ストレンジワールドpart3
静まり返った室内に、たった一つの、僕の足音だけが響き渡る。
目指すは上。最上階にある支部長室。
だがその前に。
誰かがいる。
そこに誰かがいる。
感じる、というのとは少し違う。
分かるんだ。
そう、これは以前の僕が持ち合わせていた感覚。
ここではない何処か、遠くてされど近い異界で当たり前のように誰もが持っていた感覚。
それは例えるなら禍々しいモノの塊。
生き物を殺す為にのみ存在する毒の壺、いや沼地だろうか。
僕の感覚は段々と鋭敏になっていく。
原因は僕自身の記憶の復活に伴って、少しずつ以前の自分へ戻っているのが一つ。
それから、彼女の……晶のイレギュラーによる影響だろう。彼女は言うなれば異界への入り口そのもの。
彼女がイレギュラーを用いるだけで様々なモノがこっち側の世界へ流れ出す。
そしてそのイレギュラーが今、使われているのを僕はこの肌でひしひしと感じている。
一刻も早く止めなくてはいけない。
だから僕は一人で上に向かった。
今の僕のイレギュラーは、いや、僕自身が不安定で危険だから。
少しずつ、前に戻りつつある、それはつまり、以前の僕へ立ち返っているという事。
そしてそれはこの″力″を使えば使う程に、急速にその速度は加速的に速まっていく。
このままだと、そう遠くない時間で僕はこの世界から外れ、もう存在出来なくなるだろう。
でも構わない。
僕にとって一番大事なのは彼女、晶なんだから。
その前に立ちはだかるというのなら、僕はどうなっても構わない。
それが僕にとっての恩人であろうとも。
◆
まるで海にぷかぷかと浮かんでいるみたいに。
私は揺らめいている。
たくさんの人の気配、ううん、その″存在″が分かる。近くはこの、九頭龍支部だろうか、その地下にたくさんいる人達のモノから、すぐ近くにいる兄さんの存在まで。
感じる。
聖敬がこっちに来ようとしているのが分かる。
私は例えるなら″扉″だ。
自分の内面から色んな場所に、それこそ別の世界とでも言うしかない場所にまで″繋がる″事が可能な存在。
今なら分かる。
一〇年前。どうして兄さんが私から記憶を消したのか。
私の扉から危険な生き物がこちら側に来てしまえばどうなるだろうか? そんなの自明の理だ。
もし私が寝ている時にでも、無意識でイレギュラーを使ったりでもしたら、別の何処かに繋がってしまったら、それでどんな厄災が引き起こされるのか全く予想も付かない。
しかもこの扉は、私の意志でいつでも開けるのだ。
だからもしも、怒りに身を打ち振るわせた私が感情の赴くままにイレギュラーを使えばどういった事態が起きるだろう。そんな事を考えるのすらも怖い。
迅兄さんが何をするつもりなのかは分からない。
でも、兄さんの考える事はいつだって正しい。
兄さんは誰にだって優しい。
だからね、私は大丈夫だよ。
だからね、……聖敬。お願いだからこっちに来ちゃ駄目だよ。
◆◆◆
「はぁ、はぁ────!」
次の階へと至ろうとしていた聖敬の足が不意に止まった。
そう、もうほんの数メートル先に彼はいる。
静かながらも、強烈な気配が待ち構えている。
「やはり来ましたか」
「……支部長」
井藤の表情からは何の害意も伺い知れない。
敵意もなければ、戦意もない。
だが、一見貧弱そうにみえる身体の内側に封じ込めた″毒″はいつでも解き放てるようにしているのか、周囲の空気は澱んでいる。
「一つだけ聞かせて下さい」
「何でしょうか?」
「……君はどうしたいのですか?」
「僕は、晶を守りたい。ただそれだけです」
「成る程、ですがそれはもう君の力では不可能なのではありませんか?」
「…………それは」
「先日の一件で彼女のイレギュラーの事は既に、方々に広がってしまった。WGだけの問題であれば情報統制も出来ましたが、WDにまで拡散してしまった今、彼女の保護が可能なのはWGだけです」
「なら何でこんな事態になってしまったんですか?
今九頭龍は大変な事になっている。どうしてこんな状況で怒羅やエリザベスをさらって────何処に送ったんですか?」
「何を言っているのですか? 彼女たちならば支部の拘束室にいるはず……」
「ここに二人はいません。存在を感じない」
「君は、…………そうか。それが以前の力の一端ですね」
「答えて下さい」
「残念ですが私は分かりません。ん、どうしてだ?」
途端、井藤の身体が振るえ出す。
「く、ああああっっ」
呻きながら、頭を抱えて身を屈ませる。ズキンズキンとした痛みは鈍痛ではなく、まるでドリルで抉られているような痛み。激しい痛みを前に全身に脂汗が吹き出す。
「支部長ッッ」
聖敬が井藤へと駆け寄る。
その光景の一部始終を、西島迅は見ていた。
「やはりこうなりましたか」
その呟きに表情からは事態の推移に全く動じていない事が伺える。
彼のイレギュラーは″夢現″。相手の潜在意識に入り込み、誘導操作する能力である。
洗脳や記憶の改竄も可能ではあるが、制限がある。
それは相手の記憶そのものは消せない、という事。
事故現場に居合わせたのなら、そこにいなかった、とは出来ない。だから、元々の記憶に″付け足し″を施す。
現場にはいたし、事故も見た″かも知れない″。ただしその時自分は転んでいて、はっきりと犯人を見たのかは曖昧だ。
といった具合である。
相手の精神が弱ければすぐに処置も終わるが、そうでなければ操作には時間が必要となる。
昨日の段階で、迅は井藤、家門恵美、林田由衣の三人に処置を施そうと試みた。
だが、問題が生じた。
林田由衣は、すでに自身の意識をネットワークに″逃がしていた″。
家門恵美は、その生まれ育った環境の影響だろうか、強靭なその精神はまるで防壁であり、精密な操作は困難。
この段階で迅は二人については半ば操作を断念した。
林田由衣に関しては意識がないので不可能。
家門に関しても、時間をかければ何とか出来るが、今はその時間そのものが惜しい。そこで、彼は彼女が日本支部長であり、かつての上司であった菅原からの命令で九頭龍に入り込んだ複数のWDエージェントの確保、もしくは排除を請け負った事にした。信頼する人物からの依頼、という条件下でこちら側の動きから切り離したのだ。
そして井藤である。
彼の経歴を見た時から迅は確信していた。彼は、彼だけは確保しておかなければならない人物だと。
その凶悪そのものな毒は聖敬、をすら殺せる。本来の、向こう側の存在であれば殺せないが、今の、この世界に血肉を持った彼であれば可能だ。だから何重にも精神を操作した。だが如何せん突貫工事、少しの矛盾で洗脳は容易く崩れる、丁度モニター越しの彼のように。
「こうなっては仕方がない。悪く思わないで下さい。あなたを【借り受けます】」
そうして迅は隣の部屋へ入る。
そこには寝かされた状態の晶がいた。
様々な計器を接続された様はまるで集中治療室の患者にも見える。
それを無言で見詰めながら、耳に無線機を付ける。
「小宮さん、準備はいいですか?」
──こちらはいつでも大丈夫だ。どうやらあまり時間はない。急ごうか。
「はい、ではまずは【彼】の意識を乗っ取ります。
そして、【ストレンジワールド】を開始します。皆さん、ご協力を……」
──構わないさ、これは我々が納得した上での話だ。我々の望む世界の達成に際して、代償は必要。それだけの話だよ。
「…………」
西島迅は、目を閉じ、意識を集中させる。
その相手は今、目の前で静かに寝ている晶である。
「これもお前の為だ。分かってくれ────ッッッ」
そうして迅は、妹の肩に手を置く。
直後その身体は崩れ落ち、微動だにしない。
まだ何が起きたのかを知る者はいない。
だが、この瞬間。
世界は変わった。正確には変わり始めた。