二十六章 遊びたい大人達(7)
すっかりポルペオとモルツが見えなくなってしまった。
本当に二人きりにさせられたらしい。そもそも友人の中では、比較的一番まともな紳士思考を持ち合わせている男だというのに、こんなに華奢な少女一人で破壊神を抑えられると思っているのだろうか?
マリアは、呆気に取られてしまっていた。そばで上がった足音に気付いて振り返ってみると、さっきの不機嫌オーラはどこへ行ったのか、ただの仏頂面を浮かべているロイドの姿があった。
「あの……、暴れられたら止められませんけど」
「お前は何を言っているんだ? 別に暴れる予定はないぞ」
そんな返事があって、マリアは「え」と困惑した。
思わずじっと見上げていると、彼が目元にかかった黒に近い髪をさらりと揺らして、腰に手をあてて秀麗な眉を片方引き上げてきた。
「お前、俺をなんだと思っているんだ?」
え……何って、王宮一の破壊神だろう。
そう思っただけで何も言っていないのに、握った手でぽふっと頭を軽く押さえ付けるように叩かれてしまった。かなり珍しい優しい叩き方だったような気がしたものの、十六歳の女の子にその反応はないんじゃなかろうか?
マリアは、信じられないと表情に浮かべて彼を見つめ返した。
「なんでいきなり女の子の頭をポコッと叩くんですか」
「なんかイラッときた」
そう口にしたロイドが、続けて「寄越せ」と紙袋を取り上げた。両手で胸に抱えていたそれを、彼が片手に抱えるのを見て、マリアは「あっ」と遅れて声を出した。
「ちょ、ロイド様、荷物を返してください。あなた様に持たせるわけにはいきませんから」
「女に持たせたままにしておく紳士がいるか」
「でも私はメイドですし――」
だから返して、と言い掛けたマリアは、伸ばした手をパシリと掴まれて口を閉じた。身長の高いロイドが、背を屈めるようにして覗き込んでくる。
「今は、どこにでもいる『町娘』だろ」
そう言われて、どうしてか返す言葉が出てこなくなった。彼の深い紺色の瞳が、とても落ち着きを払ってこちらを見据えているせいだろうか?
なんだか少年師団長だった頃と別人のようで、マリアは小さな戸惑いを覚えた。他に言葉を続けるわけでもないのに、彼はずっと手を取ったままじっと見つめてくる。
少女の身となってからは慣れもした身長差ではあるけれど、どうしてか今はそれがとても慣れなかった。
少し空いていた小腹の減りも、小さな緊張で感じなくなってしまっていた。無意識に、手に少し力が入る。
するとロイドが、パッと手を解いて離れていった。
「このままつっ立っているのも暇だ。モルツの事だから、たとえ移動したとしても俺を見付ける」
なんでもないように、彼がよそを見てそう言う。
「せっかくの祭りだ、少し歩こう」
そのままそう提案されたマリアは、少し遅れて「まぁ、そうですわね」と相槌を打った。彼が『散歩』をするイメージはなかったから、変な感じがするなぁと思いながらその隣を歩き出す。
各地から大道芸や商人団、イベントや屋台も持ち込まれているせいか、やっぱりどこもかしこも多くの人で賑わっていた。頭上には、カラッと晴れた青い空が広がっている。
「――…………いい天気だなぁ……」
思わず、周りの賑わいに紛れこませて、ぽつりと呟いた。このままのんびりと木の下で横になって、草葉の音を聞きながら一眠り出来たら最高だろうに。
好きなのは、食べる事と、眠る事。
自分がオブライトで、まだ少年だった頃もそうだった。戦って戦って、守って戦って殺して、ただひたすらに剣を振るって『敵』を討って――そんな中で、二つの好きな事以外にも、心地良いモノが増えたのは、いつからだっただろう。
友人や仲間と過ごす時間が、いつしか好きになっていた。
守りたいモノばかりが多く増えて、きっとそんなに足を運ぶ事もないだろうと思っていた王都が、いつの間にか大切な人達が多くいる大事な場所にもなった。
――もし爵位や結婚を考えて必要になった場合、私が『後ろ盾』になろう。
当時、アヴェインのそばにいた人の中で、親族として貴族籍に迎え入れる事を提案してくれた優しい人もいた。ああ、そういえば前までは彼が大臣だったのだと、マリアはそんな事を思い出す。
彼の息子と娘は、今も元気にやっているのだろうか。隠居するほどの年齢でもないはずであるし、まだ政務には関わっている役職にいるのか――。
その時、ふわりと飛んだ色鮮やかな風船が目に留まった。
青い空を眺めていたマリアは、「あ」と気付いて思案を止めた。その声を聞いたロイドが視線を向けてくる中、風船が飛んでしまったと、どこからか今にも泣きそうな小さな女の子の声が耳に入った。
カチリ、と全思考がそちらに傾いた。
泣かしません、取り戻す、頭の中がそんな意識で染まったマリアは、反射的に行動へと移っていた。浮かび上がった風船へと狙いを定めて、助走を付ける距離を取るようにバックステップする。
「は? お前何をしている」
思わず足を止めたロイドが、そう質問してくるのも目に入らなかった。
風船までの距離を目測した。よく、イケると思った直後、マリアはロイドへ向かって一直線に走り出した。どこか動揺した様子を見せた彼の胸――ではなく、その直前で跳躍して、彼の頭に手を付いて『踏み台』にした。
「ちょいと失礼」
「ぐぇっ」
下から、珍しい感じのロイドの声が上がる。しかし、風船にしか意識が向いていないマリアは、ちっとも気に留めないでいた。
そのまま宙へ飛び出すと、風船から伸びている紐をパシリと掴んだ。そちらを見ていた人々が、あんぐりと口を上げて「すげー飛んでる……」とその姿を目で追う。
落下が始まり、マリアは舞い上がって膨らみそうになったスカート部分を慣れたように押さえた。いつもの『仕事用の特注の』メイド服じゃないからなぁと思いながら、それが大きく広がらないよう宙でくるっと回って着地する。
少し辺りをきょろきょろしてみると、風船の持ち主の女の子はすぐに見付かった。人混みが少し開けて、若い夫婦に連れられている涙目の小さな彼女が目に留まった。
「これ、あなたの?」
尋ねてみたら、案の定、女の子が愛らしい必死さで何度も頷いてきた。
「はい。もう手を離しちゃ駄目よ?」
「おねえさん、ありがとう!」
「あははは、いい笑顔だなぁ。お祭りを楽しんでおいで」
マリアは、数年前のリリーナがこれくらいだったなと思い出しながら、ふわふわな癖毛を持った女の子の頭を撫でた。恐縮した様子で礼を言ってきた両親の方にも、「大丈夫ですから」「良いお祭りを」と答えて見送った。
よし、これで一件落着だ。
そう満足して振り返ったところで、マリア「あ」と動きを止めた。そこには、押さえられた際の頭を少し下げた姿勢のまま、黒いオーラを放って小さく震えているロイドがいた。
「――この俺の頭を台にするとは、いい度胸をしているな」
「すみません。つい、咄嗟に」
地を這う声が聞こえた瞬間、マリアは胸の前で小さく手を挙げて謝った。
相手はジーンやグイードでもないのに、勝手に『頭を借りてしまった』のを後悔した。あの頃と違って、ロイドが他の友人達と同じくらい背が伸びていたものだから、ついつい借りてしまったのである。
荷物を落とさないでいてくれていたロイドが、ゆっくりと頭を起こした。少し乱れた頭に手をやって「躊躇なく踏み台にしやがって」と言いながら歩き出したところで、ふと、マリアの手を見て苛々とした雰囲気を消す。
「…………お前、ヴァンレットの頭も普通に撫でていたな」
何やら思うところがあるように、じっと見つめたままそう言われた。
唐突に話を振られたマリアは、視線を受け続けている手がなんとなく落ち着かなくなった。そろりと下ろしつつ、疑問に思う声で「はぁ、そうですね」と答える。
「なんというか、ご褒美に欲しいと言ってきかないものですから」
面倒を見ていた十代の部下だった頃の記憶が強いせいだろう。撫でてと言わんばかりに頭を差し出されると、つい断れなくてやってしまうのである。
そう考えていると、目の前まできたロイドが「ふむ――そうか」と思案気な声で呟いた。一旦そちらした目を、こちらに戻してきたかと思ったら、不意に背を屈めてきた。
「俺の頭も触ってみるか?」
え、なんで?
ほんの少し伸ばしただけで手が届きそうな距離に頭を寄せられて、マリアは戸惑った。
思い返せば、彼の頭をガッツリ触ってしまったのは先程が初めてだ。そう気付いた途端、何故か触れた際の男性にしては手触りのいい髪の感触が、温もりと共に指先に蘇ってきた。
「別に。お前が『世話』するのが好きなのかと思っただけだ」
「へ? いえ、とくにそういった趣味的なものはありませんが……」
言いながら、更にずいっと顔を寄せられた。かわすように一歩後退したら、彼が少しむっとしたように眉を顰めるのが見えた。
「なんで警戒するんだ」
そりゃ使用人の立ち場としては、総隊長相手だったら普通そういう反応になるぞ……。しかも、それが公爵の『ロイド・ファウスト』であるなら尚更だ。
「さっきも触っただろう」
「咄嗟です」
マリアは、そこについてはキッパリと答えた。
言い出した目的もよく分からないし、考えているとなんだか先程の小腹の空き感も戻ってきた。さっきからなんなんだ、と思わず素の表情で冷やかに見やったら、どこからかプツリと小さな音が聞こえた。
今の音、なんだ?
そう疑問を覚えて辺りをきょろきょろしようとした時、目の前にいたロイドが背を起こした。ゆらりと立って見下ろしてきた彼から、殺気とは違う圧力を感じて「え」と思う。
「じゃあ俺が触ってもいいか」
「なんですかその質問。嫌ですよ」
どうせ先程の仕返しに、髪をぐしゃぐしゃにでもしようとしているのだろう。女の子相手にも容赦がないとか、この負けず嫌いのドSが大人げないなと思う。
その時、マリアの腹が「ぐぅ」と音を立てた。
「………そういえば、この紙袋からチキンの匂いがしているな」
一気に緊張感も抜けたような声で、ロイドがそう言った。少し黙りこんだかと思ったら、気を取り直すように辺りを見やり「一本だけ先に食わせてやる、ついてこい」と告げて、顎をくいっと動かした。