四章 メイド、王宮へ行く(4)
「大変申し訳ございませんでした」
両足を揃えて正座したうえでそう謝り、マリアは床に額を押し付けた。
体裁的に謝罪は必要だろうと考えた結果だ。棒読みになってしまうのは仕方がない。
マリアの目の前には、同じように両足を揃えて、美しく背筋をピンと伸ばして床に正座するモルツがいた。
強烈なバックステップから、スピンを利かした回し蹴りだったにも関わらず、痣一つない端正な顔が相変わらず表情もなくこちらを見据えていて、非常に憎たらしい。
唯一報復してやれたのは、彼のぴっちりと固められた横の髪を、少しほつれさせてやった事ぐらいだろうか。
モルツの表情に変化はないが、瞳の奥からは、どこかスッキリとした達成感のようなものが見て取れた。
あの時、涼しげな顔で立ち上がり、僅かにずれた襟元のネクタイを締め直す姿を見た時は、本気で潰してやろうかとさえ思った。
というか、どんだけ頑丈な身体をしているんだよ、こいつは。
思えば、悪魔の化身のようなドS鬼畜少年上司に殴られても、僅かに唇を切るという軽傷だけであったのも有り得ない話だ。
暴走したグイードに吹き飛ばされ、壁に亀裂が入るぐらいの力で叩きつけられていた際も、背中に薄らと打ち身の痣をつけただけだったと記憶している。
開いたままの出入り口から、廊下を歩いていく数人の若い騎士が、こちらを見やって顔を見合わせていった。ヴァンレットとグイードは、しげしげと近くから二人の正座の様子を見降ろしており、ベルアーノは衝撃を受けたように固まったまま動かないでいる。
涼しげな若づくりの美形を正面から見つめるには冷静さが足りず、マリアは目頭を押さえて唸った。奴にもう一発食らわせてやりたい気持ちを、どうにか堪える。
自分の精神力が擦り切れるのを感じた。予想外の出来事の連続でストレスが祟ったとはいえ、これは失態だったとも反省している。
宰相やグイードの前で、こいつを殴り飛ばしてしまうとは……
目頭を押さえて顔を伏せている間に、マリアはどうにか感情と思考を整理しようとした。マリアは、アーバンド侯爵邸で使用人としての心構えや、身分の違いについて基本的な事は習わされていた。
ここは王宮であり、気を抜いてはいけないし、多くの目がある事を忘れてもいけない場所なのだ。
何かあればフォローするから心配ない、とアーバンド侯爵は笑顔で送り出してくれたが、彼の使用人として、評判を落とすような失敗はしたくない。
溜息を堪えると、喉の奥から「ぐぅ」と、再びくぐもった声がもれた。
少女にあるまじき声だったが、社交の場でモルツに真剣な表情で「お前は馬鹿ですか。いいでしょう、またぶって下さい」と言われ、周りの紳士淑女にドン引きされた記憶を思い出してしまったので、仕方がない。
「おーい、大丈夫か。メイドのお嬢ちゃん。つか、見事なバックスピンからの回し蹴りだったなぁ」
「構わないで下さい。ちょっと混乱が続いていまして……」
マリアは眉間の皺を解すように揉みこみながら、目も向けず片手だけを上げて、グイードを制した。
そうだ。こういう時こその宰相ではないか。
マリアは唐突に思いついて、書斎席でポカンと口を開けるベルアーノへ問うような眼差しを向けた。
視界の隅で、グイードが珍しく驚いたように口をつぐんだのが見えたが、多分、先程の使用人らしくない行動でも思い起こしたのだろうと、マリアは深く考えなかった。
「宰相様。この場合って不敬になりますでしょうか」
「い、いや、大丈夫だろう。公的な場ではないし……本人が許しているからな」
答えたベルアーノが、後半部分の台詞で遠くを見るような目をした。「アーバンド侯爵家の使用人にまで、こいつのアレが知られ……」と、彼は口の中でぼやいた。
既にアーバンド侯爵家の一同が知ってますよ、とは言えない雰囲気だ。
マリアは、続くベルアーノの心労を思って、ここは黙っている事にした。
リリーナのもとから出て、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
腹の空き具合にあまり変化はないようなので、そこまでの時間は経過していないように思われるが、何故か疲労感だけが凄まじい。
「お嬢ちゃん、アーバンド侯爵家のメイドなのか? 俺は銀色騎士団の第一師団長グイードってんだ。お嬢ちゃんの名前は?」
グイードがしゃがみ、目線の高さを合わせてそう訊いてきた。
彼も大概自由な人間だったな、とマリアは再度呆れてしまった。きちんとした自己紹介であれば、家名まで名乗るのが常識なのだが、初めて出会った時も、彼はオブライトに「俺は騎馬隊のグイードだ、よろしく!」と隣にやってきて、片思いの相手であるアリーシアについて、一方的に語り出したのだ。
そうか、彼は騎馬隊から王宮騎士団に昇進したのか。師団長とは、また随分な出世である。
マリアはそう思案しながら、自己紹介を行った。
「はぁ。私はアーバンド侯爵家の、リリーナ様付きのメイド、マリアと申します」
爽やかに笑う中年の笑顔を見て、先輩だから頼ってくれていいぞと言いながら、誰よりも逃げ足だけは速かった件をマリアは思い起こした。
死んだらアリーシアに愛を囁けない、というのは彼の逃げる際の常套句で、ドS鬼畜少年が魔王として降臨するたび「俺には無理」と、颯爽と後輩を身代わりに逃げていた。そのたび、オブライトとその友人が、高確率でひどい目に遭った。
いや、思い出すまい。早々にこの状況を脱すれば問題なしッ。
新たに精神力が削られそうな気配を予感し、マリアは普段の自分を思い出すように、ニッコリと愛想笑いを返した。女性には紳士的に優しいグイードも、同じようにニッコリと笑い返す。だてに昔から初恋の幼馴染を追い駆けていない、彼の良さである。
よし、と意気込んで、マリアは立ち上がった。
リボンの件をとっとと終わらせてしまおうと考えたのだが、モルツが床を見たまま動かない事に気付いて、疑問を覚えた。
「あの――」
問いかけようとして、ふと、オブライトの頃のように下の名前を呼ぶわけにはいかないだろうと気付かされ、咄嗟に口を閉じた。
つい最近、彼から自己紹介で家名を聞かされていたが、ここは、総隊長補佐様と呼ぶべきだろうか?
すると、マリアの沈黙の意味を目敏く察したらしいモルツが、こちらを見上げてきた。端正でキリリとした眉の下に、吟味するような真剣な鮮やかな青い瞳を見て、マリアは嫌な予感を覚えた。
今のモルツの姿勢が、オブライト時代の記憶と重なり、一つの既視感を引き起こさせた。
「足がいい具合に痺れてイイです。まさかこのような追加効果があるとは思いませんでした」
……そんな事だろうとは思ったけど、改めて口にされると、きっついな!
モルツは貴族であるので、勿論、床に直接膝を曲げて座るという姿勢には慣れていないだろう。昔も全く同じ事があり「放置プレイ最高です」と真面目な顔で断言されて、ドン引きしたものだ。
マリアはどうにか罵倒を飲み込んだが、しばらく彼独特の変態思考から離れていたこともあって、免疫が薄れていたせいか無意識に一歩後退してしまった。モルツの毒舌が、相手からの強い罵倒や反論を期待しての事だと知った時の衝撃は、忘れていない。
少女であるマリアを気遣うように、間に割って入ったグイードが「相変わらずだなぁ」と、モルツの腕を掴んで引き上げた。
「久々に見たぜ。お前が満足げに殴られて、その上そのスタイルで座ってるとこ」
「引き上げたら足を叩いてもらってもよろしいでしょうか」
「それは全力で断る。むしろお前の事は、そのままヴァンレットに押し付けるから」
「俺ですか? モルツは支えが必要な怪我もしていないように思えますが」
「お前も経験してみるといいですよ。今日は普段の説教よりもゾクゾクします」
普段説教を受けるスタイルにしているのか……深く考えてしまう前に、マリアは、ゆっくりと頭を振った。
三人の絡みは十六年前と変わらないものだったので、少し不思議な感じもした。当時グイードは騎馬隊の将軍だったから、同じ騎馬隊将軍のレイモンドが「さぼるなッ」と迎えに来る事が多かった事も覚えている。
ふとベルアーノを見やれば、完全に頭を抱えて机に突っ伏していた。
マリアは同情しつつも彼の方に歩み寄り、「あの、リボンの件ですが……」と気遣うような声で問い掛けた。ベルアーノが、げんなりしたように顔を上げて、ゆるゆると目線を合わせてきた。
「ああ、申請しておこう。陛下の事だからすぐに手配されるだろうと思うが、通知よりも君の方から侯爵様に伝えた方が早いな」
「分かりました。私の方からも、旦那様とアルバート様に報告させて頂きますわね」
マリアは、少女然とした態度を意識して、あざとい角度に首を傾げて微笑んだ。
ここに来てすっかり調子が崩れてしまっていたが、マリアは、今となっては可愛らしい少女メイドなのである。
モルツをヴァンレットに任せたグイードが、そのやりとりを観察するように眺めながら「うーん」首を傾げ、それから、気を取り直したように頭の後ろをガリガリとかいた。
「俺、なんでここに来たんだっけな。うん、戻るかな」
それは重症ですね、とぶり返すような失敗はしない。
マリアは、さっさと戻れ、と意思を込めて愛想笑いを浮かべた。ヴァンレットが口を開きかけたが、見越したようにベルアーノが「黙ってろ」と強く命令した。きょとんとしたながらも、言われた通り口をつぐむあたりがヴァンレットの単純なところだ。
苦労を積んでいるだけはあるなと、マリアは、薄くなったベルアーノの頭部を見やり、それから既にモルツから手を離しているヴァンレットを振り返った。
「私達も戻りましょう、ヴァンレット様」
そう声を掛けると、ヴァンレットが「うむ」と楽しそうに肯いた。何が面白かったのか分からず、何故だろうか、とマリアは首を捻った。
開かれたままの出入り口から、先にグイードが出て行き、それに続くようにマリアも歩き出したのだが、――出て行ったはずの彼が足早に戻って来た。
グイードは室内にさっと身を滑らせると、慣れたように手早く扉を閉めて、丁寧に鍵まで掛けた。
「「は?」」
間の抜けたマリアの声は、ベルアーノのものと重なった。
全く興味も湧き起こらないらしいモルツが、静観して場を見守る中、グイードが閉まった扉の前で、やりきった感じの顔で「ふぅ」と額の汗を袖で拭う仕草をした。そして、どうしようかと思案するように、明後日の方向へ視線を泳がせる。
ヴァンレットが「どうしたんですか」と、グイードに問い掛けた。グイードは、珍しく「あ~……」と言葉を濁して顎を撫でた。
ベルアーノが机に頬杖をつき、苛立ったように書類を指でトントンと叩いた。
「いい加減にしろ、お前ら。とっとと出てけ。私は忙しいんだぞ」
モルツが、視線だけを動かせてベルアーノを見て、それからグイードへと視線を戻した。
マリアは、このパターンには嫌な方向で見覚えがあり、知らず眉を寄せていた。同僚や先輩も平気で困らせていたグイードが、面倒だなと思案するように沈黙するような相手は、いつも限られていたような気がする。
そこで、マリアはふと、考え損ねていたモルツの役職について思い起こした。
彼は副官としては優秀である。現在の地位である国王陛下直属の銀色騎士団の総隊長補佐をしている件についても、全く疑問は覚えないのだが、何か大事な事を忘れているような気がする。
マリアが「なんだったかなぁ」と腕を組んで考えていると、モルツが銀縁眼鏡の横に触れて位置を正しながら、改めてグイードを見据えた。
「私も戻ろうかと思うのですが、扉は開けてはいけない感じでしょうか、グイード第一師団長?」
「う~ん……そうだな、ちょっと都合が悪い。あの様子だと、この面子でいる場合、もっと面倒になるというか」
歯切れの悪いグイードを見て、モルツの片眉が僅かに上がった。何かしら察したらしいが、確信が持てないでいるのか、モルツが口を開く様子はなかった。
「いや、俺がいる時点でもアウトなんだが。そのうえモルツもいて、火に油を注ぐヴァンレットまで揃ってるタイミングって、最近はなかったのになぁとか思ったり?」
「何を言っているんだ、お前は。そもそも用件があったのはヴァンレットくらいで、お前とモルツが勝手に入って来て私は迷惑しとる。お前の事だから、どうせ仕事をほったらかしにして出てきたんだろ? ほれ、さっさと戻って仕事してこいッ」
「うん、的を射てるな、さすが宰相様だぜ。それがさぁ、王宮に戻ってきたら、まずは総隊長から頼まれていた報告が一番の仕事だったって事、俺、つい忘れちまってたんだよなぁ」
総隊長、と聞いた瞬間に、ベルアーノが面白いぐらい硬直したのが分かった。
グイードが首の後ろを撫で、気だるげにモルツへと視線を寄越した。
「当然、お前も主人のおつかいの途中なんだろ?」
「はい。バルツファー師団長への言伝を頼まれています」
「はぁ~、こんな不幸な偶然ってのも、重なると嫌になるな。俺、ばっちり姿を見られたような気がすんだけど、こう、すげぇ睨まれたうえ殺気を向けられて、条件反射でここに戻ってきちまったんだよなぁ。――ベルアーノ、先に謝っとく。ごめんね?」
グイードがベルアーノを見て、開き直ったようにへらりと笑い、全く悪びれた様子もなく片手を上げた。
「ば、馬鹿野郎! さっさと自首して来い! モルツとヴァンレットは続き部屋に隠すから、お前一人でとりあえず先に出ろ、今すぐだ! 逃げるのはお得意なもんだろ!?」
ベルアーノが机を両手で叩き、勢いのまま立ち上がってグイードを叱りつけた。
「え~、俺もいい歳したおっさんよ? 逃げられないなら他の生贄を用意して逃げられる確率を上げるまでだって」
爽やかな笑顔で言い切り、グイードがベルアーノに向かって親指を立てて見せた。ベルアーノが「相変わらず考える事がゲスだッ」と沈痛な面持ちで言い、崩れ落ちるように椅子に腰を落として、頭を抱えた。
モルツは昔から、忠誠を誓っている男がいた。変態でドMな彼が主人と呼ぶに相応しい男は、残念な事に一人しか想像がつかない。
そして、グイードが本気で逃げに入るような反応を見せる相手も、その一人しかいなかった。
マリアは遅れて理解し、「まさか」と目を瞠った。その人物の名前を、古い記憶から掘り起こそうとした時、にわかに扉の向こうが騒がしくなり――
ひゅんッ、と風を切る音が耳についた。
聞き慣れた人外じみた斬撃音に、マリアは音の位置から軌道を呼んで、思わず反射的に安全な位置に素早く屈んだ。涼しげな表情でモルツが背を反らせ、グイードが「おっと」とぼやいてひらりと身をかわし、ヴァンレットが軽い足取りで壁際へ後退した。
その一瞬の後、破壊音と共に爆風が室内に吹き込んだ。
切り刻まれた重厚な扉の残骸と木屑が視界を覆い、マリアは「ひょ!?」と色気もない悲鳴を上げて頭を庇った。椅子から転げ落ちたベルアーノが「どわぁ!?」と叫ぶ。
数秒後に静けさが戻った室内に、コツ、と軍靴が床を踏みしめる音がした。
マリアは、恐る恐る顔を上げた。晴れ始めた視界の向こうで、すっかり扉が消失した出入り口に一人の男が立っていた。男は剣を鞘に収め、衝撃の余韻に揺らぐ風が自身の前髪を揺らす様を、長い睫毛を伏せながら鬱陶しそうに見やっている。
すらりとしつつも騎士として鍛えられた身体、死神を思わせる全身漆黒色をした特注の軍服。
男は、ほとんど黒にも見える重々しい青みかかった髪色をしていた。ハッキリとした切れ長の瞳は、深淵を覗き込んだような深い蒼で、端正な顔立ちは息を呑むほどに美しい。
ゆっくりとこちらを見据えた美貌の男の眼差しは、露骨な表情を作っていないにも関わらず、それだけで部屋の空気が五度も下がるような威圧感を持っていた。
「俺への用事を遅らせるとは、余程死にたいと見える」
骨の髄に直接響くような殺気を含んだ低い声は、嗤うような響きで地面を這った。ゆらりと引き上がる形のいい唇には怪しい色気が漂い、すっかり幼さの消え失せた顔で、彼はグイードの姿を認めるなり冷たく微笑む。
記憶にある幼い顔や、華奢だった細い身体とはがらりと変わって大人になっていたが、マリアは、彼が誰なのか一目で見当がついた。
たった十六歳にして師団長に就任した、真正のドSにして、冗談の通じない鬼畜野郎。国で最凶最悪の元少年師団長にして、そして恐らくは現在、魔王の二つ名に相応しい軍のトップに君臨する――
「お~、ロイド総隊長じゃないですか」
やべぇなという表情を浮かべながら、グイードがぎこちなく笑いかけた瞬間、一陣の風が起こり、部屋に甲高い金属音が上がった。
いつ抜刀したのかも分からない速度で剣を構えた男が、一瞬にして距離を詰めたのだ。
グイードが若干焦りを見せながらも、男が真っ直ぐ突いてきた剣先を自身の剣で受けとめたまま、額に緊張の汗を浮かべた。




