鮮血の決着
「…………今、何つったよ?」
田島の表情が険しくなった。彼は今、進士が言った言葉に怒りを感じていた。
確かに窮地に他ならない。井藤の毒は、この鮮血で彩られた臓腑に於いても有効ではあった。
だが、ただでさえこの支部長は自身の毒の制御だけで手一杯なのだ。
ましてやその毒で周囲をカバーすると簡単に言っても何もかもを”消す、殺す毒”を今は自分以外の何の免疫も持たない二人に影響を与えない様に細心の注意を払いつつ今の今まで凌いで来たのだ。その精神的な負担がどれ程の物か見当も付かない。
この窮地を乗り越えるには自分たちから見て反対側の屋上。そこにいるこの惨事の元凶を倒さねばならない。
美影は田島に言った。合図を待て、と。
反撃の機会は恐らくは一度っきり。倒せなければ即ちそれが最期だ。
そこまで生き延びるのであれば、進士の決断は合理的だった。
美影の援護に田島の”不可視の実体”は有効だ。
そしてその機会まで井藤の毒も必須。
なら、単なる未来予測、演算処理でしかない自分の存在はここでは足手まといでしかない。
そうした判断の上からの正論だった。
だからこそ、
だからこそ許せなかった。
自分の命を簡単に秤にかけた友人に、そうさせてしまった自分の非力さに。
だからこその怒りだった。
「ふっざけんなお前、自分を何だと思ってやがる」
思わず掴みかかる。そのまま殴りつけかねない剣幕で。
「だが、このままでは全員死ぬ。それだけは駄目だ。
他に何があるっていうんだ? 教えろよ」
間髪入れずに進士もまた掴み返す。いつも感情を表に出さない男が、だ。彼もまた死にたくなんかないのだ。だが、全滅だけは避けねばならない。その葛藤に苛まれる。
そして、この場に一瞬即発といった空気が漂った所で。
「そこまでです」
それを遮ったのは支部長である井藤だった。
「時間がありません、……いいから離れないで下さい」
井藤はそう言うと息を深く吸い、吐き出す。
さっきまでとは違い、その肉体はメキメキとした筋肉に覆われていく。決して筋肉質という訳ではないが、ついぞ今さっきまで病的に痩せ衰えた姿だったのが一瞬で変化するのは何度見ても驚く。
この状態こそが井藤の本来の姿。そのイレギュラーである”毒”を自身の体内という密閉された容器から解き放った姿。
この状態になるのは彼が本気で事に当たる際のみ。
彼のこの姿を一度目にしている進士は思わず身震いをした。
通常であれば、周囲にいる二人は毒で死んでしまう所だろう。
現に井藤の両の手からは何か禍々しい瘴気とでも云うべき何かが生み出されている。さっきまでとはわけが違う毒気を含んだ霧の様なモノを出している。
しかし、今に限れば井藤の解き放った毒は三人を包む様に展開されている。まるでバリアでも張ったみたいに。
「一度しか言いません、二人共に勝手に死ぬとか死なないとか私は許可しません。
ですので今、この場で出す指示に従って下さい。
二人共に、何としても生きろ、絶対に死のうとするな。私があと少し頑張ればいいだけの事です。田島君は温存を、進士君は私ないし、田島君の支援を。今出来得る限りの最善を尽くして下さい」
それだけ言うとくくっっ、と呻く。如何に全力を出せる様になったとは言え、さっきまでとケタ違いの毒を殺す為ではなく”守る ”為に用いている。その制御もまた段違いに負担をかけているに違いなかった。
現に、その顔や腕、肌の露出している部分には血管が浮かび上がり、激しく脈動している。今、この瞬間にでも破裂しかねない勢いで。
「…………」
田島も進士も返す言葉が無かった。
進士は目を閉じて深く深く深呼吸する。そうして意識を集中、研ぎ澄まし、目を見開く。
「【不確実なその先】」
精度の低さなどもう考慮しなかった。低いというのなら、その分自分が今まで以上に"予測"と"判断"をすればいいだけ。無数の朧気に観える先の光景。欠けた部分、曖昧な部分は考えろ。
(一体どれだけの未来の可能性を観たと思ってる。考えろ、補え)
まるで走馬灯の様に無数の可能性が浮かび出す。
その中には、三人共に鮮血に取り込まれる予測もある。田島だけが生き延びる予測もある。井藤だけが凌ぐ予測だってあり、井藤の毒が制御不能に陥り、三人を飲み込む予測だってある。
(違う、これじゃない、これも違う)
無数の可能性。
ほんの一挙一動で狂う可能性から、自分の望む可能性を探し出す。
そうして、
「支部長、でかいのが来ます」
と予測を口にした。即座に目前の鮮血が寄り集まり巨大な槌と化した。
そうしてその槌が振るわれ、襲いかかる。
井藤の毒が迎え撃つ。ジュワ、という音、鼻をつく異臭。即座に槌が崩れ去る。
「次、背後から来ます」
進士の言葉の通りに攻撃が放たれ、それを井藤が迎撃する。
ベルウェザーという不確定要素がある為にその予測には穴だらけだろうに。
それでも進士の予測は的確だった。
今、横にいる仲間の脳はフル回転している。
その事がどれ程の消耗を強いているのか田島には思いも付かない。
ただ、一言。
「やるじゃないか」
とだけ呟く。
「次は――――」
進士は微かに笑い、戦う。
その様子を目の当たりにした田島は、
(後は俺が仕事をするだけだな)
気持ちを新たにしていた。
◆◆◆
「何よ、なんでよ」
ベルウェザーの表情には、その声には、明らかな怒気が浮かんで含まれていた。
信じられない思いだった。
彼女が、この器たる身体を奪ったのは、”完全”になる為。
それは、元々のエリザベスが、自分を作った少女が、この世界から”いなくなったから”だ。
彼女がいなくなった事でベルウェザーは自分の存在意義を見失った。
常に側にいて、彼女を見守って来た。
それがベルウェザーたる人形の、ここにいていい唯一の理由だから。
辛いときも悲しいときも、嬉しいときも、そうどんなときであってもエリザベスの側で彼女の姿を見守って来た。
三年前何が起きたのかは彼女にも分からない。
エリザベスに分からない事をその人形であった自分が分かる道理もない。
エリザベスは自分の中で抑えきれなくなったモノを全て人形であった自分に渡した、いや、放棄したのかも知れない。
心の中で膿み拡がった黒い心。
(でもそれでもいい)
それが人形である自分の役割なのだろうから。
主が耐えられない重みなら、代わりに引き受ける。
それでいい、彼女の側で支えられるのであれば。そう思って。
その時、既にベルウェザーには明確な”意思”と”情愛”を持ち合わせていた。それは人形としては破格の出来事であった。
人形とは、文字通りに主の為だけに存在、使役されるモノだ。
外見に関わらず、人形に感情はない。
そこにあるのはただ、主、つまり造形主の”命令”に従うという単純な回路のみ。
人形にあるのは主の言葉のみ。
ベルウェザーもそうした人形であった、はずだった。
だが、いつの頃からだろう。
ベルウェザーには、自身も気付かぬ内に自分の意思が芽吹いていた。エリザベスが悪いことをしようとした時、彼女は主人を嗜めた。それが当たり前の事だと思えたから。
エリザベスは驚かなかった。
寧ろ喜んでいた。
それが嬉しかった。
エリザベスが自分の事を認めてくれた。
だから彼女が望む事を何でもした。一緒に遊び、悪戯をして、犬に追いかけられて。
そうした何年間もの間は本当に楽しかった、今でもそう思える。
だというのに、
エリザベスはある日いなくなった。
この世界からいなくなった。
身体は残っている。
でもそこに入っていたのは、彼女とは別人。
人形であった少女の中で何かが渦巻く。
嫉妬、怒り、羨望、関心。
それらの全てを、エリザベスとその器に入っている誰かへと向ける。それしか無かった。
何故なら、それしかないのだから。
人形だった彼女に残されたモノは、それしかないのだから。
エリザベスを、その器を自分のモノに。
そうする事で一緒になれる。
その為にはどんな事でも。
その為になら、何でもやって来た。
NWEなんていう如何にも怪しい集団から勧誘され、一員になったのも、そこで彼女の個有名である”先導者”という異名をも得て、いつしか最高幹部の一人とまで到達したのも、そこに至る迄に多くの命を奪い、蹂躙したのも自分の全てを理解し、使いこなせるようにする為。
そう全てはこの日、この時の為だった。
そうして願いは叶えられた。
一つになった事で、これまでずっとポッカリと開いた何かが埋まった様に感じる。
充足感に満ちる。
この三年間の全てが今、結実したはずだった。
だというのに、
今、ベルウェザーの目の前に佇むのは彼女がずっと追い求めた少女。同じく金色の髪をしているのに。
「な、んで? どうしてあなたがいるの?」
困惑していた、困惑しか出来なかった。
この三年間もの間何があっても、どうあっても決してその姿を見せてこなかった彼女が目の前にはいた。
いつの間にかベルウェザーはエリザベスと対峙していた。
完全に入り込んだはずだったのに。
彼女が自分から閉じ籠ったあの扉。あれをさらに固く固く閉じたのに。
その動揺を見透かしたかの様にエリザベスは言う、相手を見据えながら。
「返してもらうわ」
「ふざけないでっっっ」
対しての言葉は怒号。彼女自身初めての本気の怒気であった。
◆◆◆
「な、何が起きた?」
困惑した表情を浮かべたのは桜音次歌音。
「さぁね、何にしたって」
美影はそう答える。
二人の目の前にいたベルウェザーの様相がおかしい。
彼女は健在、依然として学舎中が彼女の庭先、いや、腑の中、その身体の一部とでも言ったほうがいいだろうか。いずれにせよ、窮地のままだった。
現に歌音の腹部には真っ赤な蔓の束が槍のような形状のまま突き刺さっている。
美影は晶を庇い、無数の蔓に手足を絡み取られようとしていた。
このままでは間違いなく敗北は必至という窮地。
だというのに、今、二人の心に焦燥感は微塵もない。
それどころか、今までなく頭の中はスッキリ、冴え渡るかの様にクリアであった。
「殺す、…………今度こそ貴女を消してやる」
唐突に吐かれるは、何とも剣呑なベルウェザーの言葉。だが不思議な事にその言葉は今、まだ歯向かう意思を持ち続ける二人へと向けられた声ではない。
(まるで誰かがそこにいるみたいな物言い)
美影にはそう思えた。
と、
「美影、大丈夫?」
という言葉がかけられる。
「ヒカリ。大丈夫なの、そっちこそ」
美影は振り返る事もなく言葉を返す。
あまりにも眩い光を放った後、ほんの数秒間だが晶は完全に意識を断っていた。
あれが一体、どういう類いのイレギュラーなのかは皆目見当も付かない。
だが、その結果が今の状況なのだとしたら。今のベルウェザーの奇妙な様相が晶のイレギュラーのもたらした結果だと言うのなら。
「そこのWDエージェント」
「はぁ? 私には星城凛っていう名があるんですけど」
美影のぞんざいな言葉にそう応じた歌音。
二人は動いた。
まずは歌音が動く。
キィィィィンという耳をつんざく強烈な高音。
だが、その音の発生源は口からではなく、ただ指を鳴らしただけ。
それは彼女なり威力や被害を抑える為の手加減なのだろう。
ばしゃ、という音。
その音で赤い蔓が弾けたものの、その距離はほんの数メートル。
ベルウェザーの手前まで。
彼女の周囲の真っ赤な池が宙に、地面で弾けた。
その瞬間に美影が仕掛ける。
両の手を地面に叩き付ける様に。
「ふっっっ」
一声、気合いを入れ――真っ赤な池の水を瞬時に凍らせる。
その氷はベルウェザーの足元にまで及ぶ。
「は、なに?」
ようやく心ここにあらずであった、先導者たる金髪の少女が事態を理解した。
だが、遅い。
そこに飛び込むのは白い狼。
氷の地面を滑る様に、加速させ。
「侮るなッッッッッ」
ベルウェザーが自身の指先を噛み切る。そこから鮮血の蔓が一直線に獣へと向かい放った。
それは咄嗟とは言え、あらゆる物を溶かす強烈な酸性の鞭。
触れえさえすれば相手は死を免れない。
そして狙い通りに狼の胴体を両断した……はずであった。
だが、違う。
その両断した狼に手応えがない。
そうそれは実体の無い虚像、幻覚。
そして学舎内で、彼女の腑の中で、不敵に屋上を見ている人物。
「へ、援護したぞ」
田島はそう言うと膝を付く。
鞭が通過したと僅かに遅れて、狼が突っ込んでくる。
「く、なん――」
舌打ち混じりで鞭を戻そうと試みる。
だが、遅い。
彼女の全身に強烈な衝撃が駆け抜ける。
その身体はまるで鉄球のごとき勢い。
そして、
強烈な体当たりを叩き込んでいた。
「ぐくああああッッッッッ」
ベルウェザーは呻きながら吹き飛んだ。
「な、何で? 何で負けるの? ワタシが――」
有り得ない、そんな事が有り得てなるものか。
三年間の決着がこんな形で終われるはずもない。
「みんな、ミンナ死んでしまえばいい」
ベルウェザーの目は狂気に染まりつつあった。
「もういいんだよ」
そこにかけられた声。
その声色はとても優しく、そして落ち着く声。
「な、何で? どうして今更…………」
目の前にいるエリザベスは声色同様何処までも優しい微笑みをたたえている。
どうしてだろう。
ベルウェザーの心が揺らぐ。
こんなにも憎いのに、こんなにも、こんなにも。
なのに、何故こんなに何かが和らぐのか。
「や、やめて。来ないで――!!」
思わず叫ぶ。
でもそれは怖いからではない。
「もう、いいんだよ」
ゆっくりとエリザベスが近寄る。
ベルウェザーは動けない。その全身が微動だにしない。
そこに手が差し出され、
思わず目を閉じるベルウェザー。
「………え?」
柔らかい感触。昔、そうこの感触を覚えている。
「ねぇ、帰っておいで。もう、何処へも行かないから」
その声にこれ迄堪りに溜まった、積もりに積もった何かが消えていく。
底にまで積み重なった様々な感情が全て。
「あ、ああああ」
ベルウェザーの表情が、変わる。
「ワタシ、戻れるの?」
その言葉に対する彼女の返事は――――
◆◆◆
今、目の前で起きたのは一体、何だったのだろう。
それが分かるのはエリザベスだけだろう。
さっきまでとは違う穏やかな表情をした彼女が、自分の足元にあった小さな血溜まりに声をかけ、優しく撫でた。まるで愛おしい何かを慈しむかの様に。
「終わったよ」
金髪の少女がそう声をあげる。
その表情はとても穏やか。
「でもワタシは許されない事を…………」
そうしてエリザベスはその場で膝を付く。
聖敬には分かる。
彼女が今、何を思うのかを。
エリザベスは、今、自分の過去と、分け隔ててしまった自身の半身に押し付ける形になってしまった心の闇と向き合っているのだ。
それにそれだけではない。
ベルウェザーとなった彼女がこの三年間で積み重ねた数々の出来事をも彼女は今、その身に受けているのだ。
先導者となった彼女がNWEの主要メンバーにまで登り詰める過程で行った数々の行為をも。
その内の幾つかは聖敬も資料で目にした。
彼女は自分の手を汚さない。
いつも他者を手駒にして物事を推し進めた。
だが、今回ばかりは違う。
この学舎内にいたはずの大勢の命を彼女は自分の養分として吸い上げたのだから。
「終わった様ですね」
そこに、井藤と田島、進士の三人も姿を見せた。
三人もまたボロボロであった。
彼らは今の今まで学舎内、つまりはベルウェザーの体内でずっと抗ってきた。
初めこそ無数の蔓が襲いかかってくるだけの(充分に厄介ではあった)攻撃も最後には、学舎の四方八方からの槍衾にまでエスカレートした為に流石に無傷とは到底言い難い。
その衣服は破れ、全身の無数の切り傷や裂傷が生々しい。
井藤の毒で凌ぎ切るのにも限度があった中で生き延びたのには、一重に進士の指示があったからに他ならなかった。
「ワタシはどうなっても構いません」
覚悟を決めた表情でエリザベスの言葉。
その表情には決意が込められている。井藤は問う。
「どうとは?」
「ワタシは取返しの付かない事をしでかした」
そう返すのが精一杯だった。学舎内にいた人々が犠牲になったのだ。償えないし、償い切れない。
「私は三年前に有る事件でマイノリティとなり、イレギュラーを得ました。その際に大勢の人を巻き添えにしました」
井藤の言葉は重い。その光景は彼にとっては悔恨の時。
「死ぬのは簡単です、だからこそ償わなければいけない」
その言葉は井藤自身が己に律した戒律、戒め。
「でも、それは…………」
「僕には何とも言えない。でも、君は彼女を受け入れた。その全てを背負うのなら、生きなきゃだめだ」
背後からかけられた声。
それは変化を解いた聖敬の言葉。彼は視たのだ、彼女の心の葛藤を。
「それにダイジョーブだよ」
晶が進み出る。何処までも優しい微笑みを称え、エリザベスの肩に手を置く。
「多分、何とか出来るよ。だって、皆、まだいるんでしょ? それなら…………」
晶は目を閉じる。
そうして辺りを眩い光が覆い尽くした。
「皆を助けるよ」
かくして彼女のイレギュラーが発現した。