十六章 血塗れ侯爵序曲(2)上
第四王子の私室には、専属の大人のメイドが三人、開かれた扉の前に二人の衛兵が立って警備にあたっていた。
こちらを見るなり、室内にあった金の装飾がされた長椅子に腰かけていたクリストファーが、笑顔を輝かせて足も届かない椅子から飛び降りた。第四王子である彼は、リリーナと同じ十歳、そして同じ背丈をした美少女に見える末王子である。
輝く柔らかな金色の髪と、一級品の宝石のような大きな金緑の瞳。すぐ上の兄王子であるルクシアとは違い、他人に対して少し緊張するところがあり、表情はとても豊かだ。
本日も同じリボンを身に付けたクリストファーとリリーナは、互いの喜びを分かち合うように駆け寄った。直前で思い出したようにハッとして足を止めると、すぐに手を取り合いたいのを我慢するように、婚約者とはいえ第四王子と侯爵令嬢として、まずはきちんと形式的な挨拶を行う。その様子も、大変愛らしい。
マリアは、だらしなく表情が緩みそうになって、意識的に室内の状況把握を行うべく目を向けた。いつもヴァンレットが立っている場所には、見慣れない若い近衛騎士が二人いた。どうやら、彼はまたしても用があっていないらしい。
そう察したところで、護衛にあたる彼らの代表のように、クリストファーの一番近くに控えていた男を見て、マリアは「あ」と声を上げそうになった。
それは以前に顔を合わせて自己紹介をした、ヴァンレットと同じ近衛騎士隊の隊長格にいる、第四宮廷近衛騎士隊の隊長アロー・ウィリアムスだった。
アローは三十代中盤頃といった容貌をしており、敵意や害もなさそうな、子供からは好かれそうな質素な顔立ちをしている。髪は癖のない淡いヴラウン色で 瞳は濃い灰色だ。
数日前、王妃の茶会で賊の騒ぎがあった際、彼はグイードの襲撃を受けていた。その一次被害だけでなく、ロイドの参加によって二次被害を受けた可哀そうな男であったと思い出して、マリアは同情の眼差しを浮かべてしまった。
アローの顔には、まだ完治していない擦り傷が薄らと残っていた。のんびりとした様子で立っていた彼が、手を取り合って話し始めたクリストファーとリリーナの様子を見計らい、こちらに歩み寄って、まずはサリーに親しげに挨拶した。
ヴァンレットが隊長を務める第三宮廷近衛騎士隊と、アローが率いている第四宮廷近衛騎士隊が、現在は第四王子の専属護衛部隊となっている。もしかしたら、リリーナのそばを片時も離れず同行しているサリーとは、ほぼ毎日顔を合わせているのだろう。
マリアがそんな事を推測していると、続いてアローがこちらへと視線を移してきた。王宮ではほとんどリリーナのそばにいないせいか、彼がしばしのんびりとした表情で、誰だったか思い出すような間を置いた。
「おはよう、えぇと…………」
言いかけたアローが、視線をやや上に持っていった。その視線の先にあるものに検討がついて、マリアは改めて名のろうとしていた口を閉じてしまった。
メイドと衛兵たちが、どこかハラハラとした様子で見守る中、席へと向かうクリストファーとリリーナの愛らしい声を背景に、アローがまるで誰だったかを思い出すかのように、じっと頭の上の観察を続行する。
マリアは、まさか違うよな、と思いながら彼の次の反応を待っていた。
すると、唐突にアローが思い至ったような顔をして「あ、リボン」と言って掌に拳を落とした。それから、マリアの顔へと視線を落として愛想よくこう言った。
「数日振りだね。朝はヴァンレット隊長に任せている事も多いから、なかなか会わないなと思っていたところだったんだ」
「…………」
気のせいであって欲しい。
リボンだけで、人物の識別をされてしまっている気がする。
以前アーシュに言われた、『目印みたいにデカいリボン』という言葉が脳裏を過ぎった。とはいえ、この髪型と膝丈のスカートが似合うくらいには可愛らしさもある少女を、まさか顔ではなく、リボンだけで認識する奴はいないだろう。
それに自分は、王宮のメイドとは違うデザインのメイド服をしているのだ。ここに勤める女性使用人の中で、髪を降ろしているというのも他にない最大の特徴だ。
マリアは、そう考えて己の冷静さを取り戻そうとした。けれど、アローが再びリボンの方に目を向けて「ところで」と言葉を続けた時、もはや愛想笑いを浮かべられないほど、そわそわと落ち着かなくなった。
「昨日もなんだか騒ぎに巻き込まれたらしいね。いつ総隊長が暴れたのかは気付かなかったけど、噂はチラリと聞いたよ」
「………………」
頼むからやめてくれ、それはリボンであって顔じゃないぞ。
マリアは、こちらと合わないアローの目線を見て、こいつはどこか抜けているのだろうかと思った。このパターンは初めてで、正直言うと、この男の現状の認識力とボケ具合には泣きそうだ。珍しいから見ている、というだけであって欲しい。
思わず言葉が出ないでいると、アローが扉から顔を覗かせた衛兵に「どうした?」と声をかけて、そちらへと少し足を進めた。その隙に隣にいたサリーが、こっそりとこう言ってきた。
「僕もあの人に、しばらく女の子に間違えられたよ。……名前を覚えてもらえたのも最近で」
「それは、あの……えぇと辛い話ね…………」
マリアは、アローの注意がこちらから離れているのを確認し、小さな声で相槌を打った。
困ったように視線を落としたサリーは、胸もぺったんこであるにもかかわらず、儚い美貌を持った少女にしか見えない。一歳違いとはいえ、こうして改めて見てみるとルクシアよりもほんの少し大きいだけで、彼はマリアよりも身長が低いのだ。
「サリーは、彼と一緒にいる事って結構あるの?」
「うん。ヴァンレットさんよりも、授業中の護衛はアローさんがいる事が多いよ」
格好を見れば明らかに少年で、うっかりしてしまう状況や場面でない限り『少女である』と誤認する事も少ない。それなのに女の子と間違えられ続けた、というサリーの主張も察したマリアは、悩ましげに首を傾げた。
サリーは美少女顔である。自分よりも女の子らしい可愛い顔をしているのは明白であるので、考えようによっては、まぁ仕方ないのかもしれない――とチラリと感じた思いについては、本人を前にして言えるわけもない。
元同性であった身としては、正面きって性別を間違えられるというのも、騎士を目指す少年には嫌な事なのかもしれないと想像出来たからだ。
何せサリーは、自らの意思でリリーナの侍従となった戦闘使用人である。
そのために、これまで握った事もなかった暗殺武器や剣を手に取って習得に励んできた。そばでその様子を見てきたから、他の使用人仲間たちもマリアも、それをとてもよく知っていた。
そう考えると、ちょっと申し訳ないんだよなぁ……
マリアは、日々彼に悩殺され掛けている自分を思い返し、ぎこちなく視線をそらした。屋敷の使用人として、彼が初めて正式に迎え入れられた際も、思いっきり抱き締めてしまい、マークやガスパーに「待てッ、お前の怪力でバッキバキ音が聞こえるから!」と怒られたくらいだ。
「マリア、どうしたの?」
いつもの自信のなさそうな声量で問われたマリアは、隣のサリーを見つめ返すと「うん、ごめんね……」とそのまま謝罪を口にした。
「なんか、いつも『可愛い』ってやっちゃってるなぁって…………」
「ううん、マリアに『可愛い』って言われるの、僕は好きだよ」
「え、そうなの?」
その回答は少し意外で、思わず尋ねてみたら、彼がやや恥ずかしそうに頬を染めてこっくりと頷いた。
やべぇな。その表情、女の子にしか見えないんだが。
一瞬真顔で冷静に思ったマリアは、煩悩を抑え込むべくゆっくり口を手で塞ぎ、続いて思考状態定まらない様子で小さく震えた。その様子をチラリと確認したサリーが、彼女に聞こえないだろうと察して、ふっと表情を消し、ひどく冷めたブラウンの瞳でアローを盗み見た。
「――正直、あの人、殺してやろうかと思った」
だって、リリーナ様とマリアには、必要のない人間だよね?
そう彼が口の中で呟いた時、授業開始を待つリリーナとクリストファーが一際大きな声で笑い、アローがこちらに戻ってきた。彼とパチリと目が合った瞬間、マリアは素早くメイドらしい表情と姿勢に戻っていた。
「何かあったのかい?」
「いえ、何もございませんわよ?」
「それならいいけれど。――あ、そうそう、ヴァンレット隊長は、赤い髪の人と先に向かったよ」
こっそりアローがそう言った。
赤い髪の人、と聞いて思い浮かんだのは、黒騎士部隊でヴァンレットよりもほんの数ヶ月分だけ先輩だったニールである。臨時班で集まりがあるのだろうかと推測して目を向けると、アローが、それを察したように愛想の良い顔で頷いた。
どうやら、今日はそのまま薬学研究棟に直行するわけにはいかないらしい。マリアがそう考えていると、サリーにリリーナたちのそばについているよう指示したアローが、「途中まで送るよ」と手招きして、部屋の外へ共に出ようと促した。
室内に残った二人の近衛騎士が、少しの間席を離れても大丈夫ですよと伝えるように、ぴしりと胸を張って両足を揃えた。そばに立ったサリーに気付き、リリーナが寂しそうにこちらを振り返る。
「マリアは、今日も別でお勉強なの?」
「はい。すみません、少しおそばを離れますが、帰る前には戻ってきますから」
「どうか無理をしないでね。お掃除の特訓もあって、毎日忙しくしているのでしょう……?」
リリーナがそう言って、少し心配そうな表情を浮かべた。王宮での授業が花嫁修業であると分かっているので、恐らく第四王子の婚約者の専属メイドとして修業に放り込まれている、というイメージでも持たれているのだろう。
少し不安そうに揺れるリリーナの大きな藍色の瞳は、潤いを増すと、ますます庇護欲をかきたててくる。彼女には笑顔が一番だ。マリアはそう思って、専属メイドという誇りと使命感をもって、自然と右手を胸にあててこう言った。
「大丈夫ですよ、リリーナ様。お任せ下さい。このマリア、全力で『お勉強』も『特訓』もこなし、必ずやあなた様の元へ戻りますからね」
どこか大人びた微笑を浮かべてそう告げる様子は、騎士然とした凛々しさがあった。将来リリーナの騎士になるサリーと見比べると、まるで性別と性格が本来は逆なのでは、と思えてしまうような光景でもある。
なんだか横顔が少年みたいにも見えるな、とアローは不思議そうに呟いて目を擦った。マリアを見ていたメイドと近衛騎士と衛兵たちが、なんと言っていいのか分からず「リボンのメイドの子、ちょっと変わってるよな……」とだけ口にした。
クリストファーにも挨拶をして部屋を出たところで、衛兵を一時的に室内へと入れたアローが、扉を閉めてからマリアを見下ろした。
「宰相様から、大臣の執務室に向かうよう伝言をもらっているよ」
「そうなのですか。先日にも訪ねましたから、一人で行けますわ」
ヴァンレットがいない今、一時的とはいえ、アローがクリストファーのそばを離れるのは良策だとは思えなかったので、マリアは先手を打って、案内役は不要であると伝えるべくそう言った。
すると、アローが「大丈夫かな……」と心配そうな表情をした。
「臨時班が決まってから、君が以前に一度、ジェラン様の執務室に行った経験があるとは聞いているけれど。――あ。僕はジェラン様が昔、部隊の副隊長をやっていた事は聞いて知っているよ」
そう続けたアローは、まさかそこにメイドが何かしらの助っ人で加わる、と急に決まった事には驚いたし心配もしている、と自身の想いを打ち明けた。
「僕も結婚して、今では子供が二人いる身だからね……。王宮はかなり広いよ、道順に不安があったりしないかい? 本当に一人で行ける?」
「ご心配ありがとうございます。大丈夫ですわ」
マリアは愛想たっぷりの笑顔を浮かべて、あざとい角度に首を傾げて見せた。
それでもアローは不安なのか、より心配そうな顔をして、許可された者の他は通れない、王族の私室もあるこの奥の宮の区の人気のない廊下の左右を確認し、それから再びこちらを見下ろしてきた。
「君たちは公にされない状態で動いているから、大臣の執務室はどこですか、と君が誰かに尋ねるのも難しい状況だろう? やっぱり僕が途中までついてい――」
その時、廊下の向こうに、一人の人間が勢いよく滑りこんで来た。
視界の端で上質なローブが大きく広がり、マリアとアローが条件反射のようにそちらに目を向けた時には、地響きのような激しい足音と共にその人物が目の前に迫っていた。
「おっとー、手が滑ったー」
そんな完全な棒読みの台詞が聞こえた次の瞬間、突進してきたジーンが、見事に両足を揃えた姿勢で、アローの横面に飛び蹴りを入れていた。




