狂ったケモノ
「この度は当方のバ、いえ若がご迷惑をおかけしまして」
加藤秀二こと秀じいは倒れ込んだままの零二を一瞥すると、開口一番そう言って頭を下げる。
その一方で「オイ秀じいさっきも今もバカ、って言おうとしたよな、絶対言おうとしたよなっっ」と怒り心頭の不良少年からのクレームに対しては、無言で手にしていた杖で頭を一撃、
主たる少年を「ぐはっっ」と即座に沈黙させる。
その所作はあまりにも自然で流れるようですらあり、田島達は初対面ながら両者の力関係を認識した。
というか三人は同時に思った。
(おいおい、本当に味方なのかこの爺さん)
何とも微妙な沈黙が数秒程続き、それを破ったのは「いやいやご迷惑どころか助かった、です。なぁ将?」
田島であった。だが完全にペースを崩されたらしく、言葉に戸惑いが入り混じっている。
「あ、はい。僕達こそご迷惑をおかけしました」
田島からのアイコンタクトで進士も、こちらは田島よりは冷静だったらしく頭を下げる。
「これはこれはご丁寧に感謝しますぞ。それで……」
そう言いながら秀じいが視線を向けるのは凛。
「星城凛さん、ですな」
「──え?」
凛はただただ驚くしかなかった。
初対面、の相手。
それもWDの人間ではないはずの相手。
零二からその存在は聞いてはいた後見人。
個人的に調べた事があり、具体的な証拠こそないものの、九条羽鳥然り、WGの菅原日本支部長然り、と色々な大物との接点があるらしく、どうやら裏の世界にかなりの人脈を持っているらしい、とは推察出来た。
だから、油断ならない相手だとは思ってはいた。しかし、である。
「あなたには若が日頃から大変ご迷惑をかけております。いずれお礼を差し上げますので」
「ちょっと待って、ください。何で私の名前を知ってるの、ですか?」
「これは失礼を致しました。若の近くにいる方々については武藤で身元確認をさせていただいておりますので。若は敵の多いお方ですので何卒ご容赦くだされ」
秀じいは本当に申し訳なさそうに深々と凛へ頭を垂れる。
その所作はさっきと同様に流れるようで無駄を感じなず、目の前の老人が、自分達よりもずっと強い存在である事がただの挨拶で理解出来た。
「さて、それで気をやっていられるのが星城聖敬君ですな」
秀じいはそう言いながら、聖敬へと向き直り、歩み寄ろうとして立ち止まる。
「む、若──」
「へっ、だな。秀じい。手を出すなよな」
「は、かしこまりました若」
うやうやしく頭を下げ、執事たる老人は後ろへ下がり、同時に気絶していたはずの零二が飛び起きる。
そして姿勢を低くして身構える。
「…………」
彼は、ゆっくりと無言で起き上がる。
一見すると何の怪我もなく、健康そのものに見える。
しかし、さっきまでの彼とは明らかに違っていた。
「キヨちゃん、だよな」
田島に見えたのは、その虚ろな目。さっきまでとは違って今の彼の目からはまるで生気が感じられない。
「オイ悪い冗談はよせよ……な?」
まるで幽鬼にすら思える。
だが肌で感じる、圧倒的な何かを。
本能が告げている、危険だと。
「星城……どうしたんだ?」
進士は一瞬何か異常が起きたのかと思い、反射的に目をこすった。
アンサーテンゼア、不確実なその先、というイレギュラーを彼は日頃から使用している。
ありとあらゆる可能性を瞬時に予測するシミュレーション能力者、それが進士将であった。
「一体なにを」
そこまでしか進士には言えなかった。何故なら、彼には聖敬の可能性が”観えなかった”のだから。
「え?」
知らず内に、一歩後ずさる。
姿は同じだと言うのに、そこにいるのは。
「クソ兄貴、無事だったんだ──」
凛もまた、そこで言葉を詰まらせた。
「あんた誰よ?」
そして即座に身構える。長年寝食を共にしてきたからこそ分かる。そこにいるのが他人である、と。
姿形こそ星城聖敬なれど、何かが決定的に欠けた何者か。それが義妹である彼女から見た相手の姿。
「──こだ?」
聖敬? はゆっくりとした足取りで歩きながらしきりに周囲を見回す。
姿も完全に人に戻っていたのだが、痛覚を感じないのか麻痺しているのか、その素足は地面にあった破片でパックリと切れており、真っ赤な足跡をスタンプみたいに残しながら何処かへ歩こうとする。
そこへ、「オイそこの誰かさンよぉ」と声をかけたのは零二。
その目から、表情から発しているのは明確な敵意であり、剣呑な雰囲気を全く隠そうともしない。
「いいぜ。やるってンなら──今この場でよぉ」
とは言えど零二は既に体力的には限界を迎えており、その勝ち気な表情とは裏腹に、実際には立っているのが精一杯である。
(ち、ったく上手くいかねェ。にしても)
努めて呼吸を落ち着かせ、相手を確認する。
(間違いねェな。こりゃまるで別物だ。シャレにならねェ位に強いなぁ、全く参ったぜ)
一瞬、息を抜いたその時である。
「若っっっ」
秀じいの声と共に零二自身も気付いていた。
しゅ、という軽く空を切る音と共に、目の前へ何かが迫るのを。
瞬間的に全身を一瞬で熱操作。爆発的に加速しバックステップで躱す。
「あっぶねェな」
その目は自身へと向けられた相手の爪先を凝視している。
その上で零二は不敵に笑う。
その胸部は大きく抉られていた。だが、奇妙な事にその傷口からは一滴の血も出ていない。
「……こにいる?」
聖敬は、目の前にいる零二に一切興味を持たないまま、唐突に襲いかかる。
殺気も戦意も抱かないその動きに、虚を突かれた零二は動き出しが遅れながらも迎え撃つ。
「うっらああああああ」
裂帛の気合いを込めた声を、全身から焔を発しながら、聖敬へ向かっていくのであった。
◆◆◆
あれ? 一体どうしたんだろ?
ここは何処? 私、何してるんだろう?
そう思いながら目蓋を開く。すると目の前に広がるのは″世界″だった。
色んなモノ、景色だとか生き物が、様々な視点で世界が観える。
それらの視点が一瞬で脳内に入り込む。
分厚い辞書を一気にページをめくっていくみたいに、まるでパラパラ漫画でも見ているみたいな感じだけど──その全てが私には分かるんだ。
″世界″の色は様々だってすぐに分かった。
最初は真っ白、空も大地も何もかもただ白かった。
次は真っ青。まるで一面が空みたいに思えた。
その次は────────、
何回か繰り返す内に、何で色が変わるのかも分かった。
これは私の心なんだって分かった。
最初に真っ白、だったのは多分何も″知らなかった″から。テストで知らない問題があった時に、何も書けない時みたいに。
そこから色が変わっていったのは、何となく″理解″したからだと思う。
ここが何処なのか、って。
ここが何処なのか、と聞かれたら正直答えに詰まるなぁ。だって私そんなに頭良くないしさ。
でも漠然とした言い方でなら言えるよ。
ここは″世界″だって。
世界は常に形を、色合いを変えていく。
一分一秒たりとも同じ場所にはなくて、同じ形はしていない。
少し手を動かすと形が変わっちゃうのはまるで粘土細工みたいでもあり、こうして身を任せて流れていると海みたいにも思える。
私は目をつむる。
ここは見ているのでも視るのでもなく、観る訳でもなく、ただありのままを感じる場所なんだ。
知らない事ばっかりだけど怖くはない、だって私はずっと前からここに繋がっていたんだもの。
ううん、きっと皆も繋がっている。
だって世界っていうのは皆がいなきゃ成り立たないんだから。
私はたまたまその存在を実感して、理解して、少し動かせるだけ────ただそれだけ。
今なら一〇年前の全部が分かる。
私が何をしたのか、そして世界が変わってしまったのもよく分かる。
全部私の責任。
お兄ちゃんがああなったのも、今、九頭龍がこうなったのも全部私に原因がある。
だから、アナタは何も悪くなんかないよ。
さあ落ち着いて、────ね?
私はすぐ傍にいるから、力を使わないで。
◆◆◆
「くっは、チッ」
零二は舌打ちしながら上半身を後ろへ傾け、迫る攻撃をすんでの所で躱す。
ふおん、という音はまるでSF映画で見たような武器を振るった音のよう。
実感のない音。
だが、その威力は強力無比。
その爪痕は、あちこちに刻みついている。
マンションの壁、アスファルト、電柱、車。
それら全てが、パックリと″無くなっていた″。
冗談みたいに爪先が抉ったモノ全てがゴッソリ無くなっている。
(破壊された、ンじゃねェな。消えたっつうコトか)
零二は自身の周囲の惨状を、迫る攻撃を躱しながら分析する。
普段の言動から粗暴で短慮だと思われる事の多い不良少年だが、こと戦いに於いては短慮ではない。
それはひとえに傍に控える後見人の教育の賜物。
戦いに臨んでの心構えの一つ。
これで幾度目か。空を切りながら迫る聖敬の爪先。流石に零二もその攻撃速度を見切った。
左手刀で相手の右腕を弾き、同時に一歩踏み込むや否や下に構えた右拳を上へとかち上げる。
痛烈なアッパーを相手の顎先へ喰らわせ、よろめかせ──左手で腕を掴むとそのまま捻りながら、後ろへ回り込む。そうして合気、或いは柔術のような関節技を極めた。
「さって、これで鬱陶しい爪は使えないぜ。少しばかり落ち着いて話でもしようぜ」
自身の勝機を確信した零二は、あくまで不敵に笑った。
実際、場にいた面々で田島に進士、凛はこれでひとまず事態は収束した、と思ったに違いない。
「若っっっ、いけません」
ただ一人、冷静に事態の推移を見ていた秀じいを除いて。
彼は聖敬の醸す異様な雰囲気に違和感を覚えていた。確かに零二は相手を制していた。
関節を極め、回り込んだ状態でなら相手がどう手向かおうが問題ない。それは秀じいが零二に教えた事であり、あの態勢からの逆転の目はない、と理解していた。
だと言うのに。
聖敬、と呼ばれたモノから漂う、名状し難き何かは弱まるどころか強くなる一方。
「な、に────?」
零二の目が驚愕で大きく見開かれる。
身体から力が抜けていく、何故なら。聖敬の左手が、刃の如く尖った爪が腹部を貫いていたのだから。