落伍者の末路
聖敬は結局、気絶した金髪少女を病院まで運ぶ事になった。というのも、病院はすぐ目と鼻の先だったし、様子や話を聞く限り彼女は何も見ていなかったらしいから。それに、今の聖敬には人間一人位は苦もなく運べる。
それでも一応、検査などはするべきだと思ったので、直接自分で背中に背負って連れて行き、検査に立ち会った。
幸いにして、検査結果は特に肉体的にも精神的にも問題も何も無く、記憶の”改竄”の必要性も無かったと聞いて安心した。今晩だけ一般病棟に入院で明日には退院出来るらしい。
記憶改竄は、何だかんだで対象者に一時的とは言え、脳に負担をかけると、田島は言っていた。
――考えてみなよ、キヨちゃん。だってもともとの記憶の上に別の記憶を上書きしてくんだぜ。その間、記憶を弄られる側には一時的に二つのデータが並列される。つまり、その分余分に脳に負担をかけているんだ。
上書きされたからって、今度はその記憶が本人の中で消化されるのには個人差はあるけど、時間もかかる。
無意識でも、その間脳はフル回転してんだ、疲れると思うぞ。だって、いつもの倍の負担を抱えるんだからな。
それを聞いていたので、あの少女が特に何も無くて良かった、と心からホッとした。
それで報告へと支部長室に足を運んだが、井藤は急な出張とかで、九頭龍から出ているらしい。帰るのは明日の夕方になるそうだ。
だから、報告は副支部長である家門恵美にすることになった。
「成程ね、そのフリークは突然変異したのね」
家門はそう言いながら、顎を指で触る。
最初、聖敬は、家門恵美を見て驚いた。何故なら、彼女は私立九頭龍学園の職員だったから。彼女は事務員として中学の頃から学園で働いていて、無口だけど美人と学園ではかなりの有名人だったから。
「それで、あのフリークになった……」
「彼は鎮静剤を投下してから、コールドスリープ処分にします」
その家門の言葉を聞いて、聖敬は少し安心した。フリークになった者はもう元には戻れない。失われ、破綻した人間性はもう手の施し様がない。
だが、少なくとも、WGはいずれはフリークからの回復も出来るようになる事に可能性を信じ、出来うる限りの対処している。
その一環がフリークの冷凍保存である。
超低温状態での強制的な手段ではあったが、殺してしまうよりはましだろ? とそう田島に聞かれると返す言葉も無かった。
「ご苦労様でした、今日は医師にメンタルチェックを受けたらそれで帰っていいです」
家門はそれだけ言うと席を立ち、早足で支部長室を出ていった。
気のせいか、彼女の表情は少し硬かった。慣れない代理に負担がかかっている様に見える。
支部長室にいても意味は無いので、聖敬は早々に出る。
井藤には二つの支部長室が用意されている。
一つは九頭龍学園内にある”開かずの間”と呼ばれていた物置部屋を改装したもの。あそこには支部のメンバーが常にフィールドを張っているそうだ。だから、マイノリティ以外には近寄る事は出来ないのそう。そう言えば、誰かがあの物置部屋に入ったって話を聖敬は聞いた事が無かった。
もっとも、物置部屋には田島や進士の席もあるので、正式な意味での支部長室ではない。あくまでも仮の支部長室だ。
本来の支部長室あるのは九頭龍病院の南棟、その最上階である。
「しっかし、何回来ても馴れないなぁ」
聖敬は苦笑しながら、廊下を歩く。さっきからWGのエージェントや連絡員が横を走り抜けていく。その表情は押し並べて険しい。
ひょっとしたら、さっきのフリーク騒ぎに関係しているのかも知れない。
あの、と横切ろうとした女性に声をかける。
振り向いたその女性はグレーのパーカーにダボダボしたサルエルパンツ、足元は便所サンダルという格好で、周囲の人々と比べても明らかに違和感のある出で立ちだ。一瞬、入院患者かと思わず聖敬は思った。
「んーーー? キミはダレ?」
林田由衣。WG九頭龍支部のネットワーク主任。以前、一度だけ紹介されていたのを聖敬は思い出した。
「あ、えーと。星城聖敬です」
「ふーーーん?」
「え、何でしょう」
林田はジッと聖敬に訝しそうな視線を向ける。物凄く近くに顔を近づける。
「由衣さん、メガネ、メガネっっっ」
そう言いながら同じくネットワーク部門の職員が慌てて黒縁メガネを持ってきた。
「ん? ああ、メガネ。じゃ、行くかぁーーー」
そう言うと林田はそのメガネを付けると支部長室へと足を向けた、唖然としてる聖敬をよそに。
「ゴメンな、林田主任は変わり者だから。あぁ、だからなんでID覚えて無いんですか、もう!!!」
職員の呆れ声が響く。
「大丈夫なんだろうか? WG」
改めて聖敬はため息をついた。
◆◆◆
「ひゃははは、くひゃひゃひゃっっ」
路地裏で男は狂った様に笑い出す。彼もまたドロップアウトの一人だ。
「おいおい、大丈夫かぁ」
「何かヤバイクスリでも決まっちまったのか?」
突然の事だったがにつるんでいた仲間達は特に心配するでもない、これが彼らの日常だから。
彼らは街をぶらつきながら、気に入らない学生を見つけては路地裏に引き込み、金を強要し、金額が多ければ連絡先を押さえ、少なければ気の済むまで殴り付ける。
で、奪った金で遊び呆ける。これがドロップアウトである三人の日常だ。ドロップアウトと呼ばれる者達は数千人以上いるものの、その繋がりは基本的に薄い。緩やかにチームや集団は存在しているものの、それは例外だ。
その大多数は、この三人と似たり寄ったりで特に何をするでもなく街をぶらつく。彼らにあるのは只々現状への不満であり、そのはけ口として手っ取り早く暴力を用いてるに過ぎない。
だからだろうか、ドロップアウトとなった彼らは”ドラッグ”に依存しやすい。この三人も金さえあればドラッグを買い、摂取してはハイになる。自分達でも薄々は分かっている、こんな事をしていたらいつか取り返しが付かなくなると。だが、止められない。気がつくといつも同じ面子で何となく集まり、何となく他者を虐げる。分かっている、こんな事をしていたらいつか……失うと。
その日も三人は九頭龍の街中をぶらついていた。
何となしに、行き着けの喫茶店の窓から駅前通りを行き交う人々に目を向けながら時間を潰す。
その日、三人が目を付けたのは九頭龍学園の制服を着た学生だった。理由は特に覚えてなんかいない、ただ何となく目に付いた。ただ、それだけの事だった。
「おいおい、おれらにぶつかっといてスミマセンの一言も無いんですかぁ? あぁん」
「傷付くよなぁ、あーいてぇよ」
「どうすんだ、これ? 責任取ってくれよぉ」
相手の学生は顔を真っ青にして、只々口をパクパクさせている。路地裏でこうして三人に絡まれた事で、頭がパニックになっているらしい。ふと、怯えるその学生を見回すと、腕時計はそこそこ高そうなブランド物で、履いてる靴は確か有名スポーツ選手が履いてるスニーカーでプレミア物だった。
(結構いいカモじゃねぇか)
三人は互いに目配せした。目の前の学生から巻き上げればドラッグ代くらいは軽く調達出来そうだとそう値踏みした。
「か、勘弁してください」
学生は消え入りそうな声でそう言う。足元はガタガタと小刻みに震え、今にも気絶するんじゃないのかと思える程に怯えていた。
「ちょっとーやめてくんない。何かおれらが悪い奴みたいじゃないかよぉ」
「そうそう、傷付くよなぁ」
「おれら、そこまで悪い奴じゃないんだぜぇ」
「ど、どうすればいいん……」
「そんなんわーってんだろぉ」
そう言いながら拳を振り上げた時だった。
ガララァン。
突然、三人の足元に何かが転がってきた。甲高い反発音はそれが金属製だと伝えている。振り返ると、すぐ傍に金属製のゴミ箱が派手にひしゃげて倒れていた。
「おいおいおいおい、なんだこりゃあ」
そう言いながら近付いて来るのはその制服を見る限り傍で震えてるカモと同じく九頭龍学園の学生らしい。
身長は一七〇は無さそうだ、自分達三人の方がデカイ。
「なんだてめ……」
そこまで言いかけて、言葉を失くした。
その少年は一言で云うならまるで”野生の獣”の様だった。
長袖ブレザーの右袖は肘までしか無く、ズボンは左足がふくらはぎまでしか無い。髪はツンツンとした短髪でまるで角の様にも見える。気だるげな様子で無造作に三人に近寄る少年は――武藤零二。
「くっせぇなぁ。ンだよこの臭いはよ」
零二はそう言いながら鼻をつまみ、露骨に三人を一瞥すると顔を背ける。
「あーーー、テメーらか。ゴミの臭いの元はよ」
いきなり持っていた鞄を目の前の相手の顔面に叩きつけた。
ぶっと呻き、一人がよろめく。三人の怒りは一気に頂点に達する。
「調子にのんなよクソが」
三人の注意はさっきまでの学生から完全に零二に移った。その隙に慌てて逃げる学生。気付いた一人があ、と叫ぶ。
「はぁ、正義の味方のつもりかテメー」
怒声を吐きながら零二を囲むと、ポケットからはバタフライナイフを取り出す。
「テメーが悪いんだぜ、だから――」
言い終わる前にぶっ飛んでいくのは仲間の一人。あっという間に零二が拳を顔面に叩き込んでいた。ぷぎゃっという声をあげつつ地面を転がっていく仲間の姿に残された二人は震えた。
零二はゴキゴキと手足を鳴らしながら欠伸を入れる。
隙だらけに見えるのに二人は動けず、完全に呑まれている。
「ンだよ、なんもしねぇのかアンタら――ま、いいや」
ぶっ飛べ、そう言うと零二は右手を大きく引き絞り、襲いかかった。事が終わるのはほんの一瞬、十秒もしない内に表通りに零二は出てきた、つまらまそうに欠伸をしながら。
残されたのは拳を叩き込まれうずくまる三人だけになった。
それからどの位の時間が経ったのか、三人はようやく起き上がると痛む身体を引きずり、表通りに出た。
いつの間にかすっかり夜になっている。街灯が暗闇を切り裂き、街を照らす。満月だったはずだが、空には厚い雲がかかっているのか、その輝きは見えない。
三人は、気がつくとある少女を囲っていた。
――――そして。気がつくと、その場には誰もいない、ただ手には彼らが常用しているドラッグの包みがあり、彼らは迷わずにそれを摂取したのだった。
◆◆◆
「え? 僕を呼んでるんですか?」
聖敬は検診を終え、病院を後にしようとして、呼び止められた。WGの職員が引き止めた。
さっき、病院に運んできた金髪の少女が目を覚ましたらしく、聖敬を呼んでいると聞いたのだ。
――君にお礼を言いたいんだそうだ。
そう言われて無視をするのも悪い。そう思った聖敬は彼女が入院している北棟の六階にある病室に足を向けた。
「ありがとうございまスっっっ」
病室に入るなり、彼女は思いっきり聖敬に抱き付いた。まるで弾丸みたいなその勢いに押され、聖敬は思いっきり頭を床にぶつけ、ぐああ、と悶絶した。
「うごごごご………」
「あ、だいじょうぶかナ」
「大丈夫じゃないっっっ」
聖敬が怒りながら勢いよく起き上がると、その目の前のには彼女の胸。その豊か谷間へとそのまま一気に顔を埋めてしまう。
「あら、だいたんネ」
金髪少女はクスリと笑う。一瞬呼吸が止まり、聖敬は一気に後ろにのけぞってガツン、と今度は壁にまたも頭をぶつけた。
「あ、あのさっきのはその、ごめん」
「ん? なにがでス」
「い、いやその…………」
どぎまぎする聖敬を彼女はジロジロ見ている……そして数秒後。
「あ、さっきのが【ラッキースケベ】ですネ」
あっけらかんと言いのけ、ケラケラと笑いだした。
聖敬は彼女のペースが掴めず、ただ困惑するだけ。
「なんでス? きんちょーしてるんですカ?」
「そ、そりゃあ……」
言いかけて、目の前の少女の病院服から見える谷間が目に入った。思わず目を背ける。
(だ、ダメだ! 刺激的過ぎる)
金髪少女はそんな聖敬の煩悩など露知らずにその破壊力抜群の胸を近付ける。
「ま、いいでス。わたしあなたにおれいをいいたかっタ。ありがとうございまス」
丁寧過ぎる位に頭を下げられて、聖敬も思わず、いえいえ、と言いつつ頭を下げた。
しばらくして。
「わたしのなまえ、成美エリザベスといいまス。エリザベスとよんでくださイ」
「あ、ぼ、僕は星城聖敬です」
ようやく落ち着いた聖敬にエリザベスは自己紹介をした。今は聖敬が自分のあまりに無防備な病院服姿に遠慮したのかは不明だが、上にカーディガンを羽織っている。それでも聖敬はさっきの光景や感触が頭を離れず、目を合わせられない。エリザベスは構わず話を切り出す。
「きょうはたすかりましタ。あなたはおんじんでス」
「い、いや。僕はな、何にもしてないよ。ちょっと大声を上げながら走っていったら、あいつらが逃げただけだから」
「それでもおんじんでス。ありがとう、せいじょうさン」
「キヨでいいよ、気にするなよ」
「わかりました、キヨ」
それからエリザベスと聖敬はしばらくの間、話をした。
エリザベスの年齢は今年十七歳、つまり聖敬と同い年。彼女の話によると、彼女の両親は、父が日本人で、母がイギリス人。長年イギリス育ちだったらしいのだが、父親が貿易商をしていて、その仕事の都合上、三年前から各地を転々とし、つい三日前に九頭龍に引っ越してきたらしい。
「それで、わたしこんどクズリューがくえんにいくんでス」
「え? そうなんだ。じゃ、ひょっとしたら同じクラスなのかもね」
エリザベスはそうですネ、と言って笑った。今まではずっと女子校ばかりで、男女共学の所は今回が初めてだそう。
そんな話をしている内に、時報がなる。もうすぐ、面会時間が終わりの様だった。
「わたし、あしたにはたいいんでス。キヨはここでのわたしのさいしょのフレンドでス。よろしくネ」
エリザベスの見送りを受け、聖敬は病院を後にした。
時間は夜の八時。すっかり辺りは暗くなっていた。
九頭龍病院は九頭龍中心街に巨大な敷地を持っている。一般病棟のある北棟。WGの支部そのものが偽装している南棟。
それに医師と看護師を育成する医療学校と、先端ガン医療センターの四つに分かれている。
先端ガン医療センター設立にはWGの資金がかなり入っているらしく、この資金提供により、ここに九頭龍支部が置かれる事になったらしい、そう進士が言っていた。
ちなみに、あのWDは表向き警備会社を装っているらしく、世間的には評判は極めていい。
――そりゃあ当然だろう? 犯罪者相手とは言え、一般人相手がマイノリティの相手になる訳がないんだから。
あとはな、九頭龍だとWDの連中も他所に比べると随分大人しいもんなんだぜ。東京とか大阪に名古屋なんかじゃもっと色々派手にドンパチしてたりすんだよ。
田島のその言葉に興味を持った聖敬はその訳を聞いたが、返事はさぁ、の一言だった。
――前任の小宮支部長なんかはWDと休戦協定間で結ぶ寸前だったんだ。色々あるんじゃないかね、大人の事情ってヤツか何か。
それ以上はわかんねぇ、と田島は言っていた。
(休戦か)
聖敬は考えた。同じマイノリティ同士、協力していければこの世界はもっとよくなるんじゃないかと、そう思った。
ピルルルル。
帰り道を考えながら歩いていた聖敬を着信音が現実に引き戻す。この着信音は、近くでイレギュラー反応があるという知らせ。
すぐにスマホのアプリを連動させ、地図を確認し走り出す。
(僕が止めなきゃ。その為にこの能力はある)
◆◆◆
時間は夜の八時、九頭龍の繁華街、その裏通り。
「ふあーあ…………あーー」
武藤零二は退屈していた。ついさっきまではここには大勢の学生が立っていた。
人数は最初こそ数えてみたものの、途中からめんどくさくなり何人その場にいたのかは分からない。
何でこんな人数がここにいたのかは知らない。話を聞いていなかったからだ。彼にとってこんなのは退屈しのぎ以上でもそれ以下でも無い事で、イチイチ聞く耳など立てるつもりは無いからだ。
零二は、ちっ、と舌打ちしながら周囲を見渡す。その場には呻き声をあげながら地に伏す、他校の学生達の姿。
武藤零二はよくケンカをする。
自分の事を平和主義だと思っているし、毎度毎度別にケンカを売って回ってるつもりも無い。
だが、彼は不思議と柄の悪い連中によく目を付けられた。彼らの言い分は大抵こうだ。
――生意気なツラしやがって。締めてやるよ。
――誰にガン飛ばしてんだクソガキが。
そうやって凄みながら零二を路地裏とか、今いるような裏通りに連れ込んでは、向かっていき返り討ち。この繰り返しだった。
「つまんねぇな――てめぇら」
今回もいつもと同じ。一方的に彼らから仕掛けてきて、こうして地面に這いつくばる。微かな期待を込めて――だが、それが叶う事は滅多に無かった、今回もそうだ。
彼らを一瞥すると呟く。
「ほんと、くだらねぇや」
それは零二の偽らざる本音。
彼には他人とは違う”力”があった。その力は一般人に対して使うには強過ぎる。それを行使していいのは”同類”だけ。
それが、彼が定めた唯一の人生の指針。
彼は興味を完全に失い、その場を歩き去る。
本人的には大した事をした訳では無いのだが、世間的には今の騒ぎは大問題なのだろう、ざわつく声が聞こえる。
彼は何よりも”退屈”を嫌った。
それを感じないのは、自分の力を行使する瞬間とそれから……。
「きゃああああ」
その声は、眠たくなりつつあった彼の意識を揺り戻した。
声のトーンから事態が容易に想像出来る。
誰かが襲われている。
キィィン。
そして、一瞬感じる”耳鳴り”の様な不快感。
これにもよく覚えがある、間違いなく誰かがいる、それもすぐ近くに。自分の力を行使してもいいかも知れない相手なのかも知れない。
そう思うと、自然と足が動き――走り出していた。
「ひ、ひひひ」
彼は笑いが止まらなかった。何故だろうか?
それは唐突だった。
気が付くと何もかもを壊してみたくなったのだ。
誰でも良かった。単にそれだけの事だった。
(ちょっとだけ使ってみたくなった)
そう、ただそれだけの事だった。ちょっとした出来心程度のつもりだった。
あっという間の出来事だった。まるで映画のワンシーンをコマ送りで再生する様な感覚だった。
自分の手を軽く振るっただけ。たったそれだけの動作で景色が変わった。目に映ったのは何かに抉り取られた様な建物の壁に付いた傷跡。壁からは、コンクリートが焦げた様な臭い。そして、自分の右手が熱を帯びている。不自然な迄にその爪は伸びており、まるで肉食獣の様な鋭利さを感じる。
興奮しながら、振り返ると、仲間が何かに怯えているのか、腰を抜かした様にへたり込んでいる。
(どうしたんだよ)
そう思いながら、彼は仲間へと歩み寄った。
――%#¥@◎
彼らは突然叫び出す、まるで狂った様に大声で。その目にあるのは恐怖だと気付く。
(なにを怖がってんだ? 折角いい気分だってのによ)
そう思うと少し不快感を感じた。思わず、軽い気持ちで手前にいる仲間の頭を小突こうとした、それだけだった。
ゴキャン。
奇妙な事が起きた。軽く小突いた相手の首がぶらぶらと揺れていたのだ。意図的に揺らしたとかそういう類いの動きでは無い。それはまるで首だけが軟体動物のように不自然に揺れていたのだ。
――いぎゃあぁぁァァッッ。
仲間が悲鳴をあげる、彼は喚いた、たくさんの言葉を。その殆どは意味不明で、聞き取れなかった。だが、この言葉だけはハッキリと理解出来た、彼は、仲間はこう言った。
――ヒトゴロシのバケモン。
無性に腹が立った。そして、”黙らせた”。
まるで、現実感の無い光景だった。たった今まで、そこにいた人間がほんの少し手を軽く、本当に軽く振るっただけで動かなくなったのだから。
もう動かない仲間の肉塊をじっと見ていた。心の中では二人が起き上がって、驚かせるつもりなのだろう? そんな期待を抱きながらその場でじっとしていた。でも――!
動かなかった、彼らはもう一切の動きを諦めていた。
認めたく無かった、自分がコイツらを動けなくしたという事実を、何もかもが冗談ならいいのに、と。
――きゃああああッッッ。
その悲鳴は多分、この裏通りを横切ろうとした近所に住む住人の女性だろう。以前、ここいらで見かけた事がある。
――ヒトゴロシよっっっ。
彼女は叫びながら逃げ出す。
彼は怒りを覚えた、折角、仲間とここにいたのに。何でこの女はそれを邪魔するのか、と。
(そうか、【コイツ】が悪いんだ。二人が死んだのも、コイツのセイナンダ)
彼女を追いかけた、黙らせる為に。
「ギヒヒヒヒ」
笑い声が洩れた。この女を黙らせたい、手足をもぎ取って這いつくばらせたい。蟻を踏み潰すみたいに殺してやる、全部を。
殆ど”本能”で自分が何を出来るのかが理解出来た。爪先に意識を集中……いや凝縮させる。
ムキャメキャ……不自然な動きを見せながら五本の爪がくっついていき、鎌の様になった。
その鎌を素振りしただけで、脇にあった路駐の車が紙切れの様に裂ける。中にいた運転手は何が起きたのか分からない内に断裂されていくのが分かる。
「ギヒヒヒヒヒヒィィィ」
笑いが止まらない。彼の身を包むのはこれまで感じた事の無い”解放感”に”優越感”。
「もっと、もっとだ。モットコロサセロッッッ」
そう叫びながら、彼は思いのままに鎌を振るった、その都度、紙切れみたいに、全部が切れていく。人も、車も、建物も、世界も。
その圧倒的な快楽に彼は身を委ね、先へ、先へと歩く。
(あの女をコロス)
恐怖にその表情を歪めながら走る標的の顔が見える。あと、少し。あと、ほんの一歩、曲がり角で追い付く。
構わない、ここからでも切り裂いてやる、そう考え鎌を振るった。寸分違わず爪で出来た鎌は建物をバターでも切るように通っていき、女性の身体を両断しようと迫る。
ガキン。
何でも切り裂く鎌が止まった。切り裂いたのではなく、止められたのだ。
「おいおい、いきなりご挨拶じゃねぇかよ」
そう言いながら曲がり角から出てきたのは、さっき自分達をボコったあの学生、武藤零二。
「うひょお、こりゃヒデェなぁ」
零二はピュー、と口笛を鳴らしながらその惨状を見た。
目の前に映ったのは見るも無惨な路地裏。何人かの一般人、建物に車が無造作に切り裂かれていた。
「ンで、お前が殺ったのか?」
その問いかけに対して彼の返答は無言での鎌の振り上げ。
それは寸分の狂いもなく彼の目前にいた相手を、その華奢な肉体を寸断するはずだった。
だが。
気が付くと彼は空を見上げていた。
「ギヒヒ?」
何が起きたのかは分からない。雲に覆われた空が見える。
ザシャリ。地面を踏みしめながら零二は近づく。
「……なるほど、確かにマイノリティだなお前。つーか既にフリークか」
自分の目の前で転がっている相手を睨みながら口元を歪める。
目の前の相手がどういうイレギュラーを使うのかは周囲の惨状と、今の攻撃で充分に理解出来た。
「その鎌みてぇな爪で殺したってワケだ」
彼はさっきまで自分が感じていた優越感がくだけ散った事を理解した。その代わりに浮かび上がったのは、目の前の相手に対する恐怖感。
「ギヒャアアアア」
浮かび上がったその感情を打ち消す様に叫ぶと、彼は起き上がる。ありったけの全てを解放。その肉体を変異させていく。
メコメコメキャ。
彼の身体が不自然に動きながら肥大化していく。
爪だけが異常に巨大だったその姿が、それに見合うだけの巨体へと変貌していく。零二はあえて何もしない、相手がその姿を露にするのを黙って見ている。
「ギヒヒヒャァァッッッッ」
そして変異を終えたその姿は巨大な蟷螂の様。
両腕がそれぞれに鎌に変異しており、まともに一撃を受ければあっさりと切り裂かれる事は疑い様もない。
「へっ、待ちくたびれたぜ」
零二は欠伸をしつつ、右手を掲げると来いよと云わんばかりに手招き――巨大蟷螂はその死神の鎌を振るいながら襲いかかる。
零二は笑いながら、その鎌を躱していく。上半身だけを捻り、その場で軽く飛び、あっさりと躱す。さらに連撃が襲いかかるものの、平然とした顔で躱し続ける。
決してあの巨大蟷螂の攻撃が緩いわけでは無い。鎌は容赦なくアスファルトをあっさりと抉り取り、建物を裂いていく。
もしも、零二が前もってここいらを”フィールド”で覆っていなければどれだけの住人や観光客が巻き添えを喰った事だろう。
だが、その必殺の攻撃にも零二は全く動じる様子は無い。
それどころか、気だるげに舌打ちをしている。
「何だよ? こンなもンかお前?」
そこから感じられるのは落胆。その目には”侮蔑”の光が宿る。
見下されたと理解した彼の中に、これ迄に無かった目の前の相手に対する激しい憎しみが湧き上がる。そして、左右の鎌で挟み込もうとした……ハサミで物を切る様に。
零二は油断したのか、反応が遅れた。
(オワリダ)
その鎌にはノコギリの様な細かな無数の刃が着いていて、それらの刃が高速で動いていた。それがこの鎌の殺傷力の理由。
(シネ、シンジマエ)
いくら人間離れした運動神経をしていようが、所詮は華奢な肉体を持った、生身の人間だ。
(ブチキレチマエ)
鎌はアッサリと相手を捉え、寸断するだろう。
そのはずだった。
「はぁ、はぁ」
息を切らせながら聖敬はそれを目にした。
野性動物並の感覚を得た聖敬はさっきから感じていた。
すぐ近くに”同類”がいる、と。同類同士がぶつかり合い、戦っていると。
周囲に人の気配は無かった。多分、どちらかが”フィールド”を張り、人払いをしたのだろう。
目にしたのは、巨大蟷螂が”燃え尽きる”姿。
瞬時に蟷螂の姿は失せていき、その場に灰すら残らない。
――そして。
「ン? お前、星城だったっけ、確か」
「き、君は武藤零二……」
――そこにいたのは同類だった。