鮮血の中の希望
観える。
まるで俯瞰したカメラの様な映像を私は観ていた。
ここは何処だろう?
とてもリアルだ。
ここは――、そうか。
そうだ、ここは学舎の屋上だ。
そこにいるのは…………美影に凛ちゃん、キヨは気を失っているのかな? うずくまっているみたい。
さっきまでいたはずの寿朱音ちゃんがいない。
そして……何よりも”彼女”。
リズがいない。
さっきまで一緒だったのに今はいない。
屋上にいるのは彼女じゃない、彼女によく似ているけど知らないヒト? 違う、あの子は何かが違う。
分からない、ううん、分からないのはわたしだ。
何でこんな風に俯瞰してるんだろう?
わたしは美影の側でへたり込んでいるのに。
分からない、分からない…………ううん、違う。違うよ。
わたしは”分かっているんだ”ここで起きている事が。
学舎中が赤く染まっている理由も、それが何を基にした赤なのかを、全て観えている。
そうだ、わたしは―――観えているんだ。
◆◆◆
「何だよ無理って? 冗談じゃない」
聖敬が叫ぶ。全身を震わせ、変異する。……狼の姿に。
そして彼はおもむろに駆け出す。
だが彼は何かにぶつかる。
「ぐあっっっ」
思わず呻いた。
そこには何も無いはず。だのに、何か”壁”の様な物があった。
「くそっっ、じゃまだっっっっ」
聖敬は立ち上がるとその壁に向かっていく。
幾度も幾度も、諦めずに。
しかし…………、
その都度、見えない壁はその試みをアッサリと阻んでいく。
聖敬の全身全霊を悉く遮り、防ぎ、止めて、拒む。
その拳、爪、牙、あらゆる凶器と化した全身で抗う白き狼たる少年。
「くそ、くそ、クソッッッッッッッ!!!!」
幾度も幾度も繰り返し叩き込んだ。
しかし壁はビクともしない、それどころか聖敬の拳は真っ赤に染まっている。酷い裂傷を負っている。
「聖敬君、ムリよ」
エリザベスは淡々とした口調でそう声をかける。
だが、聖敬は諦めない。
叫びながら見えない壁にぶつかっていく。
「どうして、…………何でキミは諦めないの?」
エリザベスが呟く。
彼女にはここがどういう場所かが誰よりも分かっている。
ここが一種の心象世界、精神的な概念の場所であり、もう自分の身体は彼女に奪われているのだと。
そう、ここは一種の”牢獄”。見た目こそ開放的で牢獄とは違えど一度入った者を決して逃がさない為の拒絶の小部屋。
思えば、いつからここにいたのだろうか?
もうよくわからない。
ずっとここにいたのだ。
ただし、それを望んだのもまた自分自身。
あの血塗られたパーティー会場を目の当たりにし、母親を昏睡にし、父が離れた。その全てを引き起こした自分自身を許せなかったから。だからここにいた。
そう、ここはエリザベス自身が作り出した場所であり、だからこそ誰も入れないはずの場所だったのだ。
ここで一人閉じ籠もり、あんな恐ろしい事を二度と引き起こさない様にしようと、そう思った末に決めた……はずだった。
だが、試みは失敗した。
エリザベスの肉体の干渉を受けなくなった人形が、切り離したはずの彼女が自我を持ってしまったのだ。
彼女は、それまでエリザベスの側にずっと居続けた。
その有り様をつぶさに見てきたのだ。
結果として、彼女の中に刻まれたのは深い、深い、”絶望感”に自分自身に対する”無力感”、そして自分を作り出した人物への”依存心”であった。
だからこそ、エリザベスは自分の肉体に最後の力を使って別の人形の人格を植え付けた。
人畜無害な性格な別の自分を。
その上で、自分の肉体に宿ったリズに一つの命令を出したのだ。
彼女に捕まってはいけない、と。
同時に彼女にも命令を下した。
決して彼女に触れてはいけない、と。
もう微力だったエリザベスの下した指示にどれ程の強制力があったのかは彼女自身分からなかった。
ただただ、祈るだけだった。
あの二つの人格が互いに会わない様に祈るだけだった。
幸いにも、リズはエリザベスの指示通りに動いてくれた。
理由は多分、いくら牢獄に入ったからとは言え、この身体に自分自身という存在があるからだろう。
だからこそ、あんな強制力があやふやだった指示も有効に働いたのだろう。
だが、それはつまり彼女には然程の効果を与えられなかった事を意味していた。
結果として、彼女はいつしかリズへと近付き始める。
ただし、それでも多少の強制力は働いているのか、直接的な接触はしてこない。しかし、彼女は日々リズの近くにいて、その様子を伺い続けた。その様子は肉食の獣が物陰から獲物を狙っているが如くに。
その動きに嫌な予感を覚えたエリザベスは、リズに働きかけた。そうして自分の身体に入っているリズに影響を及ぼす事で、彼女から少しでも逃げようと試みた。
だが、それは全くの無意味。
何故なら、彼女の肉体を構成しているのは、ワタシ自身の血液そのもの。どれだけ離れようとも、自分の一部である彼女からは逃げられなかった。引き合うのだ、自分自身で。
それどころか、彼女は変化を遂げつつあった。
いつの間にか”ベルウェザー”という名を持つまでに至った彼女は、リズへの介入を続けていった。
最初はほんの些細な悪戯レベルだったのが、徐々に悪質な犯罪にまで発展、いつしか命の危険にまでさらされる様になった。
だからこそ、九頭龍という土地に流れ着き、仲間が出来たというのは素晴らしい事だった。
リズもまた、自分がマイノリティである、という事を理解し、そのイレギュラーを少しずつではあったが扱える様になるのは正直嬉しかった。
でも、それすらもベルウェザーは利用した。
彼女に取り込まれた今なら分かる。
彼女は、わざとリズをWGに接触させたのだと。
それだけの為に多くの人を巻き込み、その結果として死んだ。
そして今、彼女は全てを手に入れようとしていた。
別たれた自分を取り込み、ひとつになろうとしている。
今は辛うじて防げているが、それもいつまで保つだろうか?
「だから、…………何をしてもムリなのよ聖敬君」
その呟きは今にも消え入りそうにか細い。
殆ど独り言の様な物。
エリザベス自身それが相手に聞こえるとは思っていない。
だって、彼は今、必死になってこの牢獄から出ようと足掻いているのだから。
全身がボロボロになっていく。ここは現実ではない。だからあくまでもボロボロになっているのは、彼がそうイメージしてしまうからに過ぎない。
拳からは血が滲む、鋭かった爪先も欠けている。
全身を激しく打ち付けたからだろうか、傷だらけだ。
もう、精神的に限界のはずだ。
だのに…………何故だろうか?
白き狼の少年は諦めようとしない。
今にも倒れそうなのに、踏みとどまる。
「あああああああ」
叫びは誰に向けているというのか、聞こえる訳がない。
この牢獄で、自我を保っているのはここにいる二人だけなのだ。
「諦めなさい…………諦めてよ。何で諦めようとしないのよ?」
そう言うエリザベスは涙を流していた。もう、三年も前に流し尽くしたと、そう思っていたのに。何で今になって涙が止まらないのか?
だってさ、
白き狼、聖敬は不意に呟いた。
「だってさ、…………生きてるんだよ僕達は。確かに、酷い状態だよ、絶望的かも知れないよ。…………」
でも、と言いつつ聖敬は倒れた。思わずエリザベスが駆け寄る。
姿は元に戻っている。限界なのだろう。
はー、はー、はー、という息遣いは荒々しく、消耗の激しさをこれ以上なくエリザベスに分からせた。
「でも、僕達はまだ生きてる。なら、さ…………まだ諦めちゃ駄目だ」
信じられない事に聖敬は立ち上がった。
もう、何が出来る訳でもない。それでも血塗れの拳を握り締め、壁へと叩き付ける。
「…………ああ、」
何度も何度も、傷付きながら。
それでも彼は決して諦めない。
無様に無駄に足掻く。
でも何故だろうか?
不思議と彼の事が羨ましい。
ああも向かっていけるのが、越えられない壁に立ち向かえる事が羨ましくて、眩しい。
そうだ、いつからだろうか?
色々な事から目を背けて、前に進もうとしなくなったのは?
酷い出来事を前にして心がズタズタになった。
そうして逃げた。そうしなければ”罪の意識”に押し潰されると、そう思ったから逃げた。
その時だ。
ふと、気付いた。
側に誰かいる。
彼女は金色の髪をしていて、まるで人形みたいに綺麗だった。
彼女をエリザベスは知っている、誰よりもよく知っている。
自分という存在、人格の中から切り離した分身、別人格。
そして無知な状態のままで外の世界に放り出した、身代わりの存在、言わば生け贄だった存在。
だと言うのに、
彼女は、リズは笑顔を浮かべる。
「ハイ」と言ってその子は手を差し出す。
その子は自分が逃げた後に嫌な事を全て押し付ける為に作った人格だった。今なら分かっているはずだ、何故自分という存在がいるのかを全て理解しているはず………。
それなのに、彼女は手を差し伸べた。恨んでも当然の相手に。
自分が酷い目に合い続けた、その原因を作った相手に。満面の笑顔を浮かべて。
彼女は、リズは言う「いこうヨ」と。
恨むどころか誰よりも明るくて、目映くて、そして温かい笑顔を浮かべる。
その一歩を進むのをずっと躊躇って来た様に思える。
この牢獄は他の誰でもない、エリザベス自身が構築した拒絶の檻。
「そうだね………」
心を閉ざしてた少女はその差し伸べられた手を取る。
誰の為でもない、ただ自分の為に立ち上がろうと決めた。
(だからまずは――)
視線を向ける。
向かう先は――。
◆◆◆
「あははははっっっ」
高らかに少女は笑う。無邪気にすら思えるその笑顔。
だがすぐに気付けるだろう。彼女のその笑顔の裏に潜む悪意をすぐに汲み取る事が出来る事だろう。
その少女は赤に塗れている。まるでペンキでもぶち撒けたかの様な鮮やかさで艶やかな真紅。
彼女だけではない。その周囲も赤い。
そしてそれはまるで生き物の様にウネウネと動いている。
「くっっ、バケモノね」
美影は思わず舌打ちする。周囲に火花を散らし、飛び散ってくる赤い滴を寄せ付けない。
さっきから一方的な展開であった。まともに反撃に出る隙がない。
ベルウェザーはこのままでは倒せない。
ここは今、この学舎そのものがベルウェザー自身になっている。
さっきから幾度も幾度も人形を繰り出せるのは、この学舎内の人間から得た膨大な血液を活用しているから、だろう。
つまりおよそ千人もの人間を生け贄にしているのだ。
持久戦などもはや論外だった。
(でも、どうする?)
美影の後ろには晶がいる。
美影自身はともかく、下手に避けるのは彼女に致命的だ。
だから今、ファニーフェイスに出来る事はただ、この場で守りに徹する事のみであった。
そこに、
「あれれ、いいの?」
という無邪気な、それでいて悪意に満ち満ちた声。
赤い、鮮血の蔓が先端を尖らせて左右から襲いかかる。
(しつこい、――でも)
美影に動揺はない。
そんな物は戦闘中に見せる物ではないし、今の自分は友達を守らないといけないのだから。
さっきからのベルウェザーの攻撃は血の雨、それから血で作られた蔓の二種。
血の雨は、以前同様に酸性を持っていて、もし身体に接すれば溶解されるだろう。
蔓は、絡み付いたり、もしくは切りつけてくる。それから、さっきから意識を失ったらしい歌音の腹部にそうある様に槍状に変化もする様だ。
だが、それはこの蔓の真の狙いではない。
この蔓の用途は”吸血”で間違いない。
さっき、手を掠めた瞬間、意識が一瞬切れそうになった。
多分、相手の神経を遮断する物質を分泌しているらしい、そうして動かない獲物から血を奪うのだろう。
時間はかかるかも知れないが、大人数から血を奪うには効率的だと言える方法だ。
でなければ、今のベルウェザーの圧倒的な存在感を説明しようがない。
だが美影は気が付いていなかった。
蔓が左右からだけでなく、足元からもゆっくりと伝ってくるのを。普段であれば気付いていたはずのその蔓に気付けないのは、彼女が連戦に次ぐ連戦で、疲労の極地にいたのと無縁ではないだろう。
今にも途切れてしまいそうな、そんな実にか細い意識を糸を保つのに精一杯だったから。
「――!!」
美影がようやく足元の脅威に気付く。だが間に合わない。既に左右から襲いかかる蔓の迎撃に火花を放っている。
「ハイ、お休み」
ベルウェザーはその艶やかな唇を舌で舐める。
先導者たる彼女の狙いは美影のみ、だ。
その背後にいる晶にはまだ用がある。
彼女のイレギュラーの正体を知らなければならない。
先日、美影を殺そうと試みた際に何者かに介入された。
その結果、獲物を巻き込んだはずの自爆のタイミングが遅れ、威力まで落ちた。
あの場にいた生存者の中で、唯一正体不明だったのは、西島晶のみ。九頭龍に於けるWG、WD双方が暗黙の内に保護する少女。
その正体を知りたかった。
その為の仕込みだ、全ては。
この学舎内の人間はほぼ全員取り込んだ。
まだ数人、三人程取り込めてないみたいだけど、それはWGの屋上にいない連中だろう。
いずれにしても大した問題は起きていない。
西島晶を一度取り込んで、操り人形にしてしまえば彼女のイレギュラーの正体もハッキリする。
(そう、もうほんの少しで終わりよ)
まずはファニーフェイスことあの生意気な怒羅美影。
彼女は確実にここで殺す。
マイノリティの血は一般人よりも濃厚で、上質だ。
さぞいい味わいに違いない。
蔓で手足を突き刺し、無防備になった相手を雨でドロドロにしてやればいい。
キィィィン。
蔓が吹き飛んだ。
ビチャ、ビチャという池に千切れた蔓が落ちていく。
「は、はは。油断してんじゃないわよ」
消え入りそうな声で言葉を紡いだのは歌音だった。
それは最後の足掻き、だがこれ以上ないタイミングでの妨害。
ぎり、とした歯軋りの音。
「お前……死に損ないが――!」
心底苦々しい表情を浮かべるベルウェザー。
「簡単に騙され……るのね」
対して、歌音はしてやったりの笑みを浮かべる。
「いいわ、そんなに死にたいなら……」
死ねば、と言う声。先導者は底冷えするような声色で告げた。
(ちぇ、ここで死ぬのか…………)
歌音は一人自嘲する。皮肉げにふん、と息を吐く。
最後に一目、守りたかった人へ視線を向ける。
穏やかな表情だ。そう、それでいいんだ。
「…………」
もう、声も出せない。自分の腹を突き破った蔓の根が全身へと伸びていくのが感覚で分かる。さっきまでの様にただ血を吸うだけではない、その根を文字通りに血管にまで這わせようとしている。
歌音の全身を蹂躙し、破壊するつもりなのだろう。
そして、憎々しい事にそれに抗う力はもうない。
(気に食わない女だけど、守りなさいよ)
視線を美影へと向ける。
あの女なら、何とかするだろう。心からそう思う。
何故なら、あの女は、自分の相棒たるあの零二をして、化けもンみたいに強い、と言わしめたのだから。
そして、視線の先で倒れ伏したままの聖敬を見る。
本当の兄妹じゃない事は分かっている。あくまでも任務の一環としての偽りの家族だった、だけど。
(クソ兄貴、無事でいてよね)
そう思い、目を閉じてその時に備えた。
もとより、見苦しい最期を迎えるつもりは毛頭ない。
「………っっ」
全てを振り絞った上で音を刻もう。全身そのものを楽器として。
そして、身体を、魂を砕こう。周囲を残らず破壊して。
(だから、きっちり守ってよ晶を、さ)
とそう歌音が決意を固めた時だった。
「待って」
遮る声がした。
誰かの声が聴こえた。
とても優しい声色。穏やかな音。
「晶、アンタ」
美影は後ろにいた少女が醸す雰囲気を間近で感じた。
「あらぁ、お目覚め? ……でも、いいわ、自分から来てくれるなんて――」
金髪の少女は思いもよらない展開を歓迎する。
どのみち、遅かれ早かれ彼女には手駒になってもらわねば。
スルスル、と蔦が無数に伸びていく。
「くそっっっ」
美影が対応しようにも圧倒的な数が一斉に向かってくる。
とてもじゃないが、止められそうにもない。
「さぁ、これで終わりよ」
ベルウェザーが宣言した。
「いいえ終わらないよ」
晶はそれを否定した。その直後だった。
目映い光が全てを覆った。
あまりの目映さに、その場にいた誰もが思わず目を閉じる。
だが、不思議とその光には心の温かみがあった。
目映さの中で心が落ち着く様な感覚。
不思議だ、と美影は思う。
とても心が、……そう穏やかになる。
さっきまでの焦燥感はもう感じない。
目を開けば、そこは赤い地獄だと言うのに。
やがて光は収束していく。
ゆっくりと、目蓋を見開く。
「え、…………何コレ?」
そして、美影が見たのは――――。