、懐かしさと胸の痛みに目を細めた。


 大切な友人だと思っていた。向けられる瞳の熱が恋だと知ったのは、たった一度、触れるだけの口付けをした後だった。情欲の熱というのを、あの時オブライトは初めて、ようやく理解したのだ。



 ――知らない者も多いぐらい、あの女は巧妙だ。きっと後悔する。


 親友だったのに、アヴェインの苦しそうな声に気付いてやれなかった。


 ――何かあったら、話してちょうだいね? 


 カトリーナに心配そうな顔もさせてしまった。彼女の二人の息子たちの「行かないで」と心配する小さな手を優しく解いて、「帰ってくるよ」と嘘をついて、オブライトは最期の戦いに向かったのだ。


 ――後で合流しよう。戻ったらお前をダシに女を誘って、とことん飲もうぜ、親友!


 こんな自分を一目見て親友だと一方的に宣言し、誰よりも気にかけて世話を焼いてくれた黒騎士部隊の副隊長にも、「後で会おう」と残酷な嘘をついた。そして、彼にヴァンレットを預けて、オブライトは死んだのだ。


 彼女を見掛けたらしいモルツから、一度だけ訝しげに尋ねられた事があったが、出会った経緯は教えずに「友達だ」と誤魔化した。それ以降は興味が失せたように訊いてこなかった事も、覚えている。


 後悔はしていない。オブライトは、悔いもなく死んだ。

 最期の一瞬だけでも、愛する人と互いの想いを素直に語り合えて……



 仕方ないのだ。出会って、愛してしまったのだから。



 偶然居合わせて耳にした内容で、オブライトは、彼女が敵国の手の者である事、彼女が難しい立場でありながら、アヴェイン達の不利になる事を故意にしなかった事実と、その覚悟を知った。


 オブライトはそれを知って、何もしない道を選んだ。


 何も知らない振りをして、もし彼女が、アヴェイン達の不利になるような事をするのなら、それとなく邪魔をしようと決めて、残りの一ヶ月を彼女と過ごした。



 そして、あの日、最後の仕事を与えられた彼女が、震える刃先を向けてくるのを静かに見ていた。疲労しきっても動けたはずなのに、オブライトは、それを避けなかった。



 毒の塗られた短剣を腹に受けた時、刺されるのはこんなに痛いのかと他人事のように思いながら、戦場で震える彼女を抱き寄せた。


 二人で崩れ落ちて、オブライトは血を吐く彼女の真っ赤な唇に、そっとキスを落として近くから微笑んだ。共に逝く選択を知った彼女が、ようやく作った微笑を崩して、苦しそうに泣いた。



 ――愛していたの。愛してしまったのよ。ごめんなさい、ごめんなさい……

 ――俺だって、君を愛してた。



 もっと抱きしめてもいいかいと告げると、もう抱きしめてるじゃないと言われた。既に身体の感覚が半分なくて、「そうか、ごめん」と、どうにか答えて笑った時、目元から涙がこぼれ落ちて、誰よりも彼女が愛しいと思った。



 愛していたのだ。いつ恋に落ちたなんて分からないまま、二人は最期の一瞬だけ、本物の恋人同士になれた。



 思考が過去に飛んでいたマリアは、不意に力強い手に腕を掴まれ、我に返った。あっという間に鍛えられた腕が腹に回され、足が宙に浮いたところで、自分が逃げていた現実を思い出した。


「お前がモルツの言っていたアーバンド侯爵家のメイドか。実際は『戦闘メイド』だったか」


 耳元で低く囁く声に、身体が硬直した。後ろから回された腕が更にきつく締まり、押さえつけられる腹部から内臓が飛び出すのではないかと戦慄する。


 忘れてた。すっかり忘れてたよ、後ろの大魔王の存在を!


 ロイドはヴァンレットではなく、マリアに狙いを定める事にしたらしい。いくらか弱い少女の方を追った方が勝算があるとはいえ、酷過ぎる。そう罵倒を思い浮かべたものの、内臓を圧迫されるほど力を加えられて、マリアは大人しくしていた方が身のためだと理解した。


 さすがに銀色騎士団の総隊長となると、アーバンド侯爵家の事は知っているようだ。敵ではないので反撃に出る訳にもいかず、マリアは、降伏するように身体を弛緩させた。


「あの、すみません。逃げないので離していただけませんか、ね……?」


 こちらは巻き込まれただけなので、彼の報復の対象に入るのはおかしいだろう。


 その希望論を胸に、マリアは駄目もとでそう訊いてみた。自分を拘束したままでいる男をチラリと窺った時、予想よりも近くにある射抜くような淀んだ深い紺色の瞳に気付いて、思わず「ぅお!?」と少女にあるまじき悲鳴を上げてしまった。



 目が合った途端に、目と鼻の先にあったロイドが、美麗な笑みを深めた。



 私情の見えない目が恐ろしい。一歩間違えたら、噛みつかれるのではないかと錯覚するほど、ギラギラとした悪意を感じるロイドの双眼に、得体の知れない熱が孕んでいるような気もした。


 オブライトが知る限り、ロイドは自分以外の人間に対して、あまり興味を持たない男だった。上司だろうと冷ややかに眺め、部下だろうと一瞥を寄越して、使えそうになければすぐクビにする。


 というのに、その目はなんだ。


 面白い玩具を見付けた子供のような悪意が覗いているように見えるが、気のせいだよな?



「面白いな。俺を恐れないか」



 恐れてるよ、どこを見てそう判断してんだ。怖くなければ必死に逃げたりしないだろうが。


 本音を返してやりたくなるが、ようやく少し潜めてくれた殺気をぶり返されるのは面倒なので、マリアは口を閉じていた。当時の総隊長にさえ平気で突っかかっていたグイードも、逃走するぐらいにロイドは厄介なのだ。


「俺はファウスト公爵、ロイド・ファウスト。銀色騎士団の総隊長だ」

「はぁ、なるほど……えぇと、ではなくて。私はアーバンド侯爵家、リリーナ様付きのメイド、マリアと申しますわ」


 どうにか失礼にならないように答えたが、マリアは心身共に疲れ切ってしまっていたので、愛想笑いまでは出てこなかった。


 マリアがロイドに荷物のように脇に抱え直されたタイミングで、遅いと気付いたらしいヴァンレットが戻ってきた。彼はマリアを見ると「ははは、鬼ごっこは負けか」と、目的を忘れたように笑った。



 ……こいつの記憶力と思考回路は、どういう構造をしているんだろうか。



 マリアは、ロイドの脇にしっかり抱えられたまま、深い溜息を吐いて項垂れた。

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