変わる世界
その言葉は僕のナニカを壊した。
″君は誰でもない″
何て事のない、単なる言葉。
でもその意味するコトが僕には分かってしまった。
分かりたくなかった。
知りたくなかった。
知りたくもなかった。
でも、それが虚言じゃないのは誰よりも……僕自身が一番分かっていた。
そうだ。
僕、という存在は人じゃない。
ましてや真っ当な生き物ですらない。
この世界とは理を異とする何処か別の場所。
そこが僕がいた本来の場所だった。
そんな、とても大事な事を、今の今まで忘れてた。
今は色々な事が良く分かる。
そうだ。
思えば、おかしな事だらけだったと思う。
何故WGはたった一人の、少女を監視する為にあれだけの人員を割いたのか?
だって考えれば分かる事だ。
もしも晶だけがそうであったなら、怒羅さんみたいに女性のエージェントを数人送ればいいだけ。
異性よりも同性の方が近くにいやすいのだから。
なのに、何故彼女以外は田島や進士といった異性であったのか?
今やその理由は明白だった。
観察対象者は西島晶、彼女だけじゃなかった。
むしろ、星城聖敬こそが要注意観察対象者だったのだ。
その理由は簡単だ。
僕という異形があまりにも異常で想定外で危険であったから。
だからこそ、WGは僕がマイノリティとして覚醒した際、あれだけ迅速に証拠隠滅も出来たのだろう。
そう、もしも僕がマイノリティとして覚醒し、あまつさえイレギュラーを暴走させたら、速やかに処分。そして痕跡を消す為に備えていたのだろう。
迅さんがどんな気持ちで僕を見ていたのか、今なら分かる。こんな得体の知れないナニカがずっと唯一残った大切な家族の近くにいる。
常に不安だったと思う。
だからこそ、桜音次歌音、いや星城凛という僕の妹が必要だったのだ。
もしも何かしら危険が察知された時、すぐにでも僕を処理出来るように、と。
何もかもが、僕、という得体の知れないナニカの為だった。
色んな事を僕は思い出した。
でもどうしても一つだけ思い出せない事がある。
◆◆◆
ドザ、と地面へ倒れるその姿を目の当たりにし、
「クソ兄貴ッッッ」
凛は叫び、音を発した。
「くっそおっっ」
田島はククリナイフを構えつつ向かっていく。
狙われる立場の迅は、と言えばまるで隙だらけ。
まるで無防備に、無警戒に思えた。
だが、それは違う。
「一っっっっ」
進士の怒号にも思えるその声に。
「うっっく」
田島はその足を止める。
そう、そうだった。
ふと、目の前に視線を向ける。
そこにあるのは黒い、霧状のナニカ。
無論、単なる霧ではない。自然界のモノではない。何故ならそれは、その場に留まり続けているのだから。
空気、風の流れに従う事なくその場にただ留まるモノは明らかに自然の法則に反する。
キィィィ──ン。
その音は不自然な程に急速に収まり、消える。
一瞬だけ霧状のナニカが揺れたようだが、それだけ。
すぐに何事もなかったかのようにまたその場に留まる。
誰がそれを手繰っているかは明白。
西島迅、倒れた聖敬からはおよそ一〇メートル後ろ。
崩れかけたマンションの壁に背中を預けているその男の″毒″だ。
昨日までの仲間、いや、上司。
今や敵対しているその相手の表情は、冷徹そのもので放つ戦意は圧倒的。
凛も、田島も理解していた、
理解せざるを得なかった。
二人の相手、は出来ないのだと。
こちらと相手が二対一ならまだ何とか出来よう。しかし現実は相手は二人。
絶望的な戦力差だった。
田島は不意に後ろにいる相棒へ視線を送る。
「────そ、か」
進士の表情は蒼白。抜け目ない彼の事だ。アンサーテンゼアであらゆる可能性を模索した結果は聞くまでもない。
(つまりはこれで詰みなのかよ、チクショー)
声には出せない。それをしたら決定的に敗北してしまう。
「…………」
今度は凛へと視線を向ける。
彼女もまた必死で平静さを装おうとしている。だが無理だ。爪が手に食い込んで血が滲んでいる。
足元は細かく震え、まるで落ち着いていない。
そんな自分に気付けていないのか、顔だけ必死にこらえようと試みていた。
誰もが分かっているのだ。
もう自分達に勝ち目はないのだ、と。
ただそれを口にしないだけ。
認めたくないだけなのだ、と。
それを見透かしたように。
「君達には何の関係もない話だ。今すぐここから去れば僕は今までの事は水に流そう」
西島迅はそんな提案をした。しかもその声音はこちらを気遣うかのように優しい。
三人は分かっている。あの言葉は恐らくは本心なのだと。
「いいだろう? 井藤さん。僕としては歌音ちゃんに手は下したくない」
「ええ、構わない。彼らは優秀な人材だ。損なうのは惜しい」
井藤までもが同調した。
二人の強者が共に助ける、見逃す、と言っており、三人はそれぞれ相手が虚言を言う人物ではない、と理解している。
心が軋みをあげる。
「さ、ここから去りなさい。聖敬君だけでいい。
君達にはまだ先がある」
西島迅のその言葉は何処までも自分達に対する気遣いに満ちていて、だからこそ三人には分かってしまう。
互いの絶対的な力の差を。
どう足掻いても勝ち目など皆無だと宣告されているのだと。
誰もが動けない。
逃げてはならない、だが一体どうすればいいというのか?
(くそ、私は何て無力なんだ)
凛は自身の無力さに打ちひしがれている。
(可能性が、ない──)
進士は観えない可能性を必死に、手繰ろうと足掻く。
(ちぇ、これがマンガとかアニメだったら、誰か主人公とかが助けに来るんだがよ。そんなのは──)
現実にゃないよな、と田島は誰に言うでもなく呟く。
「動けないか、それでもいいさ正しい事だ。君達は身の程をよくわきまえているのだからね。では──さようならだ聖敬君」
西島迅はそう言うと右手を倒れたままの聖敬へ、下ろす。その狙いは心臓か。貫手は寸分の違いもなく────。
「なぁ。オレも」
誰かの声が聞こえた。
その次の瞬間。
ブワッッッ、という突風が巻き起こり、田島や凛を横切った。まるで砲弾のような勢いと強烈な熱を肌に感じた。
その砲弾は迷う事なく霧状の毒へと突っ込み、突破せしめる。
「なに、?」
バガン、という何かがひしゃげるような音。
そして爆風のようなモノが前方で起きて、周囲を巻き込む。
もうもうとしたその煙はあっという間に晴れ、そこにいたのは。
「面白そうじゃねェか。オレも混ぜてくれよな」
西島迅の貫手を掴みながら、獰猛に歯を剥き、蒸気を放ちながら笑うツンツン頭の少年──武藤零二だった。
「君は、深紅の零こと武藤零二君だったね」
「ああ、そうだぜ。ンでそういうアンタは誰なンだい?」
「僕の名前は西島迅、君のクラスメイトである西島晶の家族さ」
「へェ、アイツの家族ねェ。それでそンなお人が星城に何か用でもあるのかい?」
「はは、なあに。ちょっとした関係の清算さ」
笑いながら、迅は自身の手を掴む零二の顎をかちあげながら担ぎ上げ──一気に投げる。
「うお、っっ」
零二の熱の壁、は全く反応しない。そのまま背中から思い切り地面へと叩き付けられる。
理由は二つ。一つはイレギュラーによる攻撃ではない事。もう一つは命に関わる攻撃ではない、と零二自身が直感で判断したからである。
顎をかちあげた事で相手の視界は遮られ、バランスをも崩し、そうして無防備な状態で零二は受け身も取れなかった。
死にこそしないにせよ、その衝撃で少なくとも一時的に呼吸困難に陥っている、そのつもりで叩き付けたのであるが。
「けほ、やるじゃないかアンタさぁ」
けろり、とした声音が耳に届く。
少年にはまるで堪えていないように思えた。
「なに、ぐくっ」
気が付けばガツ、と足に鈍痛が走り、思わず顔をしかめる。身体が前のめりによろめく。
零二が素早く、鋭い足払いをかけているのが目に入る。
零二は拳を握り、追撃をかけようと試みる。倒れる相手の顎先へ突き上げるようなアッパー。
不良少年に殺意はないし、そもそも細かい事情など全く知らないからだ。彼が今、こうしているのは単にこの場に来た際に、倒れた聖敬と、それにトドメを刺そうとしていた相手が見えた。単にそれだけの理由。
だから、ではないがその攻撃は痛烈でこそあれど、苛烈ではなかった。
そして、西島迅はそうした間隙を見逃しはしない。
「ン? なぬっ」
アッパーが空を切る。
確実に相手の顎先を捉えていたはず、現に当たったのが目に入っている。
だが、拳を通した手応えは皆無。
「幻かっ」
「うん正解だよ」
直後、零二のこめかみに鈍痛が走る。
「がっっ、く」
視界が切り替わり、何が起きたのかを理解した。
いつの間にか正面にいた相手の拳槌が直撃していたらしい。
反撃しようにも身体が動かな──いや、反応が遅い。
「くあっっ」
そこへ、突き刺すような前蹴りが鳩尾へと直撃──大きく後ろへ吹っ飛ぶ。
倒れる乱入者をじ、と見据えつつ、西島迅は言う。
「如何に君が優秀で強くても脳を揺らされたら、反応出来ないだろ? そのまま大人しくして欲しい。
僕に君を倒す意志はない。むしろ君には生きてもらわないと困るんだよ」
それは彼が長年戦った相手に対しての言葉。
もしも仮に何か不測の事態が起きた際の備え。
もっとも今の零二は知る由もないし、彼がこの後考えている計画を実行すればもう何の心配もいらないのだが。
「物事に際しては常に二つの案を持つ。菅原さんの受け売りだが、正しい言葉だ」
さて、と呟きつつ、振り返る。彼、彼らにはこの場で終わらさねばならない事がある。
「聖敬君、君に恨みはない。これは本心だ。でも君という存在はあまりにも危険に過ぎる。だから、」
死んでくれ、と言うと拳を握り、今度こそトドメを刺そうとする。
キィィィン。
高音が鳴り響く。
間違いなく凛、桜音次歌音の発した音。
だが、それは届かない事を西島迅は理解している。
さっきの零二の突撃により、井藤の毒の霧は一瞬散らされたが、今は元通り。
彼女の音では突破出来ないのは証明済みだから。
だが、
バッッ、頬をかすめた何か。
「なに、!!」
とっさに横へと飛び退く。
直後、数本の細槍が自分のいた箇所を通過していく。
「突破しただと?」
思わずそれを為した相手へ視線を向ける。
「ハァ、ハァ」
息を切らす凛と田島が視界に入る。
毒の霧があったはずの場所には、溶けていく無数の細槍が転がっていた。
「よく思ったら、俺達さっきまでとんでもなく守りの堅い相手と戦っていたんですよ」
「そう、とても強くて、私一人一人じゃちっとも勝てなかった。でも、」
「みんなの力を合わせたら、突破出来ましたよ」
進士の自動拳銃の引き金を引く、パンパンと乾いた銃声と共に弾丸が放たれる。
「く、井藤さん」
「ええ、!」
井藤が西島迅の前に立ち、全身から毒を放つ。
金属製の弾丸はその毒素を受けて、即座に腐食、跡形もなくなる。
「くそ、一。凛ちゃん」
「おうよ」
「誰がちゃん、よ。このオタク眼鏡」
三人の目にはさっきまでとは違う光が感じられる。
決して諦めない、という意志が宿っている。
「へ、まぁそういうこった」
その声には迅も驚く。
だから、
「……なぜ立てる?」
思わず問う。
「よぉ、西島の兄ちゃン」
零二が起きあがっているのが見えた。
確かに、殺すつもりはなかった。だが、脳を揺らし、直後にさらに内臓にダメージを与えたはず。
手応えはあった。
悶絶、そして気絶しているはずだったのに。
ツンツン頭の不良少年は立ち上がり、不敵な笑顔を浮かべている。
「西島さん、クリムゾンゼロは危険な相手。まずは彼から倒すべきだ」
状況が変わった事を察知し、井藤が零二へ毒の霧を飛ばす。
触れれば、吸い込めばそれで死ぬ。
何もかもを殺し、壊す毒。
それはもう、霧どころではない。幾層にも重なり、まるで────、
ゾワ、とした怖気を零二は感じ、飛び退く。
本能的に危険を感じたのだ。
「やっべェなアンタ」
減らず口こそ叩いたが、今の零二に余力はほぼ残っていない。彼は先だっての戦いで消耗していた。
ここに来ての攻撃も最初の奇襲こそ全力であったが、後は騙し騙し。
「殺すのはマズいですが、されとて手加減も無理か。悪いね、うっかり殺すかも知れないよ」
西島迅もまた、構えた。
「へっ、上等だぜ。お前らオレの脚を引っ張ンなよ」
「うっさい、面倒くさいからあんたこそ私の邪魔すんな」
「おいおい仲良しだな緊張感の欠片もない。な、将」
「お前も同類だよ一。さて、どうするか」
四人はそれぞれ仕切り直しとばかりに構え、呼吸を整える。
「いくぞお前ら」
「「「お前が仕切んな」」」
その時であった。
「────!!!!」
場にいた誰もがその気配に意識を奪われる。
零二や凛、田島と進士には動くな、とでも言わぬばかりに。
西島迅と井藤に対しては、強烈な殺意として。
「…………これは事情が変わりましたね井藤さん」
「そのようです。この場は退きましょう」
互いの意見を確認すると、二人は何の躊躇もなくその場から離れていく。
「へっ、逃げンのかよ。大したコトねェな」
そう言いつつ、零二はその場に倒れる。
「オイ何やってんだよ起きろよバカ零二」
動揺した声音で凛が相棒に駆け寄る。
そこに、
「ふむ、あの二人やはりかなりの手練れ。流石に深入りするのは危険でしょうな。
そこなお嬢さん、バ……若なら問題有りませぬよ」
姿を見せたのは作務衣を着た老人。サングラスをかけて杖を付いたその人物は、
「へっ、秀じいかよ。ったく迎えが遅ェンだよ…………っつうかバカって言おうとしたろ?」
地面に大の字で寝転がる零二は安堵感から笑う。
「はてさて何の事やら。ですがそれで良かったのでは有りませぬか、若。
おかげで好きなだけ暴れられたのですから、な」
ははは、という笑い声をあげるのは、武藤零二の後見人にして、執事を務める老人。加藤秀二であった。