四章 メイド、王宮へ行く(3)
マリアは、見慣れた中央回廊を、大柄なヴァンレットと並んで歩いた。
そこは城に勤める者が多く行き交う場所で、余分な装飾品などは一切ない大理石の広い廊下となっていた。
基本的にメイドは髪を束ねているのが常識で、しかも大きなリボンの他、特注のメイド服も目立つらしい。擦り違う若い軍人達の物珍しいといわんばかりの視線が突き刺さり、マリアはなんだか居心地が悪かった。
幼少に見られているのか、多くの軍人に紛れながら仕事に向かうメイド達も、マリアの方を見て「あら、可愛らしい」と微笑ましげに囁き合っていた。知り合いに会うのではないのかという気掛かりもあるが、女性に暖かな視線を向けられるのも慣れない。
十六年も経てば内部の人員がかなり入れ替っているのは当然で、駆り出される若い軍人達をしばらく観察し、ようやく半分ほどの緊張感が消えてくれた。
紺色の軍服の他、白を基盤とした軍服姿の青年達もあった。若い彼らは全て貴族位であり、平均的な戦力レベルをクリアした王妃直属の白百合騎士団だ。
白百合騎士団は、後宮と中央棟を管轄した小規模兵の第三戦力部隊軍であり、王妃が唯一直接動かせる戦力となっていた。
王城に危機があった場合、王妃の警護と避難を優先にし、残りのメンバーがサポート戦力に回る。基本的に細身でも扱える弓を鍛えられているのだと、マリアはそう聞いていた。
「そういえば、黒騎士部隊の軍旗が見られなかったのですが、何か理由があるのですか?」
ふと、先程の疑問を思い出して問い掛けてみた。
ヴァンレッドが不思議そうにこちらを見やって、「うむ」と緊張感のない顔で肯く。
「十六年前に隊長席が空白になり、その一年後に解散された。戦争のために設立された部隊であったし、前線戦力は、中央軍を本格的に強化するため合併されたんだ。精鋭軍である銀色騎士団が、前線型と後方型に師団を組み分けている感じだが――ああ、難しい話しだったか? うん、すまない」
語る横顔は、昨日の天気を話すようで深い思い入れも感じさせず、言葉詰まりもなく説明は的確で流暢でもある。軍事に関しては普通に話せるのに、分からない男だな、とマリアは思った。
黒騎士部隊は、隊長が【黒騎士】という称号をもらうしきたりだった。戦争が終わったとはいえ、市民のために戦う部隊が残っていない、というのは少し寂しい。
恐らく、その役割は民間警備隊に引き継がれたのだろうとは推測出来るけれど。
市民から支持があったとはいえ、特攻でもある黒騎士部隊は、一部の身分高い貴族からは「野蛮だ」とも嫌われていた。
騎士としての教育も受けていない傭兵出身が圧倒的に多く、常に激戦区に送られて生きるか死ぬかのやりとりで、どの部隊の人間よりも多く敵兵を殺し続けていたから「血濡れ騎士」と揶揄する貴族もあった。
約二十年も通っているとだけあって、さすがにもう城内の道順を把握しているヴァンレットの案内のもと、マリアは宰相ベルアーノの執務室へ辿り着いた。
ヴァンレットが声を掛けながら扉をノックすると、内側から「入れ」と少し驚いたような声が上がった。
広い執務室が開けて、マリアは、初めて宰相の顔を目に止めた。
オブライト時代に、偶然にも遭遇した事がなかったその人は、銀色の髪を持った壮年の男性だった。少し頭髪は薄いものの、苦労が見て取れる平凡な顔立ちは、若き日に遠くから見掛けたことのある、似たような男をマリアに彷彿とさせた。
多分、気のせいだろう。マリアは、その可能性を否定した。
オブライトが周りの騒ぎに巻き込まれていた時、真っすぐこちらを見ていた長い丈の服で身を整えた珍しい銀髪の男は、もっと若かったはずだ。宰相は歳で銀髪になっているだけであろうし、十六年経ってもあまり変わらないヴァンレットやモルツの件があるので、きっと別人だろう。
ベルアーノは書斎席に腰かけていて、書類作業にあたっていたようだった。彼はマリアをちらりと見、それから、警戒するような疑い深い眼差しをヴァンレットへと向けて、露骨に「関わりたくないな」と言わんばかりに口角を引き攣らせた。
ヴァンレットで苦労しているのだろうな。マリアは、心の中で合掌した。
当の本人はそれを知らない呑気な顔で、「こちらは宰相のベルアーノ様だ」とマリアに紹介した。
「宰相を務めているベルアーノ・チェトスだ」
「アーバンド侯爵家、リリーナ様付きのメイド、マリアと申します」
お互い微妙な心情のまま、流れに乗る形で自己紹介をした。
ベルアーノが、ヴァンレットに視線を戻して顔を顰めた。
「それにしても、珍しいな、ヴァンレット。お前の方から来るなんて……殿下に何かあったのか?」
「殿下が、婚約者であるリリーナ嬢と、同じリボンが欲しいとおっしゃっておりまして」
「リボン?」
ベルアーノの眉が、更に顰められる。
ヴァンレットに任せておけないので、マリアは、早々に仕事を終わらせるため手短に事情を説明した。自分が身に付けているリボンを指して「これです」と教えると、ベルアーノが身を乗り出すようにそれを見入った。
「ふむ。数は少ないが、取り扱っている店は見た事がある。とはいえ、恐らく特注になるだろうな」
「あの、勝手に訪ねてしまって申し訳ございませんでした。私としては、一度旦那様にお話を通してから、と考えておりましたのですが、こちらのヴァンレット様が……」
言いながら、思わず問題児をちらりと見てしまう。
分かっている、というようにベルアーノが吐息をこぼして「大丈夫だ」と答えた。
広い執務室は、書棚の他に飾り棚もあった。そこには表彰された勲章なども多々収められており、ベルアーノの優秀さが形としても主張されているようだった。国王陛下の私室にも自慢の優勝旗などが展示されていたので、そうする事が常識なのかもしれない。
マリアがそう思案していると、ベルアーノが深い溜息をついて頭を抱えるように机に両肘を置いた。
ヴァンレットが、可愛くもない男の癖にきょとんとした様子で、ゆっくりと首を右へと傾げた。
「いつもの下痢ですか? 宰相様」
「阿呆かッ、私がいつも下しているという誤解を招くような表現はやめろ! 女性の前で何て事を言うんだお前はッ。私は、お前らのせいでいつも頭を悩ませとるんだ!」
途端に顔を赤くさせ、ベルアーノが机を叩いてまくし立てた。彼はマリアを見て我に返ると、取り繕うように咳払いを一つした。
マリアは、お前ら、という表現がものすごく気になった。
十六年も経っているので、まさかあの頃の惨事が続いているとは考えたくない。オブライト時代と違って、案内された道中は一つの騒ぎも見られなかったのだから。
「すまなかったな、メイド殿。今日の朝から色々とあってな……」
「はぁ、別に構いません。宰相様も、苦労されているんですね」
思わず、素で労いの言葉がこぼれた。
やや戸惑うように顔を上げたベルアーノに、マリアは言葉使いがなっていなかったと気付いて、すぐさま持ち前の愛想笑いを作った。
「申し訳ございません、宰相様。なんでもございませんわ」
「腹を冷やして寝たら下すそうですよ、宰相様。最近買った腹巻きが余っているので、一つ譲りましょうか?」
「今はその話をしていませんわ、ヴァンレット様。少し黙っていて下さいな」
空気を読めと視線で睨みつけ、ひとまず黙らせておいた。ヴァンレットは特に気にした様子もなく「そうか。知っていたか」と勝手に肯いた。
ベルアーノが、まるで頭痛を緩和させるかのようにこめ髪を揉んだ。
今朝から仕事が立て込んでいるのだろう。机の上には高さのある書類の束が三山あり、中央には細かい字が途中まで書かれた用紙もあった。
数秒の思案の後、ベルアーノが目の前を広げて、引き出しから別の紙を引っ張り出した。今マリア達から聞かされた案件をまとめるべく、紙の上にペンを走らせたが、数秒もしないうちにベルアーノの手が止まった。
「殿下は、リリーナ様と同じ瞳の色のリボンをご所望しておりました」
「ん? そうか、すまないな」
ベルアーノが、再びペンを走らせた。
「そういえば、君達は仲が良いのか? 名前で呼び合っているようだが」
手元に目を落としたまま、ベルアーノが尋ねた。
今世で顔を会わせたのは、これが三回目であるので、マリアは「いいえ」と即答した。
「なぜそんな事を尋ねたのですか?」
「大抵の者はウォスカーと呼ぶからな。ヴァンレットの名は地方鈍りが入っているから、言い辛いだろう。珍しい名だしな」
……そうか? ヴァンレットって、覚えやすいような気がするけどなぁ。
ベルアーノがこちらを見ていないのをいい事に、マリアは腕を組んで、眉を寄せながら少しばかり考えた。
「うーん、言われてもピンとこないのですが……。ああ、でも珍しいからこそ、覚えやすいような気もしませんか、宰相様? 私は人の名前を覚えるのが苦手なので、ちょうど良いと思います」
関わりがほとんどない人間の顔と名前を覚える方が難しい。そもそも、家名だけでなく、身分や関係図などの個人情報まで頭に叩き込める貴族がすごいと思う。
きっと、頭の作りが違うのだな。マリアは腕を組んでそう思案していたのだが、ベルアーノがどこか唖然としたようにこちらを見ている事に気付いた。
「君は変わった子だな」
「そうですかね?」
「……いや、ただのぼんやりとした子、か?」
そういえば、国王陛下であるアヴェインにも似たような事を言われたような気がする。詳細は覚えていないが、腹が立つだとか、緊張感がないだとか、そういう内容だったような――
そこでふと、扉の向こうの騒がしさに気付いて、マリアは扉の方を振り返った。
気のせいだろうか。外から聞こえる男の声は聞き覚えがあり、落ち着いた時間が長く続かないという懐かしいような、残念なような既視感が込み上げた。
すると、ベルアーノがゆっくりと頭を抱えて「朝からどいつもこいつも……あいつまで来るのか」と呻いた。
ベルアーノの返答も求めず、前触れもなく扉が開かれた。
力任せて勢い良く開放された扉が、壁にあたってひどい音を上げたが、さすがは宰相の執務室の頑丈で高価な扉だ。一度だけバウンドしたが、壊れる事もなく、大きく開かれた状態で停止した。
「聞いてくれッ、ルルーシアちゃんが反抗期で『パパ以外と結婚する』っていうんだよぉぉぉおおおおおお!」
飛び込んできた男は、焦げ茶色の癖のある短髪をした、四十代後半ぐらいの騎士だった。紺色の隊服には高い位を示す装飾品とバッジが付いており、先程まで公務でも行っていたのか、隊長格を示す正装用のマントも付けていた。
むさくるしい大の男が泣き喚く姿ほど、見苦しいものはない。
男はマリア達の姿も眼中にないようで、一直線にベルアーノの机に向かうと「誰も俺の相談を聞いてくれないんだ心の友よ!」と、その嘆きを切々と訴え始めた。
「うちの可愛い可愛いルルーシアちゃんに、色目を使ってるアローのところの次男坊! きっとあいつのせいに違いない。まだ九歳児だというのに恐ろしいッ。昨日から探し回っていても会わないなんておかしいだろう!? 物理的に話し合おうと思ったのに、こんなにも捕まらないなんてッ!」
ベルアーノが、机に手を付いた男に心底蔑むような眼差しを向けた。彼は疲労しきった顔を持ち上げて、「おい」と口を開いた。
「何の根拠があって、アローの次男坊という話しになるんだ。いいか、アローは視察だと一週間前に教えたはずだろう。というか物理的の時点で奇襲だぞ。ルルーシアは可愛いが聡い子だろう、恋の相手だってきちんと選――」
「そうだよなぁ、うちのルルーシアちゃんが一番可愛いよなぁ! 我が嫁アリーシアちゃんと瓜二つでさぁ、ツンじゃない嫁って感じが、また堪らなくてさぁ」
男は一方的に惚気話しを始めた。一見すると、一体何をしに来たんだと思われるかもしれないが、彼が人様の執務室に飛び込み、勝手に解釈して喜怒哀楽を爆発させるのは日常茶飯事だった。
まさかグイードが来るとは……
マリアは、目頭を揉みほぐす動作で苦み潰した表情を隠した。どうやら、惚れこんで追い駆け続けていた五歳年下の幼馴染アリーシアとは、無事に結婚出来たらしい。そう推測しつつも、目出度いと祝うような心境よりも、全く変わっていないその性格に強い呆れを覚えた。
グイードは子爵家の長男で、交友関係が広く実力のある男だった。
しかし、彼は仕事よりも恋に生きる男だった。ただの恋煩いであれば可愛いのだが、彼は思いこみも激しければ、斜め上に想像力も豊かだという脳筋馬鹿だった。
彼の行動理由は全て初恋の女性が起爆剤となっており、それが絡むと途端に周りが見えなくなるという欠点がある。
火事場の馬鹿力という事があるが、彼は、まさにその典型的なタイプだ。暴走すると、男数人でも持ち上げる事が難しいビリヤード台を担いで投げ捨てるぐらいに、筋力も威力も跳ね上がった。
噂に聞いていたアリーシアは、幼馴染であるグイードに優しくなく、甘い顔一つみせない女とされていたが、何故かグイードは彼女に夢中だった。
戦場下で彼女が風邪で寝込んでいると聞くなり、敵軍の中央で落馬した際「弱ってるアリーシアちゃんに頼られるチャンスなんだ! 邪魔するな!」と、敵の馬を引っ掴んでは放り投げた、という逸話もある。
業務をしているよりも赴くまま自分の想いを語っている時間の方が長く、話し聞かせる相手の仕事を平気で妨害する。
彼以上にとんでもない性格をした奴らが多かったので、それに比べれば若干可愛い方だと言えなくもないが、迷惑極まりないのは確かだ。十六年前に会った時は三十歳だったので、グイードは、今は四十六歳になるはずだ。
当時よりも痩せてはいたが、健康的に焼けた肌はまだ張りがあり、赤みを帯びた頭髪には白髪も見られない。
結婚すればグイードも落ち着くと思っていたが、今度は娘まで加わって迷惑度も二倍になっているようだ。マリアは目頭を執拗に揉みながら、「どうやって逃げようか」と考えた。
マリアはまだ、リボンの件に関して、ベルアーノがどういう段取りを組むのか確認していない。彼の方でアーバンド侯爵に知らせを送るのか、マリアが伝言係を受けるのか……
そう思案している間も、嬉しそうに語っていたはずのグイードが、今度は、ルルーシアの父離れが耐えられそうもないと、また話題を戻して泣き始めた。
どうしよう、煩さ過ぎるうえ、奴の相談内容がくだらなすぎて考えがまとまらない。
自分の眉間に深い皺が寄るのが分かって、マリアは思わず「ぐぅ」と喉の奥からこぼれる呻きを堪え切れなかった。以前、アリーシアへの泣き事を散々聞かされた時の事が思い起こされて、疲労感も込み上げる。
「ベルアーノッ、ルルーシアちゃんはまだ十三歳なんだよ? 可愛いって抱っこして、ほっぺにキスしたいじゃん!? 添い寝も駄目とかあんまりだよぉぉぉおおお! アリーシアには冷たい眼で変態っていわれるし、つうか夫婦と子供で一緒のベッドで眠るのも悪いとかなんで!? 俺は両手に花で眠りたいのに!」
その時、きょとんとした顔で傍観していたヴァンレットが、のんびりとした様子で声を掛けた。
「グイードさん、大きなベッドをお持ちなんですね。やはり三人で寝ると窮屈だから嫌なんだと思います。誰かと寝ると、邪魔で睡眠も短くなります。――どうして大きなベッドを置いたんです?」
「恋心が分からないお前なんて大嫌いだヴァンレットぉぉおおおお! 大きなベッドで夫婦でイチャイチャするっていう発想が出来ない時点で、お前とは話しが合わねぇ!」
「お前は口を開くなヴァンレット! 話しが余計ややこしくなるわ!」
場が三人の男によって混乱の極みに達した時、解放されたままだった出入り口から、冷ややかな声が響いた。
「くだらない事を喚く声が外まで聞こえて煩いです。騎士としての威厳を損なうので、今すぐ口と鼻を塞いでくれませんか、グイード第一師団長」
声を聞いた瞬間、マリアは逃げ出したくなった。「おっふ」と口からこぼれかけた悲鳴を飲み込み、新たな参入者を確認すべく、ゆっくりと肩越し視線を向けた。
そこにいたのは、先日侯爵邸で不運の再会を果たした、モルツ・モントレーであった。
目が合った拍子に、モルツの銀縁眼鏡の向こうにあった鮮やかな碧眼が、真剣味を帯びたような気がして、マリアは「うげ」と顔を引き攣らせた。
馴染みのメンバーが、モルツの毒舌一つで止まってくれるはずもなく、グイードはモルツを完全に無視する方向で泣きごとを再開した。泣き崩れる彼に、ヴァンレットが「ほっぺにキスする意味が分からないんですが」と、悪意のない素朴な疑問を続けて問い掛け、ベルアーノが、二人に黙るよう大声を張り上げる。
騒ぎを注意すべく顔を覗かせたはずのモルツが、置き去りにされているマリアへ的を絞り、一直線にやって来た。
モルツのきびきびと歩く姿勢は美しく、まるで重要な報告でもあるかのように強い眼差しをしていた。彼はマリアの前に立つと、彼女の右手を両手で恭しく包み込んだ。
するりと手の甲を撫でられ、マリアは「ひぃッ」と息を呑んだ。
オブライトであった時と全く同じ状況に、同性同士であった頃の嫌悪感と危機感が込み上げて戦慄した。マリアは、生理的な嫌悪感で目尻に涙を浮かべた。
「数日振りです。誰にもご褒美をもらえていないので、あの拳を下さい」
上手く働かそうとしていたマリアの思考が、そこで、顔面筋と共にピキリと固まった。混沌と化した室内で、マリアの堪忍袋は、とうとう耐えきれずに切れた。
「阿呆か! 拳と言われて素直にあげるやつがいるかぁぁあああああ!」
素早くモルツから手を取り返したマリアは、その場で跳躍すると、身体を回転させながら、振り向きざま彼の横面に踵を叩き込んだ。
躊躇ない衝撃を受けたモルツが、「ぐふッ」と呻きを上げて吹き飛び、床に落下して二回ほど転がり、完全に床に伏した状態で沈黙した。
大きな転倒音の後、室内に広がったのは、先程までなかった重い沈黙だった。




