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三章 お嬢さまのお見合い(4)

 あれから、どのぐらい経っただろうか。


  侵入した殺気の気配が三つ速やかに消え、畑の雑草抜きでしばらく時間が経った頃、マリアとマークの集中力が切れた。


 集めていた雑草をまとめて片付けるついでに、新たに出現した狙撃主の視線に気付いたマークが、素早くピストルで撃って絶命させた。落ちた死体は、一瞬横切った影と共に消え失せる。


「次は何をしようかねぇ。マリアの仕事を用意しろって、執事長に任命されちまってるしなぁ」


 やる事が全くない訳ではないが、マークとしては、畑仕事はほどよく休憩を挟みながら進めるものであって、次から次へと労働作業を入れるのは性に合わなかった。つまり、今、猛烈にサボりたい気分だった。


 しかし、対するマリアは、先ほどからそわそわしていた。


 リリーナが凄く気になるのだ。そして、噂の『天使の第四王子』も猛烈に気になる。


 幼いリリーナのそばには、サリーやエレナがついて控えているとはいえ、初対面である第四王子を前に緊張して困っていたら、どうしよう。二人は、上手く打ち解けられているだろうか?


 本音をいえば、天使が二人揃った光景を、この目で確認して焼き付けたい。


 うん。物凄く、見たい。


 葛藤から数分後には堪え切れなくなり、マリアは、マークを無理やり引きずって屋敷の方へ回りこんだ。


 リリーナが茶会をする予定であったテラスの方を覗き見るため、マリアは建物の影から影へと慎重に渡り進みながら、辺りに客人の騎士や衛兵がいないかを確認しながら、足を進めた。



「マリア、これはやっちゃいけないレベルの個人的な願望、もといお節介だとおじさんは思うのよ。――引き返さない?」



 バレたらサボッていると見られてしまうではないか、とマークは乗り気ではない声をもらした。


 マリアは建物の影から首を伸ばし、前方に王宮からの人間がいない事を確認しながら「何言ってんのよ」とぴしゃりと言った。


「天使な王子様の顔を見る、リリーナ様の天使な様子を、こっそりと堪能する! 天使が二人なんて最高のシュチュエーションじゃないの!」

「まぁ、今更お前の趣味を深く知ろうとは思わないよ、うん。確かにお前なら怒られないとは思うけどさ、俺は絶対に冷ややかな視線をもらうと思うんだ。『いい歳こいたおっさんが、そんな事してんじゃねぇよ』って女性陣全員に、視線で精神的なダメージを負わされる、しょっぱい未来しか見えないのよ……」


 マリアは許されて俺は袋叩きに遭うとか、ちょっと可哀そうじゃね?


 贔屓過ぎるとは思うものの、見目と中身の可愛さは正義なのだろうなぁと、マークは、自分には理解し難い女性達の思考を悩ましげに思った。


 既に期待で胸がいっぱいのマリアは、マークの独白は微塵も聞こえていなかった。彼女は、前方に人の目がない事をしっかりと確認すると、肩越しにマークを振り返り、オブライト時代から馴染んでしまった合図を右手で出した。


「言い訳は無用だ、マーク。女は度胸。よし行くぞ、ついて来い!」

「わー、台詞が既に女の子じゃねぇな。どうしよう。俺マジでお前のそういう漢らしさに憧れちまいそうだわ」


 マークの口許に、ニヤニヤとした楽しそうな笑みが浮かんだ。つまらない仕事で眠気に誘われるより、楽しそうな厄介事の方が大歓迎であるというのが、彼の性質でもあった。


 歩みを進めると、可愛らしい少女の声と、どちらともつかない幼い声が聞こえてきた。


 そっと建物の角から覗きこんだテラス席には、ほぼ同じ背丈をした身綺麗な二人の子供が腰かけており、どちらも地面に足が届いていなかった。


「……ッ!」

「おい、ここで叫ぶなよ。とりあえず落ち着け?」


 マリアは咄嗟に口を押さえた。なんて天使なんだ!


 第四王子は、まさに正当派の天使といった風貌をしていた。父親譲りの艶やかな金髪に、大きくぱっちりとした金緑の瞳。幼いふっくらとした顔にも関わらず、既にその美貌は際立っており、満面の笑みを浮かべる表情は、絶世の美少女であった王妃にそっくりである。


 テーブルを挟んで向かい合ったリリーナとクリストファーは、容姿の美麗さのせいか、ほぼ差のない背丈のせいか、似たような穏やかな気質と無邪気な性格のせいか、こうして遠くから見ると血の繋がった兄弟を思わせた。



 というか絵姿が欲しい、二人が一緒に並んだやつが!



 マリアは、生きていて良かったと、崩れ落ちそうになる足をどうにか踏ん張った。


 第一王子、第二王子に比べて、なんと性別があやふやで可愛らしい王子だろうか。しかも、頬を染めて心底楽しそうなリリーナが、今日は一番と輝いて可愛く見える。そばの椅子に腰かけたサリーも、イイ。


 もうこれ、二人には婚約者同士になって欲しい。そして、是非とも近くから二人を愛でたい。


「おい、マリア。全部口から出てんぞ。危ないレベルの本音がただもれで、おじさんが恐怖するレベルなんだけど」

「あら。いやだわ、おほほほほほほ……。マークだって思うでしょ。あれはやばい、超絶かわいい、と!」

「いやいや、俺は変態じゃねぇし? あ~……カレンとマーガレットも悶えてるっぽいな」


 テラスのすぐそばに立つメイドに目をやり、マークは複雑な思いで頭をかいた。一見するとカレンもマーガレットも完璧な微笑みを浮かべているが、腹の前で握られた手は、必要以上に力強く固く握りしめられている。


 よくよく見れば、奥には幼い二人を涼しげに見つめる侍女長エレナの姿もあった。彼女は表情の変化が少ない女性だが、実のところ誰よりも母性的な優しさが強く、マークから見れば、マリアとリリーナの組み合わせを見守る時の「目の保養にしましょう」とガン見するそれと、全く同じものを感じた。


 すると、既にこちらの存在に気付いているカレン達が、マークの心を読んだかのように、同時に揃って高圧的な微笑を向けてきた。



 恐ろしい、完全に目が笑っていない。



 マリアを連れてきた事は怒っていないようだが、マークが心の中で、サリーに女装させている彼女達の趣向について異議を唱えた事を悟られたらしい。


 二人の婚約は絶対にうまく行くから、今日は大人しく引っ込んでてよね、と続けて彼女達の視線が語り掛けてきた。エレナに関しては、こちらに気付いているにも関わらず、目を離すのも惜しいとばかりに、リリーナとクリストファーを見守り続けている。


 マリアが、興奮冷めやらぬ様子でマークの袖を掴み、強引に振り始めた。


「うまく行きそうじゃない!? ほら、二人共良い空気が!」

「……あいつらも器用だよなぁ。目だけで正確な言葉を送ってこられるとか、神業だろ。いや、もしかしてマリアが鈍いだけ、なのか?」

「何をぶつぶつ言ってんのよ」


 屋敷の敷地内に新たな殺気が触れ、一瞬で消えたのを感じた。さすがに王族だと騒がしくなるものらしい。


 直接クリストファーを狙ったものなのか、王族と繋がりをもたせたくない何者かが、アーバンド侯爵の失態を掘りたいのかは知らないが、クリストファーの護衛も多くいる中で無謀だとは考えつかないのだろうか。


「さて、満足しただろ。あっちはあいつらに任せて、俺らは適当に仕事でもするぞ。そうだな、フルーツトマトの方が、そろそろ下葉を削げ落とさないといけなかったし、あれでもやるか」

「ギースも暇だったら呼んであげたいけど、今は無理か」


 畑の雑用は、いつも定番の三人で取り組む事が多い。マークは少し考えて「そうだな」と、どちらでも良さそうにそっけなく呟いた。



 二人は一度倉庫に立ち寄り、専用のハサミと、落とした葉を入れる為の小籠を用意した。



 準備を整えて屋敷の裏手を歩いていたマリアとマークは、ふと、近くの方角から二つの気配を覚えて首を傾げた。


「お客様かしら」

「かもしれないなぁ。まぁ、ここは安全だし、騎士っつってもお貴族様だろ。おおかた、自由にさせてるんじゃね?」


 気楽に散策しているという訳か。


 とはいえ、先日のヴァンレットの件が脳裏に思い浮かび、マリアは、面倒な予感がしたので「道を変えましょう」とマークに提案したのだが――



 次の一歩を踏み抜いた瞬間、相手の感知円内に触れる既視感を覚え、マリアは笑顔のまま固まった。



 それは、大抵は戦闘時に張り巡らされる感覚的な警戒フィールドになるのだが、それを無意識に張って歩く一人の馬鹿男が脳裏に浮かんだ。すっかり肌で感じ慣れてしまったその空気に、まさか、という思いが込み上げる。


 いや、あの扱いにくい変態は、ゲス野郎の少年魔王に平気な顔で仕えていた男である。まさか幼い第四王子の護衛にはしないだろうし、そうであったとしても、立場を考えるだけの分別を持って昔のような突発的な行動はしないはずだ。


 マークはただの庭師であり、マリア自身はどこにでもいそうな一人の少女だ。まさか昔のように飛んでくるなんて事はないだろう。



 一瞬の間にそう考えていたマリアは、突如迫った斬撃の切っ先にギョッとした。



 マークが珍しく慌てたように「マリア!」と上げる声を聞きながら、マリアは、咄嗟に手に持っていた道具を投げ捨てて身をかわした。


 突き出された剣が真横を通り、風圧で自分の長い髪が視界の端にふわりと舞い上がるのが見えた。マリアのスカートが、大きく波打つ。


 突如眼前に現れたのは、紺色の騎士団服を着た、神経質そうな美麗な顔に細い銀縁眼鏡をかけ、凍えるような鋭利な眼付きをした男だった。肌は女性のように白く、形の良い唇は呼吸の乱れ一つなく閉じられている。


 束の間、近い距離から、マリアと男の視線が交わった。 


 こちらに向けられたやけに艶やかな碧眼が、すぅっと細められた。そこに映っている少女の姿を認めても、秀麗な眉には動揺も躊躇も表れない。


 目を合わせていたのは、ほんの僅かな間だけだった。けれどマリアは、十六年振りに見る男の眼差しに次の行動を見て取り、瞬時に次の行動へと移らなければならなくなった。



 くそッ。この可愛い少女顔を見て、続けて第二派を見舞うとか、阿呆か!



  マリアは息を止めて思い切り背を反らせ、続いて横に払われた剣の軌道をかわした。顔面すれすれを横切った剣に忌々しさが込み上げ、剣を握りしめる軍人にしては綺麗な手に向かって足を振り上げ、全身をひねる負荷を加えて、思い切り蹴りを叩き込んだ。


 反撃に怯んだように、男の動きが僅かに鈍った。少女の身で威力が落ちているとはいえ、剣を手放さなかった事は騎士として評価できる。しかし――


 しかし、だ。



 野郎ッ、普通か弱い女の子に躊躇なく襲いかかるか!?



 マリアは、怒りで判断力が鈍っていた。三十歳の中盤にしては相変わらず若作りな美形顔だとか、奴の元々の問題性だとか、そんな躊躇いも冷静な判断も一切出来なかった。


 粗ぶる気持ちのまま、マリアはその場で跳躍した。男の反対側の脇腹に続けて膝を打ち込むと、隙が出来た彼の胸板を踏み台に再び飛び上がり、その顔面に、思い切り両足をめりこませた。


 連続した激しい攻撃を受けた眼鏡の男が、ゆっくりと崩れ落ちた。


 昔から理解力が鈍かったヴァンレットが、心配もしていないようなのんびりとした表情で、しばし地面に転がる友人兼同僚を眺め、それから「大丈夫か?」と、今更のように助け起こしにかかった。


 乱れた髪を苛立ったまま後ろ手で払ったマリアは、前触れもなく自分を襲って来たかつての騎士仲間を、ジロリと睨み降ろした。



 ヴァンレットよりも一歳年上の、モルツ・モントレー。


 軍人にしては細身で、尖った刃のような冷やかな印象を与える、端正な顔立ちをした無駄に美麗な男だ。少し伸ばした黒に近い色の髪を、邪魔にならないよう横へ撫でつけ、皺一つしないパリッとした軍服を着用している。

 

 彼は書類処理から戦闘まで器用にこなせる優秀な男だったが、騎士内でも有名な狂戦士の一人だった。



 否、狂戦士というよりは、迷惑極まりないド変態である。


 何しろ、戦いを求める問題行動は、彼自身の趣味を満たすためだけに起こされているという、とんでもなく下らない理由なのだ。


  無言で睨みつけていると、立ち上がったモルツが剣を鞘に戻し、マリアをじっと見据え返した。昔から顔面筋のないような表情の変化が乏しい顔だったが、改めて正面から眺めてみても、相変わらず冷ややかな無表情だ。


 二十歳そこいらだった十六年前に比べて引き締まり、より常識人らしい相貌になっている。現在の三十七歳という年齢を感じさせない美貌は、二十代後半ほどに若く、昔に比べて更に外見詐欺が進んでいるのが実感出来た。



 見れば見るほど腹立たしい顔である。こんな可愛らしい顔をした少女に切りかかるとか有り得ない。



 マリアは、思うままに肩にかかった髪を背中へと払った。マークが双方へ視線を往復させて、「え、これってどういう事?」とぼやいている。


 そんなのこっちが知りたい。

 

 普通マリアとマークの組み合わせであれば、男性であるマークの方に攻撃を仕掛けるのが自然だろう。


 何しろ、マークは十代で暗殺ギルドのS級ランクにあった男であり、狙撃主としての技量は確かなのだ。マリアとしても、何故モルツが迷わずこちらに剣を向けて来たのか分からないでいた。

 

「そちらの騎士様は、一体何の怨みがあってこのような蛮行に及んだのか伺ってもよろしいかしら。突然襲いかかるだなんて、騎士道に反していると思いませんの?」


 マリアは憮然と唇を開いた。怒りで顔面が引き攣りそうだったが、しっかり嫌味を交える事を忘れず笑顔でそう言い切る。


 すると、モルツが蔑むように顎を上げて、マリアを見降ろした。


「彼よりもお前の方が強いでしょう。お前が身にまとう闘気が、私のセンサーの規定ラインをクリアしたのを感じました」

「規定ライン……――だから試すために切りかかった、と?」

「はい」


 阿呆かッ、お前は何してんだよ! 当然のように「はい」って言ってるけどな、その行動を見切れていない相手だったら確実に大怪我してるか死んでるからな!?


 マリアは、心の中で罵詈雑言を唱えながら咳払いをした。

 とりあえずニッコリと愛想笑いを作り、可愛らしく見えるあざとい角度に首を傾ける。


 やばい、これ以上奴と喋っていたら堪忍袋の緒が切れる。


 聞きたくもないクソふざけた殺人未遂の理由を、こいつの口から聞く前に去らなければならない。


「お、おほほほほほ。嫌ですわ、私が強いだなんて。たまたま土の泥濘で滑って、ついうっかり護身術でいなせただけですぅ。失礼な行動をされる殿方は、レディに嫌われますわよ。私たち、急ぎの用がございますの。ですから、こんなところで油を売っている暇はございませんの。もう失礼してもよろしいかしら」

「なるほど。お前は護身術の達人なのですね」

「…………」

「マリア、お前……」


 マークの物言いたげな眼差しは、相変わらず単純な戦闘馬鹿だなと書いてあった。マリアも自分が賢くないと分かっていたので「何も言わないで」と額を押さえた。


 残念な事に、モルツはヴァンレットと違って、子供騙しで誤魔化されてくれる馬鹿ではない。軍人としても、ひどく頭の切れる男だ。


 認めたくはないが、年下だった彼の外交手腕に、オブライトが勝てた事は一度だってない。


 考えろ、考えるんだ。


  目頭を丹念に揉みほぐしに入ったマリアは、喉の奥で「ぐぅ」と鳴る、自分の小さな呻き声を聞いた。右にも左にも動けないマークが、気の抜けた声で、どうにか時間稼ぎのように自己紹介を始める間も、横顔に二人の騎士の視線を感じて上手く集中できず、苛々した。


 マークから「ただの庭師とメイドだよ」と紹介されたヴァンレットが、マリアの方に歩み寄って、親しげに肩を叩いた。


「先日振りだな、小さなメイドよ。眉間に皺が寄っているぞ。腹でも下しているのか?」

「ちょっと黙ってて下さい」


 毎回思うが、何故お前は不調を全部トイレ関係に結びつけるんだ。女性にかける話題としてはアウトだぞ。しかも、もう名前を忘れたのか。相変わらず覚えが悪いな!


 つい目頭から手を離して睨み上げると、ヴァンレットが、どこか嬉しそうな顔をした。


 何故そんな顔をするのだろうと、ますます眉を潜めたマリアは、こちらを涼しげな顔で見つめていたモルツが、一歩踏み出す足音で我に返った。



「素晴らしい威力の蹴りでした」



 ハッと振り返って視線が絡んだ瞬間、まるで業務報告のように、モルツが淡々とそう告げた。その一声で、ヴァンレットを置き去りにしたまま、空気がピシリと凍りついた。


 先程から妙にモルツと距離を置いていたマークが、「俺の本能的な危機察知能力も、捨てたもんじゃねぇな」とゴクリと唾を飲んだ。


 待て、ちょっと待て。本気で挑んだ方が全力で反撃してくれると認識している事は知っているつもりだったが、余所様の、まるで知らない十代のメイドまでその範疇に入れるのは駄目だろう! 阿呆か!


「あ、あの、騎士様? よく分からないのですけれど、ちょっとこちらに近づかないで頂けます? 出来ればマークの方へどうぞ」

「何故ですか? 近づかなければ話しも出来ないでしょう」

「おいマリア、俺を巻き込むんじゃねぇぞ。危なさそうだったら助けてやるけど、これってあれだろ。異性に踏まれたら喜ぶタイプのやつだろ。おじさんにそんな趣味はねぇから!」


 傍から見ればそうであるかもしれないが、違うのだ。モルツの女性の好みは正常であり、痛みを性的な興奮として感じるタイプの人間ではない。


 彼のそれは危うい境界線を漂っているようなものなので、一歩間違えば新しい性癖に目覚めるかもしれないが、マリアの知っているモルツは、性別を問わず純粋に強い人間を求めているのである。


 非常に嫌な予感がする。


 モルツの個人的な趣向についての判断基準は厳しかったような覚えがあるので、まさか、マリアの身でそれはないだろうと思いたい。


「な、ななななんでしょう……?」


 思案している間に目の前に立たれてしまい、マリアは、強い眼差しでこちらを見降ろすモルツに、思わず時間稼ぎのように尋ねてしまった。温度がないと思われていた鮮やかな碧眼に、オブライトであった頃によく見た、おぞましい光が差しているような気がする。


 きっと気のせいだと思いたい。マリアは願望を胸に、一歩後退した。


「お前はメイドのようですが、護衛としての役も担っているのでしょう。小さい身体の、効率的な使い方をよく分かっている護身術だと思います。殺すつもりは毛頭ありませんでしたが、一応お前には謝罪しておきましょう」

「はぁ、それはどうも……リリーナ様付きのメイド、マリアと申します。謝罪を確かに受け入れました」

 

 面倒だ。もう何も突っ込むまい。


 早くこの状況を脱するために、なぜそういう流れになっているのだとか、いちいち嫌味を混ぜるモルツの言葉には反応しまいと固く心に誓う。が――


「私は国王陛下直属の銀色騎士団、総隊長補佐のモルツ・モントレーと申します。このたびは臨時で第四王子の護衛として命を受けました。――だから思い切り蹴り飛ばして下さい」

「ッ畜生なんでそうなる!? 改めて自己紹介して和解した直後ですけど!?」

「申し遅れました。私は性癖を含まないドMです。謝罪したのですから、蹴って下さい」

「阿呆かぁぁぁあああああああ! つか意味が分からんわ!」 


 マリアは思わず、拳を固めて両足を踏ん張っていた。馬鹿馬鹿しい茶番を終了させるべく、がら空きになっている彼の腹部目掛けて渾身の右拳を叩き込んだ。


 十六年経ったというのに、モルツには心底失望した。昔は言動も毒舌だというだけで、今よりも若干ましだったように思う。


 正直、淑女に向かって、この紹介の仕方はない。



 というか、蹴って下さいと言われて蹴る阿呆がいるか! 拳で十分だわ!



 モルツは、軍人としてはとても優秀な男だ。身体能力と頭脳の良さの加えて、鍛えられた身は異常なほど頑丈である。彼はマリアが知る当時の騎士の中で、誰よりも冷静沈着な男だった。


 だからこそなのか、モルツは感情が豊かではないというコンプレックスを抱えた幼少期を過ごし、それを満たす行為として発見したのが、肉体的・精神的な痛みを受けるという悟りだったらしい。


 モルツという男は、オブライトにとって、同性としては一番嫌なタイプの変態なのである。何せ、彼は騎士だ。彼の周りには強い同僚達が溢れ、気に入った痛みを与えてくれる男達に迫るモルツ、という構図はもはや苦痛でしかない。



 性欲を除く趣向的な意味でのドM。それが、モルツという変態の全てだった。



 悲しい事に、オブライトはモルツにとって「躊躇なく苦痛を与えてくれる人」の数少ないメンバーの一人として認知されていた。


「お~、漢らしい一撃だったな。さすがマリアだぜ」


 すっかり傍観者と化していたマークが、他人事のように抑揚なく評価を口にした。


 苦痛で声も出ないモルツが、短い呼気を吐き出して膝をついた。呻き声も上げられず震えている彼に、ヴァンレットが珍しく心配そうに眉を寄せて「大丈夫か?」と窺うが、一連の行動に関して理解はしていない様子だった。


 一番痛くなるように打ち込んだのだから、悶絶級なのも当然だろう。


 マリアはスカートを整えると、やや乱れた髪を背中に払った。オブライトの頃よりも遥かに弱い少女の身ではあるが、オブライトとしての記憶のせいか、誤差もまくモルツの痛点を打てたのは、我ながら呆れてもいた。


「いいですか、騎士様。私は、リリーナ様を守るために護身術を得ました。知られると護衛としての効力が薄くなりますので、リリーナ様には絶対に秘密でお願いします」

「イイ、パンチです……」

「勘違いなさらないで下さいまし。この程度であれば誰でも出来ますわ」

「お前ほど躊躇しない一撃をくれる人間は少ないでしょう」


 当然だろう。今のは生理的な嫌悪で、全力否定した結果の一撃だったからな!


 モルツは騎士の前に、貴族でもある。普通のメイドであればない蛮行であるが、オブライトであったせいか、アーバンド侯爵家の使用人という特殊な立場にあるせいか、マリアは殴る事に躊躇は覚えなかった。


 勿論、後悔もしていない。殴って叫んですっきりしたのは確かだ。


 マリアは、目線の低くなったモルツを、ついでとばかりに一瞥してやった。しかし、少しずり落ちた眼鏡の上から、ギラリと光る怪しい光を宿した明るい碧眼を見た途端、ドン引きした。


 思えば、初めて彼を殴り飛ばした時も似たような目を向けられた覚えがあったが、あの頃よりも執拗に探るような目が、得体の知れない執着を孕んでいるようで少しだけ気圧される。


 マリアは、反射条件のように口角がぎこちなく持ち上がるのを感じた。


 その生理的な拒絶を察したのか、モツルがゆっくりと瞬きをして、異様な圧力を抑え込んだ。


「……久しぶりにキました。ヴァンレットが言っていたように、お前は確かに面白いですね」

「…………」


 おい、ヴァンレット。お前のせいか。というか一体何を言った。面白味を持たれるほどの事をした覚えはないぞ。



 ……そういえば、こいつら、話すだけ無駄なタイプの人間だったな。



 マリアはそう思い出して、諦めたように息をついた。足元に転がっている小籠とハサミを手に取り、踵を返して「行こう、マーク」と素でそう声を掛けて歩き出す。


 興味深そうに場を見守っていたマークは、「俺の方が先輩なのになぁ」と言いつつも、膝を叩いてマリアに続こうとした。


 しかし、彼はモルツを立ち上がらせようと片膝を付いたヴァンレットが、マリアの台詞に反応したように顔を上げて、僅かに羨むような、そしてどこか傷ついたような顔をこちらに向けた事に気付いて、怪訝に思って足を止めた。


 恐らく自分より少し年上だろう男が、何とも幼いような悲壮感を漂わせる表情は、まるで耳と尻尾が垂れた犬のようにも見えてしまい、マークは、つい親切心から声をかけた。


「えぇっと、すまねぇな、デカイ騎士さん。マリアは少々暴れ馬なところがあって、リリーナ様と離されているから機嫌が悪いんだと思う。いや、思います?」


 いかん。どうにも自分が認めた先輩や上司の他には、敬う言葉も出て来ない。


 マークは、元々フリーの暗殺者だったのだ。相手への尊厳など抱えられない自分を思い出して「しまったなぁ」と苦い顔で頭をかいていると、沈黙していたヴァンレットが視線をそらして、小さな声で言った。


「……別に、気にしていない」

「はぁ。そうっすか」


 何もないように見えないのは、何でだろうな。


 マークは首を捻ったが、結局は関わらない人間だと結論付けて歩き出した。

 慎ましげに歩くマリアの後ろ姿へ向かって駆け、とりあえず、彼女が怪我をしなかった事にマークは安堵したのだった。

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