十六章 血塗れ侯爵序曲(2)中
目の前からアローが吹き飛んでいって、マリアは呆気に取られた。
手が滑ったと言うには見事な飛び蹴りであり、昨日キレイに剃られていた髯も少し伸び始めているジーンの両手は、風の抵抗を受けて威力が半減しないようしっかり伸ばされてもいた。
物音に気付いた衛兵が飛び出してきて、現場の状況を見て「なんで大臣様がいるんだ!?」と目を剥いて、倒れこんでいるアローにも目を留めた。しかし、途端にハッとした顔で、慌てて室内の人間に「なんでもないですからッ」と言って、内側から素早く扉を閉めた。
扉を閉めたのは、いい判断だったと思う。
この状況を、リリーナとクリストファーに見せるわけにはいかない。
マリアは、しばし状況の整理が頭でつかず、思考ごと硬直していた。数メートル先の廊下で転がったアローと立ち位置を取ってかわるように、目の前でキレイに着地を決めたジーンのローブが落ち着いたところで、ようやく我に返った。
「というかお前、何してんの!?」
「俺から親友の案内役を奪おうとは、けしからん」
「阿呆! 意味分からんわッ」
「いてっ」
突然現われたのはお前の方であって、アローにはなんの罪もない。
マリアは、思わずジーンの大臣衣装を引っ張って屈ませ、彼の頭を叩いていた。両腕を廊下に置いたアローが、どうにかといった様子で上体を起こす。
「…………ごほっ。なんで僕は、蹴り飛ばされたんだろうか」
唖然とした顔で小さく呟くアローは、唐突の出来事に震えてもいた。まるで大先輩に恐る恐る尋ねるように、ふんぞり返って仁王立ちする長身のジーンへ、ゆっくりと目を向ける。
すると、ジーンがそっと眉を寄せてこう言った。
「俺は昨日、この出迎えのために、真っ黒なスケジュールをこなして仕事をめちゃくちゃ頑張った。その苦労を水の泡にしようとする妨害には、徹底して闘う」
「あの、よく分からないのですが…………。えぇと、妨害?」
「聞き流してくださいませ、アロー様」
マリアは、よく分からない理屈を説いて全く謝る気もない、むしろ正義感溢れる態度でふんぞり返るジーンの隣で、アローに心から謝った。
※※※
アローを助け起こした後、マリアはジーンと共に大臣の執務室へと向かった。
人通りの多い回廊から広間を過ぎった際、慣れない組み合わせを近くで見た軍人と使用人、役職務めの一部貴族が「なんだアレ」と見ていく中、ジーンは特に気にした様子もなく、軍人時代と変わらぬ堂々とした足取りでローブを揺らして歩く。
マリアは隣を歩く彼を、昔と同じ歩き方だなと思って横目に見ていた。しかし、ふと、こちらの歩調に合わせてくれていることに遅れて気付いた。
考えてみれば、飛び交う噂話もはねのけるように、風を切るように歩いていたのがジーンとオブライトだったのだ。今の小さな少女である自分に、それが出来るわけもない。
視線を集めている現状もあるので、ならば少し早く歩こうと思って速度を上げた途端、ジーンがこちらも見ずに前に手を出した。
「親友よ、急がないでいいぜ。気にするな」
冷静な横顔でそう告げたかと思うと、彼がいつもの表情をこちらに向けて、先程よりも調子を明るくした声でこう訊いてきた。
「それで、昨日はロイドと鉢合わせたんだろ? 大丈夫だったか?」
「あ~……そういえば――あったわね」
周りに人がいる事を思い返して、マリアは口調を直した。
昨日、ロイドに追われた一件については、本当に全く意味の分からない八つ当たりだった。一体彼の方で何があったのかは知らないが、おいで、といい笑顔で手招きされた光景に、ゾッとしたのはよく覚えている。
うん。なんで『おいで』になるのか、分からん。
ジーンに言われて助っ人に来てくれたレイモンドも、よく分からないと言っていた。ロイドがプツリと切れるのは珍しくないので、誰かが仕事でヘマをしたのではないかとも推測している。何故、今の自分に狙いを定めて突撃したのかは不明だ。
「というか、ジーン? どうしてタイミングよくレイモンドを回してきたの?」
「まぁ『もしや』と推測していた事が、おおよそ当たったというか?」
改めて問われたジーンは、誤魔化すように笑って視線をそらした。暗殺部隊の人間から『行かないように』という知らせをもらった事もあって確信した、なんて言えねぇしなぁ、と口の中で呟く。
通り過ぎる人々の雑沓の中で、彼が独り言を口にしたような気がしたが、マリアはそれを尋ねるタイミングを逃した。ジーンが話を切り替えるように、こちらにやや頭を寄せつつ「実はな」と切り出したからだ。
「今日開催される絵画品展に、ハーパーが参加する情報が入った」
「絵画品展?」
「展覧会ではなく売買を目的とした、購入者向けのデカいイベントみたいなもんだ」
ジーンは前方を見据えながら、周りの音に声を潜ませて語った。明朝に情報を収集している班から知らせがあったという。
「これまで国立芸術館に展示されていた一部の有名な原画作品を含む、絵画の購入イベントとしては年に一度の大きなものだ。オークションみたく、その作品に対して一番の購入金額を申告した奴が、後日結果が判明次第に届け日と支払金額が記された知らせが来るようになってる」
二人は広間を抜けて、軍区手前から政務区の廊下を進んだ。許可がある者以外は通さない警備の衛兵が、ジーンの姿をチラリと視認し、声もかけないまま見送る。
誰もいない廊下を進んだジーンは、衛兵から少し離れたところで再びマリアを見下ろした。
「俺の予想では、ハーパーの件に関しては、決行は明後日かそれ以降になるんじゃねぇかとは踏んでる。ちょっと確認したい件があって、追加で調べ物を頼んでいるからな」
マリアは、思案気に視線を正面に戻したジーンの横顔を見て、小首を傾げた。
「確認したい頼みごとって?」
「今のところは秘密だな。潰すには、ちょっと惜しい連中がいるというか」
そこでジーンは、またしても話を変えるべく「決まったら追々話すわ」と明るく口にして、話題を絵画品展の件へと戻した。
「実をいうとさ、集めさせてる必要な情報については、今夜辺りから届く予定になってんだ。つまり、今日の日中俺らの方は待機状態なんだわ。せっかくだし、ついでにハーパー本人がどんな野郎なのか、顔を拝んでおくのもいいかと思ってな」
任務の士気を上げるため、実際に自分達で足を運んで事前偵察するのは珍しくない。こちらとしては、やってこいと言われれば一つ返事でいつでも相手を叩き潰す構えではいるので、時間の暇がてらどういう人間なのか見に行く程度ではやっていた。
自分の『アトライダー侯爵家』で参加するわけにはいかないので、今朝の登城の際に、誰が空きがないか宰相のベルアーノに手配を頼んだ事を、ジーンは語った。
「そのイベントってのは、購入者候補であると認められた貴族に限られている。爵位だけじゃなくて、歴史や名誉や財産面と、条件がちと厳しくてな。どの家にも招待状が届くってわけじゃねぇんだ」
博物館級の歴史が古い絵画も売買されるくらいの、大きなイベントがこの絵画品展なのだという。招待されている人間は全て、それらをあっさり購入出来てしまえる立ち場の『超特別待遇のお客様』であるらしい。
「でも招待されている人間がそれだけ厳選されているのなら、私やニールが入るのは無理なんじゃないか?」
廊下に他の人間がいない事を確認して、マリアは素の口調でそう尋ねた。先日に見た大臣の執務室の扉が、廊下の向こうに見え始めていた。
するとジーンが、「平気さ。俺もアトライダー家の人間としてではなく、『お供』で同行する予定だからな」と言った。『超特別待遇のお客様』だからこそ、共をする人間についてはチェックされる事もないのだという。
「招待客の中には、同伴者について尋ねられるだけで『自分が連れて来たいと思ったから連れてきた、それの何が悪い?』と気分を害する貴族もいる。使用人にほとんど身の周りの世話をさせている場合もあるから、開催者側は、そこについては一切触れない事になってんだ」
自身の執務室前で立ち止まったところで言葉を切り、慣れたように扉を押し開けた。しかし、その瞬間、室内の様子を目に留めたジーンは、マリアと揃って真顔でピキリと動きを止めた。
広々とした大臣の執務室の応接席に、何故か第六師団の師団長、自称オブライトのライバル、ポルペオ・ポルーが、足を開いた状態で腕を組んで座っていた。
先日、中央訓練場で木刀試合をし、ヅラをぶっ飛ばして以来だったポルペオは、今日も相変わらずヘルメットのように固く塗り固められた、不自然すぎる茶色のヅラをしていた。
一目で偽物だと分かる前髪部分は、キリリとした黄金色の眉のだいぶ上で、持ち前の几帳面さを示すようにぴったり横に撫でつけられている。黄金色の鋭い瞳を隠すように、似合わない縁の厚い黒い眼鏡もあった。
ポルペオは、額に青筋を浮かべて不機嫌マックス状態だった。そんな彼が座るソファの横には、正座させられている大人が二人いる。
どうしよう、このまま扉を閉めてしまいたい。
ジーンの横顔は、無言のままそれを語っていた。マリアとしても、一旦状況の整理と判断の時間を確保するために、何も見なかったふりをして引き返したかった。
ポルペオの前で正座させられていた立派な大人は、先に大臣の執務室に入っていたニールとヴァンレットだった。以前四人で活動した際と同じように、一般兵の軍服に着替えていた二人が、扉の開閉に遅れて気付き、きょとんとした顔をこちらへ向けてきた。
その直後ポルペオが、我慢の限界を迎えそうなんだが、という怒り最高潮といった様子の表情でゆっくりとこちらを見た。
「――ようやく来たのか、馬鹿者め」
彼は低い声で、忌々しげにそう言った。




