一人ではなく
「くっひゃひゃひゃあああああ」
込品の勢いが増した。
先程以上にそのナイフの攻撃は鋭く、狙いは実にえげつない。
だが、聖敬にはその攻撃すら手ぬるい。完全に変異を遂げ、白狼と化した今の彼の身体能力の前には遊びですらない速度でしかない。
しかし、そのナイフの軌道は変則的で躱しづらく、その上こちらからの攻撃を悉く受け流すのはやはり厄介極まりない。
現に聖敬の爪先は今も、相手の左手に弾かれ受け流されてく。
がつん、という金属音と手応えからすると、手甲の様な物を装備しているらしい。
「しゃああらっ」
そのままの勢いを利用して回転しながら右手のナイフが襲い来る。軌道から察するに恐らくは首筋への刺突。
一番自然な回避手段は自分から前方へ飛び込む事。
「う、くっ」
しかしそれは既に叶わない。何故なら込品の左手は聖敬の着用しているWG仕様のアンダーシャツを掴んでいたからだ。
一手先により観えた一瞬先の未来に対応した込品の流れる様に自然な動作に遮られていた。
無論、単純な馬力なら聖敬の方が遥かに勝る。
だが、そんな事は問題ではない。この瞬間、今を支配さえ出来ればそれで戦いの流れを引き寄せられるのだから。
「死ね小僧!!」
ぐい、と引き寄せてナイフを突き立てんとす。
その一撃は寸分の違いもなく吸い寄せられる様に向かっていく。
だがここで予想外の事が起きる。
ガキン、という鈍い音と共にナイフの刃先が折れたのだ。
「なに、っっ」
それは一手先でも見切れなかった一瞬先の更に先の光景。
時はほんの数秒前まで遡る。
聖敬は、目の前の相手が自分よりも強い、と確信していた。
とは言え、それは単純に戦闘能力という意味ではない。
単純なカタログスペックでなら、自分の方が圧倒的に上である。
速度も、筋力も、瞬発力も、全てに於いて相手が自分よりも劣るのは間違いない。
だがそれでも相手の方が強い。
理由は簡単だ、一つは戦闘経験の彼我の差。
そしてもう一つは相手のイレギュラーが予知、予測の類いである事に尽きる。
確かに先手は取れる。だが目の前にいる込品はイレギュラーにより聖敬の動きを察知。
だがそれだけで優位に立ってるのではない事は聖敬には分かる。
先を知ったとしても、それは恐らくごく限られた時間なのだろう。でなければ既に戦いは決着しているはずだし、負けるのは自分であったに違いない。
なのに未だ決着が付かないのは彼のイレギュラーの影響する時間が短いから。一秒、或いはもっと短い僅かな時間なのかも知れないからだ。
この相手が恐ろしいのはそんな極々限られた先の時間についての反応速度であろう。
如何に先が読めたからとは言え、そんな数秒先を読み取れるならともかくこの相手はほんの僅かな時間、瞬間予知、予測。
普通であれば見た瞬間には経過してしまう様なそんな体感時間。
この相手はそんな僅かとすら云えぬ間隙で反応出来るのだ。それも自分が後々に優位に立てる様な動きを選び取る。
それはもう異様を越えて異常な事である。
(この人の本当に恐ろしいのは瞬間瞬間の判断力に適応力だ)
この相手に対しては単純な早さでは通用しない。
対抗するのなら、それこそ爆発的な瞬発力が必要。例えるならば、あの武藤零二の様な。今であれば総合力でひけは取らないとは思う。だが、一瞬一瞬の瞬発力では間違いなくあちらが上。
仮に込品が正確に予測、予知しようとも関係なく先に拳が叩き込まれる事であろう。
(なら、先読みの先だ。相手に先手を取らせて、そこから……)
そうしてその時が来た。
聖敬の攻撃に対応した込品が逆に必殺の刺突を放ってきた。
そう、これこそが聖敬が待っていた好機。
(来た、ここだ)
聖敬はこここそが勝負の仕掛け時だと理解した。
この目前の相手に対しては今の自分の速さでは通用しない。如何に先手を取ったつもりでも”一手先”によって後の先を取られ、気付けば自分が後手に回されてしまう。
ならば、狙うのは後の先の先。先の先である。
自分の右爪での一撃。今の彼にとって考える限り最速の攻撃。普通であれば決着となるそれを敢えて”捨て石”にする。
これとて仕掛けようによっては相手に充分通用しよう。
だがそれも確実ではない。
確かに聖敬には戦闘経験で目の前の相手には大きく見劣りする部分があるのは否めない。
マイノリティになってまだ三ヶ月と少し、実戦の回数も十数回に過ぎない。
僅か三ヶ月。だがその月日は聖敬にとって自身の人生でもっとも濃密な日々であった。
幾度となく敵となった相手の方が強かったと思う。
だがそれでも彼は勝った、生き残った。
何故なら、聖敬にとっての強さとは――仲間を信頼する事であったのだから。
それは二重の対策。
一つは自身の首筋を鋼の様に一瞬だけ硬化させる。
そしてもう一つは、”彼女”の援護。
そうこの場にいないが、ここを見ていた彼女――桜音次歌音こと星城凛の”音撃”による援護である。
そして彼女の音がナイフの刃先をへし折ったのである。
「ったく、クソ兄貴、無茶な事を。あーあ面倒くさい。……嫌だ」
と、毒を吐きながら苦々しい表情を浮かべた彼女の耳は、その作戦をしっかりと聞き取っていた。それは実に無謀と言える作戦。
何者かが暴れている。そう通信する声を拾ったのは凛であった。
それを伝えると、聖敬は居てもたってもいられなくなったのか、急いでセーフハウスから脱していく。
「ちょ、待ってよバカ兄貴!」
聖敬に凛は完全に置いていかれた格好となった。
今の聖敬は素の身体能力自体が異常に高い。
それは肉体操作能力のイレギュラーによる劇的な身体能力に耐えうる為の土台。
確かに凛の”静かなる囁き”は極めて強力なイレギュラーである。
約一キロもの攻撃射程を持ち、音を砲弾の様に放つ。
形を持たない不可視の攻撃を回避するのは極めて困難で、威力もまた折り紙つき。
故に彼女は強い。
しかし、それはイコール彼女自身の身体能力には寄与しない。
桜音次歌音、または星城凛という少女の身体能力はあくまでも一般人よりも少々上である程度。ある種の超人であるマイノリティとしては平均的なものでしかない。
全力で疾走する義兄に彼女の脚力で追いすがるのは無理がある。
だからこそ、二人は打ち合わせたのだ。
「ハァ、ハァ……いいよく聞いてクソ兄貴。相手は多分相当に強い」
凛は聖敬には到底及びはしないものの、それでも一般人に比すれば、かなりの速度で駆けながら遠くへ離れた義兄へ言葉を投げかける。
その光景は如何にも苦しげであり、傍目からは一見すると一人の少女が何やら独り言を言っている様に見える事であろう。
普段であればこんな失態は決して冒さない。
だのに今、こうして一般人に見られる危険性をも無視しているのは、口にこそ絶対に出さないが一重に聖敬が心配だからであろう。
聖敬の足音がどんどん離れていくのが分かる。もう間もなく範囲外である一キロ以上距離も離れてしまうだろう。だが、彼女が聞き取っていたのは恐らくはWGの通信。先程からずっと位置が動かない事から考慮するに相手を遠巻きに包囲しているのであろう。
――凛か、凄いな。何処から話しかけているんだコレ?
ほんの少しではあるが時間差があくのは距離の関係上致し方ない。
聖敬の声からは素直な驚きが感じ取れる。凛は少しこそばゆい気分であったが今はそんな状況ではない。
「そんな事は今はどうでもいい。それよりも相手は強い、…………だからあんた一人で何とかしようだなんて思わないで。クソ兄貴の後ろにはわたしがいるんだから、さ」
――ああ、分かってる。頼んだぜ妹。
「ば、ふん。出来ればあんた一人で片付けなさいよね。わたしは面倒くさいのは嫌なんだから」
――了解。じゃぁ………。
声はそこで途切れた。どうやら聖敬に一キロ以上離されたらしい。
「はぁ、クソ兄貴といい、あの零二といい何でどいつもこいつもこう変に素直なんだろ。
分かったよ、守るさ。馬鹿な男の背中はきっちりわたしに任せな。だからさ、」
死ぬなよな、と言いかけた言葉は飲み込むのであった。だって自分にはそんな言葉は似合わないのだから。
凛が再度聖敬の声を聴き取れたのは、既に戦闘中の事であった。
相手はどうやら近接戦闘に習熟しているらしく、聖敬は苦戦しているのがすぐに分かった。
急いで凛は近くで一番高さのあるビルへと足を向ける。
どうやら工事中らしく立ち入り禁止の立て札や規制線が張られていたが、そんな事は彼女の知った事ではなかった。
「……エレベーター故障、ハァほんっと面倒くさいわ」
文句を言っても始まらない。凛は階段を急いで登っていく。
ビルの屋上に辿り着くまでの間、凛には喋る余裕もない。
およそ三〇階建てのビルの屋上までを一気に登るのだ、無理もない。
「く、は、ぜっぜっ」
心臓が破裂するのでは、と思う程に鼓動が激しくなり、呼吸は途絶えそうに苦しい。
幾度も足を止めてしまいたかった。少しでいい、ほんの数秒でいいからガクガクになった足を一旦止めて、すっかり乱れきった呼吸を整えたい、と思った。
だが、それは無理だった。
何故なら、彼女の耳に聴こえて来る聖敬の戦いは辛うじて一進一退を維持している。
聖敬の呟きで相手のイレギュラーを看破したらしい事は理解していた。
相手の心音が僅かに変わるのが分かる。言葉にこそ出さないものの、心臓の鼓動までは誤魔化せなかったらしい。だが、その結果彼女には聖敬が不利であると確信を深めた。
(ほんの一瞬先の予知、もしくは予測能力。厄介だわ、兄貴みたいな肉体操作操作能力者は搦め手が苦手だ、やっぱりわたしが)
何とかしなくちゃ、そう思い限界に達しつつあった太ももを高く上げていく。
そうして辿り着いた屋上にはWDのエージェントが先にいた。
無論、凛は相手の存在にはとうに把握していた。
「あ――aaaaaaaaa」
その声はおおよそ人の発するモノとは云えぬ音。
つまり、屋上への扉は手ではなく音で吹き飛ばした。
「ぐ、ぐぎゃああああっっっっ」
恐らくは不意を突くつもりであったのだろう、待ち構えていたらしきエージェントは扉ごと下へと落下していく。
どおん、という爆音は恐らくはエージェントが装備していた手榴弾が爆散したものによる物であろうか。
その最期には目にもくれず、凛はバッグから双眼鏡を取り出すと聖敬と敵が交戦しているであろう場所を確認。
聖敬は幾度となく、こう呟いていた。
――頼むぞ、相手の不意を突け。
それは戦いながらのメッセージ。声がかすれかすれなのは相手に察知させない為の配慮。もしも相手に聴こえてしまえば、勝機が遠退くからだ。
だから……凛は待った。
息を整え、精密な一撃をその一瞬の機会に賭ける為に。
そしてその機会は訪れた。
込品が必殺の一撃を突き立てんとした。
その凶刃の刃先を狙う。
本来であればそんな精密射撃を凛はしたくはなかった。
何故なら彼女のイレギュラーの真骨頂は、音の砲弾による破壊。
しかし今、彼女が行わんとしていたのはそれとは真逆の遠距離からの狙撃であり、ほんの少しでも狙いを違えば、それは聖敬を殺すかもしれないのだから。
(でも、迷っている暇はもうない――)
全神経を集中、引き金を引き絞る様に音の弾丸を放った。
「な、にいっっ?」
込品は何が起きたのか分からずに、混乱を来した。
確実に仕留めたはずの攻撃が頓挫した。
ナイフの刃先がへし折られ、軌道が逸れる。
「だあああああっっっ」
それを見計らったかの様に聖敬は強引に振る。
そもそも腕力で込品に勝機はない。
「ぐがっ、……」
いともアッサリとその身体を投げ飛ばされ地面へ叩きつけられ、呻いた。咄嗟に受け身は取ったものの、不完全な姿勢であった為が衝撃を逃しきれなかったのだ。
それでも動きを止めれば敗北する事は承知している。
即座に体勢を整え、反撃に備える。
(まだ、いける。こちらに残された武器は……)
ナイフはもうない、あとは両腕に仕込んだ特殊手甲のみ。
つまりは打撃、もしくは決め技で倒す以外に方法はない。
(上等、いいじゃないか。ギリギリって事で実にいい)
一手先で、相手を観察する。
一つはっきりした事がある。相手は一人ではない。何処にいるかまでは分からないが、恐らくはそれなりに離れた距離であろう。
「くひゃ、いや面白いぜ。お前、いいぜ。それだけ強けりゃ何だって出来るだろうに、仲間と連携とはな」
込品は笑った。
目の前の聖敬だけでも持て余すと言うのに。
この上に素性も知れぬもう一人の相手がいるのだから。
窮地に陥っている、という実感が迫り来る。
ゾクゾクとした震えが来る。
自分が不利、それもほぼ自分が敗北するであろう、という流れにたまらなく恍惚を覚えていた。
聖敬は感じた。
目の前の相手の異常さを。自身が置かれたこの状況にあろうことか相手は興奮していると気付いた。
本能的に察知した、この相手はここで確実に倒さねばならない、と。さもなくば次は間違いなく自分が、いや、義妹まで命を断たれかねないと。
「いいか凛、大きいのをぶっぱなせ」
もう、相手にバレた以上、声を潜める必要もない。
聖敬はそう声を掛けると、飛び出した。
この攻撃で決着を……そう不退転の思いで。
「いいぜいいぜ、来いよぉぉぉ」
込品もまた、飛び出していく。
かくてこの対決は決着の時を迎える。