変わった世界――part4
あの日、全てが変わった。
それは楽しいはずのある一日の事。
家族一緒にちょっとした小旅行だったと思う。
私は朝から、ううん何日も前から楽しみだったのをよく覚えている。
理由は簡単。普段はお仕事が忙しくてなかなか家に帰って来ないお兄ちゃんが帰ってくるって聞いていたからだ。
どんなお仕事してるの?
そう訊ねた事があった。
けど、返事はいつも同じ。
──ごめんな、言えないんだよ。でも覚えておいて欲しい。
いつも同じだった。頭を撫でながら、優しく微笑みながら。
みんなの為、いやお前の為なんだよ晶って。
その笑顔が、とても嬉しかった。
優しいお兄ちゃんの事が大好きで、でもいつも近くにいなくて。
だからその日をとても楽しみにしていた。
家族一緒、パパとママが仲良くしていたお隣の、せいじょうさんも一緒に。
「あ、───────」
覚えているのは、火に包まれた景色。
もうもう、とした煙が周りを包んでいる。
何も見えない、そんな場所でパパとママを探す。
でもいない。
さっきまでそこにいたんだよ。
車に乗っていた。そうだよ、車。
見えるのはただ何かになったソレ。
ミシミシ、メキメキ、と音をたてて潰れたソレ。
今さっきまでソレのあったトコにはパパママがいたのに。今は誰もイナイ。壊れたソレからは赤いナニカが流れてくる。
分からない、わからない、ワカラナイ────。
ダレカ来る。くる、クル。
ヒタヒタと、こっちを見ながらナニカを向ける。
私は逃げた。急いで茂みに隠れた。見つからないように、と祈りながら。
ざしゃ、ずしゃ。
引きずるような足音はこっちに来る。
やだ、やだ、やだ。
来ないで、こないで、コナイデ。
誰か──助けてよ。
おねがいだから─────────!
すると光が見えた。
そして光からナニカが姿を見せて──ダレカをやっつけた。
不思議だった。
初めて見るのに、とても懐かしい感じ。
──○●$&#?
え、何。初めて聞くコトバ。でも何でだろ? 分かる。何を言ってるのか私には分かる。
だから、私は望んだ。
そう、全てこの時から始まったんだ。
でも何でこんな事を、こんな大事な事、私。
◆
その場にいた誰もが驚きを隠せなかった。
だって、
彼には有るはずのモノが無かった。
具体的には傷が無い。
どういう事なのか腹に穿かれた穴が塞がっている。
場にいる全員の知る限り、それは有り得ない事だ。
リカバーにせよ、それ以外のイレギュラーによる回復手段にせよ、発動しなければ意味がないのだが、その形跡はない。
だが、目の前にいる友人は普通に傷が塞がっていた。それどころか、あれだけ派手に出血したはずなのに、その形跡すらも無くなっている。
まるで最初から何も無かった、とでも言わぬばかりに。
「おい、キヨちゃんその傷はどうしたよ?」
田島は困惑しながら問う。
「傷って、何がだ?」
聖敬は気付かない。
「何がじゃない、今し方まで腹に穴が空いてたはずだ。一体何をしたんだ聖敬?」
「進士まで何を聞いてるんだよ。僕の腹に穴なんて──あれ? 何でシャツに穴が空いてるんだよ?」
当の本人である聖敬には全く覚えがないのか、ただ困惑した表情を浮かべるのみ。
ついぞさっきまで死にかけていたはずの傷。
その事を当事者が知らない。
そんな事が有り得るのか?
勿論、何が起きたのか田島と進士には分かるはずもない。
「クソ兄貴、大丈夫なの?」
「凛まで、一体どうしたって言うんだ?」
聖敬には三人が何を言っているのかが、さっぱり分からない。自分が何をしたのか、何をそんなに驚いているのかが分からない。
「そんな事よりも、晶を助けなきゃ」
そう今、彼にとって大事なのは晶の事のみ。
それ以外の事は後回しである。
そこへ、
「どうやら困惑しているようだね」
満足げにそう話しかけるのは西島迅である。
「迅さん、ここを通してください」
「聖敬君、君は自分が何者か知っているか?」
「え?」
それは不意にかけられた言葉。
何の事を言ってるのか分からない、だけど、何かとても大事な事を相手は知っている、それは口振りから理解出来た。
だが、同時に聖敬の脳裏にはそれを聞いてはならない取り返しが付かなくなる、というまるで警告めいた怖気が走る。
「クソ兄貴、迅さんのイレギュラーに騙されるな」
凛の叫びにも似た声音。
ビリビリ、と聖敬の耳朶を揺らし、響く。
分かっている、凛の、妹の言葉に従った方がいいのは。だけども、
「僕は一体何だというんです?」
聖敬は知らねばならない、目の前にいる昔からの隣人が何を知っているのかを。その思いを優先した。
「いいだろう、なら僕の前に来るといい」
「…………はい」
その言葉に聖敬は素直に従う。
下手をすれば、いや、場の剣呑な空気から戦いになっていた事は聖敬も理解していた。
ふと声が届く。
「キヨちゃん、よせっっっ」
田島は叫んでいる。
「星城、やめろっ」
日頃誰よりも冷静なはずの進士までもが声を荒げていた。
三人が三人共に自分を心配している事が身に染みて分かる。
(でも僕は……)
聖敬は自身の肉体を通常時に戻す。
半狼から人の姿に戻り、自分には敵意がないのだと示す。
「思った以上に君は優しいね、聖敬君」
なら、と西島迅もまた前へ進み出る。
そして、すう、とその右手を前へ差し出す。
「さぁ、この手を取るといい────そうすれば」
全てが分かるよ、そう彼は言い、聖敬は一瞬の逡巡の後、その手を掴んだ。
「思い出すといい、そう始まりの……あの日のコトを」
その言葉と共に聖敬の視界は真っ白になるのだった。それはまるでテレビの電源を切ったかのように唐突に。
◆
目の前が真っ白に、いや、真っ黒になる。
違う、そんなのは嘘だ。
実際には白でも黒でもない、灰色だ。
僕は、それまでもたくさんの【死】を目の当たりにしてきた。
何故なら自分は自分の周囲の、ほんの小さな平和を守ると心に決めたのだから。
つまるところそれが防人になる、という事だ。
自分が他人の分まで影を飲み込む、そして祓う。
自分の身を汚してでも周囲の人達の安寧を守る。
そう覚悟を決めた者だけが防人になれる。
数年に及んだ″教団″との戦いも終わりを迎えた。
彼らの拠点であったとある神社は火に包まれ、崩れ落ちていく。
大勢の防人達が死んでいった。最後の戦いでも多くの犠牲を払った。だけども、戦いもこれで終わりだ。
教団の幹部の殆どは討ち果たされ、彼らの信奉者達も大半は討たれ、残りも自決した。
これで九頭龍にも平和が戻るのだと、僕を含め誰もがそう思っていた。
だけど、それは違った。
教団の残党、僅かに逃れた信奉者だった。
その男は僕を狙いはしなかった。
防人である僕ではなく、何の関係もない家族を狙い、凶行に及んだのだ。
火と煙に悲鳴。
「あ、あああああ」
目の前にあったのは数え切れない程の″死″。
ここで死したのは僕、いや、防人とは無関係の大勢の人達。彼らはただ死んだ。僕のせいで無意味に、死んでしまった。
「う、っっっっっ」
嗚咽が止まらない。
足が竦む、これ以上、何があるって言うんだ?
父母の姿はない。見当たらない。
ただ視界に入るのは、鉄の塊。ぐしゃぐちゃになってもう原型を留めないモノに、そこから赤いナニカが流れている位だ。
そうだ、これは冗談だ、そうに決まってる。そうじゃなきゃいけない。
よせよ、こんなのが認められるハズない。
こんなのは悪い冗談、きっと夢、そうに違いない。そうじゃなきゃいけないんだ。
「は、はっっ」
乾いた笑い声が出る。
だけど分かっている。
これは紛れもなく現実なのだと。
この悲鳴と共に漂う煙、血の臭い。死の香りはどう繕っても誤魔化せない。
僕は無力だ。
一番大切な家族を守れない。それも何も出来ずに。
気付けば膝を屈して、顔は俯いていた。
絶望に心を支配され、ナニカが壊れそうな、軋む音が脳裏に届いた時だ。
「うっっっっ、光? 何の?」
周囲を包んだのは太陽よりも眩しい光。
強烈な光量は視界を眩ませ、頭痛すら覚えた。
幾度となくかぶりを振って、ゆっくりと立ち上がり……周囲を見回すが、奇妙なのは誰もその光を見てもいなかったのか、誰一人として何の反応も見せない事だ。
(もしかして、いや、今のは何らかの異能力なのか?)
引き続いて僕が周囲を見回すと、茂みに近寄る誰かが見えた。
「──あいつは!」
ギリリ、と歯軋りした。その病的なまでの青白さ。袖口から見えるまるで鱗のようなもの。それは教団の信奉者の証。異形な力を得た結果の身体の変化。
間違いなかった、確信した。あいつがやったんだ。
あいつがこの惨状を引き起こしたのだ。
「殺してやる」
誰に言うでもなく呟きつつ、敵へ近付く。
大股に、そして走る。
気付かれようが構わない。
ここで殺す、見つかったから何だ。僕に守るべき者などもういない。
(ん、どうした? 何故気付かない?)
相手はこちらに見向きもしない。
その手には鉈だろうか、大振りな刃の付いた武器を持っていて、その様子はまるで誰かを襲おうとしているように見える。
何故かは分からない。
だが、僕は急いだ。急がないといけない。どうしてだかそう思ったのだ。
「はぁ、ハァ」
そうして相手の背後へと回り、敵が何を狙おうとしていたのかを目にした。
「何だあれ?」
それは光に包まれた人形。
そういう表現が一番適当に思えた。
あくまでも人の形を、輪郭をしているだけのソレ。
そしてそのすぐ後ろにいたのは晶。
まずい、晶が。
そう思った時だ。
ザシュ。
一瞬だ。ほんの一瞬で事は終わっていた。
敵の身体は両断されたと同時に四散、いや消滅。
見れば光の人形の手がまるで爪のように変化しており、それが敵を倒したらしい。
それはまるで、そう。
「晶を、守ったのか?」
光の人形はゆっくりと晶へと振り返る。
そして晶に何かを訊ね、そして────成った。
「う、ぐっっ」
一瞬、わずかな光を発した。
そしてそこには、倒れていた晶、そして妹を守るようにして立っていた見覚えのない少年。
そう、それが始まりだった。
僕の世界が崩れ落ちたあの日。
それが始まり。
◆
それは時間にしてほんの数秒であった。
だがその僅かな時間で事態は急転する。
「あ、あああああああああ」
聖敬は悲鳴のような声音をあげ、うずくまる。
実際に彼の脳内へ流されたのは、一〇年前のあの日の情報のみ。
しかしそれは彼の根底を揺るがす記憶。
そして結果として、聖敬を一瞬で壊した。
「キヨちゃん」「星城!」「クソ兄貴っっ」
三人の声は届かない。
聖敬はああああああ、と呻くだけ。
著しく混乱したその様子に正気の色は伺えない。
その様を西島迅は悠然と見下ろしながら告げる。
「分かったかい? ──君はそもそも誰でもない。
そう、ただの【異形】のナニカでしかないんだよ」