ヒカリ
ただただそこは何もない場所。
何かをするでもなく、ただいるだけの場所。
自分という何かなどそこには存在しない。
そこに一筋の光が差し込んだ。
光はとても温かな物だった。
何故だろうか、それはまるで春うららかなある日の、心地よい陽射しの様で。
とても心が落ち着いていく。
どうしてそんな事を思ってしまったのだろう?
ただ見ているだけ。
なのに、あれだけ疲れていたのがまるで嘘のような感覚。
疲れているだなんて何故思ったのだろう?
誰かがいた、そう誰かがいる。
そこにいるのが誰なのかは分からない。
そもそも、自分が何なのかもよく分からない。
自分という個体、自分という概念すら今、光に照らされて思い出したのだから。
光の中に、その中心に誰かがいる。
いや、違う。
その誰かを中心にあの光は発せられてるのだ。
それは手、だ。確かそのはずだ。
その誰かがこちらに差し出した手はとてもとても優しくて自然と、――――そっちにいってもいいかな、と思える。
誰かが言葉を口にした。
≪こっちに戻って来て≫
それは呼びかけ。
優しい、とても優しい声。
その声を聞くと自分というモノがどういった形をしていたのかが思い出される。
そう、自分が元々は今とは違う何かであったのだ、と。
だから手を伸ばす。差し出されたその手を掴む為に。
温かい、とても温かなその手の温もりで、ぼくはそこから浮かんでいったんだ。
◆◆◆
「…………」
誰もが声を失った。
その光景は、言葉で言い表せないものだ。
それはとても神々しい光であった。
彼らの目前にいた晶がその全身からとても目映い光を発した。
そしてその光に目が眩み、視界が奪われた。それはまるでカメラのフラッシュを至近距離で目にした様な感覚だとでも言えばいいだろうか。
彼らが視界を失ったのはごく短い時間だった。
失われた視界はすぐに回復し、そして彼らが目にしたのは……。
ついさっきまでそこは、真っ赤だった。
彼らがいる屋上のみならず、この建物全体がそうだった。
それは、ベルウェザーが学舎内にいた全ての人を血液にして利用したからだ。
大勢の人が生きながら自分という肉体の器を喪失した。
肉体のみならず、精神までをも溶かされ、分解され、自我というモノすら認識出来なくなった。
彼らは、生きながらに死んだのだ。
最早、それを救う手立て等はない。
誰もがそう思っていたのだ。
だがしかし、
今、彼らの眼前には一面の鮮血ではなく、大勢の人が見えた。
それらは聖敬達のクラスメイト。
あまりに突然の事で一瞬、精巧な人形だと思ってしまった。
だが、クラスメイト達は弱々しくはあったが、その胸は確かに呼吸で脈動。全員が間違いなく生きていた。
それだけではなかった。
学舎内に同様の事が起きていた。
生き物という生き物全てが単一の、ベルウェザーという存在の一部と化したはずのこの建物に確かな息遣いを歌音、いやこの場では星城凛の”聴覚”は聞き逃さなかったし、さっきまでとは違う、熱の有無を美影は感じていた。
この場にいた誰もが、ベルウェザーを許して一つとなったエリザベスでさえも驚愕せざるを得なかった。
彼らの視線は皆、一様にそれを成し遂げたであろう少女、WGの面々は自分達が特別監視対象であった彼女を。幼馴染としてお隣さんとしてずっとそばにいた聖敬と自分を実の妹のように可愛がってくれた凛の二人もただ、言葉も無くその場に立ち尽くしていた。
「えへ、何とかなったよ、ね?」
晶はやり切った、という感じの笑顔でそう言うとその場で膝を付く。
それを見て、全員が気付く。
あまりの出来事を前にして、皆が失念していた。
晶のイレギュラーが何なのかは謎のままだ。
だが、どういった分類のイレギュラーであったにせよ、結果としてこの学舎内にいた全員を一斉に救い出した。
これ程の規模の能力が彼女に一体どれ程の負担をかけてしまうのかという事を。
無理がかかっていないはずが無かったのだ。
「ヒカッッッ」
思わず聖敬が駆け寄ってよろけた幼馴染みの身体を受け止めた。
その身体はとても柔らかく、暖かく、そして、華奢だった。
「あれ、なんだろ? 何だか疲れちゃったみたい……ちょっと眠いかな……」
閉じかけた瞳は心配そうに自分を見詰めている親友を認めた。
普段とは違い、心底不安そうな表情で美影が問い掛ける。
「晶、大丈夫なの?」
「美影、どうだった? 頑張ったデショ?」
「うん、凄いよ。皆晶のお陰だよ」
「でしょう、あ……後でクレープ食べようよ♪」
「いいよ。じゃあアタシがおごるからね」
「へっへー、やったー。ラッキー…………」
笑顔でそれだけ言うと晶の頭がカクン、と垂れる。
動揺した聖敬に美影であったが、聞こえてきたのはスー、スーとした小さくもしっかりした呼吸。
思わず二人はホッとした表情を浮かべる。
「でもどうするんですか、今回の事件。その、こう言っちゃなんですけど難しいッスよ……間違いなく」
田島は傍らで立っている支部長に尋ねる。
そう、この事件は多大な影響を多くの人に与えた事だろう。
高等部の無関係の生徒や教員、彼らの大半は今回の事を何も気付かない事だろう。
何せ、ベルウェザーはこの学舎から誰も逃げられない様に入念にフィールドを展開したのだから。
聖敬達のクラスメイト以外のよそのクラスの生徒達は殆ど抵抗する間もなく、意識を刈り取られたに違いない。
そして、ベルウェザーの強力な干渉力で自己を失い、その一部と化した。
本来であれば自己という個体の形を喪失した彼らを救い出す術は無かったのだ。
WGの技術を用いても彼ら全員の救出は不可能だった。
それ程に晶の行使したイレギュラーとは桁外れであったのだ。
ベルウェザーに晶。二人のマイノリティの行使したイレギュラーを立て続けに受けた彼らの中に新たなマイノリティが誕生しても不思議ではないのだ。
これに対する処置、それから壊れた学舎の修繕に関係各所に対する情報統制。
これらの対処を急いで行う必要がある。
「それに、【彼女達】の対応も問題です」
進士もまた懸念を抱いていた。
ベルウェザー、彼女は悪名高きマイノリティ組織NWEの幹部の一人だった。
先導者の異名を持った彼女が関わったとされる様々な事件。
それらにより、大勢の人が犠牲になってきたのだ。
如何にベルウェザーの正体がエリザベスから分け隔てられた人形であったとしても、元の主に対する責任が皆無と言う訳にはいかない。
「…………」
井藤はエリザベスについては言葉を持たなかった。理由は簡単だ。金色の髪の少女がそのイレギュラーを暴発させた三年前。
彼もまた三年前にある事件に巻き込まれ、マイノリティとして覚醒。直後にイレギュラーを暴発させ、周囲の人々を死なせてしまったのだ。今でも、その際に目にした光景はその脳裏から離れる事はない。
それはまさしく地獄絵図であった。
誰一人として原形を留めた者はその場にはおらず、…………ただそこにいたのは自分ただ一人のみ。
何があったのかすら理解しきれないあっという間の出来事。
覚えているのは…………自分が腹部に何かを受けたという実感。滲みゆく赤い染みを、熱と痛みとそして”死ぬ”という確信。
だが、彼は死ななかった。
何か途方もない何かが解き放たれた感覚。
それが自分の内側から溢れ出ていき、今こうして生者は自分だけになっていた。
後にWGのロンドン支部に保護をされた彼が聞いた所によると、彼がいたその広場でテロ事件が発生。
そこに運悪く居合わせたのだという話であった。
だが、それも最早うやむやらしい。何せ、実行犯もろともその場の全員が死に絶えたのだから。
そして程なくして家門恵美が迎えに来て、自分もまた異能を持った者である事。それから程なくして殉職したと聞かされた兄の死因があるマイノリティの殺し屋、通称”解体者”に迫った結果であったとも聞いた。
そして井藤は決意した。
自分は許されない事をした。
それはもう覆す事の出来ない事実。
だが、ならば。
ならばこそ自分はこの力を何かを守る為に行使しようと思ったのだ。
この”毒”は何かを”殺す”為の存在。なれば、自分と同様の力を持ちながら、それをただ他者を踏み躙る事に用いる者を、自身の快楽の為にのみ用いる悪意を持った誰かを殺す、いや、滅ぼす事にのみ用いようと。
「支部長? 大丈夫ですか」
呼びかけられた声に井藤はハッ、と我に返る。どうやら意識が飛んでいたらしい。訝しむ様な視線を進士が向けていた。
「ええ、大丈夫ですよ」
今更ながらに全身が軋む様だった。
毒を全開にして、それを云わば一種の保護壁として用いる事など初めてだった。
想像以上に神経を擦り減らし、精神的に披露したらしい。
そして一旦解放した毒をまた体内に封じ込めたのだ。
何度味わっても慣れない感覚に嘔吐したくなる。
全身が毒に満たされる感覚、血液も、臓器も、汗さえも、髪の毛や爪先にさえ毒が浸透していくあの感覚は、恐らくは一生慣れる事はないだろう。
井藤としては、エリザベスを断罪する事は出来なかった。
自身もまた大勢の人を殺したのだ。それをどうして同じような境遇の少女を咎められるだろうか。
(それよりも問題は、)
井藤は視線の先で眠りについたらしき少女こそが心配だった。
彼は彼女のイレギュラーが何なのかは知らないまま、いや、九頭竜支部自体知らないままに彼女をずっと長い間監視していた。
その監視を決定したのは初代の九頭龍支部支部長とでも言うべき人物。今は日本支部支部長であり、”議員”の一人でもある菅原だ。
菅原はこう評していた、世界が変わってしまう、と。
その時は何を言っているのか分からなかった。
だが、今なら分かる。
確かに晶のイレギュラーは干渉した。
それも恐らくはこの世界に。
まだ完全に理解した訳ではない。
だが、少なくとも彼女のイレギュラーが発動した結果、この学舎内にいた人達は戻った。
彼女のイレギュラーを菅原は知っていたのかも知れない。いや、知っていたはずだ。だからこそ長年彼女を監視させていたのだから。
(となると、それを知っているのは【彼】もか)
そう、判断した時だった。
「遅れてしまったね、申し訳ない」
その声にその場にいた全員が一斉に視線を向けた。
「え?」「お兄ちゃん?」
思わず聖敬と晶は驚きの声をあげた。
だが、それも無理はない。
何故ならそこにいたのは、晶の兄であり、たった一人の家族である西島迅だったのだから。