二十六章 遊びたい大人達(1)
アーバンド侯爵家令嬢リリーナは、大変愛らしい十歳の令嬢である。
長い蜂蜜色の髪はふわふわとしており、純真無垢さのある大きな藍色の瞳。まだ女性としての線を描いていない肢体はほっそりとしていて、つい先程湯浴みを済ませた肌からは、とてもいい香りがしている。
新しい就寝衣装は、王都でもっとも人気のあるジュフィー・ランの新作だ。裾元の柔らかな生地のフリルと、デザイン良く配置されたリボンをリリーナも気に入っていた。
就寝前の支度をしている間、みんなに見て欲しくて、使用人達の間をパタパタと走り回っていたほどだ。その際、後ろから十五歳には見えない美少女――ではなく美少年の侍従サリーが、心配そうに同じくパタパタと愛らしく追い駆けていた。
うっとりしていたアルバートを、途中ドン引きしたマシューが引っ張って、早めに夜会へと出かけていったのは数十分前の事である。
今、マリア達は、いつもの就寝時間になっているのに、なかなか寝付かないでいるリリーナの寝室にいた。彼女は大きな寝室のベッドでごろごろとしていて、そこに座っているサリーも困ったように微笑んでいた。
「お嬢様。そろそろお眠りになられないと、明日寝坊してしまいますわよ」
仕事の手が空いて居座っている一部のメイド達が、微笑ましげに言う。普通の使用人なら許されない事だが、マリアもベッドに座って、いつものようにリリーナの相手となっていた。片足を上げて、スカートを押さえて小さな主人を見守っている。
リリーナが、ペタリと座ってクッションを抱き締めた。まるで姉を見るように、物心付いた頃から一緒に過ごしてきたメイド達へ目を向ける。
「まだ眠くないのよ」
そう答えた彼女の大きな瞳は、若干眠そうにもしていた。
ただただ、本人が自分の意思で眠りたくないとしているらしい。マリア達は、どういう事なんだろうと目を合わせた。
「ふふっ、お帰りになってから少し眠っていたせいでしょうか」
そう口にした若いメイドに視線を寄越されて、カレンが「どうしたものかしらね」と助言を求めて目を向ける。そこにいたマーガレットが、少し考えてから口を開いた。
「この際ですから、護衛のサリーをそのまま一緒に寝かせてしまいましょうか?」
いつでもおそばを離れず、――昔からリリーナのためだけの騎士として、必要であればそうしてきた。主人である彼女が寂しがれば、マリアと三人で眠った日だってある。
とはいえ、年頃になってからは控えている事だ。十歳とはいえ令嬢であり、淑女である。そう分かって、サリーが弱ったような表情を浮かべた。
「あの、えっと、エレナ侍女長も反対すると思うけど……」
そもそも普通だったら、年頃の娘の部屋に異性を置いたりはしない。
絶対なる信頼。家族だからなぁとマリアは思いながらも、弱々しく発言する使用人相棒に助言出来ないでいた。あまりにも愛らしいリリーナを目に焼き付けようと、ある意味そちらに集中して真剣に見つめていたからだ。
「えぇと、僕がそうするなら、マリアも一緒ならいいのかな、とか……?」
「駄目よ。それだと、私も添い寝しないといけないわ」
カレンが、間髪入れず凛々しい表情で、サリーからの妥協案を却下した。
「そもそも、寝ているお嬢様を、馬鹿力のマリアがぎゅっとしたら大変よ」
「そうね、私としてもカレンの意見には賛成だわ」
「マーガレットお姉様。二人と一緒に今のマリアを残していくのも心配ですわよねぇ」
他のメイド達が、先輩であるカレンとマーガレットに賛同して、どうしたものかしらと話し出す。
その声を聞いて、マリアは「え」と信じられない目を向けた。
「あの、私への信頼がなさすぎでは……」
「だって、マリアったらサリーも襲いそ――」
「カレンお姉様っ、お嬢様の前ですから!」
言いながら、若いメイドの一人がカレンの口を押さえた。当のリリーナは、「一緒に就寝する?」とサリーに尋ねていて、聞こえていない様子だった。
問われたサリーが、女の子みたいな美しい顔で、弱ったようにふんわりと微笑む。それから、リリーナの頭を優しく撫でた。
「お嬢様、僕はご一緒する事が出来ません。眠るまでの間、ご本を読んであげる事は出来ますよ」
それなら是非とも便乗したい。そばで眺める係りをさせてくれ。
そう真剣に主張しようとしたマリアは、にこやかなマーガレットに口を塞がれた。抱き締めるようにしている彼女の胸に、頭がぎゅっぎゅっと押し当てられている。
すると、当のリリーナが「うーん……」と悩ましげに目を落とした。マリア達が「あれ? もしや」と気付く中、ベッドのそばに立っていたカレンも「もしかして」と口にする。
同じく察した若いメイドの中で、一人が少し腰を屈めて彼女に尋ねた。
「お嬢様、もしかして『寝たくない』のですか?」
「うん……」
「怖い夢でも見られました?」
マーガレットが、ひとまずは落ち着いた頃愛かと、マリアから手を離してそう問い掛ける。そうしたら、リリーナが「ううん」と首を小さく左右に振ってこう言った。
「服も嬉しいんだけど、マリア達ともっとお話したい気分なの。だから寝たくないのよ」
ああ、なるほど、と室内にいる唯一の男性であるサリーと、メイド達が困ったように微笑む。その中で、マリアだけが空色の目を見開いてぷるぷる震えていた。
なんって、可愛い……!!
※※※
「――というのがあったのよ!」
就寝時刻を迎えて消灯された屋敷の中で、一階サロンにはまだ光が溢れていた。
アンティーク風ソファの一つに腰かけていたマリアの隣には、悟ったような目をした衛兵ガーナットがいる。
「…………なるほど。だからさっきから一人で騒がしいわけだ」
「ニックが先に、ギースを連れて出発したくらいだからな」
残りの仕込み作業の途中、一旦休憩に入っていたガスパーが、そう相槌を打ちながら移動して二人の間にどかりと腰を降ろした。大きな身体でソファのクッションが揺れて、マリアは軽くはねてしまう。
「ガスパーさん、なんで私とガーナットの間に座ったのよ?」
「たっぷり空いてたんだから、問題ねぇだろ」
「ありがとうございます料理長、めっちゃ助かりました」
答えたガーナットが、ようやく珈琲を口にした。話を折る事もなく、ずっとマシンガントークを真面目に聞いてあげていたから、すっかり冷めてしまっている。
勤務時間を終えた彼は、珍しく紳士衣装に身を包んでいた。先程出たギースとニックも同じで、他の日中勤務組のメイド達を見送ったエレナ侍女長が、最後にアーバンド侯爵の襟元を整えているところである。
アーバンド侯爵が、色素の薄い藍色の目を向けた。流し向けられた際の眼差しは、やはりどこか若々しい頃の面影が残っていて子供っぽく、柔らかい印象がある。
「ガーナットは優しいねぇ」
「――楽しそうに『妹』が話しているのを、中断させる『兄』がいますか」
口許にちょっと笑みを浮かべて、ガーナットがそう答える。アーバンド侯爵はにっこりと微笑むと、続いてまだまだ元気なマリアに声を掛けた。
「ふふっ、マリアも少し遊びに行くかい?」
「行きませんわ旦那様。私、ガスパーさんのお手伝いをして、美味しいココアをもらったら明日のために寝ます!」
朝一番に顔を見せて、とリリーナから嬉しい約束をもらったのだ。マリアとサリーも、明日は起床係りのメイド達と一緒に寝室へ入れる事になっていた。
すると、ガーナットが顔を向けて尋ねてきた。
「ココアって、マシュマロ入りの?」
「そうよ」
「笑顔が誇らしげだ……。マシューがお土産にアレを買ってきたのって、このためか。まぁマークも喜ぶだろうな~」
彼は思い出すように言うと、珈琲カップに口を付ける。
普段は何かとタダ酒も好むというのに、『夜の番』の時は悔しがりもせず留守番に徹する。たまにマリア達が眠りから目覚めたりすると、マークは窓の下に腰を降ろして喋り相手になったりした。
そうマリアが思い返していると、執事長フォレスが戻ってきた。つい先程、夜の衛兵組の方へ行ったばかりで、終業時間を迎えておやすみと挨拶を言い残されていたから意外だった。
料理長ガスパーが、「どうしたよ?」と声を掛ける。
「他にも『引き継ぎ』か?」
「いいえ。こちらを旦那様に」
言いながら、フォレスが手に持っていたものを差し出した。侍女長エレナが作業を終えて見守る中、アーバンド侯爵が手を伸ばして受け取る。
「おや。こんな時間なのに手紙が届いたね――しかも珍しい相手だ」
「届けがあったのは『裏』のルートです」
先に宛名を確認したフォレスの報告の声には、仕事時のような緊張感はない。
手紙を読み進めても、アーバンド侯爵の気配にも変化はなかった。どうやら仕事関係ではないらしい。マリアは、ガスパー達と様子を見守りながら首を傾げる。
「アトライダー侯爵からの個人的な手紙のようだ」
ややあってから、アーバンド侯爵が面白そうに口にした。
マリアは、すぐに反応して「えっ」と声を上げてしまった。アトライダー侯爵といえば、ジェラン・アトライダー、――つまりジーンだ。そう考えていると、ガーナットとガスパーが「何、知り合いか?」と目を向けてくる。
「旦那様、彼は『表』の人間でしょう。個人的な手紙を頂くほどのご交友は、持っていなかったと把握しておりますが?」
フォレスがそっと眉を顰めた。アーバンド侯爵に指で呼ばれて、手紙の文面を覗くなり、まとっていた非友好的な雰囲気を消す。
「――マリアさんの親友、と書かれてありますね」
「面白いねぇ、いつの間にか仲良しみたいだよ」
「旦那様、ここに『ジーンとしてなら来てもいいか』と書いてありますが」
「あはははは、それは駄目に決まっているだろう何を考えているのだろうねあの当主は」
珍しく笑顔のまま周りの空気を五度下げて、アーバンド侯爵が一呼吸で『楽しげな風を装って』言い切った。
続いて目を向けられ、マリアはドキリとした。彼はいつもの温かな雰囲気に戻っている。というか、ジーンの奴は一体どんな用件をしたためてきたんだ……?
「…………えぇと、あの……?」
「彼、『親友のマリア』を午前中、祭りに誘いたいそうだ」
そうアーバンド侯爵に告げられて、マリアは思わず「はぁ?」と素の口調で言った。
すると、伝えたからいいよねと言わんばかりに、彼がにっこりと笑ってエレナ侍女長を見た。周りにいる面々も「なんだそんな事か」とリラックス姿勢に戻る。
その中で、真っ先にガスパーがこう訊いた。
「それで、どうします旦那様? 王宮には後で行かせる感じですかね」
「それなら、俺が近くまで馬車で送りますよ」
ガーナットが、空にした珈琲カップを戻してそう言った。するとアーバンド侯爵が、横顔で「よろしい」と答えて言葉を続ける。
「アトライダー侯爵も、少し遊んだら友人達と一緒に王宮へ戻る、と書いてあるから戻りは問題なさそうだ――エレナ、ワンピースがあっただろう?」
「はい、旦那様が初秋用にと買われたものがございますわ。お嬢様が出発された後に着替えさせて、メイド服は持たせようと思います」
え、ちょっと待て。
目の前で次々と立てられる明日の予定を聞いて、マリアは慌てた。
手紙にある『親友』という言葉に対して、疑問を思う訳でもなくアーバンド侯爵は受け入れている様子だ。当たり前のように手帳へ書きつけていくフォレスも信じられなくて、立ち上がると声を上げた。
「待ってください! 午前中をいきなり休暇にするのもどうかと――」
「マリアさん、お屋敷内の勤務ではありませんから、変更も問題ありませんよ。個人的な交友に関しても自由です」
それとも何か他に問題でも、とフォレスが確認してくる。相変わらず淡々とした無表情ではあるものの、実に不思議がっているのが付き合いから見て取れた。
他のメンバーも、一体何が駄目なのかという目で返答を待っている。いやそうじゃなくて、とマリアは口下手ながら懸命になって言葉を考えた。
「あの、その……『親友』相手が侯爵家の当主なのに……?」
「あなたの事です、年齢身分問わず可能性はあるだろうと思っております」
「えぇと、でも、大臣がわざわざ『裏』のルート使って、私用の手紙を至急で寄越してくるとか――」
そこを追及されたとしたらそれはそれで面倒なのに、しどろもどろに『疑いを持とう』と自ら推してしまう。
するとガスパーが、「普通だろ?」と口を挟んできた。
「坊っちゃんのご友人は、いつもそっちから『今夜ビリヤードしようぜ』と呼んでくるぜ」
「マジかよ」
「おぅ、マジだ。んでもってアルバート様は『ちょっと叩き潰してくる』と言って、素敵な笑顔で外出される」
それはそれで怖いな……。
長い付き合いがある命知らずなのだろう。恐らくは、生命が保証されている立ち場であるとは推測されるのだけれど……何せ彼の場合、ソレに『理由も根拠もない』のだから。
疑問いっぱいで考えていたマリアは、アーバンド侯爵ににっこりと笑いかけられて「あ」と我に返った。言葉使いの件で見ていた侍女長エレナが、ガスパーにひらひらと手を振られて、今だけですよと答えるように小さく息を吐く。
「王都のお祭りは色々とあるけれど、マリアはどれも初めてだろう?」
「うっ、旦那様、その、えっ……と。まぁ、そう、ですね……?」
昔と変わらない嬉しそうな笑みを向けられて、マリアは困ってしまった。前世では何度も経験していて、巡回組に加えられた事だってあるんですよ、なんて言えない。
――ふふっ、どうして我が儘も言って欲しいって? だって君はもう『僕』の家族で娘じゃないか。
まるで子供みたいな人。
そう、慣れない屋敷暮らしが始まった頃を思い出していたら、あの頃より十年ほど歳を重ねたアーバンド侯爵が「なら楽しんでおいで」と言ってきた。
「区単位のものではあるけれど、地方に比べれば大きな祭りだからね。美味しいものだっていっぱいある」
そのまま歩み寄ってきて、彼にぐりぐりと頭を撫でられた。さぁ行こうかと目で促されたガーナットが、立ち上がってマリアのリボンの形を整え直す。
「それなら、夜更かしはほどほどにな。――あ、エレナ侍女長『おやすみなさい』」
歩き出したガーナットが、少し年上の姉に言うような調子でそう挨拶した。彼女が小さく息をこぼして、それから普段の厳しい侍女長の表情をほんの少し和らげた。
「あなたも、ほどほどにギースを連れ帰ってくださいね」
「ニックとまとめて、俺が面倒をみてやりますよ」
頼もしく片手を振って玄関に向かう。見送りなのか、これで本当にお休みするのか、執事長フォレスがその後に続いていった。
マリアは、いまだ慣れない様子で頭に手をやった。早めに寝ろと言われても、ギースが抜けている状態で、ガスパーの手伝いを早く終わらせるには人数がいる。
そう考えているそのそばで、ガスパーがソファから立ち上がった。
「エレナ嬢ちゃん、今日も一日お疲れ。よく眠れるように紅茶でも飲むか?」
「――全く、あなたにとって、わたくしはいつまでも『お嬢ちゃん』なのですね」
ちょっと困ったようにエレナが微笑む。けれど彼女は叱るわけでもなく、スカートの前で品よく指先を重ね合わせたまま、どこか物寂しげにこう答えた。
「そうですわね。それなら少しだけ、ご一緒してくださる?」
その時、執事長フォレスが戻ってきて、マリアはびっくりしてしまった。彼は右手一つで、庭師マークの襟首を持ってぶらさげた状態で向かってくる。
「おいマリア、明日の午前中は祭りに参加するって本当か? ほとんどサボりもせずイベントにも興味を示さず、ついでに言うとデートといった一切にも夢さえ抱かないお前が!?」
「…………どう説明されたのかは知らないが、友人に誘われただけだぞ」
というか、とマリアは気付いて少女らしく口調を直す。
「マークは、先に今の自分の状況に対して、何か言うべきじゃないのかしら……?」
「無理。執事長の無言の圧力で、次は拳がくるって予感がひしひしとする」
それは事実なのか、フォレスは真面目な表情のまま黙っている。
かえってそれが怖くて、普段から拳骨を落とされている組の一人であるマリアは、マークと揃って沈黙してしまった。ガスパーに続いて歩き出したエレナが、「行きますよ」と二人に声を掛けた。