激怒の爪――ラースストライク
半年前。
ガサガサ。茂みを踏み越える音がやけに大きく聞こえ、驚いた小動物が逃げ出していく。
「は、はぁ、はぁ」
暗闇の中、夜の森を息を切らせながら走る人影。
一見すると平凡そうなサラリーマンに見えるその人物は何かから逃げていた。右の手首には手錠付きのジェラルミンケースを。左手にはまだ撃ったばかりらしく硝煙がくすぶる自動拳銃――グロックを片手に走るその人物を一般人だと思うものはいないだろう。
彼はWGのエージェント。ある兵器の情報を入手し、本部に持ち帰るのが仕事だった。その為にWDの施設に身分を偽って潜入し、ようやくその兵器の試作品を手に入れた。その直後の事だった。
バラバララララララ……!!
全てはこの音から始まった。
エージェントはすぐに気付く。その音はサブマシンガンの斉射音だと。そして、ほぼ同時に施設に何者かが侵入した事を示すアラーム音が鳴り響く。
騒ぎはエージェントの意図した物では無かったが、彼は機会に乗じて、血煙があちこちで上がる、阿鼻叫喚地獄と化した施設から逃走。あとは、WGの支部に逃げ込むだけだった。
後ろを振り返ると、施設には火の手が上がり、もうもうとした煙が立ち上る。あの施設は確かにWDの関連施設ではあった。彼らがあそこで研究し、造った数々の兵器は人々の日常を壊す物だ。
そして、兵器はWGだけでは無く、犯罪組織や世界中の諜報機関等も欲しがる事だろう。だから、自業自得ではある。
それでも、同情を禁じ得なかった。
あの施設にいたのはその大半はマイノリティやイレギュラー等に何の関わりのない一般人だった。他の研究施設よりも多めの給料や、休暇などの福利厚生のシステムに惹かれ、何も知らずに家族の為に働いていただけの人々だった。彼らの中でどれ位の人間がここでの開発された”兵器”が自分達を脅かす可能性のある物だったのかを知っていたと云えるのだろうか?
そう思うとやり切れない気分になるのを彼は自覚していた。
(だが、私はやらねばならない。このケースの品物は危険だ、世の中に出回る前にWGで解析しなければ――)
「そこまでだ、【ガントレット】」
神経質そうなその声の主は前方から聞こえた。それを合図にしていたのだろうか、無数の気配が周囲を固めていた。
ザシャリ、という足音を立てながら声の主は近付いてきた。
ガントレットと呼ばれたエージェントは、自分の身元が完全にバレた事を自覚した。思わずちっ、と小さく舌打ちする。
「WDか」
銃口を相手に向けて問いかける。
「お前に答える義理は無い。……これから死ぬのだからな」
声の主の殺気を感じ取り――エージェント、つまりガントレットは身構える。月明かりに浮かんだのは顔に大火傷の跡を付け、サングラスをかけた相手の顔。
「その品物はWGには勿体ない。我々が貰い受ける」
その声と共に、ガントレットの周囲に潜んでいた敵がその姿を見せ、囲んでいく。
パパパパッッ。
深夜の深い森の奥で銃声が幾度となく響き、瞬間森を照らし――やがて収まった。
「ふん、てこずらせたな」
声の主、WDエージェントの”悪意の沼”は倒れている数人の部下と、ガントレットを一瞥する。
「ここを始末しておけ」
そう命じると、彼は薄ら笑いを浮かべながらその場を立ち去った。
「だとさ、さっさと始末しようぜ」
「だな、さっさとベッドで寝たいからな」
その場に残った戦闘員二人が、戦闘の後始末の為に死んだはずの敵へと近付く。彼らにもう少しだけ慎重さがあれば気付いただろう。その死体が微かに動いた事に。
だが、そんな事には気付かずに不用意に戦闘員達はガントレットの両脇を抱えた。それからしばらくして、ゴキン、という甲高い音が森に不気味に反響した。
それからしばらくして、同場所。
「――遅かったか」
あちこちに倒れている恐らくはWD戦闘員の亡骸を見てそう呟く。長身に不釣り合いな身体の線の細さと病的に顔色の悪いその男は――井藤謙二。黒を基調にしたWGの戦闘服を纏っている。彼はガントレットの発した救難信号を受け、ここに来たのだ。
ガササッッ、茂みの向こうから誰かが出てきた。
それは、ウージーサブマシンガンを手にしたWDの戦闘員達。
彼らは周囲の警戒をしていたらしく、人数は三人。
「お前は!」
「動くな」
「ここに来たのが運の尽きだ」
発見即死。そう命じられた彼らは言うや否や迷わずに引き金を引く。凄まじい銃撃が井藤に浴びせられ、その場に倒れる……はずだった。
だが、井藤は微動だにせずその場に立っていた。一発も銃弾は何もしていない様に見える相手に届かない……そもそも誰一人として引き金を引かなかった。指先に力が入らない。
ば、ばかな、そう困惑の声をあげ、戦闘員達は何が起きたのか分からないまま、立ち尽くす。
「邪魔をしないでください」
そう言いながら井藤は悠々と戦闘員達を横切る。
ふざけるな、そう言いながら一人の戦闘員は、ウージーを向けようとして膝から崩れ、倒れた。それはプツリと、糸の切れた人形の様に。
気が付くと自分以外の全員が同じく倒れていた。
(な、何なんだ?)
それがこの戦闘員の最期に考えた事だった。不幸中の幸いだったのは、苦痛を殆ど感じる事が無かった位だろうか。
「はぁ、はぁ」
息を切らせながら井藤は同僚の姿を探す。自慢では無いが、彼はあまり体力のある方ではない。一応鍛えてはいるのだが、事情により体力が付かないのだ。ゼーゼー と苦しげに呼吸をし、足が上がらなくなりそうなのを堪えながら、何とか走る。
彼は――ガントレットは、WGに入ったばかりの頃からの友人だった。三年前にイレギュラーに目覚めた自分とは違い、十年前からWGに保護されていた彼は先輩であり、親しき友人でもあった。
マイノリティとして目覚めたばかりで、不安定だった自分を色々と気を利かせてくれた友人。
ガントレットというそのコードネームはきちんとした名前を持たなかった彼が好きだったマンガのタイトルから井藤が付けた物で、云わば二人の友情の証し。まさか、本当にその名を付けるとは思ってもみなかった。
「何処だ? ガントレット!!」
発信器の反応はすぐ近く。暗闇の中、当然灯りも無い暗い森は足元もおぼつかない、油断すると倒れてしまいそうだった。かといって、ライトを付けたりすれば、何処かにいるだろうWDの連中に発見されかねない。それは避けるべき事態だ。
そんな中の捜索は困難を極めた。井藤は気が付けば傷だらけになっている。そのいずれも大した傷では無く、リカバーを使えばあっという間に癒える事だろう、だがそれはしない。
WGにしろWDのせよ、イレギュラーの研究は日々行われている。その結果、今やイレギュラー反応を計測する測定装置は二つの組織を経由し世界中へと拡散しつつあった。
リカバー等使おうものならそのイレギュラー反応でこちらの位置がバレるかも知れない、そうなるのだけは避けたかった。
井藤自身はバレても問題はない。だが、ガントレットは別だ。もしも重傷を負っていれば敵の追撃を掻い潜るのは困難になる。もうすぐ、朝日が昇ってくる時間だ。焦りが募る中、微かにガサッという草の音がした。油断なく周囲を見回し、静かにそこに歩み寄る。
「よ、遅かったじゃないか」
そこにガントレットはいた。この周囲でも一際大きな巨木の幹にその身を預けて。ちょっとだけ休憩していたかの様にそこにいた。
「大丈夫か?」
そう言いながら気付く。これはすでに”致命傷”だと。ガントレットの全身に銃撃による銃創がある。一体どれだけの銃弾をその身体に受けたか? 見当も付かない程の傷。それから、銃創とは明らかに違う謎の傷。
ガントレット自身も自分の受けた傷がリカバーでも間に合わない重傷だと理解している。でなければ、ここまで傷を放置したりはしない。べったりとした血がペンキでもぶち撒けた様に辺りを染めている。
「気にするな、俺に運が無かっただけだ。それよりも……」
彼は井藤にここまでのあらましを話した。時折、口から血を吐き、息も絶え絶えになりそうになっても話し続けた。その為だけに生きているのだと云うがごとくに。
「……とまぁ、これが俺の見た全てだ。気をつけろ、あの男は危険だ」
それだけ言うとガントレットは一度笑うとがくり、と首を落としそのまま絶命した。井藤はその亡骸を抱え、現場を離れた。
こうしてガントレットの任務は失敗した。だが、疑問も残った。あの夜にWDの施設を攻撃してきたのはどうやら同じWDに所属する戦闘部隊だった。つまりは仲間内での争いだった。
そして、その部隊を率いるのは”マリシャスマース”と呼ばれる悪名高きWDの工作員だと云う事が分かった。
最後に彼は姿を消した。所属していたWDの支部を壊滅させるという謎の行動を起こした上で。
井藤は手を尽くして友人の仇を負ったがついに行方を掴む事は出来ず、そうこうしているうちに九頭龍支部の支部長に就任、現在に至る。
「――夢でしたか」
目を覚ました井藤は、そう小さく呟いた。
「悪い夢でも見ていたのですか?」
そこに家門恵美が入ってくる。どうやら、井藤が寝ていたのを知っていたらしい。手には缶コーヒーを持っている。
「少し、昔の夢を見ました。えぇ、悪い夢です」
家門から受け取った缶コーヒーのプルを引っ張り、口にする。
ブラックコーヒーの苦味が少しだけ、心地よかった。
◆◆◆
聖敬がマイノリティに目覚めてからおよそ一ヶ月が過ぎようとしていた。
当初はイレギュラーを使うのも苦労していたものの、今では九頭龍支部で、彼と五分に闘える相手を探すのが大変だった。
生活する中で、聖敬も色々と驚いた。まず、一番困ったのは”日常生活”だった。
今まで何の気なしに行っていた事にも注意が必要になった。
例えば、鍵がかかっていたドアをノブごと容易く引きちぎってしまう。
「あ、何やってんのよ、クソ兄貴」
妹の凛に見られ、慌てる羽目になったのを思い出す。
嗅覚が前よりも鋭敏になったらしく、以前は大好物だった納豆の匂いに耐えきれなくなった。
「あらあら、何かあったのかしら?」
母である政恵は首を傾げた。
挙句には体育の授業ではいかに手を抜くのかを苦心しなきゃならなくなった等々、学生生活が一気に変わった。とにかく、何をするにも自重しなくちゃいけない事だらけで気が休まらない。
「ま、キヨちゃんの場合、イレギュラーの系統が明らかに【肉体変異能力】だからなァ、そこら辺は慣れていくしかないんじゃない」
田島は、ははは、軽く笑っていた。
「諦めろ。要は経験していくしかない」
進士も突き放した。
帰宅部だったこれ迄は、学校が終わればすぐに家に帰っていたが、今では毎日の様に訓練やマイノリティとイレギュラーについての勉強の日々。
家族には、部活に入ったという事にしたので、特に何かを云われる事も無いが、思った以上にハードな毎日だった。はぁ、と思わず溜め息を洩らす。
「キヨ、帰らないの?」
気が付くと晶が不思議そうな表情でこちらを覗き込んでいた。それも、すぐ近くで。ほんの数センチで互いの顔が当たりそうな至近距離。驚きながら、うわっ、と叫び声を浮かべ椅子ごと聖敬は豪快に後ろに倒れた。完全に気が抜けていたのか頭を床にぶつけ、悶絶する。
「いててて、な、何なんだよヒカ」
「何って、もう下校時間だよ? 帰らないの?」
晶は起き上がろうとする幼馴染みに手を差し出す。だが、聖敬はその手を取らずに起き上がる。さっきの至近距離がちらつき、どうも気恥ずかしい。
「え、ああ。今日は田島と進士と一緒にゲーセン行くんだ」
勿論これも嘘な訳だが、聖敬はアハハ、と笑いながらその場を逃げる様に出ていった。
「うーーーー」
唸る晶にクラスの女子は、
「ねぇ、今の見た?」
「キスしちゃうかと思ったよー」
「見た見た。何か最近、星城くん晶ちゃんに素っ気ないよね」
「もしかして、彼女が出来たりして」
きゃぁ、と甲高く騒ぎ、それを聞いた男子は、
「せ、星城め」
「な、何て羨ましい」
「晶ちゃんという幼馴染み枠だけでは飽き足らず、更なるフラグを立てるとはっっっ」
おのれーーーと無責任に当人には関係ない所で、噂は大きくなっていくのだった。
「くっだらね」
そう言いながら席を立つのはクラスの問題児の武藤零二。ふあぁ、と大きく欠伸をしながら気だるそうに教室を出ていく。出ていったはいいが、鞄を机の横のフックにかけたままだった。
数分後、息を切らしながら鞄を取りに来た零二は、必要以上に周囲を睨み付けながら教室に戻ってきた。少し顔が赤いのは照れ隠しだろうか。
「ンだよ? こっち見てんじゃねぇ」
そう毒づく零二に近くの男子はビビったのか腰が引け、女子の中には泣きそうな顔になる子もいる。
「武藤君、やめて貰えない? そういうの」
そうピシャリと言葉をかけたのは怒羅美影。背筋をピン、と伸ばし詰め寄っていく。
「はぁ、いまオレに言ったのか? 委員長さんよぉ」
あぁん、と言いながら凄む零二に対して一歩も引かない美影。
二人のにらみ合いにもいつの間にかクラス全員が慣れた。
「あーあ、また始まった」
「星城と西島とまた別の意味で夫婦喧嘩だな」
「はいはいご馳走さま」
「ヒューヒュー」
当初こそ、クラスのみならず学園有数の問題児の零二が優等生の美影に凄む光景にクラス全体で大騒ぎしたものだったが、二人は顔を合わす度にこうなるので、いつに間にかこうした光景も日常の一部となっていた。
「「誰がこいつと」」
シンクロしながら文句を言う二人にクラスメイトはピュー、と口笛まで鳴らす様になった。
「美影、もう行こうよ。今日はバームクーヘン食べにいくんでしょ」
「あ、晶。そうだった、じゃあまた零二く・ん。また明日」
トゲのある言葉をかけ、立ち去ろうとした美影に零二は言った。
「へっ、あばよドラミちゃん」
その一言は今ではクラスの誰もが知る、”禁句”だった。
美影はそう言われると途端に怒りだす。
「何ですッテェェェェッッッッッ!!」
その言葉に美影がキレた。全身をフルフルさせ、勢いよく椅子を持ち上げる。今にも振り下ろしそうな勢いでその言葉を吐いた相手に躍りかかろうとした。
「うわっ、おっかない、おっかない」
零二はおどけながら教室を出ていった。ふー、ふー、と荒い息を立てた美影にも、クラスメイトは当初こそ仰天したものの、もうすっかり慣れた。
「美影、どうどう」
今では美影のこうした一面にも完全に慣れたクラスメイトだが、抑えられるのは晶だけ。すっかり慣れた物で、落ち着きを取り戻した委員長は周囲の目に気付くとこほん、と咳払いして笑いながら教室を出て行き、晶が待ってよ、と言いながらその後を追っていく。こうして、放課後の騒動は終わりを告げた。
「何て言うか、このクラスの皆は適応力高いですね」
その話を一部始終を呆れ気味に見ていた進士の話を聞いた井藤がはっは、と笑う。相変わらずその顔色は悪い。
「それで、わざわざここに来たのには意味があるのですか?」
井藤は目を細め、進士を見た。
進士将。コードネームは”不可視の実体”。WG九頭龍支部に籍を置いているが、同時に日本支部の連絡員でもある。
普段は籍を置いてある九頭龍支部のエージェントとして行動するが、日本支部からの特殊な命令があった際にはその命令を所属する支部長に報告するという任務を受ける。
簡単に云えば、伝言を伝えるメッセンジャーである。
効率は悪いが、これは盗聴防止の側面がある。それから、メッセンジャーとなるのにも条件があり、それは任務を帯びるエージェントのイレギュラーは”精神感応能力”のイレギュラーを持つマイノリティかそれに対抗力のあるマイノリティとなっている。
これもまた、敵対組織に捕らえられた際には”頭の中”を覗かれる可能性に対する処置である。
「日本支部からの連絡です。【マリシャスマース】が九頭龍に数日以内に潜伏する可能性があるそうです。警戒してください」
「それは確かな話ですか?」
ガタッ。井藤は思わず立ち上がり詰め寄る。その勢いに進士は押されたが、はい、と言う。
「【千里眼】の予知ですのでまず間違いありません。」
「千里眼がそう言ったのですね。…………分かりました」
冷静さを取り戻した井藤は、はー、と一呼吸して椅子に座る。
千里眼というのは、WGの誇るスーパーコンピューターの名称。世界中の監視カメラや、衛星からの情報とリンクしていて、精度の極めて高い予知をする。
このスパコンが何処にあるのかを知るものはWGにも数人しかおらず、また本当にそれは単なるスパコンなのかも分からない、謎に満ちた存在。だが、出された予知はほぼ間違いなく実現する。
進士は思わず震えた。目の前にいる井藤からはさっきまでは無かった変化を感じる。一見、いつも通りに何処か飄々としてはいた。だが、その醸し出す雰囲気はまるで別人だった。
「インビジブルサブスタンス。家門さんをここに」
そこにいたのは温和な顔をした支部長ではなく、僅か三年でWGでも最強とされた日本支部専属の戦闘部隊の一員となった、歴戦の強者としての井藤だった。
◆◆◆
「あー疲れた。最近、しんどい」
聖敬はブツブツ言いながらストローをくわえていた。相手は田島。
最近は、学校後ここに来ることが増えたなぁ、と実感する。
田島や進士には慣れろとは言われたものの、増大した身体能力に振り回されっぱなしで、すっかり気疲れしていた。
「にしてもだよ、いい加減ヒカちゃんに告っちゃえばいいじゃん」
いきなりそう話を切り出したのは田島だった。
「ば、ばか。何でいきなりそういう話になんだよ?」
場所は駅前にある喫茶店。この店はミックスジュースが人気で、夕方は学生でごった返す。
かくゆう、田島に聖敬もミックスジュースを飲みながら話をしている。
「お前、不安なんだろ?」
田島は不意に鋭い視線を向けた。
「な、何がだよ」
聖敬は目をそらしながら返す。
「マイノリティになっちまうとな、色々と今まで無かった問題が出てくるってのはもう知ってるよな?」
「え、あぁ、確か、今まで抑えていた【欲求】が表に出やすくなるんだっけ?」
「そうそう、その欲求については個々人で違うから一概には言えないけどさ、キヨちゃんの場合はヒカちゃんでしょ?」
「な、な、何言ってんだ」
ガタッと椅子から立ち上がる聖敬。その勢いに周囲の学生達の視線が痛い。
「見え見えなんだよ、お前。お前のイレギュラーが強いのは知ってるさ、だけどよ、いつまでも避けてはいられない、別にデートしろってんじゃないぜ。とりあえず逃げるなってこった」
ミックスジュースを飲み終えた田島はお前のおごりな、とだけ言うと先に店を出た。
「分かってるさ」
聖敬は誰に言うでもなくそう呟いた。
喫茶店を出ると聖敬は九頭龍病院へと足を向けた。
WGの訓練カリキュラムは実際にイレギュラーを用いた実戦形式、マイノリティや、イレギュラーについて様々な知識を学ぶ座学。
それから、今日病院で行うような診断。この三つの繰り返しである。WGは特に診断に力を入れている。
マイノリティがイレギュラーの過渡の多用や暴走に至るのには各々の”精神破綻”が関わっている。
その兆候を見逃さなければ、”怪物”になるのを防げるというのがWGの考えた一番の対処法であるとされるからだ。
そう言えば、田島は言っていた。
――言っとくがよ、WGと違ってWDにはそういう事後処理はあまりないらしいぜ。
WDのモットーは個々の【自由】。何をしてもいい、だからな。
楽に感じるかも知れないけどよ、それってキツいぜ。誰も助けてはくれないんだからよ。
それはつまり、WDの中には基本的に互いに対する”仲間意識”が無いんだという事なんだ。
だから、連中にはフリークがかなりいるらしい。
【どうなろう】とそれは【自由】なんだからな。
それを聞いた時に聖敬の脳裏に浮かんだのはあの木島秀助だった。殺人狂の異常者。完全に精神が破綻したあの男の姿は、下手をしたら明日の自分かも知れない、そう思うと身体に寒気が走る。
(僕は絶対にああならない)
嘆息しながら、気が付くと聖敬は足を向けていた。
それは、ふと見えた光景に無関心ではいられなかったからだ。
「おいおい、逃げんじゃないぜ」
「そうそう、俺らと遊んでよぉ」
「ヒマしてんだろぉ」
キャハハ、と下品な笑い声を上げる三人組。いずれも十代だが、制服等は着ていない。
九頭龍は急激な経済的成長を遂げた。この経済特区には世界中から人や資産、知識が集まっている。
だからこそだろう、強い光の裏で影もまた強い。
先進的な学習指導についていけない学生は学校を退学し、そのなかには犯罪に走る者も出ていた。
彼らは自分達をこう呼ぶ、”落伍者”と。
今やその数は数百から数千人とも云われ、犯罪予備軍と目され、街の治安悪化に繋がっていた。
聖敬が路地裏に入ると三人組が迫っていたのはどうやら十代の少女で、髪の色は金髪なので白人の女の子のようだ。
震えながら、為す術もない彼女は声も出ない。
「おいおい、怖くなんかないんだぜ」
「そうだよ、俺らとちょいと遊ぶだけなんだしぃ」
「…………う、ぐえっっっ」
突如、三人組の一人がその場で崩れた。
口から吐瀉物を吐き出しのたうち回る。
「お、おい」
「どうしたんだ」
残る二人が倒れ仲間に近付く。すると――
その場に赤い飛沫が飛び散った。それは二人の腹を突き破った事による出血。何が起きたのか分からない、ただ、困惑した顔を浮かべ、声すら出せずに絶命した二人を、彼は立ち上がり見下ろしていた。
グルルルル、そう唸り声をあげるそれは最早、人ではない。バリバリと身体が膨張していく。
「フリークか?」
蟻の様な姿となったそのフリークは唸りながら、自分の目の前で立ち尽くす金髪少女にその手を振り上げようとした。
そこに聖敬が割り込んだ。瞬時に回り込みながら強烈なボディブローを腹部に叩き込む。
常人なら間違いなく即死しかねない打撃をその身に受けたフリークは、壁に激しく叩きつけられた。
グルル……、そう弱々しい呻きをあげた相手を見て、聖敬は即座に動いた。一気に肩を突きだし、突っ込む。フリークがそれに抵抗するべく、鋭く尖った手を振りかざす。
決着は一瞬だった。フリークの手は弾丸の様な聖敬の突進を止めらない。そのままグシャリ、と音を立て、崩れ落ちる。
すると、フリークは煙を上げながら元の姿に戻っていく。気を失った事で、変身が解けたのだ。
「何とかなったか」
ほっと、一息付くと聖敬は振り返り、金髪少女に近寄る。
念の為に”フィールド”を展開してみたが、彼女はその前から気を失っていたらしい。
(にしても……)
振り替えって周りを見回す。たった一ヶ月であったものの、訓練を積んだ甲斐はあった。今じゃ、イレギュラーに目覚めたてのフリーク位なら肉体を変異させなくても何とか出来る様になった。
二人は死んでしまったが、何とか少女は守れたし、フリークも殺さずに無力化出来た。
(さっきのは、いきなり覚醒した感じだったよな?)
疑問は尽きなかったが、とりあえずWGに連絡を入れる。
(何だろ、嫌な予感がする)
聖敬は空を見上げた。微かに見える晴れ間を、雲が覆い隠そうとしていた。
◆◆◆
「成程、わざわざ私に挨拶とは、一応礼儀はわきまえているのですね? マリシャスマース」
九条羽鳥の前に立つのはマリシャスマース。身長は一七〇センチ。体重は七〇キロ、引き締まった体格をした三十代の男。
ブランド物のスーツに身を包んでいるが、顔に付いた大火傷の痕を見る限り、堅気には到底見えない。目を見せない為か、暗い室内にも関わらず、サングラスを外さない。
「ふん、ここはアンタの縄張りだからな」
そう言うと、サングラス越しでも分かる敵意剥き出しの視線を、目の前の女性に向ける。
「貴様、身の程を弁えろ」
傍らに控えていたシャドウが怒りを露にし、今にも襲いかかりそうな勢いで身構える。
それを見たマリシャスマースはふん、と鼻で笑うと背を向けて出ていこうとする。そしてドアノブに手を掛けた瞬間――
「これは【上】からの命令でもある、数日間九頭龍で自由にさせて貰う。私の邪魔はしないことだ。ふふふ……」
わざとゆっくりとそう伝えると、部屋を出ていった。
ガチャン。
荒々しくドアが閉められ、そこに残されたシャドウは露骨に舌打ちを入れた。
「宜しいのですか? あのような無礼な物言いをお許しになるとは」
跪いたシャドウは九条さえ命じるなら、あらゆる相手を殺す。例えそれがWDの最高幹部であろうとも。彼のイレギュラーならば多少の距離も問題ない。無言ながらも強い視線を、崇拝する上司に向ける。
「構いません、好きにさせるといい」
九条は顔色一つ変えずにそう言うと、紅茶を口にする。
「彼は知るでしょう、ここが容易く落とせる場所ではないと」
それだけ呟き、鼻腔を満たす香りにその口元を微かに歪ませた。
九頭龍の空は灰色に染まっていた。それは、これから起こる出来事を象徴しているかのようだった。