十六章 血塗れ侯爵序曲(8)
「…………どうしよう。これは完全に、色々と想定外すぎる……」
ザベラの町に一軒だけある食堂にて、マシューは円形テーブルに両肘を乗せ、組んだ手に額を押し当てていた。室内のため帽子は取られており、癖のない灰色の髪が、項垂れる彼の白い頬にかかっている。
天井も低いこじんまりとした食堂内では、四人掛け用のテーブルがいくつも詰め込まれていた。沢山の料理が並んだ三つのテーブルが勝手に引き寄せられてくっ付けられていて、ちょっと過密になっているのではという具合に四脚以上の椅子が入れられているテーブル席もあった。
そこにはモヒカンやらスキンヘッドやらといった、かなり個性的な髪型をしたガタイのいい青年たちが腰かけて、わいわい楽しく食事をしながら騒いでいた。
ちなみにここは、現在マシューが座っている席でもある。
情報の収集と偵察、そして見極め。
マシューは、その単語を何度となく頭に繰り返し浮かべては、現状について考えていた。食事の手は、もはや完全に止まってしまっていた。
「兄ちゃん、どうした?」
「元気出せよ、食べたらきっと体力も戻るはずだからさ!」
「ほら、めいいっぱい食いな。俺らよりキレイな顔してるし、きっと王都に行けば何かしら仕事も見つかるって――うぅ、泣ける話だ」
「まったくだよな。はるばる遠い地から、ここまで一生懸命旅してきたんだもんなぁ、ぐすっ」
おかしいな。僕は仕事を捜している、としか口にしていないんだが……。
心の中で冷静に突っ込むマシューは、真顔だった。たった一つの単語を提供してみたら、勝手に話のスケールがデカくなっていったのだ。
指も手首もこんなに細いんだぜ、と出会い頭に同情されたのだが、良いところ勤めの人間である事を想定しないのだろうかと思った。つまり、阿保のうえ人を疑わない馬鹿でもあるらしいと察して、意識してどうにか僅かに残していた緊張感も、今や完全に崩壊し、マシューのテンションはだだ下がりである。
到着早々に、まさか対象グループの方から接触されるなんて予想外だった。その後にも言葉を失う衝撃的な今の『奢ってやるよ』という展開を迎え、これ以上の事なんてないだろうと思っていたら、先程うっかり食べ物を吹き出してしまうほどの、新たな衝撃と出会って――今の状況に至る。
おかげで目の前の肉料理が喉を通らない。
というか、視線を上げる事に抵抗を覚える。
二十代前後といったこのチンピラの青年たちは、『ピーチ・ピンク』という小さなグループである。ハーパーの屋敷の用心棒として雇われている『灰猫』の傘下に、ごく最近新しく加わったばかりのメンバーだ。
マシューが見る限りでは、恐らく一瞬で皆殺しに出来るくらいに、弱い。
どうして、このような任務が与えられたのか分からないが、自分としては忠実にこなすのみである。それが、アーバンド侯爵が直々に頼んでくれた『お願い』であるのならば、尚更。
「重い溜息をついてどうした? 急に肉を入れたから腹でも痛いんか?」
「ならガイザー、お前のとこにある鳥肉料理を、わけてやったらどうだ?」
「さっすがリーダー!」
「リーダーカッコイイっす!」
鳥肉も、肉です。
マシューはテーブルを見下ろしたまま、心の中で冷静に指摘した。
それにしても居心地が悪い状況だ。何せ彼らは、持ち金がそんなにない状況でご飯を奢ってくれていた。
食い倒れたんなら俺らがなんとかしてやる、と手を取られたかと思ったら、彼らが一生懸命ポケットやら靴の中から金をかき集めて、この食堂へ連れてきたのだ。つまり、彼らは明日食うための金がほとんどない、という事だ。
頭が痛いし、その事実には胸の辺りもズキズキとする。君たちは大丈夫なのかと尋ねたら、なんとかなるんじゃね、とあっけらかんとした笑顔を返された。もう少し深刻に真面目に考えた方がいいのでは、とつい言いたくなってしまうのは自分だけではないはずだ。
「また溜息をついたな、鳥肉は嫌いだったか?」
「……いえ、想像以上で、ちょっと…………」
チンピラ風貌の屈強で逞しい青年たちが、子供みたいな目をして揃って首を捻る。そこには敵意も悪意もない。
事前に調べてはいたので、彼らがどんな人間であるのか、ここへ来るまである程度の予測はついていた。しかし、まさかチンピラグループとして活動し、よそのグループを打ち負かして故郷の小さな町のテリトリーを守り続けている彼らが、さすがにここまで警戒心のない、超ド級の阿呆みたいな連中だとは、思っていなかったのだ。
ここで見て見ぬ振り――は、出来ないんだろうなぁ。
マシューは深々と吐息をこぼした。なんて面倒な事になっているのだろう。ここに来て、まさかアーバンド侯爵が引き受けた『例の捜し物』にもヒットしようとは……。
組んだ手から額を離して、ゆっくりと目を向けてみた。向かい側の席に座っているのは、先程遅れて到着したリーダーと呼ばれているスキンヘッド頭の男だ。そのキレイに剃られた頭部には、一匹の小さな生き物がしがみついて乗っている。
まずその光景が、もう違和感でしかない。あのモフモフした小動物はすっかりくつろいでいるし、ピーチ・ピンクの面々も特に注目してもいないが、店内にいる数人の客も、無視出来ないとばかりにチラチラと視線を向けていた。
「というか、痛くはないのでしょうか」
「へ? 何が?」
あなたのスキンヘッドに爪が食いこんでいるように見えるのですが、僕の気のせいですかね、とマシューは続く言葉を胸の内で呟いた。その小動物は笑うような顔で、堂々と目立つ位置から騒ぐ青年たちを上機嫌に眺めている。
「……随分小さいですね」
「ああ、トラジローの事か? そうなんだよ、まだミルクか柔らかいメシしか食えねぇんだ」
最近保護したらしい事を、リーダーとその周りの青年たちが語り始めた。いつも泥だらけで帰ってくるたびに、風呂に入れてキレイにしていたところ、すっかり居座るようになって『リーダーの頭』が特等席のようになってしまったのだとか。
柄もごちゃごちゃとしているが、可愛い『猫』なので、きっと貰い手は見つかってくれるはずだ。ちゃんと稼げて美味いメシを食わせてあげられて、そうやってきちんと面倒を見てくれる人に引き取られるのが、トラジローにとって一番いい。
そう話しながら、彼らがまたもや「ぐすっ」と鼻をすすって泣き出した。テーブル席が一気に葬式のような重々しい空気と化し、マシューは別の意味で居心地が悪くなった。
もうコレ、見なかった事にして帰りたい。
「うぅ、どうしようリーダー、トラジローが可愛すぎて離れたくねぇよぉおおお!」
「ぐすっ、バカヤロー、トラジローの幸せを一番に考えやがれってんだッ」
「リーダー泣かないでええええええ俺も超泣くから!」
「せっかく肉付きも良くなってきたのに、食う物がなくなったら可哀そうだろ」
「猫は家に居付くもんだしなぁ」
これは猫じゃなくて、虎です。
こんなに足も大きくて耳も少し丸みを帯びていて、これからだんだ成長するに従ってハッキリしてくるであろう、立派なトラ柄もいっちょ前に入っているのに、何故気付かないのだろうか。そもそも、顔付きも猫とは違っている。
マシューは、それにしてもと思って「というか、トラジローって名前なのか……」と呟いてしまった。響きは異国混じり風とはいえ、ネーミングセンスが残念すぎるというか、いい加減すぎやしないだろうか。
そもそも雌の虎だと聞いていたのだが、彼らが数日間ほど雌雄に気付かなかった可能性が脳裏を過ぎるのは、自分の気のせいであって欲しい。
最高級品と言われている美しい金色の瞳。美麗なフォルムの特徴の一つである耳先の長い毛を、彼らが親切心で切ってしまったという下りには絶句したが、既に少し伸び始めているところを見ると、絵にあった成体の面影を若干感じる。
幼体なので鼻と肉球はまだピンクで、ふわふわとした身体も黒と茶色の柄が混じり、本来の基調である白色をほとんど隠してしまっている。四肢と尾の先だけが、白くなり始めていた。
この仔虎は、国宝に指定されている『百年虎』と呼ばれている虎だった。運んでいた馬車が襲われた一件があり、そこから闇市に流れる間に、抗争やらといった何事かが続いてあったようで、そこから行方が知れなくなって情報も途切れていたのである。
この様子からすると、本当にただ親切心から拾い、面倒を見ていただけなのだろう。サラダもちゃんと食べるんだぜ、と新鮮な野菜を口許に運ばれた『トラジロー』が、警戒心なくシャクシャクと食べるところからも容易に察せる。
随分懐いているようで、かわるがわる全員に撫でられるたび、ゴロゴロと喉を鳴らす。それも、話に聞いていた『百年虎』からは少し考えられなくて、かなり珍しい光景だった。
そもそも肉食獣のはずなんだけれど、と思いながら、マシューは暇を潰すように手元の皿に追加された鳥肉を口に運んだ。それくらいにトラジローが、彼らを信頼している証拠だろう。
あの仔虎の様子を見てから、既に『頼まれていた判断』については結論を終えていた。今回もマシュー自身の意見や判断も添えて欲しいと指示を受けていたので、問題は虎に関して、どう報告をまとめた方がいいのか、であろうか。
「どうしたものですかね……」
ここへ来てからというもの、溜息が尽きない。思い返せば、彼らの情報を集めるために故郷やその足取りを辿り出だしてから、もうずっとこんな調子である。
仔虎の体調は良いらしい。健康状態にも、今のところ問題は見られない。
「一つ訊いてもいいですか? その『猫』は、いつから頭に乗せているんです?」
「確かに二日くらい前には、リーダーの頭にいたぜ」
頭の横を刈り上げた青年が答えてくれたのを聞いて、マシューはしばし考え、道中に覚えた人間の気配を思い返した。ざっと浮かべた十通りほどの推測から、可能性が高い方についてはほぼ的中するかもしれない事を思う。
何せ関係者であれば、成体とはだいぶ色が違っている幼体を実際に見て知っているはずなので、分かるだろう。商売敵同士で揉めたらしいが、それでも捜しているとなると、余程『百年虎』が欲しいと見える。
守護。そして、戦いを勝利に導く白い虎。
マシューは、興味すら湧かないでいる、その根拠のない話について思い返した。贈ってきた皇女の国のではそう言い伝えられ、絵画としてもよく描かれているらしい。
けれど、ただのお伽噺や伝説の一つにすぎない。
彼は、そういったモノにはまるで興味がなかった。
ぼんやりとスキンヘッド頭の上を見つめるマシューのそばで、先に食事を終えた男が空になった皿を戻そうと立ち上がり、そのすぐ後ろのカウンターの壁にかかる彼の荷物に目を留めた。
「兄ちゃん、ずいぶんデカイ剣だなぁ。すんげぇ重そう」
「ラッツ、きっとアレだ、護身用のカモフラージュに違いねぇ」
「こんなにので斬れそうにないもんな。確かに存在感すげぇし、カツアゲ対策にはなりそうっすよね」
ここに来るまでにいろんな事があったに違いない、と彼らがまたしても感動し潤んだ目をこちらに向けてきた。そのうえ、何故か「剣かぁ……手入れに追われている連中を思い出して泣ける」と半ば同情までされてしまって、マシューはどうしていいのか分からなくなってしまった。
彼らは、もしや腰に差している刃物タイプの武器を、ほとんど使用していないのだろうか。特に手入れも大変ではないのだけれど、この反応は一体どういう事だろうかと疑問が湧く。
「……そもそも【斬る】用ではなく、【断つ】用ですからね」
視線をそらしながら、マシューはぽそりと口にした。勝手に妄想が膨らんだ男達は、話が飛んで別の話題へと移り変わり「そういえ鞘から抜けるの、まだ確認してねぇな」という事について、意見交換を始めたせいで聞こえていなかった。
賑やかなピーチ・ピンクの、「妹」や「天使」や「リーダーひゃっほぃ」といった、よく分からない盛り上がりようを眺めながら、マシューは時間をかけて食事を終えた。
腹は減っていなかったが、残さず全部食べた。彼らが明日を生きるための金を使って、注文してくれた料理だったからだ。
「ごちそうさまでした。僕は、そろそろ行きますね」
「元気になったか?」
「はい。おかげさまで」
頭の上に腹這いになって寛ぐトラジローを乗せた、リーダーと呼ばれているスキンヘッド男が「よし」と満足そうに頷いた。すると、その隣にいた一重瞼の男が、続いてこう言ってきた。
「少し歩くけどよ、隣町の近くに停まる馬車から乗れば、安くて済むぜ」
「兄ちゃん、森の方の道は通るなよ。追い剥ぎもちょいちょいいるんだ」
立ち上がったマシューは、やんわりと微笑んで「ご親切に、どうもありがとうございます」と礼を言って、立てていた剣を手に取った。彼らが騒いでいたせいか、店内にいた他の客達の姿はなくなっていた。
その時、リーダーの男が掌に拳を落とした。
「最近肉付きも良くなってきたから、トラジローふわふわな触り心地なんだぜ。兄ちゃんも最後に触っていきな」
声を掛けられたマシューは、わざわざ見送りのために、店の出入り口までついてきた彼らを振り返った。薄汚れたチンピラたちを、数秒ほど目に留める。
自分たちは汗を流す金もないのに、毎日『トラジロー』はキレイにしているんだな。
そう思って見つめていたら、リーダーの頭からトラジローを抱き上げた男が、「ほら」と差し出してきた。けれど、その瞬間にトラジローがぶわりと毛を逆立てて、怯えるように耳を伏せながらも激しく威嚇した。
「うぉ!? どうしたトラジロー?」
「ガイザー、お前の持ち方が悪いんじゃね?」
「撫でたら落ち着くんじゃないか?」
初めて見るトラジローの様子に、男達が揃って首を傾げる。
それを見たマシューは、無表情で「いいえ」と口にしていた。
「――この『猫』は、良い人間と悪い人間が、分かってしまうんですよ」
「ははは、それはないって。兄ちゃんはいい奴だよ、喧嘩しか出来ない俺らとは違うさ」
だからきっと仕事も見つかるぜ、とピーチ・ピンクのメンバーがいい笑顔で親指を立てた。それこそ大きな勘違いなのだけれど、難しく考えるのもバカらしくなるくらい、彼らは揃って全員明るかった。
トラジローは、ガイザーと呼ばれている彼の腕の中から、大きな金色の愛らしい目でこちらをじっと睨みつけていた。マシューはその雌の虎と目を合わせて、小さな苦笑を浮かべた。
「そうか。こんなに小さな身体なのに、もう彼らを守ろうとしているんだね」
爪と牙も仔猫ほどにもないというのに、なんとも立派な仔虎だ。
人間の良し悪しというのも、実はこの『猫』は殺しを行った人間を嗅ぎ分けてしまえるんですよ――とは教えないまま、マシューは彼らに別れを告げた。『百年虎』の報告内容は、もう決まっていた。
御馳走してもらった恩もある。
もう三件の『調査の仕事』に取りかかる前に、少しだけ寄り道しよう。
彼らと別れたマシューは、ザベラの町の外れから続く森へと足を進めていた。人の目がない事を確認して、一気に土を蹴り上げて前方へと加速する。
研ぎ澄まされた聴覚が、先程到着し森の中に潜んでいる男達の話声を拾った。『百年虎』を持っているのが、ピーチ・ピンクというチームらしいという情報まで得たようだ。そちらに向けて、マシューは凶暴な風のように森の中を突き進んだ。
「なんだッ、何かが来るぞ!」
視認出来るようになった距離まで近づいた時、そこにいた傭兵と闇商の男達が騒ぎだした。
落とす首は全部で六つか、――と目算し、マシューは大剣を鞘から引き抜いた。片手で構えて、開いた瞳孔で標的をロックオンする。
「これより、処刑を執行致します」
元処刑執行人の戦闘使用人。
マシューによって振るわれたその長い剣が、ギラリと光った。
※※※
ドゥーディナバレス領にも、とうとう向けられ戦争の足音が迫っていた。
その前に領民が暴動に出るだろう。こちらに向かって行進する彼らの姿が、監視塔の上からも視認出来た。武器になりそうな農具などを手にした彼らが、ここへやってくるのも時間の問題だ。
「父上、お爺様、僕は女王へ忠誠を誓う事が出来ません。僕はおかしいのですか?」
女王の城の敷地外れにて、丈の長い漆黒の古風な軍服に身を包んだ幼い男の子が、そう尋ねた。肌は雪のように白く、癖のない灰色の髪をしている。
彼を一時的にここへ連れ出したのは、尋ねられた二人の長身の男だった。一人は中年、もう一人は老人だ。どちらも同じように日差しを知らない肌の色をしており、黒の軍帽を深く被って黒革の手袋をしていた。その背中には、三家の剣が交差する処刑執行人の紋がある。
軍帽の鍔から覗く目尻に薄い皺のある長身の男が、冷ややかとも取れる私情も滲まない目を僅かにすぅっと細めた。
「お前の中にも、我らが代々受け継ぐ処刑執行人としての正義がある。おかしい事は何もない」
「しかし父上、僕は女王を『我らの法の主』として受け入れる事が出来ません」
「…………」
真っ直ぐに答える幼い我が子を前に、当主補佐であるルヴォイは沈黙した。相変わらず眉一つ動かさない彼のそばで、男の子にとって祖父である老いた当主も、冷酷な表情を貼りつかせたまま口を閉ざして、生ぬるい風に長い白鬚を揺らせている。
その時、木々の影からカサリ、と草を踏む音が聞こえた。
「三家で唯一の幼子か。自害する事を選択したとはいえ、民衆も、この子については目を瞑ってくれるのではないのかな?」
ルヴォイは、ゆっくりとそちらへ目を向けた。
気配も全く出さず影のように現われたのは、品のあるトレンチコートとハットで全身を黒に染めた、一人の男だった。年頃は三十代後半ほどだろうか。襟足から覗くのは、くすんだ濃い蜂蜜色の髪で、澄んだ明るい藍色の瞳をしており、慈愛を覚える親しげな印象の柔らかな微笑を浮かべている。
「何を迷う事があるのかな、最後の気高き処刑執行人よ。子にそうさせたくないのなら、それを告げてやればいい。父親として行動を起こしたとしても、誰も咎めないと思うのだけれどね」
「…………」
「歴史というのは、常に残す者によっても隠蔽される。民衆は、そこに幼い処刑執行人がいた事は書き記さないだろう。口を閉ざし、なかった事にし、詩人も作家もこの子を語り継がない。人の情とは、そういうものだ」
違うかな? そう言って、唐突に現われた紳士がふわりと微笑む。
「……なるほど。貴殿が隣国にあると聞く『王のための毒剣』か」
静かに口にしたルヴォイに対して、前触れもない訪問者――アーバンド侯爵は、微笑だけで応えた。
三家からなる処刑執行人の当主である老人が、青い空を見上げて、老いた野太い声でこう言った。
「多数国間による戦乱時代か。そちらのフレイヤ王国も、大変な状況だとは聞いたが、よくぞほぼ無傷の状態で生き抜いているものだ。――我が国は、これから訪れる蛮国によって、あっという間に蹂躙され滅びるだろう」
「確かに先客が複数立てこんでいるが、我らが陛下は賢王であらせられる。命からがら、こちらから亡命した者の話を同盟国より聞き、【突きの獅子】と呼ばれている男が指揮する精鋭軍をマーティス帝国へ貸し与え、蛮国を抑えてこちらへ向かっている」
とはいえ、暴動前には間に合わないだろうが……とアーバンド侯爵は、思案気にぽつりと続けた。
ルヴォイは「それで良い、じゅうぶんだ」と答えた。
「この暴動は、革命のために必要である。フレイヤ王国とマーティス帝国の軍旗を見て、その声明を聞けば、この小国の民はすぐに降伏するだろう」
軍隊と戦うだけの貯蓄も戦力も残されていない。食糧難で死んだ人間は、数ヶ月前の冬を越せずに亡くなった者も合わせると、既に一万人を越えていた。それを人々は分かっているのだ。
アーバンド侯爵は「君たちは己の正義で、歴史を終える事を望むのか」と独り言のように口にして、ぼんやりと話を聞いている子供へと歩み寄った。視線を合わせるようにしゃがむと、穏やかに微笑みかける。
「私のもとへ来るかい?」
問い掛けられた幼い彼は、言葉の意味がすぐに分からず父と祖父を振り返った。処刑執行人の当主補佐である父のルヴォイが、冷酷にも見える獣のような目を細める。
「わざわざ鎖国状態のこの小国に、危険を冒してスカウトに来たのか『血塗れ侯爵』よ」
しかし、と彼は目元から力を抜いて、こう続けた。
「とはいえ異論はない。判断は処刑執行人、マドュシュライザーに一任する」
「処刑執行人の長として異論なし。未だ見付けられていない、お前だけの正義と忠義を探しに行く事を、我らは止めはせぬ」
祖父である当主が、老人とは思えない強い眼力を向けてそう告げた。
本当は逃がすための算段をずっと考えていた癖に、と、アーバンド侯爵は顔面の表情筋がない似た者親子を見やった。それから、正式な名前に異国特有の訛りの入った、幼い男の子――マドュシュライザーに向き直った。
「昨年に息子が産まれてね。彼のための騎士に、そして将来、あの子が侯爵の名を継いだのなら、一番近くで支えて欲しい」
「…………その子の名前は、なんというのですか?」
「アルバート。アルバート・アーバンド。私よりも深い藍色の瞳に、あまり強くない蜂蜜色の髪をしている。どちらに忠義を誓うのかは、君自身で決めるといい」
どういう意味なのか、と問い掛けるように幼い彼は小首を傾げる。
「侯爵である私なのか、次期侯爵であるアルバートのための騎士になるのか、過ごす中で君が自由に選ぶんだよ。――忠誠を誓う対象を、アーバンド侯爵家という大家族にする、という選択肢もあるけれどね」
「大家族、ですか……?」
「執事長に料理長、メイド、衛兵。まだ数が揃えられていないから、先代の使用人達も在中していて、大人数だ」
指折り上げたアーバンド侯爵が、「ほら、大家族だろう?」と笑った。だから生きてみないか、と続けて問い掛け、手を差し伸ばす。
「達者で暮らせ」と、祖父が一段と低い声で言った。
「どうか生きてくれ」と、父が秘めていた願いを、掠れた声で小さく口にした。
幼かったマドュシュライザーは、――ゆっくりとその手を取った。
その後、フレイヤ王国の標準語名に合わせて『マシュー』を名乗る事になった彼の幼い頃については、現マーティス帝国統治・旧ドゥーディナバレス領で生きる人々が、今も語り継ぐ『首落とし姫』の物語では一切描写されておらず、その存在を書かれた記録も存在していない。




