事態は動き出す
その日、何が起きるのかを進士将が知ったのは、まさしくその決行の直前であった。
支部で報告書を纏め、帰路に着く前にほんの少し休憩をしようと喫茶スペースに立ち寄った時の事。
「はぁ、今日は色々あったな」
そうボヤきながら、自販機から出たコーヒカップを口にする。
正直言ってここのコーヒーはお世辞にも美味いとは言えない代物だ。中途半端に苦いし、おまけにミルクもちょっとしか入っていないらしく、甘くもない。つまりは何から何までが中途半端な味わいなのだ。自販機の他の飲み物も同様で、おまけに値段の方も他の自販機と変わらない。
その為か、ここにはWGの職員も滅多に来ない。
だが、それが良かった。
誰も来ないから、一人で考え事をしたい時にはよくここに来たものだ。
だが、その日はいつもとは事情が違っていた。
自販機の側にあるベンチには先客がいる。人数は二人。
見覚えのある顔だ、もっともそれも当然だが。ここはWG九頭龍支部。そしてここにいるのは身内だけなのだから。
(確か……セキュリティ担当の奴等だよな)
そんな事を思いつつ、仕方がないのでベンチを諦めようとした時だった。
ぼそ、と声が聞こえた。
――なぁ、そろそろだな。
それは何て事のない言葉のはずであった。
いつもであれば、単なる世間話だとしてそのまま通り過ぎたに違いない。
なのに、……何故かその言葉は進士の心に引っ掛かかり、足が止まる。
距離は大体五メートル程。物陰に隠れたから向こうからこちらは見えないはずだ。
そこから聞き耳を立ててみる。
聞こえて来たのはこういう会話であった。
――しかし、本当に今日でいいのか?
――ああ、今日だからいいのだ。
――だって、今日はベルウェザーの件でウチのセキュリティとかはもうメチャクチャなんだぞ。
――確かにな。逆に考えろ、今日だからいいんだよ。今日ならば、いつもよりもセキュリティは甘くなっている。それがいいんだ。
――そうか、そうだな。確かにお前の言う通りだ。今日こそ【決起】に相応しい日はない。
――バカ、こんな場所で【決起】とか口にするんじゃない。誰が聞いているのか分からないのだぞ。
――大丈夫だ、今ここにいるのは俺達だけさ。問題ないよ。
その会話は、かなり剣呑な内容に思えた。
総合すると、何らかの反逆行為が水面下で進んでいて、それが今日実行に移される、と受け取れる。
(まずそうな事態だ――どうする?)
この瞬間、進士には選択肢があった。
一つは速やかに、上司にこの件を伝える。支部長でも副支部長でもとにかく火急的速やかに。
だがその選択肢は次の会話で潰える。
――しかし、本当に大丈夫なのか? 家門さんは強い。そう簡単に押さえられないぞ。
――それは問題ない。こっちには対抗策もあるし、何よりもこっちにはもっと【上】の命令、という正当性がある。家門さんも納得してくれる。
もっと上、とそう聞こえた。
家門よりも上、となると支部長がこの件に絡んでいるとでも言うのか?
その疑念が進士の足をその場に留め置き、最初に浮かんだ選択肢を消し去った。
だが、結果的にこの行動が今の窮地を招いていたとも云える。
「は、はっ」
息を切らしながら、進士は走っていた。
あの直後の事だった。
あの二人の仲間が聞き耳を立てている進士に気付いたのだ。
結果、今の状況に陥っていた。
「マズイな、くそ」
今、進士がいたのは表向きは難病やそれに伴う疾患を患った患者の為のフロア。
その実はマイノリティ専用の場所なのだが。
連中の頭数は五人にまで増えていた。
逃がすつもりはない、そういう意思の表れだ。
荒事の苦手な進士にとって相手に出来るのは二人がいい所だ。
どう考えても、状況は不利でしかない。
ここに逃げ込んだのは、状況判断の結果だ。
連中はまだ行動に移ってはいない。
だから、表だった動きをここでする訳にはいかない。
ましてこのフロアは様々な医療機器が置いてあり、その中にはとんでもない金額の代物も多々ある。
だから、このフロアであれば、連中が用いる手段は限られる、という判断からだ。
実際、連中は今、警棒こそ構えているが、銃には手をかけてもいない。
連中は舌打ちしたいに違いない、だが、逃がす訳にもいかない。
そういう心理状態に陥っている事だろう。
何か手を打つなら早急にしなければ、
「ち、っダメか」
小さく舌打ちする。このフロアは電子機器を使えない様に手を加えられている事を思い出した。
(となると、何とかここから逃げるしかないって事か)
結局は強行突破しか選択肢は残されていなかったのだ。
そろり、そろりと足音を立てない様に忍び足で歩く。
様子を伺っていたので、おおよその位置は把握している。
フロアの出入り口はエレベーターと二つの階段。
エレベーターは除外。何せ連中はセキュリティ部門の人員なのだから。入ったが最後そのまま止められて身柄の確保、という事態は充分に有り得る。
だから、ここでの選択肢はどちらかの階段へ向かう、だ。
慎重に、周囲の様子を窺う。
連中は一部屋毎にしらみ潰しにするつもりだろう。
このままだとジリ賃になる。
バキバキ、慎重に大きな音を立てない様に意識を傾けながら、病室にあったパイプ椅子から脚部を外して、簡易的な武器にする。
あまりの軽さに不安はあったが、これでも素手で殴りかかるよりは随分とマシだろう。
ガチャ、音がかなり近い。
もう、二つか三つ位しか離れてはいないらしい。
「よし、行くか」
仕掛けるならば、不意打ちに限る。
耳を澄まし、連中の動向を聞く。
ガチャ、ついに隣の病室に入ったらしい。
今だ、――そう思い、静かに部屋から出る。
途端、目の前には一人の敵がいた。
音に気付き振り向く。だが、関係ない。完全に不意を突けた為、先制攻撃は進士だ。簡易の警棒もどきをこめかみへと叩き込む。
「うげっ」と声を挙げ、その場で倒れる。
「どうした?」と部屋にいたもう一人が物音で振り向くと、仲間が倒れていくのが見えた。
腰に備え付けたナイフを引き抜くと構えて飛び出す。
丁度そこに進士が警棒もどきを振り下ろし終えた所、だった。
「お前っ動くな!」「くそっ」
進士の警棒もどきよりもナイフの方が小回りも利く。
素早い切り払いで進士の手首を掠める。
「うっ、く」
カララン、という音。進士の手から警棒もどきが落ちる。
深手こそないが、これで状況は圧倒的に不利となった。
戦闘能力に不安を残す進士と仮にもセキュリティ部門の人員では戦闘能力には明らかな差があった。
「ハッ、終わりだ」
仲間を倒された事か、それとも血を見た事が原因だったか。
男は興奮状態にあり、ナイフの刃先を進士へと向ける。
明らかな”殺意”を込めた目で相手を睨み付け、己が刃を突き立てようとした時だった。
突然、男の動きが止まる。いや、止まったのとは違う。
「ぐあああ」
男の身体が壁にめり込んでいる。いや、飲み込まれていく、といった方が正しいか。
壁からは白い手が伸びている。細く、本当にか細い細腕が男の顔を、手足を掴み取っていた。
そしてそのままズブズブ、と男の身体が壁に飲み込まれていき――消え去った。
「え、何だよこれ?」
何が起きたのかが分からずに困惑する進士の背後から白い手が伸びていき――
「う、わむぐっ……」
そのまま反対側の壁に引き込まれるのであった。
「う、ううん」
「気が付いたわね」
「良かったぁ」
目を覚ました進士の目の前にいたのは、エリザベスと晶の二人であった。
「これはどういう事だ?」
進士のその問いは当然と言えた。何が起きたのか分からないのだから。とりあえず彼女達に救われたのは理解しているが。
「リズが私の病室に来たのよ、何かがおかしいって」
晶はそう言うと隣にいる金髪の少女へとその視線を向けた。
「うん、確かにそうだけど……ワタシに最初に警告してくれたのはヒカリだからね。その、寝ていたワタシに、【何か変だよ】って夢の中でね」
「夢の中? 何だよそれ?」
「うん、よくは分からないけど。それが私のイレギュラーって言うんだっけ、みたいなのよ。
他の人の【心に入れる能力】それが私のイレギュラーなんだって」
「誰がそんな事を西島に?」
「お兄ちゃんだよ、前にそう言ってたのを思い出したんだ」
そこまで言うと、晶は口ごもる。彼女の中で様々な事が思い出されていったのだ。何故、一〇年前の事が曖昧なのかを思い出しつつあったのだ。自分を守る為に、兄である迅が”忘れさせていた”事を思い出したのだ。
「…………」
押し黙った晶から発せられる何とも重苦しい空気の中で話を続けたのはエリザベスだ。
「ともかく、ヒカリのおかげでワタシは身柄を押さえられる前に逃げ出せたのよ」
「そう言えばどうやって逃げたんだよ、二人ともさ?」
「ああ、それは簡単だよ。ワタシのイレギュラーで、身代わりのお人形さんを二つ病室に置いてきたんだ。
だから、まだワタシもヒカリも寝ている、って思われてるよ。
ここに来たのは、ヒカリがこのフロアに来れば誰か来るってさ。
それで、ワタシのイレギュラーで病室を二つ程【隠して】。
バレないように周囲の病室の壁を狭くして、あとは手だけのお人形さんでアナタを追っていた人達【全員】をこことは反対側の病室に引き込んで、今は寝てもらってる」
そうさらり、と言ってのけるエリザベスに進士は驚く他ない。
もう、この二人の女子が色々と規格外で言葉も無い。
確かに血液操作能力は色々と融通が利くとは聞いた事があったが、他人に気付かれない程の人形はともかくとしても、周囲の病室の壁までぱっと見で分からない程に狭くして、部屋を二つ隠しておくなんて使い方、聞いた事もない。
「ああワタシ、イレギュラーの系統ですけど、ブラッドコントロールと、エリアコントロールに、それからクリエイションの三つが組み合っているそうです」
「三つもか? ああ成程なぁ……」
もう、どうとでも来い、と思ってしまった。
つまりは、血液を媒介して人形のみならず場所をも擬装出来る、という事だ。確かにベルウェザーは学舎全体を取り込んでいたのも、そういうイレギュラーの組み合った結果、だという事なのだろう。
WGの一員である自分よりも逞しいというか、サバイバリティに優れたクラスメイト二人を頼もしい、と思ってしまったのだから。
「でも、何で僕なんだ? 助けてもらって言うのも何だけど、早く逃げれば良かったのに……」
「うん、それはねヒカリが……」
「え、――ああ。ごめん、…………進士君は視えるんでしょ?
その、先の事が」
「ああ見える。それがどうかしたのか?」
「これからここで起きる事を知っておきたいの」
「いや、それは誰を見ればいいのか――あ!」
そこまで言って気付く。
反対側にいるセキュリティ部門の連中を見ればいいのだと。
そう、つまり今、この状況はそれをさせる為のお膳立てなのだと。
「何から何まで至れりつくせりだな。分かった、あいつらを全員視ればいいんだな?」
進士の問いかけに、二人の女子は同時に頷くのであった。
この後、進士は五人を観察し、起き得る無数の可能性を予測した。そして、程なくして支部で反乱が起きる事を知るのである。
それから三人は支部から脱し、それぞれに動く。
女子二人は、美影の部屋に。
進士は、田島の部屋に。
その前に今後、互いに連絡を取れる様に、盗聴対策済みの携帯電話を二つくすねた上で渡しておいた。
こうして事態は動き出す。
だが誰も知らない。
この後に何が起きるのかを。
単なるWG支部での反乱どころではない、とんでもない事態が待ち受けているとはこの段階では、まだ誰も知らなかった。