二日目
明朝。
昨日よりも陽射しは優しく、肌にひりつく様な痛みは感じない。
耳を澄ますと、チュンチュン、とした雀の鳴き声がすぐ近くに聞こえる。
蝉の鳴き声も聞こえはしたが、いつもよりもその音はずっと小さくて、心地よさすら感じる事が少しおかしかった。
多分、理由は今彼らがいるのが星城の家ではなく、妹が仕事上でたまに使うセーフハウスだからだろうか。
三〇階建て、高さは一〇〇メートルを優に超えるタワーマンションの最上階の一室。
周囲には同様の高さのマンションが三つならんでいる光景は以前からはぁ、と以前からよく羨望の視線で見上げていたものであった。
勿論、所謂”塔の区域”と呼ばれている超高層ビル群に対してはその高さ等、到底届かないのではあるが。
それでも実家から僅か五〇〇メートルしか離れていないこのマンションは聖敬にとっては身近な高層物であったのは確かだ。
そんな憧れだった場所に今こうしている。本当に不思議な気分だった。
「さてと凛、どうしようか?」
コーヒーを飲み終えた聖敬は、目の前の相手に対して開口一番そう尋ねた。
「どうって……知らないわよ」
そのつっけんどんな返事に思わず聖敬は苦笑する。
ずっと妹だと思っていた星城凛が本名が桜音次歌音で、WDエージェントであり、妹、正確には義理、偽装の妹である事をつい一時間程前に聞かされた。昨日も聞かされたのではあったが、あの時は彼自身が目まぐるしく変化した現状に酷く動揺しており、半ば上の空であったのだ。
こうして改めて話を聞かされたが、……正直何もかもがショックだった。
ずっと、ずっと気付きもしなかった事に。
何よりも、自分がマイノリティとして覚醒した後も気付けなかった事に。
だがこうして二人で軽い朝食とコーヒーを口にして思った。
確かに歌音は自分をずっと欺いていた。
でも、それはお互い様じゃないか、と。
自分だってマイノリティへ覚醒した後、WGに協力する様になる過程で、自身の秘密を隠す事を決めたのだから。
理由は至極簡単で、自分のいる世界に家族を巻き込みたくなかったから。
もう世界の裏側を知ってしまい、関わってしまったからには表側の住人には決して戻れない。
その事はすぐ彼にだって理解出来たのだ。
ましてや、生まれてからずっと異能者として生きてきた妹ならどれだけその事を痛感した事であろうか。
それにもしも彼女にその気が、つまりは冷酷さが備わっていたのであれば、昨日だって他にやり様は幾らでもあったに違いないのだ。
それまでの間、ずっと隠しおおせた自分の正体を敢えて晒してしまったのは目の前にいる妹が、他人を心配する事が出来るという証左。鑑みてみれば当たり前の事なのだ。
WGだのWDだのと組織は違うし、その目的だって違う。だが、そこにいるのはマイノリティとはなったものの、紛れもなく人間なのだから。
中には心が壊れてしまい、怪物と化したモノだっているであろう。
現に、聖敬が初めて戦った相手、木島秀助はまさしく己が力に呑まれた怪物であったから。
だが、武藤零二はどうだった? 彼は圧倒的な力を持ってはいたが真性の怪物であったか?
答えは否、だ。
確かに、その価値観には全面的に同意等は出来ない。
何処まで本当か分からないものの、すぐに暴力で解決しようとするのには賛成出来かねるし、正直乱暴過ぎるとも思う。
だが、それでも武藤零二にも彼なりのルール、線引きはあった様に思える。
問題行動は多かったが少なくともイレギュラーを使ったりはしなかった。
――一般人にイレギュラーなンぞ使ったら恥だぜ。
いつかそう言っていた。
そう、考ええれば極々当たり前の事なのだ。
本当に邪悪な人間などそう多くいるはずもないのだから。
結局の所、違いなんてのはほんの些細な事なのだ。
目の前の妹と話してると本当にそう思えるのだった。
「で、どうすんだよクソ兄貴」
「口が悪いなぁ、その言い方やめない?」
「うるさいよ。あまっちょろいんだよアンタは」
「はぁ、まいっか。それで何か分かったのか?」
聖敬が怪我で寝込んでいる内に、そのスマホには複数の連絡があったらしく、凛が出て対応したらしい。
着信があったのは、田島と進士の二人で、メールは晶と美影からだったそうで、それぞれがWDで起きた変事についてである。
その知らせを凛から知らされた時、聖敬は驚愕するしかなかったがそれは凛とて同様であった。
まだあの戦いから一日も経っていない。
だと言うのに……事態はかくも激変していたのだから。
「さぁね、WGもだけどWDも大変な事になってるみたいだから」
変事は、WDにも起きていたのだ。
昨晩、WD九頭龍支部が壊滅した。やったのはWDエージェントの椚剛という男。
深夜に彼女の仕事用のスマホに連絡が来た。
相手はトーチャー。”拷問嗜好者”との物騒な通り名を持つ変態少年だ。
WDエージェントは基本的に任務がない時は自由だ。
それ故にイレギュラーを活用して、犯罪行為に手を染める者も多い。彼の場合は”尋問”がそういう副業に相当するのだが、顧客は当然裏社会の関係者。
その為にではあるが、この拷問嗜好者たる少年には様々な情報が集まるのだそう。
だから彼には他のエージェントよりも早い段階で、九頭龍支部に変事が起こる事を予測出来たらしい。
自身の身の安全を優先した彼は即座に住まいを捨てて逃亡するつもりだそうだ。
――九条羽鳥がいないならWDから抜けるいい機会だよ。何せこちらは表向き存在しない立場なんだから。
と、そう言っていたそうだ。
「それ以上は何も、一緒に逃げないかって言ってたからバッカじゃないの、って言って切った」
「おいおい、……いいのかそれで」
「いいのよ、あいつ嫌いだし。だから、【音】を聞いてた。何か分かるかもって」
「それで……」
「早速混乱した、いえ、鎖が無くなったバカ達が暴れ出したみたい。その鎮圧にWGは現在四苦八苦してるそうよ。何せ腕利きの連中がいなくて人手不足だそうよ」
「じゃあ、行かなきゃ」
「そうそう、行かなきゃって……何言ってんのよ!
話聞いてたの? ちゃんと理解してんの? 今、WGの連中は混乱してるのよ。それを助けるなんて……」
「……それでも助けなきゃ。じゃないと無関係の人まで犠牲になる。凛はいいのか? ……余分な犠牲が出ても?」
「それは……その……」
「じゃあ行こう」
聖敬はさぁ、と席を立ち、手を差し伸べる。
凛はそんな自分の義兄を呆れる程のお人好しだと思った。
晶と一緒に逃げる算段を立てたっていいと言うのに。
彼はこれまでもう充分にこの街を守ったと言うのに。
(でも、そうだよ。こんなバカだからわたしはコイツを嫌いになれないんだ)
「……しょうがないな。クソ兄貴一人じゃ返り討ちに合うかもだし、手伝ってやるか。あーあー……面倒くさくて嫌だ嫌だ」
フフ、と笑いながら兄の手を取る。
やはり何だかんだで兄妹だったのだ、彼らは。
◆◆◆
その頃、九頭龍のとある地下にある店にて。
田島の姿がそこにはあった。
彼はここでとある人物と対面していたのだ。
あの生徒会長からの伝手で。
「ようやく連絡がついた。俺の名は田島一、WGの一員だ。
ここに来たのはあんたの力を借りたいからなんだ。
証拠? 生憎何か渡された訳じゃないんだ。共通の友人から、何かしらの異変が起きたなら、あんたを頼ってくれって……
ああ、シュナイダーだ。アイツは昨日死んだ。
だが、あんたはこの街が好きなんだろ? だったら――」