揺らめく炎
「な、なんでいるの、よ?」
思わず問いかける。
そこに彼がいた。
凛は驚くほかない。だって、昨晩、ほんの数時間前。
彼はまだ京都にいたはずだから。
深紅の零、クリムゾンゼロという異名を持つ少年。
WDに於ける星城凛、桜音次歌音のパートナーであり、監視対象でもある相手。
武藤零二がここにいたのだから。
「なンでってのはまた随分な言い草じゃねェかよ。
一応言っとくケド、ここはオレの街でもあるンだぜ」
へへ、と笑いながら鼻先を弾く。
その物言いは幻とは思えない。
でも何故、何故。
「わたしだって分かったのさ」
そう、零二と凛には面識は一切ない。
何故なら凛から零二は常に監視対象という事もあって姿は確認していた。
だがその逆は一度とて無かった。
互いの交流は電話や凛からの音による通信のみ。
なのにどうして?
確かに九頭龍に戻って来た、これは有り得る話だ。
彼には動物的な勘の良さがある。
何かしら予感を覚えてこうして来たのかも知れない、というのは充分に有り得る話だとも思える。
でもだからって、どうして?
「何でここに来たんだよ?」
問わずにはいられない。
「何でだと? へっ、ンなもの決まってンじゃねェかよ――オレは」
衝突音が轟く。
電柱が激突したのだ、まるで棍棒で殴打したかのようにぶつかったコンクリートの塊は即座に粉砕され、破片が周囲に飛び散った。
「余所見してんじゃねぇぞガキが!!」
椚剛である。
彼は激怒していた。
自分の壁を突破され、傷を負わされた屈辱。それを払拭すべく皆殺しに興じようとしていたのに。
目の前には何処の馬の骨かも知らない乱入者がいた。
しかもソイツが自分の絶対防御を防いだのだから。
今や、彼の怒りの矛先はついぞ自身に死の恐怖を感じさせた聖敬達から零二へと向けられつつあった。
「今ので死ぬはずがないよな! さっさと起き上がれ――そしたら、」
そこまで言いかけて言葉を失くした。
電柱は粉々になった。手応えもあったはずだ。
それなのに、零二は健在であった。
それもさっきまでとほぼ同じ姿勢のまま、ガキへ顔を向けたままで。
唯一の違いは、相手が右手を構えていた事であろう、ただそれだけで。
「防いだっていうのか」
ごくり、と唾を呑み込む。
冷や水を浴びせられた気分とはこういった物であろうか。
コイツは誰だ? という警戒心がそれまで怒りに駆られていた椚剛に平静さを取り戻させた。
「ったくさ、ホンット邪魔だなアンタ」
首を回しながら、ゆっくりとした足取りでこの場ああに於ける敵へと向き直るや否や、
「とりあえずブッ飛べ!」
下半身のバネだけで間合いを詰め、そのまま飛び膝を放つ。
「なめるなガキがアッッ」
無論、絶対防御はその一撃を遮る。ガッツン、とした鈍い音はまるでハンマーで壁を殴りつけたかのようである。微動だにせず主を守る。
「へっ、かってェなオイ」
着地した零二は何処か嬉しそうに笑う。
ゆっくりと立ち上がりながら凛へと声をかける。
「おい相棒。言っとくけどここに来たのは単なるグーゼンってヤツだ。
オレは今日たまたま京都からこっちに戻って来た。そンだけだ」
と、再度瓦礫が零二へと飛びかかって来る。今度は先程とは異なり、散弾ではなく一つ一つが大きい。
「余裕かましてるんじゃないぜっっ」
さらに椚自身も突っ込んで来た。瓦礫にしろ、突貫にせよまともに喰らえば間違いなく重傷であろう。
だが深紅の零たる少年に焦りの色は一切ない。
あろうことか向かって来る相手へと右拳を白く輝かせると、一歩踏み込みながら躊躇なく叩き付けた。
ド、ガアンという音はまさしくトラック同士の正面衝突かの如し。
凄まじい衝撃が周囲の大気を震わせる。
ビシビシ、と地面に亀裂が無数に走り、建物の窓が割れていく。
「な、んだとっ」
驚愕の声をあげたのは絶対防御に守られた男。
確かに全力でこそなかった。
だがそれでも絶対防御を展開しながらの突進である。これまでに無数の敵をこの攻撃で倒した。だと言うのに、である。
「…………」
零二は無事であった。その拳は輝きを失わない。それどころ輝きは一層強くなったとすら思える。
「だからよぉ、お前の顔なンて今知ったぜ。でもよ、なめンなよ。
顔なンざ知らなくたってその声に気付かないとでも思ったか? へっ、ンな訳あっかよ。何処の世界に【相棒】の声を聞き違えるヤツがいると思ってやがるンだ?」
バカにするなよ、と言いながら少年は自分へと迫る不可視の壁を拳で殴りつける。
無論、その程度で絶対防御はビクともしない。
当然のように零二の右拳は宙で止まっている。
だが、
「う、ああああああああああ」
叫びを上げつつ、そのまま拳を突き出さんと体重を前にかける。
「くへっ、お前バカだろ? 突進するでもなく、ほぼゼロ距離から俺の壁に対して何が出来るって言うんだ?
このまま一気に押し潰してやるよぉぉッッ」
椚剛は嘲笑いながら己が壁を前に押し出していく。
ズザザザ、という音。
同時に零二の身体は無理矢理後退させられていく。
地面は抉れ、その足元はブスブスと煙を上げている。
どう見ても零二は無謀な勝負を挑んでいる、誰の目にもそうとしか見えなかった。
にもかかわらず、当事者は平然とした表情のまま、
「オイ星城、それとチャラ男にオタメガネ」
と三人へ声をかける。
「誰がチャラ男だ」と田島。
「ぼ、僕はオタじゃない」とムキになるのは進士。
「…………」聖敬だけは言葉を返さず、ただ無言で相手を見据えている。
「いい目してンじゃねェか。……お前らはさっさとどっか行けよ。ここはオレが片付けてやるからよ」
「いいのか?」
「いいって言ってンだろ、そもそもコイツはどうもWDの関係者らしいじゃねェか。だったらょ、内輪の不祥事のカタを付けンのはオレの仕事だと思わねェか?」
零二は相手へ振り向かず言葉を返す。
「分かった、有り難う」
聖敬はそう言うとその場から離れ出す。
田島は「おいキヨちゃん。待てよ」と言いながら慌てて追いかける。
「言っとくがオタではないからな。だが、感謝しとく」
進士も二人に続いて走り出す。
「ンで、お前はいかねェのかよ」
その声は星城凛こと相棒たる桜音次歌音へかけられる。
「ソイツは強い、あんた一人じゃ倒せな……」
「問題ねェさ。コイツ一人くらい軽くブッ倒せなきゃクリムゾンゼロの名が泣くってもンだぜ」
零二は如何にも軽そうな物言いではあった。だが実際の所、形勢は芳しくはない。
ズズ、と少しずつではあったが徐々に零二の身体は後退させられていく。
凛はあくまでも冷静に状況判断を下していた。
零二は決して手加減していない。
現にいつの間にか全身からは蒸気が噴き出している。
熱代謝により身体能力は肉体操作能力のイレギュラーを手繰るマイノリティにも見劣りしないだけのポテンシャルである。
短時間でこそあれ、真っ正面からパワー勝負しても大多数の相手を圧倒出来るはずである。
だと言うのに、である。
零二は押し負けていた。
椚剛、その絶対防御なるイレギュラーはまず間違いなく空間操作能力の系統に属するイレギュラーであろう。
総じて肉体的には優れていないマイノリティが多い、その代わり特定の空間、領域内では様々な事象を操る事が出来る。椚剛、というマイノリティの場合はそれを自分の周囲に壁として展開出来る、という事であろう。シンプルなイレギュラーだとも言える。
あらゆる攻撃を防ぐ防御に特化したその壁はそのまま万物を寄せ付けないままに相手を潰す事も可能だ。
現に、彼の不可視の壁は零二の熱操作から生じるパワーに引けを取らない所か、完全に押し勝っていた。
このままではいずれ零二の方が先に力尽きるであろう。そうなれば勝負あり、である。
そんな事は当の本人が一番分かっているだろうに。窮地だと言うのに。
どうして彼は未だそんな強気な態度を崩さないのであろうか?
何故一切の焦りを表に出さないのであろうか?
「強がりなんて言ってる場合じゃない、ソイツの絶対防御はさっき三人がかりでようやく突破出来た。
いくらアンタが強くたって一人じゃあ--」
「--オイオイ勘違いすンなよな、オレは言ったハズだぜ。コイツ一人くらいブッ飛ばせなきゃあ名折れだってよ。いいから行けよ。
……ンで大事なモンを守れ。心配するな」
と同時だった。
零二の様相が変わる。
蒸気が、変容していく。
ユラユラ、と噴き出していたそれがにわかに赤みを帯びていく。
「ふううううううああああああああああ」
零二は咆哮。
いつの間にか彼の全身が蒸気ではなく微かながら、だが確かに炎に覆われようとしていた。
その零二の様相に、
「嘘でしょ」
凛は驚愕し、
「く、けっ……何だとぉ?」
椚が目を大きく見開く。
信じられない、そう言った面持ちである。
何故なら、形勢は膠着したのだから。
ついぞ今さっきまで優勢だったのは自分であった、そのはずだ。
だと言うのに零二はもう一歩も後退しない。
どれだけ押し込もうとしようがビクともしない。
それどころか、気を抜けば自身の方が押し負けそうですらある。
「な、たかが炎をまとったくらいの事で何だってんだ」
その言葉は確かに正論である。
炎熱系のイレギュラーを扱うマイノリティの中には熱操作による爆発的な身体能力を活かしての近接戦闘を好む者がいる。ごく少数派ではあったがそうしたマイノリティを見た事だってある。
確かに実力はなかなかであった。だが、熱操作を扱うマイノリティは総じて同様の弱点を抱えている。
それは持続時間の短さ、である。
熱操作とは一般的には自分自身を燃料として扱う能力である。強力ではあるが自分自身を燃料とする為に、甚大な消耗を強いる。
だからこそ、絶対防御を持つ自分に負ける要素など無いはずであった。
絶対防御、とはつまる所は椚剛、という個人が他者を寄せ付けない為の壁。全く消耗しない訳ではないものの、その使用時間はいつまでも、である。
確かに目前の乱入者には驚かされたのは事実だ。
だが、相手が炎熱系、それも熱操作能力に特化した相手だと判断した段階でもう負ける要素はなくなった、そのはずであった。
「ふ、ざけるな何でまだバテないんだお前! 熱操作は長続きしないはずだぞ」
それは怒り、それ以上に困惑に満ちた声音だった。
零二はそうした声に耳を向ける事無く、
「オレは負けねェよ、少なくともコイツにゃあな。
……お前にゃ分かンだろ?」
と、ただ相棒である少女へ言葉をかける。
凛、いや彼にとっては桜音次歌音。
彼女はいわゆる音遣い。超音波を操り、遠くの音を聞き分ける事が可能である。
そしてその聴覚はある程度見知った相手であればその声音、心音などからどういった心境、思考なのかを判断する事も可能。それも嘘発見器も顔負けの精度である。
そしてその対象たる少年の事は誰よりも知っているし、理解しているという自負もある。
そして出た結論、それは。
「分かった、アンタを信じるよ」
相棒たる少年を信じる、という物であった。
凛はもう何も言わない、ただ黙ってその場から去るべく動き出す。
「くけっ、逃がすかよぉっっっっっ」
コケにされた、と椚剛は壁を拡張。不可視の壁は歪に鋭角に変化してその無防備な背中を狙っていく。
狙いは寸分も違わずに迫っていく。
如何に聴覚に優れていようが関係ない。自然界に存在しない、あくまでも担い手の意識の産物を聴き取る事など不可能である。
「散々なめた真似したんだ、ミンチにしてやるぜ」
確実に仕留めた、そのはずだった。
だが、その目論見は外される。
ズズン、という地響きにも似た音と共に。
不可視の壁、絶対防御がたった一人を前にして揺らいだのだから。
今度こそ間違いない、壁が押されていく。
たった一人の……自分よりも年下の小僧相手に。
「な、んだとっっ」
今度こそ驚愕するしかない。
自身の壁を正面から受け止めたのみならず、それを逆に押し返されたのだ。こんな事は初めてである。
「ふううう、やれやれだ。どうにもイマイチ上手く制御できねェなぁ」
ブスブス、とその全身からは湯気の如く蒸気が噴き出し、と思えば炎が揺らめく。
それは実に不安定に見えた。
炎熱系のイレギュラーを扱うとされる武藤零二という少年。
大多数の事情を知らない者であれば、彼が炎を手繰るのはごく当然、何もおかしくない事にしか思えないであろう。
されど、彼の事情を知っているのであれば、それは異常事態である。
何故なら、彼の焔は封じられていたはずなのだから。
危険性を指摘され、上司である九条羽鳥の命によって、……同時に零二自身の希望もあって封印されたのだから。
「ま、細かいこたぁ実地あるのみ、だよな」
少年は獰猛に笑いながら、目前の敵へと向き直るのであった。