十七章 任務前日~参謀の大臣&戦闘使用人~動(1)下
ガスパーが席を立ったタイミングで、外の方をチラチラと気にしつつマシューが出勤してきた。いつもの近衛騎士隊の軍服ではないうえ、彼特有の幅の太い真っ直ぐの大剣が腰にあるのを見て、マリアとギースとニックは首を傾げる。
使用人仲間を代表するように、マリアは「おはよう、マシュー」と声をかけつつ尋ねた。
「今日は非番なの?」
「王宮の近衛騎士としては、お休みですね」
そう答えて、マシューは小さく笑って肩を竦めて見せた。昨日はとても疲れていたようだが、すっかり回復した様子で歩み寄ると、マリア達の向かいの四人掛けソファに腰を降ろしたアーバンド侯爵に、「旦那様、おはようございます」と軽く頭を下げた。その際に、癖のない灰色の髪が白い頬にかかった。
マシューは、実年齢の二十三歳よりも数歳若く見える、少し童顔のアルバートの侍従だ。誰にでも礼義た正しい口調を崩さない、戦闘使用人の中で一番の温厚気質な青年である。
戦闘使用人としてのマシューの仕事着は、ほぼ全身黒に染まるような軍服仕様の特注物の侍従衣装だった。随分丈の長いジャケットをしており、外出する際にはハットを深くかぶるのも特徴だ。
彼曰く、この方が落ち着くのだという。
執事長のフォレスが、常に燕尾服であるのと同じだろう。
戻ってきたガスパーが、アーバンド侯爵の前に珈琲カップを置いた。彼が「ありがとう」と穏やかに言って朝一番の、いつも決まっている銘柄の珈琲を口にしたところで、その後ろに控えるように立ったマシューが、開いた窓枠に背を預けているニックに視線を向けた。
「そういえば、マークはまた何かしたんですか?」
「姉さん達に絡まれて、マーガレット先輩がトドメを刺そうとしてる感じっすかね」
よく分からない回答と展開である。そういった表情を浮かべたマシューに、続けて問うような目を寄越されたマリアは、いつもの事ながら「現場を見たわけじゃないから、私も理由は分からないのよ」と答えた。
そもそもマーガレットは、母性のメイドと呼ばれているくらいに、メイドの中で一番優しさに溢れて大人しい女性のイメージが強いので、なぜ毎度マークが怒らせているのかも不明だった。おかげで彼から言わせると、母性なんて感じないメイドであるのだとか。
それよりもマリア達としては、マシューの近衛騎士の仕事が、急きょ休みになっている事の方が不思議だった。いつもアルバートについているので、もしや彼が本日に休暇を取ったのだろうか、という推測は浮かんでいる。
マリアとギースとニックから、引き続ききょとんとした同じ表情を向けられているマシューが、「どうしたんですか?」と首を傾げた。すると、珈琲カップをテーブルに戻したアーバンド侯爵が、こう言った。
「久々にリリーナとアルバートを一緒に連れて、演劇を見に行こうと思ってね」
三人はほぼ同時に、「なるほど」と相槌を打った。また『散歩』がてら、面白い劇団とその演目でも発見したのかもしれない。台詞は歌になっているので、リリーナも楽しんでいた。
そこでギースは、遅れて気付いたかのように、男性使用人しか集まっていない中で、昔から自然に溶け込んで全く違和感がないマリアを見た。そこについて突っ込んだ方がいいのかどうか、と彼が目に留めているそばで、ガスパーがマシューを呼んだ。
「お前も珈琲飲むか?」
「いえ、今は結構です。そろそろアルバート様が起床される頃ですので」
主人より先に頂く事はしないとでも言うように、マシューは笑顔でやんわりと断った。窓の外からは、相変わらず小さな騒ぎの音が聞こえ続けていた。
そろそろ起床する時刻だなと思っていると、予想通り二階からアルバートが顔を覗かせた。彼は父に挨拶してすぐ、マリア達を見回して、美麗な顔でにっこりと笑いかけた。
「みんな今日も元気だね」
十九歳のアルバートは、王宮では第三宮廷近衛騎士隊の副隊長として仕事に就いていた。父親であるアーバンド侯爵よりも、深い藍色をした形の良い瞳をしており、髪も見事な蜂蜜色で癖はなく、美人な母親譲りの眉目秀麗な青年である。
外で起こる小さな騒ぎなど完全に無視し、彼は真っ直ぐマリアの座るソファまで進むと、その横でピタリと足を止めた。
「おはよう、マリア。今日のリボンも、とても良く似合っているよ」
穏やかな微笑を浮かべて、アルバートがそう言う。
本日のリボンは、アルバートやリリーナの瞳の色である深い藍色が基調にされた物だった。先日に彼が新しく買ってきてくれて、登城予定のない今日にようやく身に付ける事が出来たのである。
リボンは細いレースで縁取りがされていて、なかなか可愛い。リリーナがやったら大変似合うだろう事を想像してニヤニヤしていたマリアは、今日こそ、その姿を目に出来るぞと嬉しくなって、笑顔で感謝を伝えた。
「ありがとうございます。このリボンに合わせて、リリーナ様のご衣装も決めるとマーガレット達も言っていたので、とても楽しみです」
「髪に触れてもいいかな」
まるで、それ以外には触れないようにするから、とどこか待てないようなニュアンスにも聞こえた。多分、そう感じたのも自分の気のせいだろうと思って、マリアは「どうぞ」と愛想良く答えた。
アルバートは静かに微笑んで、彼女の背にたっぷり流れるダーク・ブラウンの柔らかな髪を、梳くように撫でて指先に絡めた。それをじっと見つめていたギースが、コテリと小首を傾げて呟く。
「アルバート様って、昔からマリアとかリリーナ様の髪に触るの、好きだよなぁ」
マシューとニックが、鼻で小さく息をこぼして、素知らぬ振りで視線をそらした。ガスパーも教えないまま、肩を竦めて新聞を畳む。
いつの間にか、外は静かになっていた。遅れてそちらへ顔を向けたニックが、事が終わったとばかりに窓を閉めようとしたところで、「あ」と手を止めた。
「ガーナット先輩が、マークの前で硬直した。うわぁ、すごく面白い顔になってるなぁ」
心底困り果てた顔だと続けたニックに、ガスパーがニヤリとして「今どういう状況なんだ?」と尋ねた。
「マーク、顔面が埋まっちゃってます」
「そりゃいい。マーガレット嬢ちゃんは、超近距離型だからな。『ガツンと一発やられた』んだろう」
マリア達は、よく怒られ注意されているマークが、使用人仲間の女性陣に攻撃された場合の対応と、それからのいつもの流れを思い返した。
彼は逃げるだけで反撃は一切しないし、意識的に防御もろくに取らない。圧倒的に体力がないせいで、だから途中でダウンして、毎度、特によく怒らせているマーガレットと向かい合うと、ほぼ数分で負かされる。
「……まぁ、とはいえ、そこは見直しますけどね」
マシューは、こっそり吐息混じりに呟いた。ソファの後ろに立っている彼の声を聞いて、アーバンド侯爵は優しげな笑みを浮かべて「彼は優しい男だよ」と珈琲を口にした。
その時、二人の後輩メイドを連れたマーガレットが、つい先程までの過激なやりとりなどなかったかのような、淑女然とした穏やかな表情で屋敷に入って来た。
マーガレット達は、こちらに気付くと、三人揃って礼儀正しく挨拶をした。それから、再びスカートの前で指先を少し重ねた品のある姿勢で、メイン・フロアに置かれた応接席を通り過ぎて二階に向かい始める。
これから、リリーナの起床と、湯浴みのための準備に取りかかるのだろう。外にいたマークがマーガレットを怒らせた理由と、どうやって彼を追い詰め、何をやったらその顔面が大地に埋められるのか、少し気になるところだ。
とはいえ、マリアの思考の九割は、既にリリーナの方へと飛んでいたため、彼女はすぐマークの存在を忘れた。瞬きもせず、彼女達の後を目で追ってしまう。
「私、お手伝いに行っては駄目かしら……?」
「駄目だろうな。つか、俺が料理長権限で全力で止めるわ」
そう間髪入れず告げたガスパーは、真剣な横顔をしていた。ギースが「やめろよマリア、本気で一線超えそうな目に見えるッ」と、ソファの上で思いっきり肘掛側へと尻を移動させた。
マシューは、そんな二人の厨房勤務組の様子を悩ましげに見つめて、控えめながら小さく口を開いた。
「マリアは女性なので、問題ないとは思うのですが」
「時々うっかり同性目線で考えちゃうんですよね、不思議と」
ガーナットを迎えるため、ニックが歩きだしながらそう言った。しかし、とある人物に目を向けたところで、彼は次の一歩を踏み出そうとした姿勢で不自然にピタリと止まった。
ニックの視線の先を辿ったマリア達は、アルバートがマーガレットを見送った笑顔のまま動かないでいる事に気付いた。普段よく見せるような爽やかな笑みを浮かべてはいるものの、作って貼りつかせていると分かるような違和感がある。
アルバートは、しばらく珍しく視線も返さなかった。一同がじっと見つめる中、長らく経ってようやく、形のいい唇をそっと開いてこう言った。
「ちょっとリリーナのところに顔を出してこようかな」
それを聞いた瞬間、マシューが「やめてくださいアルバート様」と本気で言った。
「貴方様が、そのまま湯浴みまで付き添う姿が目に浮かびます。お嬢様は、もう十歳なんですよ、婚約者様もいらっしゃいます」
強硬で決行するつもりなら、ここは主人のためにも力づくでも止めなければならない。胃の具合でも悪くなったかのようなマシューの強張った真顔は、そう語っていた。
坊ちゃんもアレだよなぁ……と、ガスパーがぼやいた。そのおかげで冷静さが戻ったマリアは、なんと言っていいのか分からずギースとニックと共に沈黙していた。
珍しく笑顔のままコンマ二秒ほど固まっていたアーバンド侯爵が、「私たちは珈琲でも飲んでいようか」と言って立ち上がり、ガスパーに指示を出して、アルバートを引っ張っていった。




