不穏な夜
誰もいない部屋、そのはずだった。
彼女が住まう寮は個室で、美影がこの寮を気に入ったのは個々のプライバシーが最低限保たれると判断出来たからでもあった。
部屋の場所は二階と言うのは少々不満ではあったが、一番奥なのは評価すべき点だ。非常階段が近いので出入りも容易であったし、二階なので不必要に他の寮生とも鉢合わせはあまりない。
「う、いたた」
思わず手を腰に回す。ズキン、とした痛みがまだ残っている。
無理もない、彼女は本来なら病院に入院していてもおかしくないのだから。如何にリカバーが作用していようとも、無制限に回復する訳では無いのだ。
部屋に戻ったら、シャワーを浴びて、さっさと寝よう、と思った。痛む身体に、今日は少し無茶をし過ぎた、と今更ながらに実感出来た。
そうして部屋の鍵を開け、入った時だ。
美影の直感が、何かがおかしい事を告げた。
微かだが空気が違う様に感じる。
「…………ん」
熱探知目で部屋を確認する。
玄関、には痕跡はない。
だが、奥に僅かながら熱を感じる。壁越しでも分かる。誰かいる。彼女には感じられる、その熱を肌で。
「……誰かいるワケ?」
美影は声をかける。そうしながらその拳を広げ、いつでもどういう相手に対してでも対応出来る様に、油断なく身構える。
壁の向こうからは何の音沙汰もない。
このままここで待っていても埒が開かない。そう思った美影は意を決し、踏み込む。
すると、
「その、お邪魔してます」
そこにいたのはエリザベスであった。
「アンタ、何してるワケ? っていうか何でココ知ってるのよ?」
「あ、それは――」
エリザベスはしー、と人差し指で指し示すと同時に部屋の奥を指し示す。部屋に入った美影がその指し示す方向へ視線を向けると、……そこにいたのは。
「晶、何でココにいるのよ?」
病院に、支部にいたはずの西島晶であった。身体を壁に寄りかける様にし、スースー、と静かな寝息を立てている。
「しー、ついさっき寝たばかりなのです。そっとしてあげて」
「う、……分かった」
「それで、何でココにいるのよ?」
「それは、WG支部で問題が起きたからです」
「……何よそれ? WDにでも攻撃されたとか言うワケ?」
「いえ、でも今。支部は占拠されています」
「状況が飲み込めないわね、一体誰によ? それに攻撃を受けて何でアタシに連絡が来なかったのよ?
そもそもどうやってここまで逃げて来たワケ? ……よくバレずにすんだわね」
「それは、私のイレギュラーで病室にはお人形さんを寝かせてあるので……しばらくは大丈夫だと思います。病院からここまでの距離もそんなに遠くないので様子も問題なく伺えますし。あそこにいたら危険だと、分かったので」
「便利ねホント。でもどうしてそんなコト分かったのよ?」
「はい、ヒカリさんが教えてくれたのです」
「晶が、それは一体どういうワケなの?」
「それは……その……夢で」
エリザベスが言いにくそうに口を濁らせたその時だった。
美影は気付く、何処かからこちらへと向けられた殺気に。
「ねぇ、エリザベス。アンタ達追いかけられたりでもしたワケ?」
「いえ、そういった事にならない様に……慎重に慎重を来してここまで来ました」
「ねぇ、アンタ外の様子見れない? こっそりと」
「出来ます………ん」
エリザベスは美影の机にあったボールペンを一本手にすると、その先端で指先を傷付ける。当然、その指先からは数滴の血が滴り落ちる。
すると、その僅かな雫はそれ一滴一滴が生き物であるかの如く動き出す。
窓の隙間を潜り抜けて、寄り集まって小さな鼠へと姿を変える。
その鼠は周囲へと素早く視線を向かわせ――――、
「ミカゲさん、妙な人達がいます」
察知したのは寮の外にいる幾人もの不審な影。
彼等は物陰に、正面の自販機側のベンチに座り込み、この女子寮の隣の寮の屋上にいた。
その誰もが一見すると普通に思える。だが、エリザベスの目は、その嗅覚はその本質を見極める。彼らから漂うその血の香りに常人とは明らかに違うその内面を見抜いていた。
「ちぇ、囲まれてるってワケ、か」
スマホのアンテナは圏外になっている。この分だと電話線も同様に遮断されているに違いない。
「どうしますか?」
「どうもこうもないわね、無理矢理突破するのは今のアタシにはキツいし…………少し様子見ね」
「いいのですか?」
「ええ、連中が動くならフィールドを展開するはずよ。ま、多分だけど」
「大胆ですね」
「とりあえず少し休むわ、……少しでいいから様子見お願い出来るかしら?」
美影はそう言うと手早く着替えを済ませ、ベッドに潜り込み……寝てしまった。
ものの一分で寝入った少女に、金色の髪の少女はなかば呆れ気味に苦笑しつつも、
「分かりました、アナタ達は私が守ります」
そう呟くと襟を正し、注意を払うのだった。
かくして、外からの監視者を相手にエリザベスにとって長い夜が始まるのだった。
◆◆◆
「ったく、手間のかかる兄貴だよ……ホントにさ」
歌音、いや凛は息を荒げつつ、聖敬をソファーに寝かせる。
冷蔵庫を開き、中に入っていたコーラを取り出すとキャップを外してまずは一口。
「ふう、やっと落ち着けた」
自分もそう言うと、その側にあった座布団にへたへたと座り込んだ。
「もう、こんな時間かぁ」
すっかり夜も遅くなってしまった。今いるのはとあるマンションの最上階の一室。九条羽鳥からWDエージェントとしての桜音次歌音へと提供されたセーフハウスの一つだ。ここを知るのは直属の上司である九条ただ一人だけ。家には既に今日はクラスメイトの部屋に泊まる、と伝えてある。側で寝息を立てている聖敬についても今夜は病院にいる晶の側にいる、という事にしてある。
冷蔵庫から気に入りのサイダーを一本取り出すと一口。さあああ、という炭酸の爽快さが、喉を通り抜け、気分をシャキッとさせる。
「はぁ、」
思わず溜め息が口から出る。
様々な事が一度に起き過ぎて、正直疲れたのだ。
ふと、聖敬へ視線を向ける。
(あーあ、バレちゃったんだな)
本来ならば何があっても隠匿する様に厳命されていた。
それを破ってまで正体を明かしたのは、一重に晶を守りたかったからだ。その事に後悔は一切ない。
歌音に、凛にとって晶とは実の姉の様な存在だったのだから。
結果はと言うと、これ迄秘匿してきた自身の正体がWGに発覚、という事態を招いた。
それはつまり、これ迄九条が保持していると密かに噂があった極秘実動部隊が存在する証明でもある。
彼女の恩人にして、防人の顔役、更に晶のたった一人の肉親でもある西島迅はどう思った事だろう。
それが怖かった、だから、聞いたのだ。
――うん、大丈夫さ。上手く立ち回って君の事は発覚しない様に手を回すよ。WGにも、WDにもね。
これ迄有難う、これからも晶の友達でいて欲しい。
返ってきた言葉は叱責ではなく、労いだった。
予想外の対応だったが、それも西島迅、という人物を知っているならば当然だとも言えた。
彼は怒らない。思えば怒った顔を見た事は一度とてない。
いつも、いつでも彼が穏やかな笑みを欠かさずに、見守ってくれた。そんな兄がいたからだろうか、晶も真っ直ぐに成長。実の妹みたいに凛を可愛がってくれた。それが本当に嬉しかった。
偽りの家族生活だった。でも、本当に彼女は幸せだと思えた。
父も母も、兄も偽者。その記憶を改竄され、何も知らずに自分みたいな怪物を家族として扱ってくれた。
本当に幸せだった。こんなにも人って温かいんだと、日々実感したものだ。
いつしかこう思った。
(いつまでもこんな日々が続けばいいのに)
分かっている、そんな事は有り得ないのだと。
何故なら、自分は怪物。
その力を持ってして出来る事と言えば、荒事ばかり。
色んな人を殺し、挙げ句には父まで手にかけた怪物。
そんな汚れ切った自分が平々凡々な日々をいつまでも謳歌出来る訳がない。分かっていたのだ。
一年前、武藤零二の相棒兼監視役に着いた事で再度裏社会に戻った彼女は、いつの頃からか願う様になった。
(どうか、皆は何事もなく幸せに暮らしていけますように)
大事な人達の為なら自分がいくら手を汚しても構わない。そう誓って生き抜いて来た。
だと言うのに。
(神様っていうのがいたんなら……どんだけひどい仕打ちだよ)
今や、……全てが変わってしまった。
姉同然に思っていた晶は、自身がマイノリティだと気付いてしまった。
兄同然に思っていた聖敬もまた、事故によってマイノリティに覚醒。よりにもよってWGに入ってしまった。
足元が大きくぐらつき、自分がどうすればいいのかが分からない。これまで拠り所として来た全てが変わってしまったのだから。
だからこそ、聞いたのだ。
あの人に、自分に仮初めとは言え、居場所を与えてくれたあの人に。
あの人は答えた。
――もう君は自由だ。だから好きにしたまえ。
それだけだった。彼は言った。自由だ、と。
それがどういう意味かは分からない。でも、自由。その言葉をこれ迄どれだけ待ち焦がれて来た事か。
――その前に君にお願いがあるんだ。聖敬君を見定めて欲しい。
彼が危険なのかそうではないのか、をね。
そう、西島迅はこう言ったのだ。
場合によっては”星城聖敬”を殺せ、と。
結果は失敗。分かっていたのだ。自分に聖敬を殺すなんて無理である事は。
(だって、ずっと一緒だったんだよ、出来る訳がない)
だから今、歌音は逃げようと思っていた。
聖敬を、病院にいるらしい晶を連れて何処か遠くに。
「早く、目を覚ましてよ。それで晶ちゃんと一緒に逃げようよ」
そうか細い声で歌音は俯く。
聖敬は未だ泥の様に眠ったまま。
外の闇はいつもよりも一段とまた深く濃く、何処か得体が知れず……不安を誘うモノに思えた。