十六章 血塗れ侯爵序曲(0)~先代ベルデクトと、アヴェインという名の末王子~
三十四年前、フレイヤ王国アーバンド侯爵邸――
その日は朝から、今にも泣き出しそうな黒々とした曇天が、空を覆い尽くしていた。前日に起こった痛ましい大事件を嘆くかのように、明朝まで珍しく王都全域に激しい雨が降り続けたせいか、春先だというのに湿った空気を孕んだ霧が朝の地上には満ちていた。
「あぁ、なんという事だ。私の陛下が」
五十代にしては一回りも老いを覚える容貌に、見事な白髪を持った男が、何度目かも分からない嘆きの言葉を発した。
その男はシャツの他、黒一色という貴族紳士の外出衣装に身を包んでおり、先程から悲しむ様子でコツリ、コツリと床を踏み締める。朝が訪れたにもかかわらず、屋敷のメイン・フロアは窓もカーテンも閉めきられ、まるで葬式のような沈鬱とした空気が漂っていた。
実年齢の五十六歳よりも随分老けて見えるのは、長身でありながらかなりの細身で、頬骨が目立つ肉付きの悪さのせいもあるだろう。
彼は自身が老け顔である事を自覚しており、よく似合うからと言って、早くに全て白髪となってしまってからは鬚も伸ばしていた。元よりしわがれたような声質をしていたから、自身で楽しんで「お爺さんだよ」というのが決まり文句でもあった。
「私は、とても悲しい。胸が張り裂けてしまいそうだよ」
長めの白い眉を、悲壮感たっぷりに落としているその男の名は――ベルデクト・アーバンド。肌は日差しを知らないように白く、異様に厚みのある黄色く鋭い爪を、普段は黒い手袋で隠している。
そこには、侯爵であるベルデクト・アーバンドの、全戦闘使用人が揃っていた。それぞれ各仕事着に身を包んでいるものの、全員が黒い手袋をして自分の武器を持ち、その中には戦闘モード時のように衣装を着崩している者もあった。
ひっそりと礼儀正しく控え待つ若いメイドの中にも、太腿まで入ったスカートの切れ目を結び、そこにベルトで収まる仕込み暗殺武器を覗かせている者もいる。
昨日、国王陛下とその一族が毒殺された。
何故、どうして、止める事は出来なかったのか――悲しみと混乱で特に王都はひどい騒ぎだった。この平和なフレイヤ王国内で……と国民は信じて疑っておらず、彼らによって他国による暗殺説も出回り、隣国や周辺国にも緊張を与えている。
今の国内事情がひどく複雑である事を、一部の人間と貴族たちは知っていた。だからこそ、ベルデクトは許し難い怒りと深い悲しみの中にあった。
けれど、それがどこか演技臭くも見えるのは、この男が悲しみや憤怒といった感情を人間らしく感受しないせいだ。何故なら、彼の感情の起源は全て殺す愉悦にあるからである。
【国王陛下の剣】であるアーバンド侯爵家当主、ベルデクトの嘆きを前に、すらりとした若作りの美貌の料理長が「お気持ち察し致します」と美しい声で言った。
「その悲しみが晴れますよう、亡き陛下に捧げるため、より一層美しく裁いてみせましょう」
一見すると冷静にも見える男だったが、戦闘使用人としては第二指令塔であるその料理長は、生きたまま人を捌く事に熱を注いで人生の大半を費やしていた。絶命のギリギリまで切り刻めるのは、どの臓器まで取り出せるところまでだろうか、といった研究については十代で終えたほどだ。
すると、隣にいた庭師――作業着姿の少年が、大きな茶色の瞳を彼に向けて、実に不思議でならないといった様子で小首を傾げた。
「お前の人体コレクションって、よく分からないよね。というかさ、コックなのに医療用手袋とか医者衣装とか、悪趣味じゃない?」
「中年とは思えない口調と表情するのをやめて頂けますかね。あなた、今年で四十になったはずでは?」
「僕は子供の格好が好きだからね。この変装をやめるつもりはないし、僕の本当の顔と姿は、旦那様だけが知っていればいいのさ。いずれは僕の変装技術とか演技とか潜入術を、次の代の戦闘使用人に継承したいところだけれど」
こればかりは向き不向きがあるから、どうにも難しい話だよ、と言って彼は肩を竦めて見せた。その様子を目に留めたそばかす顔の大人しそうな守衛の青年が「串刺し技術は継承なさらないのですか?」と親しげな笑みで声をかける。
すると、最後の一番大事な一人を持っている状態であった戦闘使用人たちが、それぞれ和やかな様子で小さく談笑を始めた。串刺しは見事なものですわよね、俺はじわじわと破裂させるのも好きだよ、あら駄目よ派手に殺してあげなきゃ――……
父親と同じ嗜好寄りの普段通りの彼らを見渡し、十八歳のアノルド・アーバンドは、ようやくベルデクトが足を止めたところで声を掛けた。
「父上、本当に全員出動させるのですか?」
「全員であたらないと、全ての場所をこなせないだろう? 大丈夫。その間は、お前の母がこの屋敷を守るからね」
そう言うなり、ベルデクトは悲しそうな顔に親愛の笑みを浮かべて、黄色い爪が目立つ細い手をある方向へと差し向けた。
アノルドは父親であるベルデクトとは違う、癖のないくすんだ濃い蜂蜜色の髪をさらりと揺らして、それとは対照的に色素の薄い藍色の瞳を動かせた。質素ながら鼻筋の通った良い顔立ちをしており、唯一父に似たのは二十代中頃に見られがな少々老けた容貌をしているところである。
そこには、アーバンド侯爵夫人であるリディアナがいた。白髪交じりの髪を貴婦人らしくゆったりと結い上げた、少しふっくらとした穏やかな女性だった。微笑む様子は、アノルドととてもよく似ている。
「大丈夫ですよ、アノルド。留守を犯す者がいたら、殺してくれと泣き叫ぼうがたっぷりいたぶって、手足を切り落として、わたくしが楽しく愉快に殺してあげますからね」
彼女は国内では五つ指に入る『裏』で有名な、暗殺貴族バーニラス伯爵家の娘である。夫とよく似た愉しみを持っており、ベルデクトにとって「これ以上にない素敵な女性だ」とする最愛の妻だった。
アノルドとしては、留守の心配はしていなかった。ただ、妹が他国に嫁いでしまったばかりであったので、母と大変話が合う彼女がいない事に加えて、殺しがないと母がとても暇で悲しむ事を知っている。だからもし『客人』がなかったら、一人残しておくのは可哀そうだなと思ったのだ。
その時、二階へと続く階段から足音が聞こえてきて、アノルドは、他の面々と揃ってそちらを見やった。
そこには燕尾服をピシリと着こなした、三十代くらいの無表情な男がいた。黒い手袋をつけながら降りてくる彼は、若白髪交じりの焦げ色の髪を後ろへ撫で付けるようにセットし、清潔感溢れるその襟部分に小さな金のバッジを付けている。
「旦那様、お待たせ致しました」
最後に到着した彼は、執事長のフォレスだった。
十代にしてベルデクトの専属執事となり、若くして執事長に就いた男である。料理長と似て顔面の変化は僅かなものだが、全ての武器を使いこなせる彼は、肉体そのものが武器であるという戦闘使用人一の過激な肉弾戦派であった。
ベルデクトは、フォレスの到着を確認すると「ああ、全員揃ったね」と口にした。最後の使用人が集ったのを見届けたところで、再びその表情に悲しみを滲ませる。
「私は悲しい、本当に悲しくてたまらないんだ。ああ、アノルド。お前の言う通り、私も積極的に歩き回るべきだったのかもしれない」
「心中お察し致します、我らが旦那様」
フォレスに目礼したやや髪の長い優男が、恭しく胸に手を添えて舞台に立つ俳優のように頭を下げた。すらりとした美丈夫である彼は、屋敷内専属の男性使用人の一人で、演劇の台詞を口にしていると錯覚するほど美しい声をしていた。
すると、実年齢よりも一回り以上若く見える美麗な侍女長が、「おいたわしい旦那様」と口にしてハンカチを目にあてた。
きっちりと頭髪を結い上げた彼女は、目尻の涙を拭う仕草だけでも品が漂う。覗いた首も腕も今にも折れそうなほど細く、コルセットでウエストをぎゅっと絞る風変わりなメイド服は、形のいいその胸を目立たせた。その右手には、床にめりこむ突起がついた巨大な鉄球がある。
「願うならば、わたくしが行く先々の方が、死と共に改心してくださいますように」
「それで頭ごと潰されるんだから、改心はどうでしょうかね」
侍女長の隣にいた若いメイドが、にこにこと愛嬌ある小さな顔を傾げる。
女性にしては珍しく短髪で、癖が強いままにふわふわとさせていた。瞳孔が開いた大きな緑色の目は、その無邪気さとは裏腹に狂気で濁っている。お洒落にアレンジされたメイド服には、頭にもスカートにも大きな白いレースが目立った。
「最高ですよね、パッと花が咲くみたいで! あーあ、ミッチェル侍女長と同じところを担当したかったです。追いつめられて絶望して、命を削りながら死んでいくさまを見せて欲しいですもん」
一番年の若いそのメイドに、先程の男性使用人が後輩を諭すようにこう告げた。
「お遊びもほどほどに。僕たちには、お待ち頂いている『お客様』が多くいる」
「あなたこそ『舞台』を絶望で彩るための時間を、あまりかけませんようお願いします。私たちは一人で複数個所を回らなければなりませんからね」
「料理長、それについては承知しております。僕としては、アリエル師匠と行けない事が残念です。串刺しでの拷問殺害は、どんな舞台であろうと素晴らしいに芸術作品に仕上がる」
そう言って、男優のような彼が熱い目を向ける。それを受け止めた庭師の少年が、にっこりと笑んだ。
「串刺しは美だよ、原始的でいて崇高だ」
「あなたの場合は年齢詐欺と、切り口が荒いのが欠点ですね」
「料理長。君の場合は、キレイに切りすぎるのが難点だよ。潰さない臓器の何が良いのさ?」
とはいえ、と庭師は笑顔のまま腕を組んで、付き合いの長い料理長にこう続けた。
「君の『執刀』は無駄がないからね、死の限界までされる生きたままの解剖ショーを見るのは、とても好きだよ」
「芸術的な苦悩の顔を作り出すあなたの拷問処刑は、私も気に入っています。あの潜血は、確かに美しい」
共感する他の使用人たちの楽しそうな笑みが小さく広がったところで、執事長フォレスが場を鎮めるように手を叩いた。一同がそこに注目すると、彼はやや呆れたように眉を寄せる。
「当主に近しい『家族』が集まる、とは先代執事長より聞いておりましたが、そちら寄りの血気盛んな方ばかりなのは、この旦那様ゆえなのでしょうかね」
それを聞いた中年コックが、「そうじゃねぇっすかね?」と言って、想像しながら言葉を続けた。
「とすると、そうですねぇ、アノルド坊ちゃまはお優しいから、人間らしいのが集まるかもしれないですね。俺らとは違って、情があって、人間らしくて、――そして過激な」
「これから見付けていかなければなりませんからね。坊ちゃまだけの『家族』を」
「少しの間は俺らも教育のために残りますから、しばらくは二世代の『大家族』っすね。どんな子があなたの『家族』になるのか、とても楽しみです」
何故なら、あと数時間で、アーバンド侯爵家は歴史を一つ終える。
これまでに例のないタイミングと、あまりにも若すぎる年齢ではあったが、現当主であるベルデクトが決めて、新しい考えを持った次期当主アノルドに代を引き継ぐ事を昨日宣言したからだ。
正式に侯爵位を継承するのは時期を見計らってだが、実質的には、この日をもって内部の立ち位置は変わる。全戦闘使用人を従えたベルデクトは、今一度アノルドに向き直った。
「私の陛下が逝ってしまわれた。唯一生き残ってくれた、あの幼き殿下が王となる――アルノド、彼が王座に就いたら時から、お前が次の『アーバンド侯爵』だよ」
「はい。心得ています、父上」
「あの方の毒剣となれ。私たちは次の世代のために、私たち世代の終わりを清算してこよう」
終わりとは悲しいものだ、とベルデクトは言って踵を返した。しかし、その顔には愉しくてたまらないというギラギラとした凶暴な笑みが浮かんでいた。使用人たちが、それぞれの武器を持って彼の後に続く。
「亡き陛下たちのために、美しい音色を奏でてくるよ」
恐怖と絶望の悲鳴、殺しによって奏でられる全ての音を。
アノルドは、玄関を出た彼らの姿が一瞬にして消えたのを見届けた。それから、自分なら普通に殺してあげるけれど、と思いながら愛し尊敬する母を振り返り、
「――それでは行ってまいります」
と穏やかに告げた。
※※※
昨日あった葬儀に続いて、朝に行われた追悼の鐘の音が閉められた窓の向こうから聞こえてきていた。父や母、兄上たちが死んで葬儀まで終わったのだという実感がない。放っておいて欲しいのに、次から次へと嵐のように多忙が押し寄せる。
今日は、何人の死を目の前で見たのだったか。
彼は、ベッドに腰かけたままぼんやりと考えた。最後の王族直系となった自分の命まで、こんなにも必死に奪おうとする輩がいたという事実に冷笑した。
なんだ、ほぼ全員が敵だったのかと思うと、嗤える。
毒で致命傷にならなかった自分を見て、剣を抜いてトドメを刺そうとした宰相が刺殺された。とても暖かい人だと思っていたから、それを見抜けなかった自分にも嗤えた。愛称でジーンと呼んでいる友が、危険を察知して必死に駆け付けてくれなかったら斬られていただろう。
一般的な見解からすれば、齢十三歳の末王子が一人残されたところで、どうにもならないとされている。しかし第三王子アヴェインは、これまで自己を主張する事に関心がなかっただけで、優秀な頭脳を持つとされていた兄たちを凌ぐ才能と、恐ろしいほどに強い精神力を持った末王子だった。
まだ十三歳である彼は、昨日起こった騒動からそれほど時間が経っていない中で、既に自身が置かれている状況をほぼ把握し終えていた。
誰が敵で、味方であるのか。もしくは事件関係者であるかのか、無関係であるのか。はたまた中立派であるのかもしれない、という目利きも出来るようになっている。
勘が働いている部分もあるが、今のところほとんど外れてはいない。先程もそれは当たり、急がせるような王位継承準備の騒がしさ溢れる王宮内で、暗殺されかけたところである。
そう、俺はあと数時間で『国王』になる。
末王子は幼いのだから、誰かがその後ろについて助言してやらなければならない。今、大人たちはその件で頭がいっぱいだった。
そのせいで、言い争いや喧嘩が絶えないでいる。お飾りの王として末王子に王位を継承させ、自分たちが都合良く権力を握りたいという浅ましさが露骨に見える醜い争いを続けている者たちもいる。それを真っ向から反対し、させるものかと奮闘する大人たちが頑張っており、そのため早い王位継承が実現した。
末王子に必要なのは、代わりに政治を執る人間ではなく、そばにいて協力してくれる大人である、と――
「初めまして、陛下」
気配もなく第三者の声が聞こえて、アヴェインは、つらつらと続けていた思考を止めた。
唐突な訪問客に驚くような心境を覚える余力など、今は残っていなかった。カーテンも閉められた薄暗い寝室の隅に、幽霊のように現われた人間へゆっくり顔を向ける。
「…………俺はまだ『陛下』と呼ばれる身ではない。お前は誰だ?」
アヴェインの幼さが残る大きな金緑の瞳は、疑わしさを探るように鋭い。その表情も十三歳には思えないほど冷静なものだったが、そこには泣き疲れた腫れもまだ残っていた。
顔を向けられた事で、その表情を目に留める事が出来たその男が、場違いなほど優しい微笑みを浮かべた。
漆黒のコートに身を包んだ若い男である。貴族といった風ではあるが、記憶力がずば抜けて高いアヴェインはその顔に見覚えはなかった。
そういえば、先程自分を助けてくれた衛兵もそうだったな、と小さな疑問を覚えた。殺気もない無垢な笑顔で、まるで手慣れたように一瞬で相手の人間を殺していた。だから、アヴェインは彼が動く直前までその存在に気付かなかったのだ。
とはいえ、この騒動で色々と手引きした者や裏切り者が出ている状況なので、衛兵側も急な人員変更がされているとしてもおかしくはないだろう、とアヴェインは考え直した。疑い深く慎重になってしまうのは、きっと自分が神経質になっているせいだ。
すると、見つめていた先で、漆黒を身にまとったその男が動いた。礼儀正しくハットを取ったかと思うと、それを胸に当てて恭しく礼を取った。
「お初にお目にかかります。私はアーバンド侯爵家の、アノルド・アーバンドと申します。公式的には、まだ爵位を譲り受けていない状態ではありますが、本日より実質的に、父より侯爵の権限を継ぎます」
そう言って再びこちらに向けられた顔は、顔立ちが悪いわけでもないのに、個性のない質素な印象を与えた。
どこか少し老けてもいたが、笑んだ際に変化した表情には幼さも残されていて、へたをすると、衣装や容貌といった外見で二十代に見えるだけで、まだ十代の可能性も出てきたな――とアヴェインはぼんやりと推測する。
薄暗い部屋にいるその男の瞳が、光を集めて明るく見える事には気付いていたから、シーツの下に隠していた護身用の短剣をこっそり握り締めて用意してはいた。
闇夜に慣らされたプロの暗殺者の眼が、そのような仕組みになっているとは、ここ数日で知っていた。彼らは少ない光を利用し、どんな暗がりだろうとハッキリ鮮明にモノを捉える事が出来るらしい。
まだ二十歳を迎えていないにもかかわらず、立派な青年にしか見えない老け顔の十八歳――アノルド・アーバンドは、明っているようにも見えるその薄い藍色の瞳を細めた。ふんわりと笑いかけると、敵ではない事を示すように帽子を床に落とし、両方の掌を見せるように胸の高さに上げる。
それを見たアヴェインは、なんの真似だ、と小さく睨みつけた。
「私は、あなたの絶対の味方でございます」
「――それを証明出来るのか?」
「機会をお与え頂ければ、すぐにでも」
アヴェインは、必要以上の質問を繰り返すほど無知で愚かな子供でもなかった。こちらを見据える男の眼が、嘘をついていないと分かって沈黙した。
「…………お前は、俺の剣となり、盾となると……?」
見返りも求めず、絶対の味方になるなんてイカれてる。
思わず口の中で吐き捨てると、その男が「あなたのためであればイカれているという言葉も素晴らしい褒め言葉です」とにっこりと笑んだ。その笑顔は、何気ない友人の話に穏やかに相槌を打つ、大人しい平凡な男の表情に見えた。
「我々は、王族を決して裏切りません」
なるほどそうか、とアヴェインは、ようやく察してそう呟いた。男が目の前までやってくるのを、止めもせず――
恭しく片膝をついて差し出されたその手に、「ならば俺を助けろ」と幼い自分の手を置いた。
※※※
人が近づく気配を覚え、アノルド・アーバンド――アーバンド侯爵は、ふっと目を開けた。
懐かしい夢を見た。あれから、もう三十四年が経ったのかと思う。
時間を待つために長椅子に深く腰かけていたものの、窓から差し込む穏やかな光に、ついうたた寝してしまったらしい。腹の上に組んだ手を置いたまま、ゆったりと青空へ目を向けて、穏やかな秋先の晴天をしばし眺めた。
予定時刻ぴったりに、扉からノック音が聞こえた。
アーバンド侯爵は、声も掛けずに目だけを向けた。
顔のよく似た二人のメイドが入室したかと思うと、長いスカートの前で上品に手を重ねて、揃って同じタイミングで恭しく頭を下げてこう言った。
「旦那様、お時間です」
それを聞いて、アーバンド侯爵は彼女たちに微笑みかけた。
既に外出準備は整っている。質の良いシャツに、金の飾りを留めた黒の紳士服。そこには控えめにネクタイピン等の装飾品も付けられており、いつもの黒のトレンチコートで身を包んでいた。
彼は腹の上の手を解くと、執務机の上の黒いハットを取った。仕上げとばかりに頭に乗せ、ギシリと椅子を軋ませてゆっくりと立ち上がる。
「さぁ、行こうか」
今日は、大事な用事がある。
多くの中にあるうちの一つとはいえ、わざわざ情報の一部を伏せてまで、こうして自ら出向かえる日を十六年間、ずっと待ってもいた『相手』の一人だ。
アーバンド侯爵は、定められている到着予定時刻を今一度思い返した。ふと、挨拶をして一番に出掛けていったマシューと、その後に出たアルバート。そして、昨日は疲れた事もあったようだが、なんだか楽しそうに馬の話をしていたマリアが、先程リリーナとサリーと共に馬車で王宮へ出発した様子が脳裏に浮かんだ。
「今日は、忙しくなるねぇ」
のんびりと呟いて、彼は二人のメイドを連れて部屋を後にした。
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