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変わった世界――The strange world  作者: 足利義光
第四話 The person whom I want to protect――守りたい人
42/121

静止

 

 歪んで見えた。

 それはほんの一瞬の事。

 ひょっとしたら当人ですら気付いていないかも知れない程の、僅かな時間の事。

 だが、確かに間違いなく、紛れもなく。

 アサーミアの表情が僅かに歪むのを田島は身逃がさなかった。

 それはこの無表情アサーミアという異名を持つこの不気味な男にも感情の起伏がある事を示していた。

 それはこの目の前にいる敵が、田島の予想通りに後天的な無痛症である事を示しているのだろう。

 後天的な無痛症の相手に対して田島は自身の脳をフル回転させる。何とかしてこの化け物に対抗しなければ。

 そう思いながら相手の繰り出される攻撃を躱す。

 アサーミアは既に田島にもう大した興味を抱いてはいないのだろうか、その動きは何処か緩慢だ。

 自分が負ける事を心配していない為に隙を堂々と見せながらの攻撃。ジャンケンで例えるならば、最初から後出しなのだ。

 相手の攻撃を自分の身体に受け止めて、そのまま突進。

 反則といっても過言ではないだろう。

(ちっ、こんな所で死ねるか)

 こんな所でむざむざと殺されてしまったら、あの赤毛の生徒会長の犠牲が全くの無駄死と成り果ててしまう。

 折角貰った命を捨てる訳にはいかない。

 だが、一体どうすればいいのかがさっぱり分からない。

 自分のイレギュラーで戦う事が可能な事は充分に分かった。

 だが、そのイレギュラーを行使しても相手を倒すには至らない。

 それに初めての武器の具現化だったからか、酷く頭が痛い。

 精神が磨り減っている、と実感出来た。

 田島は思い返す。自分がここまでの精神的疲労感を覚えたのはいつ以来の事だろうか、と。


 ザシャ、ザシャ。

 アサーミアは何の感情も感じさせない。ただ、一歩、一歩、と獲物へと詰め寄る。

 急く訳でもなく、ゆっくりとしたその歩みを傍目から見ていれば、簡単に逃げられるのでは? と思う事だろう。

 だが、現実問題としてそう思った者が今の田島と同様の状況に陥ったのなら、逃げる事は叶わないと理解出来ただろう。

 アサーミアからは殺気が漂っている。

 その殺気がまるで生き物の様に纏わりつく。大蛇がその身を獲物へと巻き付ける様に、まさしく真綿で締め付ける様に。

 田島には分かっていた。目の前の相手のあのゆっくりとした緩慢な歩みは、獲物がどの様に動こうとも対応する為の歩法なのだと。

 どんな動きを見せようとも即座に動ける様に。その一歩の出来うる限りでゆっくりと、荷重を最低限に。

 すうっ、としたその足運びは何処か野性的で、だが何処か武術的な側面をも感じさせる。

 田島は考える。自分が相手に攻撃出来うる回数を。

(あと……一回って所かな)

 まさしく、最後の一矢だな。そう思いながら田島はその最後の抵抗を試みる。例えそれで死ぬ、いや間違いなく死ぬとしても、目の前の相手を無事に済ませない為に。



(こいつも教えてはくれなかった)

 いつもの事だ。誰もが自分には教えてはくれなかった。

(いつからだ?)

 自問してみる。

 分からない。ただ、気が付いたらこうなっていた。

 何も感じない。

 誰も理解出来ないだろう。

 それが一体どういう事なのかを。

 感じる、とは即ち感覚。

 それは生きる上で必要である。

 例えば”痛み”。これが無くなれば一体どういう事になるのか?

 彼は知っている。

 答えは簡単だ、生きている”実感”を失くす。


 痛みとは、今、自身が置かれている様々な状況を把握する為に必要だ。

 例えば、足の骨にヒビが入っている。これを無視して歩けばどうなるか? 簡単だ。ますます足の状態が悪くなる。

 例えば、背中を刺される。自分からは見えないが、出血が止まらない。放っておけばどうなるか? ……簡単だ。失血死する。

 そういった事態に対処するには痛みは必要な感覚だ。

 今の自分がどういう危険に陥っているのか?

 生きる為には一体どうすればいいのか?

 そういった判断をする為に痛みは必要だ。

 また、外傷に留まらず、内傷にも痛みは必要だ。

 様々な病に古来より人は接してきた。

 現代よりも外傷、内傷に対する処置に限度があり、死亡率は遥かに高かった時代。痛みとは生と死を分け隔てるのに必須であった。


 それをアサーミアは喪失した。

 彼には生きている実感がない。

 今の自分が不確かで曖昧で、朧気に思える。

 切られても、貫かれても、砕かれても彼は死なない。

 自分がマイノリティとかいう存在で他者よりも変わった力を持つ者だとは理解はしている。

 だが、納得はしていない。

 何がきっかけで自分は痛みを覚えなくなったのか?

 どうすれば痛みを取り戻す事に繋がるのか?

 誰が自分に痛みを教えてくれるのか?


 多くの他者を殺めてきた。理由は金の為ではない。

 自分が殺す度に微かに粟立つ、何かを知りたいから。

 他者を殺す瞬間にだけ微かに感じる”何か”を知りたいから。

 そしていつか誰かが自分に教えてくれる、そう思えたから。

(だが、それはお前ではない)

 目の前にいる男を見下ろしながらそう思う。

 アサーミアはゆっくりとくっつけた右手を振り上げる。

 拳を握り、力を込める。

 この”爆手”を目にしたのは、そう、あの男を殺した時だ。

 自分の家族を無惨な姿に変貌せしめたあの男を殺した時だ。

 これを目にして生きている者は数人いる。

 彼もがこの手の力を賞賛していた。

 何もかもを触れてしまえば弾けさせる魔手に畏敬を抱くそうだ。

 だが、そんなに立派な物であろうか?

 この手は所詮は他者を弾く為の物でしかない、弾くとは拒む、という事だ。

 別に何かを思っていた訳ではない。

 気が付いたら備わっていた、ただそれだけの話に過ぎない。


 もう目の前の相手には何も思わない。

 このまま爆ぜればいい。

 上から右手を振り降ろす。


 その時だ。

 何かが来た。感じないが分かる。

 それは空気を侵食している、と。

 彼は手を止め、振り返ってみる。

 目の前に炎の塊が飛び込み――足元に着弾。巨大な火柱を吹き上げた。


 ザ、ザッ、ザッ。

 ゆっくりとした足音が聞こえる。

 田島はその炎の担い手を目にして思わず笑う。

「……マジかよドラミちゃん」

 田島の視線の先にいたのは、”ファニーフェイス”こと病院にいるはずの、……病院服のままの怒羅美影だった。



 ◆◆◆



 きっかけは一〇分程前。

 WG九頭龍支部である九頭龍病院に一件のメール届いた事から。

 病院内の状況は依然として良くはなかった。

 家門恵美と林田由依と合流した美影は二人から大まかな状況を聞いた。家門と林田の二人はサーバールームの奪還を優先すべきだと結論付けていた。ここを奪還しない限り、よそのWGへの連絡は不可だからだ。

 WGの支部同士の連絡は、支部に設置されている特殊な通信機でしか原則行えない。そしてその回線は一般的な電話通信とも違い、とうちょう対策としては上々である。

 画像データ等の開示は支部にいる一部のマイノリティのイレギュラーによって送受信する形を取る。

 九頭龍支部の場合は、その一部のマイノリティの一人がこの場にいる林田由依である。

 彼女の様なエージェント以外には支部同士の接続は出来ない。

 例外はWGの議員だろうか。

 何にせよ、今、この状況を打開するにはサーバールームの奪還が先決であった。

 一階のロビーの奪還は容易だった。

 そこにいたのは武装こそしていたし、フィールド対策の特殊なマスクを装着していた。だが所詮は一般人でしかない。

 美影の炎と家門の構えた銃の前に呆気なく蹴散らされた。

 そうして一階の奪還の後。

 美影はそのまま外に出た。恐らくは駐輪場に置いてあるバイクを取りに向かった事だろう。

 そこで拘束されていた警備員や職員達を解放すると、各階の奪還へと動き出す。

 だが、サーバールーム周辺だけは事情が違った。

 その周辺には、何らかの手段で操り人形と化した同僚が、警戒する様に彷徨いていた。

 さらに言うならサーバールーム周辺にはいくつかの罠が設置されているらしく、下手な行動では犠牲が出ると予測されていた。

 二人がフロアの状況を確認しながら反撃の為の手段を考えていた時に、メールが林田のスマホに来たのだ。

 差出人はシュナイダー。ギルドの九頭龍に於ける窓口たる人物。

 内容は何もない。ただ、そこに貼付されていたファイルを開くと、リアルタイムの望遠映像がそこにはあった。

 そうして知った。

 その定点カメラの映像を拡大すると、そこには学園が異常事態に陥った様子が映されていた。

 あるカメラには各教室の生徒が全員倒れているのが。

 またあるカメラには保健室で何かしらの戦闘らしき状況が。

 そして玄関前には田島とメールの差出人であるシュナイダーが、アサーミアと戦闘しているのが。

「……美影を先に向かわせて正解だったわね。状況は正直言って悪いわね、あっちもこちらもね」

 副支部長の意見に林田も同意する。

「それには賛成、……ドラミちゃん、大丈夫かなぁーーー」



 ◆◆◆



「お前――?」

 アサーミアの声は微かに上ずった。

 目の前にいた人物の姿に彼の中で何かが動いた。

 昨晩は殺しきれなかった。

 彼が狙って殺せなかった相手は彼女が初めての事だった。

 殺せる、そう確信したタイミングでの一撃を、防がれ、右手を吹き飛ばされた。火傷を負った事は幾度も経験してきたが、炎で手を吹き飛ばされたのは初めての事であった。

 他者を爆ぜた事は無数にあった。だが、自身が爆ぜたのは初めて。痛みこそ感じなかったものの、その事実は彼の中の小さな好奇心を刺激するには充分である。

 今の彼は田島という獲物には何の関心も抱かない。

 それよりも昨晩、自分に初めての事を教えてくれ少女、怒羅美影に全ての関心は向けられた。

 そうして問いかける。

「お前は教えてくれるのか?」

 それは彼の心からの言葉だった。


(さて、と)

 美影は今の状況を確認してみる。

 まず目を引いたのは、シュナイダーが死んでいた事。彼とは直接的に面識は無かったが、なかなかのやり手だとは聞いていた。そして田島の様相。

 明らかに以前とは何かが違う、そう感じる。

 具体的な言葉こそ浮かばなかったが、面持ちを見れば一目瞭然だ。いつもであれば、何処か相手を小馬鹿にした様な、それでいて自分をも卑下した様な、何となく胡散臭いその雰囲気がない。

 それに全身に返り血らしきものが飛び散っているのも妙だった。

 彼には戦闘手段がない、だからこそ普段は援護に徹している。

 しかし今の彼は違う。

 その目に宿すは覚悟。何かを決意した意思の現れ。

(とは言え、今それは関係無い)

 美影の視線と思考は、再度対峙する痛みを感じない怪物へと向けられる。今、目下の障害はこの無気味な相手なのだから。


 少女はそっと、自分の傷を確認してみる。

 表立った傷はあらかた塞がった。

 骨折等もないし、見た目自体は何の不都合もない。

 だが、

 彼女はまだ傷付いていた。

 如何に見た目を取り繕おうとも、傍目からは誤魔化す事が出来ようとも、彼女の内傷までは完全には癒えていない。

 彼女はまだほんの一時間前にようやく起き上がったのだ。

 そこからリカバーを発動させてはいたが、彼女の外傷は塞がっても、その内部である臓器や、何よりも精神的疲労感は如何ともしがたい。その理由は簡単で、目が覚めた時からリカバーを彼女が無意識に使用し続けている結果だ。そこまでしなくてはならない程の重傷なのだ、本来であれば彼女は。

 そこから逆算してみる。

 自分がどの程度の時間戦闘可能なのかを。

 今の調子から考えるに、全力で炎を生成出来るのは二度がいいとこだろうか。

 正直あの怪物を倒すのは心許ない残弾数だ。

 あれについては目を覚まして、バイクでここに向かう道すがら林田から聞かされた情報で確認済みだ。

 本来であれば、ギルドのお抱えの暗殺者の一員であるアサーミアの事を知るのは短時間では不可能な事であった。

 それがこうもアッサリとか細いながらも情報を集められたのは、すぐそこで息絶えているギルドの顔役のお陰だ。

 あれは痛みを感じない。

 痛みを感じないという事が、マイノリティ同士の戦いでどう作用するのかは簡単に予想が付く。

 通常”死ぬ”とは痛みを感じる事から始まる。

 切断、刺突、殴打、焼死、轢死、溺死、窒息死……等々。

 かほどに死には様々な原因が存在する。

 死に際して人は痛みを感じる。中には即死という形もあるが、それさえも本当に全くの無自覚である、と誰が言い切れるだろうか?

 痛み、とは信号だ。

 自分の身体に異常が起きているという事を知らせる為の信号だ。

 それを自覚する事で自分の状態を知り、そうして対処するのだ。

 そういった意味で痛みとは生きる為には必要不可避である。

 だが、このアサーミアという男は違う。

 この男は痛みを感じない。

 それはつまり信号が送られない、という事。

 本来であればそれは致命的な欠陥である。

 しかし、それがマイノリティであるなら事情は変わる。

 本来であれば、深刻かつ致命的なダメージであっても痛みを感じない彼にとってはそれは何もない。

 ただの負傷でしかない。

 ただ、一つ言えるのは先天的な無痛症であるならば、痛みを生まれてから知らない事になる。それならばリカバーすら発動しない。

 リカバーとは自分が負傷している事を”認識”していなければ発動しないのだから。

(つまり、……相手は後天的な無痛症ってコト)

 そういう結論になる。

 自分が負傷している事を認識しているからこそ……相手はリカバーで回復するのだ。痛みを感じなくとも認識出来る。

 それはある意味で、マイノリティとしては究極の姿なのかも知れない、と美影は考察した。

(普通の攻撃じゃ倒せないってコトね、……ったく厄介)

 美影は思わず苦笑した。

 それは勝ちを諦めたのではない、寧ろ逆。



「お前は……?」

 アサーミアは相手の様子に微かに首を傾げる。

 彼は別段、日頃から自分の事を隠しているつもりはなかった。

 ただ単に狙った相手が生き延びた事がこれ迄無かった、ただそれだけの事。今、目の前にいる少女以外は初見で殺してきた。

 だからこそ、今は少し奇妙な気分ではあった。

 殺せなかった相手がこうして目の前に立ち塞がる、というのは。

 何故かは分からないが、彼は自分の中で何かがざわついた様に思えた。だからこそ尋ねる。

「お前は教えてくれるのか?」

 爆手である右手を振り上げ――襲いかかる。


 バアン、音自体はそこまで大きくはない。

 だがあの右手の触れた箇所には穴が穿たれる。

 まるで小さな口を開いたかの様に。

 ただ、そこには命の痕跡は一切無い。

 あるのはただの穴。


「すぅぅっっっっ」

 美影は息を整え――動く。

 その緩慢な動きは昨晩見ていた。……だから躱してみせる。

 繰り出される相手の必殺の凶手を。

 顔を横に傾けて躱す。

 後ろに飛び退いて躱す。

 身体を半身にしながら捻って躱す。

 そうして幾度も幾度も躱し続ける。

 その光景は優雅に踊っているかの様ですらある。

 だが一方で美影は、一度たりとも反撃には転じない。



(一体どうした?)

 その気があれば幾度もその機会はあった様に田島には思えた。

 正直言って彼は怒羅美影という同僚の事が好きではない。

 何故なら彼女は頻繁に各支部を転々としてきたから。

 表向きは彼女の持つ戦闘能力が各地域から求められるから、とされている。

 実際、彼女の炎熱能力は極めて高い。

 実戦経験も同年代のエージェントの中では群を抜いて豊富である上に、結果も残している。

 だが、支部の移籍にはもう一つ理由がある。

 彼女は自分の力を過信して、チームワークを無視すると言う。

 彼女がこれ迄に所属した支部は結果こそ残すが、彼女がいなくなっ後は実績が著しく落ちる、という。

 言わば怒羅美影とは劇薬の様な存在。

 彼女が所属した支部は一時的には強くなる。

 だが、彼女に依存する事で支部自体の力は低下する。

 だから、当初田島を始めとした何人ものエージェントが移籍に難色を示した。

 当時の支部長であった小宮こみや和生かずおはこう答えた。


 ――君達は彼女のせいで油断し、弱くなるのかね?

 それこそ、本末転倒ではないか。一人に依存するのがWGの目指す道かね? ……違うだろ、そうじゃない。


 そう言われればもう彼らに反論は出なかった。

 こうして彼女は九頭龍へと入った。

 彼女は配属後、すぐに九頭龍支部の要監視人物である西島晶の監視を命じられ、戦いの一線から身を退いた。

 誰もが驚いた。美影の持つ戦闘能力を前線で用いないという小宮の決定に。そして何よりも意外だったのは、その決定に当の美影が別段反対しなかった事だった。


 今にして思えば小宮は、美影という曰く付きのジョーカーを引っ張る事で支部の全員に渇を入れたのかも知れない。

 彼女一人に頼らない様に全員が強くなる様に、と。

 だが、結局の所はその思惑は謎のままでもある。

 小宮はそれから間もなく亡くなったのだから。


 そうして聖敬が覚醒した。

 彼は強かった。

 気が付けば田島は聖敬に依存していた。

 冷静に考えれば自分は如何に自分勝手だっただろうか?

 美影の事を良くは思っていなかった自分が、結果として聖敬に重荷を背負わせたのだ。あれだけ、一人のマイノリティに依存するのを嫌った自分が、だ。

(俺に他人を非難する権利は無い)

 だからこそ、彼は今、自分が、出来る事に集中する事にした。

 残された僅かな……残りカスの様なイレギュラーを用いるべき機会を。その機会は必ず来る。

 何故なら、美影の目は諦めた人間のそれではなかったから。



(見える、まだ大丈夫)

 美影は機会を伺っていた。

 彼女にはこの場を打開出来得る反撃の手段があった。

 だが問題もあった。

 彼女はそれを実戦で使った事が未だに無い。

 正確には”昔”は使えたのだろう。朧気な記憶の中で、……彼女がWDの実験台にされていた頃に使っていたのだ。

 子供の頃の自分が使えて、何故今の彼女が扱えないのか?

 理由は簡単だ。

 怖いから。

 かつて自分が扱っていた力が恐ろしいからだ。

 彼女がWGに救出された事をきっかけにWDから受けていた”処置”も必要は無くなった。

(もう自分はあんな恐ろしい事をしなくていい)

 本当に安堵した。二度としなくていい、そう思った事に心からホッとした。


 だが、それ以来彼女にはいつも漠然とした不安が付きまとった。

 自分の過去がいつか知られるのではないのか、という不安。

 いくら子供だったからとは言え、あんな”力”を得てしまった事を周囲に知られてしまったらどうしよう、と怯える日々。

 だから彼女は同じ支部に長居はしない様に心掛けてきた。

 そして他者に安易に心を開かずに、一人であり続けた。

 そうする事が彼女が自分を守る唯一の手段に思えたから。


 九頭龍支部に来たのも別に特別、何も思う事はなかった。

 いつも通りに適度に距離を取っていればいい、そう思った。

 だけどここは他の支部とは違った。

 これ迄所属した支部は、そのいずれも彼女の戦闘能力だけを見ていた。彼女が他者に心を開かない事も気にする事もなく、只々結果だけを求めてきた。

 しかし、九頭龍ここは違う。

 当時の支部長であった小宮和生はこう言葉をかけた。


 ――貴女はWGエージェントである前にまだ一六歳の少女なんです。何でも一人で抱え込まないで下さい。困った事があれば、我々を頼ってくれればいいんです。それが大人である我々の役目なんですからね。


 こんな言葉をかけられたのはWGに入ってから初めてだった。

 この支部は彼女を戦闘員ではなく、一人の人間として見てくれる。そんな普通なら当たり前の事が嬉しかった。

 家門恵美も、林田由依も美影の事を気遣ってくれた。

 初めて心が安らいだ。

(ここの人達はアタシを一人の人間だと見てくれてる)

 嬉しかった、……だからこそ。

 彼女はここに来て初めて友達が出来た。

 西島晶、この支部がもっとも注視する要監視人物。

 彼女がどういったイレギュラーを秘めているのかは分からない。

 でもそんな事は関係無い。

 晶は友達だ。

 自分みたいな融通の利かない嫌な奴にも、……彼女は何のわだかまりもなく、接してくれる。いつも笑顔で、楽しく明るかった。

 ほんの三ヶ月と半月程の付き合いでしかない。

 でも晶は友達だ、初めての友達。

(そう、アタシはここに来て初めて自分にも日常を持ってもいいって思えたんだ)

 だからこそ負けない――否、負ける訳にはいかない。

 自分に自信が無いのはいつもの事。

 でも今は、絶対に負けられない。

 美影は冷静に相手を観る。その動きを観る。


 頭の中に浮かぶ様々なネガティブな考えを即座に捨て、遮断。

 頭の中をクリアに、冷静に、相手の事だけを観測する。

(観ろ、視ろ、診ろ、看ろ、見ろ、ミロ、…………みるんだ)

 呼吸を整え、自分の手足、指先、血液、神経、細胞の一つにまでこう命じる、――最低限の動きをしろ、と。



(何だこれは?)

 アサーミアは相手の雰囲気が変わりつつある事を察知した。

 何かが、変わっていく。それが何かは分からない。

 だが彼女の動きそのものは徐々にだが鈍り始めている。

 相手の状態を見るに、疲労困憊である事は間違いない。

 翻って自身の状態はどうか?

 思考してみる。答えはすぐに出た。

 何も問題はない、と。

 そもそも、痛みを感じない自分に多少の傷は問題ない。


 手足が千切れてでもいれば、流石に行動にも問題が出るが、それならばリカバーを使えばいいだけ。

 先天的な無痛症ではない自分には痛みこそ分からなくなったが、傷を見れば何が起きたのかがきちんと把握出来るのだから。

 美影の右手に小さな火が浮かび上がった。

 炎が来る、だが問題ない。

 あの炎は確かに強力なのだろう。

 しかし、既に昨晩それは充分に味わった。

 微かに感じた何かも、もう二度とは感じないだろう。

 アサーミアは構わずに右手を、凶手である爆手を突き出す。

 狙いなどどうでもいい、触れてさえしまえばそれで幕だ。

(結局、お前も教えてくれない)


 アサーミアは瞬時に速度を変えた。

 持ち得る速度を全開にし、一気に間合いを潰す。

 これが狩りの際の彼のやり方だ。

 たった一歩で半分の距離。二歩で肉薄。

 腹を穿つのもいい、胸を穿つのもいい、或いはあの首を落とし、生首を眺めるのもいい。

 もうあとほんの数十センチ。それだけで片はつく。

(これで終わりだ――!)

 爆手が獲物へと迫った。



 彼女が認識したのはいつだったか?

 気が付いたのはほんの偶然だった。

 それは不思議な感覚。

 彼女は何もかもが静止した、と思った。

 だが、違う。

 それは何もかもが静止したのではない。

 ただゆっくりとしていただけ。

 人も、動物も、車も、空を飛ぶ飛行機も、雨粒ですら、

 そう、――”森羅万象ありとあらゆるもの”が美影にはゆっくりに感じた。

 それは時間にしてほんの二秒程度の事であった、……らしい。

 最初は全く意味が分からず、自分が何処かおかしくなったように思えた。

 その答えを知ったのはしばらくしてからの事。

 たまたま科学雑誌を読んでいた時に。

 その雑誌の特集は極限状況下で人間が限界を超える可能性についての症例を紹介していた。

 そんな中で載っていたのが、あらゆる物事がスローモーションで見えるという極限の集中状態だった。

 それは美影の見た状況にあまりにも似通っていた。


 ――うん、それは間違いなくお前が受けた”実験の影響”だね。


 美影のWGに入ってからの”専属医”はそう断言した。

 だからそれ以来、美影は密かにその新たな”可能性”を試す事にした。他の支部では理解者がいなかったから試す事が出来なかったが、九頭龍は違う。ここには美影を理解する人が、仲間がいる。

 彼らの協力で少しずつ可能性を引き出す為の訓練を積んだ。

 そうしてその制御が出来たのは、昨夜の事……聖敬との手合わせから。

 こうして実戦で試みるのは初めての事だ。

 だが、出来た。

 今、美影には物事がゆっくりに感じられる。

 あのアサーミアの動きもゆっくりに観える。

 ゆっくりと、あの爆手がこちらへと向かってくる。

 美影はそれを躱す。最低限の動きで紙一重の所で。

 その左手を握り締める。

 反撃の時はすぐに来る。


(なん、だと?)

 アサーミアには何が起きたのか理解出来なかった。

 確実に仕留めたはず、だった。

 にも関わらず、獲物は自分の爆手を躱したのだ。

 相手は物凄い速度で回避したのではない。

 ただ、風に揺らぐ柳の如くゆらゆら、とたゆたう様に避けた。

 ならば、と今度は左手を繰り出す。指先を僅かに折り曲げ、フックの様に引っ掛けるべく。今度は直線ではない、下から上へ素早く掴みかかる様な動作。

 これを躱すには美影には時間も速度も足りない、とそう見えた。

 しかし、

(な……んだと)

 アサーミアの表情が歪む。

 今度こそ捕まえたはずだった。なのに美影はその左手すら躱している。彼女の纏っている病院服の裾すら触れられない。

 相も変わらず相手の動きは柳の様にしなやかで無駄がない。だが決して早いのではなかった。

 そこに美影の右手が目の前に突き出される。

 その手の平から瞬時に炎が産み出され――アサーミアの目前で炸裂した。

 目の前が炎で覆われる。

「うっっっ、むぅ」

 思わず呻くが、痛みはない、……だがその目は瞬時に灼かれ――視界を喪失した。

 アサーミアの動きが止まる。

 彼は動こうにも動けない。

 何故なら感じないのだから。

 彼は痛みとともに触覚すらも麻痺していたのだ。


 美影はこれを狙ったのだ。

 相手が痛みを感じないというのなら目を潰せば、状況の把握が出来なくなる、とそう思ったのだ。

 それは図に当たり、相手はこちらを察知するのが困難となる。

(くうっっ)

 美影の全身が軋んだ。

 彼女は、一体何をしたのか?

 その答えは”熱操作”である。

 ただし、それは武藤零二の様に身体能力を劇的に向上させるといった物ではない。

 彼女が行ったのは自分の思考をクリアにする事。

 その為に集中しただけ。

 イメージは氷。

 自分の周囲の世界を低速に感じる世界のイメージ。

 低温とは静止の世界。

 この感覚を覚えた美影には物事がゆっくりに観える。

 だが、これは彼女が速くなるのではない。

 実際の所、傍目から見て、美影は決して素早く動いてはいない。

 ただ、冷静に周囲を観る事で、一つ一つの動作に無駄が無くなった。ただ、それだけの事。


 勝機を見出だした美影は、アサーミアを一気に仕留めるべく右手に意識を集中。炎の槍を作り出す。そうして左手にも意識を――。

 狙いは相手の心臓。今度こそは確実に仕留めてみせる。でなければ自分が負けるだろうから。

(えっっ?)

 美影は心底驚いた。

 アサーミアは目を潰されたままだ。

 だが、間違いなく相手はこちらに近付いて来る。

 彼女は、そこに驚いたのではない。


「うがあああああああっっっ」

 そして彼は……叫んだ。

 その表情にはさっきまでは浮かんでいなかった。意思を持った一人の人間の恐怖におののく表情が浮かんでいたのだった。



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