氷解
(見えない、何も見えない)
視界を奪われた。
ついさっきまで見ていた世界が遮断された。
今は、何も分からない。
そう、今、自分はたった一人だ。
見えない世界にたった一人で投げ出されたのだ。
何故だろうか? とても嫌な感じだ。
だが何故だろうか、この”感覚”には覚えがある。
あれは一体、いつの事だったろうか?
何かが、頭の中を駆け巡り始める。
◎◎◎
――さぁ、これでいい。
声が聞こえる。
何故だろうか? 怖い。
懐かしい声なのに、トテモコワイ。
ギシ、ギシ。
身体が動かない。手足に力が入らない。
汗が肌を伝うのが分かる。
何が起こるのかが分からな…………否、
分かっている。
今、自分が何をされようとしているのか、分かっている。全部、……ゼンブワカッテイル。
少年が柱に縛り付けられている。
縄がとてもキツくて痛みが走る。
口には猿轡を噛まされ、言葉らしい言葉を発する事も出来ない。
薄暗い室内。カビ臭い淀んだ空気に混じって獣のにおいがする。
そうだ、壁には朝方に狩りで仕留めた兎やら狐やらを血抜きして毛皮を飾る様に置いてある、きっとその臭いだろう。
だが、そんな事よりも鼻をつくのはもっと生々しい血の臭い。
これはそう、今まさに少年が流している命の臭いだ。
いつの頃からか、少年は家族によって虐げられた。
彼は聞かされた。自分の家族が昔からの伝統を守る一族だ、と聞かされた。
遥かな昔から、一族には他者を凌駕する力を持つ者がよく輩出された。彼らはその力を持って外の世界に出て行き、歴史を築いた。
だが、時代を経る毎に一族の様な不思議な力を持つ者が増えていった。その中には歴史に名を残す程の人物も出たらしい。
先祖は考えた。どうすれば自分の血脈により強い者を生み出せるだろうか、と。
そうして試行錯誤の末に行き着いたのが、”改造”だ。
それは一族の子孫に施す処置。
才能を持つか否かを時間をかけて調べ、才能を持つ者を選ぶのが最初の段階。
続いてその選ばれた子供に力について説明をする。
そうして、いよいよ改造だ。
改造そのものは別段簡単らしい、見極めた力に応じてその手法を変えるだけだから。
少年の持った力は常軌を逸した回復能力であった。
だからこそ、一家はそれをさらに強化すべく、少年の身体に様々な傷を与えた。
ナイフで手足に傷を与えた。
ハンマーで潰した。
斧で手首を断った。
全身を燃やした。
首を締めて窒息させる。
毎日、毎日、こうした”拷問”を家族は少年に行使した。
子供だった彼は毎日、毎日、痛みに顔を歪めながら生きていた。
改造は日々エスカレートしていった。
昨夜は矢で腹を射ぬ抜かれた。錆びた矢はまるで灼熱の様な痛みを与えた。さらに傷が化膿したらしく、寒気が一日もの間……間断なく襲いかかった。
そうして今、少年はいつも通りに柱に縛り付けられていた。
少年の回復能力は凄まじく、もはや普通の傷ではあっという間に塞がってしまう。
その為に、家族は少年により深い傷を、より酷い怪我をさせる様になっていた。
それは単に肉体的な物からいつの間にか精神的な苦痛を与える物へ変わっていた。
その日は最初はいつも通りに素手で幾度も殴られた。
拳や足が身体に食い込む度に吐き気を催したが、傷はすぐに消える。
――今晩は今までよりもじっくり教えような。
穏やかな口調で父が言う。
その側では兄や母が笑っている。
皆は本当に楽しそうだった。
少年は思う。
(ぼくががまんすればいいんだ。そしたら……また)
また、朝が来る。
朝になればご飯も食べれるし、外だって出歩ける。
少年はまた耐える事が出来る、とそう思った。
そう思い、目を閉じ、歯を食い縛った。
ダガソレハアマカッタ。
――目を閉じるのか? そうか、見たくないんだな。いいぞ。
父の声が聞こえた。
そしてその直後。少年の目は異常を感じた。
それは熱、水を沸騰させる様な熱さ。
それは火、薪を焚べて生き物を焼く。
それは灼熱、何かが燃えている。それも……すぐ身近で、何かが燃える様に熱い。
鏡に映ったのは自分の左目。
そこに父がグツグツと煮えたぎった熱湯を流し込む光景。
「ぎゃあああああああああああああああ」
思わず少年は絶叫した。
それを知覚したその瞬間、少年の中で何かが爆ぜた。
狂った様にその場をジタバタと、動かない手足を必死で動かす。何かを動かしていないと、気が狂いそうだったから。
――おおお、いい反応だ。痛むんだな。いいぞ。
その声は嬉々としている。この声から分かるのは、この男はもう人ではないという事が少年の、まだ子供であった彼にも、嫌が応にも理解出来た。
鏡に映るのは残った右目に、今度は熱した鉄製の串を近付かせる父の手。その顔には愉悦から来る笑みが浮かんでいる。
「やだ、やめてやめて、――――やめてーーーーーーっっっっ」
少年の絶叫。
だが無情にもそれは状況を打破する事はない。
ゾブリ、という嫌な感触。同時に目を焼かれ、凄まじい苦痛が全身に響き渡る。
「んんんんんーーーーーー」
声にならない声をあげ、少年は喘ぎ苦しむ。
それを笑い声をあげる父と、それに続く家族の声。
そうして少年は視覚を失う。
刺された痛みに、焼ける苦痛。
そこに容赦なく家族が暴力を振るう。
怖かった、本当に怖かった。
見えない、……というだけで全てがとても恐ろしい物に感じられた。得体の知れない何かに全身を蹂躙されていく。
怖い、怖い、怖い。
少年の心は今にも消えてしまいそうだった。
観えていない、ただそれだけの事でこれ程までに痛みは増すなんて知らなかった。
何かが腹を貫く感触。
歓喜に満ちた声。
(くるってる、みんなおかしい)
狂った血に満ちた宴はいよいよ、フィナーレらしい。
少年は思う。何故、耳も潰してくれなかったのだ、と。
見えもせず、聞こえもしなければ、こんなに苦しい思いなんてしなかっただろうに。
(くるってる、くるってる、くるってる、くるってる、……)
だから、思った。
(みんないなくなれッッッッッッッ)
手を縛っていた縄を引きちぎった。
どうやったのかなんて知らない。興味もない。
そこから先は虐殺だった。
本能的に少年は右手で、熱い何かを持つソイツに触れた。
何かが爆ぜるのが分かる。
母の悲鳴が聞こえる。
少年は右手で自分を縛り付けていた縄を、その柱ごと吹き飛ばしてちぎる。
目はよく見えないけど、声は聞こえる。
だからそこにいる何かに右手で触れた。
何かが爆ぜ、力なく崩れた。
兄の声。
来るな、来るな、と半ば泣き出しそうな声だ。
少年は笑顔を浮かべた。
ただ声のする土古路に手を触れるだけの事。
見えない自分には何も分からない。
分からないから、気にする必要もない。
何かが爆ぜ、液体が飛び散った。
やがて少年の視覚が回復した。
真っ暗でうすぼけた世界から徐々に確かな世界が開けていく。
少年は目にした光景に言葉を失う。
一面の赤。
何もかもがちぎれていた。
かろうじて分かるのは、この場には三つの肉の塊が無造作に転がっている事と、それが自分の家族だったモノの末路である事だ。
原型すら留めていない肉塊からは腐臭が漂う。
一体、どれだけの時間が経過したのかすら分からない。
虫が部屋中を飛び回り、不快度は増すばかり。
確信したのは、この殺戮を実行したのは、他ならぬ自分自身なのだ、という事。
全身が震える。怖くて怖くて、仕方がない。
自分にこんな得体の知れない力があっただなんて。
こんな血を撒き散らす殺し方をするだなんて。
こんなにこの一面の惨劇に心を踊らせるだなんて。
(ぼくはおかしくなってしまった)
子供ながらにも、そう思い、ふと鏡を見る。
そこに映っていたのは、……何か得体の知れない怪物の満面の笑みだった。心は壊れてしまった。
少年は痛みを感じなくなった。その日を境に。
と同時に何かは壊れた。
それが一体、何なのか分からないまま、こうして見つからない物を探し続けてきた。
◆◆◆
「うあがあああああああ」
アサーミアは絶叫しながら頭を抱える。気が狂ったように頭を激しく振り乱し、叫び続ける。
(思い出した、怪物はぼくだった。……仇なんていなかった)
そう、あの直後に家を訪ねた男は確かにギルドの一員であった。
そして彼は暗部の人間であり、アサーミアとなる少年を引き取りもした。
だが、彼は一度たりとも少年に拷問等はしなかった。
それどころか、彼が表の世界でも生きていけるように苦心すらしていた。
彼は少なくとも少年にとって優しい”父親”であった。
なのに……、
そんな彼を殺してしまった。
きっかけは些細な口論。ついカッとなった少年は感情の赴くままに右手で父親に触れた。たったそれだけの事。
たったそれだけで彼は四散した。
だが、何故、殺したというのか?
そこだけが靄がかかった様にうすボヤけている。
そして、彼の記憶、感情の回復と共に彼に戻ったものがある。
痛みが彼に戻った。
この叫びは苦痛、苦悶の発露。
これ迄に味わった無数の”痛み”が一気に全身に襲いかかり、痛みが木霊する。
「ぐああああ、いたい、いたい、いたいいいいいいいッッッッ」
だから叫ぶ、これ迄に出せなかった言葉を、思うがままに。まるで獣の様に。
◆◆◆
「おいおい何だよこいつ?」
田島は口を開いたまま唖然とする。
まるで別人の様であった。
さっきまで表情を変える事もなく、感情の起伏も同様に感じさせなかった相手の突如の変貌に何が起きたのかが、分からない。
一方で美影は相手の急変にも特に動揺はしていない。
ただ静かに相手の何が変わったのかを観測する。
彼女は今、冷静そのものだった。
驚く程に思考は明瞭で、何もかもが見えている様にすら思える。
アサーミアの様子は狂った、というよりはまるで子供の様に見える。彼は悲鳴をあげながら、痛みを感じている。
さっきまで何とも無さそうだったというのに、今はそれが嘘の様に叫び、喘いでいる。
「…………!」
美影は両の指をパチリ、と鳴らす。二つの火花が線を描きながら相手へ向かっていく。
「あああっっっ」
火花は狙い通りに弾ける。アサーミアの目前で。
美影は観察する。相手が、どのように反応するのかを。
客観的に、まるで淡々と事実だけを観る監視カメラの様に。
観察対象はさっきまでとは違い、あんなこけおどし程度でしかな火花にさえ「ひいっ」と怯える。
さらに幾度も幾度も執拗に火花を放ってみる。
相手はその都度、やはり怯えて動きを止めてしまう。
(これじゃ別人ね、まるで……)
「まるで子供じゃないか、あいつ」
田島が美影の結論を口にした。
そう、あれはまるで子供の癇癪だ。
痛い目にあったから泣いて喚く。感情の抑制が出来ない子供。
何故、ああなったかは判然とはしない。だが、恐らくはさっきまでの無痛症とおぼしき症状が消えた事による、反動だろうか。
「何にせよ、今なら倒せる」
美影はそう呟くと右手に火球を発現。手を翳し、狙いを定める。
(いやだいやだいやだ、なんでこんなにいたいんだ)
少年の中をこれ迄に感じた事もない、想像を絶する痛みが全身を突き抜ける。痛みなら昔も感じた事はある。痛かったけど、耐えられた。なのに、何故、今はこんなに痛いのだろうか?
目は見える様になった。痛い。
自分の見える風景が何故か、前より高く見える。痛い。
ふと、自分の手足を目にする。まるで別人のようだ。大人みたいだ。
「いたいよっっっっっ」
何で目の前にいる少女がこちらを睨んでいるのかは分からない。
ただ、気付いた。彼女の目が酷く冷たく、冷めている事に。
冷めた瞳はこちらを突き刺す様な、刃の如きな鋭さと氷の様な冷たさを感じさせる。
◎◎◎
ぼくはふるえていた。まっかになったお部屋の中で。
懐かしく、いやなにおいがする。
なぜだろ、すごくいやなにおいだ。
そこに、
≪何を怖がるんだい?≫
声が聞こえる。子供の声。自分とそう年は変わらない少年の声。
その声はとても親しげで優しげでそして、……何とも言えないしがたい恐ろしさがこもっている。
少年はまるで絵本の中から飛び出した妖精の様だった。
≪君はどうなりたい?≫
少年は尋ねてきた。とても優しい口調で。
足元には無数の肉の塊が転がっている。
何だろうか、これは?
ぼくはそう思いながら肉塊を眺める。
≪気にしなくていいんだよ。その肉塊は君に酷いことをした奴等なんだからさ≫
少年はそう言いながらぼくの頭を撫でた。
――頼む、その子が全部を理解する前に、手を打ってくれ。
そう横から声が聞こえる。
振り向くと、そこにいたのはぼくのおじさん。たしか父さんの弟さんだ。
たしか、外の世界でお掃除をしているって聞いたことがある。
妖精の様な少年は少し考えていたみたいだ。
でもやがて、顔をこっちに向けるとこう言った。
≪いいよ、少し手順は変わるけど、……この子を外に出すのを手伝うよ≫
その言葉におじさんはようやく表情を和らげた。
――これで大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい。
そう喜びながら優しく頭を撫でてくれた。
あー、よかった。にくのかたまりになったあいつらと、……これでおさらばなんだからさ。
ぼくは、はじめてほんとうに――ワラッタ。
◎◎◎
いくつもの記憶の欠片が頭の中を駆け巡る。
それは無数の出来事の羅列。同じ日、同じ時間に何故か複数ある記憶の欠片の数々。
どれが本当で、どれが偽物なのかは分からない。
だが、一つだけ確かな事がある。
自分がアサーミアという名の殺し屋であり、この手で家族を殺し、引き取ってくれたおじさんを殺して、自分がその後釜についた事。誰よりも人を殺したくて、でも死にたくなくて。
だから妖精のようなパペットに感覚を遮断してもらった事。
(くはははは、なーんだこんなことか。くだらない)
かくてアサーミアは自我を取り戻す。
瞬間、目の前に火の塊が向かい――消え失せた。
「な、に」
田島が絶句する。
「へぇ、……」
美影は微かに眉を吊り上げた。
彼女はしかと目にした。自分の放った火球が消されたのを。
相手がその右手を振るい、火球を吹き飛ばしたのを。
「いいじゃない、面白くなってきたわ」
そう呟き、美影は微笑を浮かべる。
この場にいた三人は同時に思った。
ここからが本当の戦いである、と。
そして、恐らく決着はすぐにでもつくだろう、と。
「くあああっっ」
アサーミアから動き出す。その動きはさっきとは段違い。
まさしく猛禽類の様に鋭く、そして素早い。
さっきまでが嘘の様にその手足の動き、捌きは鋭い。
バアン、音と共に地面に穴が開く。
土煙が舞い散り、視界を奪う。
一瞬、相手を見失った美影だが、即座に顔を横に傾ける。
そこを延びてきた右手が掠めていく。
まさしくすんでの所、だろう。さらに左拳が襲いかかる。フック気味のパンチは空を切る。
すかさず美影も反撃に転じる。
両手で相手の腹部へ添える。直後に二つの火球を至近距離から放つ。まるで爆発の如き衝撃にアサーミアの身体が揺れた。これ迄とは異なり、アサーミアは表情を歪めた、……間違いなく苦痛に。
つまり今の相手は間違いなく痛覚を取り戻しているのだ。
だからだろう、昨夜とは違う、相手の攻撃が今の彼女には予測出来る。感情の起伏がないことで前回は後手に回っていた。しかし、今は違う。その視線を見れば相手が、自分の何処を狙うのか予想は着く。
対して、
美影は今、これ迄になく冷静かつ客観的に状況を見ている。
それもこれも美影の頭脳は明確に全てを捉えていたから。
つい昨日、聖敬との手合わせでようやくコツを掴めたこの状態。
極限にまで研ぎ澄ませた集中力により、全てをコマ送りで見ている今なら、この相手とも五分以上にやり合えるはず。
この状態を名付けるなればそう……”スイッチ”と言った所か。
「くあああっっ」
弧を描きつつ、アサーミアの右手が空をまた切った。
さらに牽制するように放つ右蹴り。これもまた少女はひらり、と躱してみせる。さっきからずっとこの調子だ。彼女の動きは決して素早くはない。であるにも関わらずに、相手はこちらの攻撃を悉く躱していく。僅かに苛立つ。
どうやら彼女とは相性が悪いのかも知れない。
(ではどうするのがいいだろうか)
ふと、考える。答えはすぐに出た。
「くあっ」
アサーミアが右手で地面を殴り付ける。
バアン、という轟音と共に土煙が再び巻き上がる。
目眩ましのつもりだろうが、美影には熱探知目があるので、然程の効果もない。
相手が、横に回り込みながら向かってくるのがハッキリと観えている。接近戦は本来なら不得手であるが、今の彼女ならばそれすらも対応出来る。拳を握り締め、待ち構える。
飛び出してきたアサーミアは右手を上から下へと振り降ろす。後ろに飛び退けば簡単だが、美影は敢えて前に出る。
右手には炎を発現。残弾少ない炎だ、無駄には出来ない。
注意すべきはあの掌。左手を下から繰り出し相手の手を弾く。
残されるのは炎を纏う右手と相手の左手のみ。
狙うなら相手の上半身、それも心臓から上。
瞬時に火球を変化。激怒の槍にする。
至近距離なら間違いなく相手の肉体をも貫通する。
(これで終わりよ)
そう思った。
だが、彼女は気付く。アサーミアの表情には未だに余裕がある事に。それは彼が自身の優位を確信している証左である。
嫌な予感がした。何かを見落としたのではないのか? という考えが浮かぶ。
それが確信に変わったのは相手の口角が吊り上がったからだ。
体感時間がゆっくりに感じられる今の彼女にはコマ送りで見える映像。本来であるなら一瞬の事で見逃すであろう、微かなその変化を美影は見逃さない。
と、そこに左手が繰り出される。右手での大振りな攻撃とは違い、小さく腰の入ったショートアッパー。
こんな攻撃が余裕の原因だというのか?
だが、美影は思わず身体を後ろに倒れ込む。そうして後転。姿勢を立て直す。
美影はハッキリと目にした。ただのアッパーではない。相手の左手が開かれたままだったと。まるで相手に触れるのが目的であったかの様に。
美影は問いかけた。
「まさか、両手とも使えるのか?」
アサーミアは応えない。ただ、口元を歪めるのみ。
そして飛び出す。左右の手を今度はコンパクトに、素早く次々と繰り出し始めた。
「くうっ」
美影には観えている。だが、彼女の身体能力はあくまでも一般人よりも優れている程度でしかない。そもそも接近戦を得手にしていない彼女にはこの連続攻撃を躱し続ける事は厳しい。
さらに付け加えるのなら、美影のスイッチは彼女に多大な負担をかけていた。
武藤零二とは違う意味での熱操作。だが、その消耗は美影の想像を貼るかに越えていた。
アサーミアは息を切らす様子もなく、攻撃の手を休める様子は見受けられない。
間違いなくこのままでは負ける。
そんな弱気な考えが脳裏をよぎる。
「あっ」
アサーミアの手を避けるものの、足がもつれた。
そこに敵の膝が腹部を直撃。咄嗟に自分から後ろに飛び退くが間に合わない、痛みと衝撃で彼女の息が止まり、動きも止まる。
(もらった、死ね)
機を見たアサーミアがトドメを刺すべく、その両手を一度引く。
そこから繰り出されるのは左右の貫手。それは触れれば全てを貫き、穿つ必殺の爆手。
美影はまだ動けない。当然だろう、さっきの一撃で気絶しなかっただけ大した物だといっていい。
左右のどちらに触れようが終わりだ。
今の彼は完全であった。
自分の欠落した感情と共に何処か薄ぼけた記憶も鮮明になった。
自分の手で家族も、恩人であるおじさんを殺したのは残念ではあったが、仕方がない。今更後悔しても彼らは帰ってはこないのだ。
それに……彼は心底愉しかった。
こうして同類との命のやり取りが。その上で相手が死ぬのを。一番近くで眺めるのがたまらなく愉しい。
唯一、痛みが戻った事だけは不服ではあったが、それも今のこの感情の昂ぶりに比すれば大した問題でもない。
目の前で、獲物が死ぬ瞬間。その最高にエキサイティングな瞬間を目に焼き付けよう、そう思い、思わず破顔した。
貫手は寸分違わずに獲物の腹部へと突き刺さろうとしている。
これで終わりだ。
ぞぶり、という肉を貫く感触と同時に爆ぜる。
最高の瞬間が今。
………。
………………。
……………………。
何も起きない。貫手は間違いなく相手を貫いたというのに。
おかしい。手応えが感じられない。まるで、何もない場所を貫いたかのように。
思わずハッとする。
この場にいる、もう一人のマイノリティへ視線を向ける。
田島はニヤリ、としてやったりの笑みを見せた。
「しまっっっ……!」
虚像が消え失せた瞬間に彼が目にした光景。
そこには美影がほんの一メートルもしない場所で敵を狙っていた。まさしく狩人の様に。
「激怒の槍!!」
美影が狙い済ました必殺の燃える槍を放つ。
アサーミアはその槍を吹き飛ばすべく――両手で槍を挟むように動かす。彼の両の手は槍に触れる。
だが。
槍の勢いは衰えない。それどころか、凄まじい炎の前に手自体が炭化した。
「なっっっ」
そのまま業火を纏った槍は敵へと突き刺さる。
貫かれた瞬間に槍は瞬時に全身を包む炎に変貌。
その勢いはこれ迄に感じた火とは桁違いの熱さを与える。
アサーミアの異常な回復力を凌駕する勢いで、彼の身体が燃え尽き始める。
「バカな、バカなバカなあああああ」
耐えきれない、……想像を絶する苦痛に彼の精神までもが燃え尽きていく。
ゴオオオ、火柱が巻き上がってアサーミアだった物はヨロヨロ、と何メートルかを動き回り、やがて動きを止める。
そうして、どざっ、と崩れ落ちた。
「ふう、疲れた」
美影が膝をつく。無理もない、そもそも彼女はついさっき目を覚ましたばかり。昨晩の大怪我だって回復し切っていないのだ。
「大丈夫か? ドラ――」
田島は言いかけて止めた。
それ以上を口にして、ここで炭になるのはゴメンだと思った。
(にしても危なかったな)
ホッとした。あのアサーミアの最後の攻撃は美影を窮地に追いやった。田島が不可視の実体で咄嗟に彼女の前に虚像を展開しなければどうなっていた事か。
美影がただでやられるとは思ってもいなかったが、無事で済むとも思えなかった。
(しっかしあの態勢から反撃までが早過ぎるだろ、やっぱ化け物だな、あいつ)
しかし、田島が驚いたのは呼吸を乱されてから美影の立て直しの早さだった。一息付いてからの動きには一分の無駄もなく、思わず背筋が寒くなった。
(何にせよ、これで終わり……!!)
そう思った瞬間。
火柱から何かが飛び出した。
半ば炭化したそれは一気に美影へ殺到する。
(ころ、す……)
アサーミアは辛うじて生き延びていた。
凄まじい炎ではあったが、痛みに対する耐性の強さという彼の特性がここに来てその身を救った。
皮肉な話だ、と思う。
子供の頃から繰返し繰返し受け続けた拷問じみた苦痛の日々が、燃え尽きる寸前に彼の肉体を細胞を、美影の炎へと適応させたのだから。そして虐待じみた毎日で進化した回復能力。これにより生き延びる事に繋がったのだから。
(人生は何が役に立つ分からないものだ)
自嘲したい気分だったが、まず目の前の相手を仕留める事だ。
そう思い、辛うじて動く左手を突き出す。
そのまま突進し、あとは敵に触れるだけ。
だが。
ファニーフェイスこと怒羅美影というWGエージェントのモットーは常に考え得る最悪に備える事。
先程の激怒の槍は今の彼女にとって渾身の一撃だった。
だが、それでも倒せなかったらどうするのか?
美影は何を思ったのか、前進した。
恐らくもう相手に自分の炎は通用しないだろう。
それは資料を見て理解していた。
本調子ならともかく、今の彼女にあれ以上の炎は生み出せない。
そう、今の彼女に相手を焼き尽くす事はもう出来ない。
もう、スイッチは切れていた。
だから今、彼女はさっきまでとは違ってアサーミアの動きはゆっくりには見えてはいない。
アサーミアの動きは単純に相手に触れることのみ。
それだけで充分に脅威と言える。
(一歩だ、もう一歩。少しでも前に前に出るんだ)
美影はそう思いつつ左手を握る。
(バカめ、自分から前に来るとは)
アサーミアは気でも狂ったのかと思った事だろう、切羽詰まって特攻。愚かにしか見えなかっただろう。
突然美影が転ぶ。そら見たことか、そうアサーミアは思った。
「田島あっっっっっ」
彼女の叫びが轟く。そう、もう一人敵はいた。あの幻覚と奇妙な槍やらククリナイフやらを駆使した敵がもう一人。
さっきも、仕留めきれなかったのは相手のか、幻覚のせいだ。
だが、問題はない。このまま突進すればいいだけだ。
そう思い、改めて視線を目下の敵へ向けた。
この僅かな時間、気を逸らす事が彼女の目論見。
転んだのではない。
これが仕込みだったのだ。
(な、んだ?)
アサーミアの足元がおかしい。妙に足が滑らかに動く。まるで地面の抵抗が存在しないかの様に。
それだけではない。空気がおかしい。
何故か急に空気がヒンヤリとしている様だ。
そして気付く。美影の目は死んでいないと。その左手を中心に地面を”氷結”させていたと。
「おのれえええええ」
アサーミアは全てを出し尽くすつもりで足を進める。
自分の突進が速いか氷結の速度が勝るか。
(だが、ぼくの勝ちだ)
僅かにアサーミアの方が速い。全身が凍りつく前に相手に触れられる。
ドドッ。
何かが突き刺さった。
何か、細長い棒状の槍だろうか?
「おのれぇっ………っっっ」
そうして動きが遮られ、それが決着に繋がった。
美影の左手がアサーミアの胸に触れていた。
アサーミアは瞬時に凍結していく。
手が足が、臓腑に体液、全てが、命そのものが断ち切れていく。
最期に浮かんだのは、パペットの言葉。それはそうだ、おじさんが死ぬ少し前の夜。あの妖精はこう言っていた。
≪僕に任せればいいよ、誰よりも強くしてあげるよ。余分なモノを全部削ぎ落として、……【みんな】殺せるようにね≫
何の事はない。結局、自分は手駒でしかなかった。
そう、最後のこの戦い以外は。
「くははは」
残された力を振り絞って笑い声をあげ――その身は凍結。そして即座に砕け散る。
無表情という名を持った男は最期に笑顔を浮かべて逝った。