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変わった世界――The strange world  作者: 足利義光
第四話 The person whom I want to protect――守りたい人
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予測困難

 

 うふふ、楽しい。本当に愉しい。

 誰もが慌てふためく様を眺めるのは何でこうも愉快なのだろうかしら?

 何が起きているのか分からずに右往左往。

 まるでピーチク、パーチク、とよく騒ぐ小鳥の様ね。

 さぁ、せいぜい囀ずるのよ。……ワタシを悦ばせるのよ。

 それ位しか……小鳥みたいなアナタ達のゴミみたいな命には意味がないのよ。


 そして――ワタシに見せてよ、アナタの異様を。

 ワタシは見たいの。……アナタが秘めた【ナニカ】をこの目で。

 ソレが一体どういうモノなのかに興味があるのよ。

 ナゼ皆がアナタのナニカを隠そうとするのか?

 そこにとっても興味があるのだから。


 …………だから見せてよ。――ねぇ。可愛いカワイイ晶ちゃん。




 ”彼女”は教室内のパニックをそう思いながら見ている。

 同級生、クラスメイト達の誰もが混乱していた。

 それも無理もない。今、この木造の教室は、……完全なる密室になっていたのだから。

 今、フィールドを張っているのは彼女と、アサーミアの二人だ。

 アサーミアがこの木造建築の旧校舎とその周辺を大まかに覆うように、彼女がこの教室の周囲から区切ったのだ。

 つまり今、この教室だけがフィールドの影響下にないのだ。

 この教室にいる三〇数人だけが意識を保ったまま、何が起きたのかを理解できずに困惑の極致に至っているのだ。

 彼らは、何故自分達がこの教室から出る事が出来ないのかが分からない。

 何故、隣の教室から全く声が聞こえないのか分からない。

 何故、自分達がこうも不安に苛まれているかが分からない。


 彼女には分かっている。


「くそ、開かないぞ鍵でも……」

 その扉が開かないのは鍵ではない。扉から出てはいけない、という自分自身がそう理解しているから。

 実際には、出た所で何も問題ないのに。

 彼女のフィールドの効果はこの場に入れば何かを失うかも知れない、という不安。その何かとは命の根源である赤き滴り。自分達の身体を巡る命のほとばしり。それを失う、という恐怖が……つまり死ぬ、という思いが扉の向こうから伝わり、本能的にその先へ、本来であれば全く安全かも知れない教室の外に出る事を拒絶していたのだ。

「電話も出来ないよ」「うっそわたしも」「何でよっ」

 流石に電話などについては彼女が意図的に遮断している。

 この教室だけの小さな範囲だから、まず察知もされない。

 それにWGは今頃大混乱のはずだ。

 彼女がこの一ヶ月位の期間であの支部へと手を回したのは、いざという時の、こうした時の為の次善策だったが図に当たった。

 もっとも、WGもバカではない。彼女が手配した戦力もそのうち制圧されるだろうが、この校舎のすぐ外には雇った殺し屋であるアサーミアが控えている。

 あれも存外に扱いやすい男だった。

 無表情か無感情かは知らないが、あれ程に分かりやすい男もそうはいない。

 あれはなかなかに強力なマイノリティだから、邪魔もすぐには入りはしないだろう。

 そして……保健室。

 あそこでは半ば傀儡になった聖敬が戦闘中だ。

 正直言って聖敬を自分の血液で傀儡にしようとした際、彼女は珍しく驚いた。

(まさか【中身】がああなってるなんて、ね)

 一体何がどうなっているのかは分からない。どうすればああいう存在が生まれるのか? それはそれで彼女の関心を強く引くし、実に魅力的だった。

(でも、ね)

 そう、今はまずこの場を動かすべきだ、そう彼女は思った。

 そもそも、こんなに手間をかけたのもこの教室にいる標的の秘めるイレギュラーを見てみたいが故だった。

 彼女は視線を向ける。その先にいたのは他のクラスメイト同様に困惑した表情を浮かべ、呆然としたままの西島晶であった。

 彼女は未だ、自分が周囲の者とは違う存在だとは気付いていない。

(だから……そろそろ始めましょう)


 バアン、大きな物音と共に教室の扉が吹き飛ぶ。

 開こうとしていたクラスメイトの男子が一人が扉ごと吹き飛び、教室の壁に叩きつけられる。

 そして、密室だった教室の扉から入ってきたのは、高等部の他クラスの生徒達であった。

 一瞬、その姿に安堵を覚えたクラスメイトだったが、すぐにその侵入者達が異様である事に皆が気付く。

 何故なら彼らの表情には、何も浮かんではいない。

 不安もなく、喜びもなく、怒りもなく、悲しみもその顔には浮かんではいない。全くの無表情なのだ。

 それはまるで……能面の様な表情。

「………………」

 そして彼らは何かをブツブツ、と呟いている。呟きつつもジリジリと迫って来た。

「お前ら何なんだよ!」

 その不気味さに耐えかねたクラスメイトの一人が彼らの前に立塞がる。坊主頭に学園のジャージ姿の彼の名は新橋。学園のボクシング部レギュラーで全国クラスの実力者。インターハイでも準優勝の優秀な選手であり、こうした行動も日頃から真面目かつ正義感が強い、彼らしい行動だと言えた。

「殺せっ」

 誰かがそう叫んだ。

 思わず新橋がハッ、とする。

 今の声は侵入者達ではない。自分達クラスの側からだ。

「何言ってるんだ! 冗談は……」

 新橋が今の、……悪意のこもった発言に反論しようとするとそれを見計らったかの様に侵入者の一人が襲いかかる。

 パチン、パパッ。

 素早く鋭いジャブが瞬く間に数発顔面に浴びせられた。

 ジャブは決して弱いパンチではない。確かにストレートやフック、アッパー等に比べれば非力だ。だが、正確に相手に当てる技術があるのなら、それは充分に必殺の一打に成り得る。

 脳を揺らされた侵入者は、何も出来ずにその場に崩れる。

 新橋はトントン、とステップを刻み出す。

「お前ら、悪い事は言わない。ここから出てい……」

 だが、警告の言葉は無視される。

「…………」

 何故なら彼らは警告に対して何の返答も反応も示さないのだから。

 まるで個々の意思を感じさせない侵入者の群れが、一斉に目の前の障害へ殺到していく。

「くそっ、何だよ!」

 新橋は健闘した。彼はノロノロした侵入者を躱しつつも、ジャブを放つ。彼が先程からジャブを連発するのは下手にストレートを素手で放てば拳が壊れるからであり、同時に相手に大怪我をさせない為の配慮でもあった。

 それは常識で考えれば、至極正しい判断だったのかも知れない。

 だが、それは平時に於ける判断でしかなかった。

 実際問題として、たった一人の力で襲いかかる十数人の相手など不可能だ。

 漫画やアニメの様にたった一人で数百、数千という敵を蹴散らす等という芸当等は、現実には不可能だ。それが例え格闘技の世界チャンピオンであっても。集団は個に勝るのだから。

「く、ちくしょう」

 さらにジャブは確かに彼らの脳を揺らしてはいた。だが、即座に意識を遮断する様な攻撃ではない。一人が崩れても怯む事もない。二人目、三人目と前に進み出ていき、徐々に彼らは新橋へとにじり寄っていく。新橋は肉の壁に圧されていく。そしてやがて飲み込まれる。

「みんなにげてくださイ!」

 エリザベスが叫ぶ。

「そうよ、皆逃げて!」

 晶も同意して叫ぶ。

 クラスメイト達はその声にハッ、としたかの様に侵入者が入ってきたのとは反対の扉から一斉に逃げ出す。

 その際にさっきまでビクともしなかった扉が、何故今アッサリと開いたのかについて考えを巡らせる暇は誰にもなかった。

 そう、彼女以外は。彼女は晶へ視線を向けつつ考える。

(ふーん、私のフィールドを破ったのかな?)

 混乱の極致に陥ったクラスメイトの中で一人彼女だけが、”先導者ベルウェザー”だけがその口元を愉悦に歪ませていた。



 ◆◆◆



 ガガアン。

 それはまるで重機での建物の破壊の様だった。

 凄まじい破壊音が静寂に満ちた学舎に轟き響く。

 ガラガラ、と瓦礫が降り積もり、そこが元は保健室だとは最早判別出来ない。

「はぁ、はぁ。流石に少々厳しいですね」

 井藤が頬に刻まれたばかりの傷を撫でながら苦笑する。

 周囲を軽く確認する。進士はいち早く部屋から飛び出していた様で特に怪我をしている様子はない。

 進士将は確かに戦闘向きの人員ではない。

 彼には戦闘で活かせる確たる技術を持ち合わせていない。

 だが彼はそれを補って余りある適性を備えていた。


 ”不確実アンサーテンなそのゼア

 未来予測演算を行う彼のイレギュラーの副作用とでも言うべきか、彼は本能的に自身の危機を察知出来るのだ。

 今の保健室の崩壊にしてもそうだ。

 彼は決して理解した上で逃げた訳ではない。

 彼の未来予測はあくまでも彼の視界に映る周囲の人間の行動予測である。それも精度を高めるにはその対象を出来るだけキチンと理解、把握する為に観察する必要がある、という細かく厳しい制限が付く。

 あくまでも彼のイレギュラーは未来”予測”であって未来”予知”ではないのだ。ピンポイントでの予知ではなく、彼が観るのは個々人にこれから起こる”かも”知れない無数の可能性の提示であり、その中には足元の小石に躓いて転ぶ、といった物から、それこそバナナの皮でスッ転ぶといった冗談みたいな予測まで様々だ。

 そうした無数の状況がまるで写真の様に、一枚一枚浮かび上がる。その中から現実問題としてどれが適切なのかを即座に”選別”しなければ役に立たないイレギュラーだ。

 その結果だろうか、進士は自分自身に起こるであろう危険を前にすると本能的に反射出来る様になった。

 無意識下ですぐ側にいる観察対象に起こる予測を選別した瞬間に、身体が勝手に動くのだ。


 だからこそ、彼は支援要員でありながら前線に立ってきた。

 彼自身には戦闘適性はない。

 だが、それを補って余りある生存能力が彼をこうして無数の惨状から回避させてきたのだ。

(俺に今、出来る事は――!)

 進士の目に強い覚悟が滲み出していた。



「う、があああああっっっ」

 聖敬はまさしく黒い狼へと変異していた。

 その双眸は殺意の色で満ち満ちている。その牙は凶悪そのものであり、ギラリ、と光っている。その爪先は獲物の血で赤く染まり、まさに肉食獣そのものだ。


 ハァ、ハァ、とした呼吸は荒々しく乱れている。

 それは不思議な感覚だった。

 彼は意識をハッキリ保っていた。

 黒い狼に変異するのは彼が暴走している際の特徴。

 であるにも関わらず今、聖敬の意識は極めてクリアで明瞭であった。

 力が漲るのが実感出来る。

 これ迄に感じた事のない程の充実感。

 筋肉に神経、それに細胞の一片にまで力が滾る。

 今ならば、もう誰にも負ける事はないだろう。

 だが今、……彼はこの場で足止めを食っていた。

 相手は一体何者であるのか?

(僕は今、彼女の所に急がなければいけないってのに……!)

 今の聖敬の鋭い動きを前に相手は翻弄されている

 さっきから致命打に成り得る攻撃を幾度も繰り出した。


 それは狙い通りに敵の心臓を貫くはずだった。

 それは狙い通りに敵の喉を引き裂くはずだった。

 それは狙い通りに敵の肺を潰し――その息の音を止めるはずだった。


 相手もまたマイノリティである以上、リカバーで傷は塞がるかも知れない。だが、それでも確実に追い詰める事が出来るはずだった。

 それなのに、相手はそれらの必殺足り得る一手を紙一重で躱していく。無傷ではない。だが確実に狙った通りの急所はすんでの所で確実に外していく。

 さらに相手は反撃に転じている。

 どういう原理かは分からない。

 だが相手の手が触れる度に聖敬の身体が”崩れていく”。

 それは文字通りの意味だ。ほんの僅かに掠っただけで聖敬の皮膚に何かが入り込む。何かが流し込まれる様な感覚を覚える。

 次の瞬間には触れられた箇所に未知の痛みが走る。


 それはまるで針で心臓を刺された様な刺激。

 それはまるで巨大な槌で骨を砕かれた様な鈍痛。

 それはまるで刀剣で手足を一太刀で絶たれた様な激痛。

 それはまるで身体が燃やされた様な凍らされる様な感覚。

 それらのいくつもの痛みが瞬時に脳内に感知される。

 のたうちたくなる様なそれらの感覚に身体が一瞬動かなくなる。


「ハァ、ハァ、くぐっ……」

 ただ一つだけ断言出来る事がある。

 あの手に触れられてはいけない。もしもマトモに触れられてしまえばそれで終わりだろう。待ち受けているのは絶対の死である事だけは確信出来る。


「邪魔を……するなああああああッッッッッ!!」

 怒気をあらわに聖敬が咆哮をあげる。

 野生の……まさに肉食獣そのものの圧倒的な迫力と殺意が井藤へと叩きつけられる。


(来るっっ……)

 井藤は自分の身が竦むと同時に、こちらへと襲い来る狼が突進してくるのを確信した。

(それにしても……厄介ですね)

 聖敬の咆哮のついては、彼のこれ迄の戦闘時のデータ分析で知ってはいたが、いざ実際にそれを受けてみると本当に身体が動かなくなる。

(こんな事なら一度位は彼と手合わせしておけばよかったですね)

 そんな考えが脳裏をよぎるが今更しょうがない、……井藤は覚悟を決める。今の聖敬を相手に手を抜きながらでどうにかなるなんて甘い考えは捨て去らねばならない。


 黒き狼はその牙を、爪先で引き裂こうと間合いを制した。

 後はただ一撃を喰らわせるのみ。

 相手も只者ではない。身が竦むのもほんの一瞬だろう。だがそれで充分だ、ほんの一瞬さえあれば倒せる。それだけの力が今の自分からは感じられた。


 なのに――!


 その爪先を喉へと振り上げようとした刹那。聖敬の全身を悪寒が駆けた。

 狼は気が付けば後ろへと大きく飛び退いていた。

 全身の毛が逆立っている。

 その四本の手足は小さく震えている。


 井藤の身体がみるみる内に変化を遂げていく。

 それは紛れもなく進士が以前、目の当たりにした支部長の姿。

 今にも倒れてしまいそうな虚弱で、まるで枯れた木の様だった姿が膨張する。

 死人の様に蒼白であった顔には血色が戻る。

 枝の様にも見えた手足は逞しく若々しくなり、彼は”本来”あるべき姿を取り戻した。

 今の井藤は、目の前の相手と全力で戦う事を決意した事から生じる戦意を滾らせている。

 それを象徴するかの様に彼の全身からは微かな霧の様な物が溢れている。

 一見するとその霧は何処か幻想的な美しさを漂わせている。

 だが、この霧こそが彼がその身に孕む”死”の象徴。

 ”コームやかな執行者パフォーマー”という彼の異名の源泉である”毒”。

 この毒は生物はおろか無機物まで殺し、溶かす事が出来る。

 そしてこの毒を井藤謙二は常時生成し続けており、気を抜くと周囲の全てを殺し尽くす可能性を孕む。

 だからこそ、井藤謙二はこの毒を常時体内に封じ込めている。

 その毒は体内を駆け巡り、循環する事で飼い主の肉体にすら多大な負担を強いている。

 その結果が普段の井藤の姿である。


 だが井藤が本気になる事を決意し、肉体を蝕む毒を解き放った時、彼は死神の化身と化する。

 つまり今の井藤謙二は、その存在自体が”死”そのもの。

 全ての生き物、この世界の敵とも云える存在となる。

 死神と化した男は囁く様に言葉を投げ掛ける。

「進士君、サポートを。……勝負は一瞬で決めます」

 そう言葉を発したのと同時に井藤が動く。

 さっきまでとは大違いの動きのキレを見せ、相手に迫る。


(何だこいつは?)

 今の聖敬には、目の前の相手が自分の障害であるフリークに見えている。

 だが、今の相手は一体何者だというのだろうか?

 その全身からは濃密な死の気配を漂わせ、こちらへと迫る。

 得体の知れない怪物が手足を振るう。

 今の聖敬にとってそれは本来であれば何て事のない遅い動作からの緩慢な攻撃に過ぎない。反撃する隙は無数にある様にも思える。

 しかし、聖敬の本能が告げている。逃げろ、と全力で警告している。その警告に従い、飛び退く聖敬の視界に映るのは敵の何て事のない手の振りに従うかの様に、手先が触れた床がジュワッ、いう音を立てながら溶けていく。

 聖敬の発達した嗅覚が異臭を嗅ぎ取る。

 思わず眉を潜めたくなるような嫌な臭い。

 全ての命を蔑ろにし、蹂躙し、殺し尽くす嫌な臭い。


 聖敬は相手の一手一手を躱しつつ、冷静に観察する。

 一体何処に隙が生じるのか? それをじっくりと観察してみる。

 そうして何度か相手の攻撃を躱す。


 相手の周囲を覆っている霧状の何かはやはり毒らしい。

 相手が一歩、また一歩と踏み込む度に足元が微かに溶けて、そこに足跡が残されている。

 それから攻撃と防御の両方を同時にはこなせない様にも見えた。

(それから……)

 聖敬は自分の左肘を注視する。さっき相手の攻撃が掠めたのだが、肌がボロボロ、と爛れ崩れている。

 さっきよりも痛みは激しいが、耐えられない程の物ではない。

 これなら何とか戦える、と算段を立てる。

(活路を見出だすには受け身じゃダメだ!)

 そうして結論を出した聖敬は自ら仕掛ける。

 この相手を倒すには無傷で無理だ、それが黒い狼少年の出した結論。

 そしてその結論を相手、つまり井藤も読んでいた。


(さてこれで決着ですね)

 そう思った井藤は、自身の周囲を覆っていた毒の密度をより多くする。まるで鎧の様に濃縮させる。

 聖敬の狙いは敢えて自分から攻撃を仕掛け、相手の反撃を受ける事だ。その瞬間、毒が相手を殺し尽くすべく蠢く瞬間。防御が手薄になった相手の急所を貫く事がそうだ。


 但し問題がある。

 今の聖敬の速度の前に井藤はついていくのが精一杯だ。

 狙いが分かっていようとも、速度で大きく劣っている以上、相手が一体何処を狙ってくるのかが分からないのでは咄嗟の対応が遅れてしまう。

 だからこそ、彼の支援が必要になる。

 相手の可能性を予測し、自分がどう動けば良いのか。

 交差する一瞬で決着を付ける。

 聖敬が左の爪を繰り出す。間違いなく誘いだろう。



 進士の脳裏に無数の予測が浮かび上がった。

 その大半は二人の相討ちで終わる。

 例えば、聖敬の左の爪を井藤が敢えて無防備にその身に受ける。

 そこから聖敬の本命である右爪が、喉を切り裂くべく振られる。

 だが、それこそが井藤の誘い。その為に敢えて喉を無防備に晒したのだから。その速度に付いていけなくとも、来ると分かっている攻撃であるなら対処出来る。聖敬が勝利を確信した瞬間なら隙が生じる。

 そこで井藤は相手の左手を掴む。瞬時に毒が聖敬の身体を駆け巡る。全身が腐り落ちていく。

 聖敬の瞳孔が驚愕に満ちていく。彼は確信した。自分が死ぬ、と。そして抵抗を試みる。腐り崩れかけた左手に全ての意識を集中させ――全力で薙いだ。ブワッッ、と血が吹き出し……井藤は呆気なく倒れる。そして同時に聖敬もその場に膝から崩れ落ちる。そうして全身が真っ黒に黒ずんでいき――絶命した。


 他にも無数の可能性が予測される。

 これらの情報を分析。集された無数の出来事を比較して、そこから望むべき解答を導き出すのが彼の仕事。

(考えろ――誰も死なない方法を考えろ)

 僅かな時間だ。ほんの一秒程度の。

 だが、進士にはたったそれだけの時間で充分であった。


 一瞬、進士の視線と井藤の視線が合う。

 聖敬の左手が井藤の脇腹を抉った。手応えは軽い、そう感じた聖敬だが右手を繰り出す。その狙いは相手の心臓へと爪先を突き立てる事。

(――貰った)

 その瞬間、刹那で聖敬は自分の勝利を疑わなかった。

 井藤の毒が身体に回る感覚。しかし彼はもとより左手を捨てる覚悟だ、問題ない。

(これで終わり……!)

 この時、聖敬は決して油断していた訳ではない。

 ただ、全神経を研ぎ澄ませ、相手の毒に対抗するべくその意識は相手の動きに注視せざるを得なかったのだ。

 その為に反応が遅れた。

 ドン、という何かがぶつかる音。そして自身に走る衝撃。

 聖敬の目に入ったのは目の前で毒を撒き散らす相手とは別の敵。さっきから警戒こそしていたが、一向に動く気配がなかったから無視していた相手だった。

 進士が無数の予測で見ていたのは結果ではない。

 あらゆる事態での聖敬の視線だった。

 一体どのタイミングでどう動けば聖敬の不意を突けるか?

 この一点にだけ神経を尖らせていた。

 進士は後ろから羽交い閉めで肩を押さえ込む。

 聖敬の動きが鈍る。その隙を井藤は見逃さない。


「終わりです! 【甘美スイートデスを】」


 井藤の右手が聖敬の身体に触れる。

 ゾワゾワ、とした寒気が黒い狼少年の全身を包み込む。

 にも関わらずに。

 次に聖敬が感じたのは甘い香り。鼻孔をとても甘い香りが突き抜けた。心が妙に安らぎ、和らぐ。さっきまでの興奮がまるで嘘の様に感じる。


 ――私を助けてよ。聖敬ッッッ。


 ”彼女”の声が脳髄にまで響き渡る。

(動かなきゃ……でも身体が?)

 彼女を助けなければいけないのに、身体の自由が効かない。

 聖敬には何が起きたのか分からない。

 気が付くと彼は棒立ちに立ち尽くしている。

 相手がこちらから離れた。

「情けをかけるのかッッッ、くそっ」

 罵声を浴びせるが相手は何も返さない。

 口から微量の血を吐き出し、やがて意識は途切れた。



「ふぅ、危なかったですね」

 井藤はよろめきながら、廊下の壁に背中から寄りかかる。

 その全身を覆い尽くしていた毒の霧はもう雲散霧消している。

 つい今さっきまではすこぶる健康そうに見えた体つきが、またも今にも倒れそうな程に痩せこけている。

 血色も悪い表情ながらも井藤は安堵の笑みを浮かべた。

「大丈夫でしたか」

 進士は心配そうに上司の様子を伺う。


「それにしても、よく意図を読みましたね」

「俺の場合、先読みするしかないですから。もしも聖敬を殺すつもりなら、最初から本気で戦えばいい。もしもその気があるのなら、もっと簡単に倒せたでしょ?」

 そう、進士が一番疑問に感じたのはあの毒の使い方だった。

 以前目にした時はもっと容赦なかったし、もっと強力に感じた。

 手を抜いているのは明白だった。

「支部長は最初から聖敬を殺さずに無力化するつもりだった。

 そうでしょ?」

「っはは、いい読みです。そうですね、私は彼を殺すつもりはなかった」

 井藤の本来のイレギュラーは万物を殺し、腐らせる毒だ。

 基本的に死と破壊しかもたらさない。

 だが、そんなイレギュラーであっても彼は訓練を続けた。

 少しでもこの呪いの様な毒を制御出来る様に。

 万物を殺さずに済むように。

 そうして身に付けたのが……今、聖敬に与えた毒だ。

 あれは一種の神経毒の様な物で、対象を仮死状態にする事が可能だ。イメージとしてはフグ毒として有名な”テトロドトキシン”に近い性質を持つ。

 この毒はテトロドトキシン同様に神経細胞への電気信号の阻害を起こす事で筋肉を麻痺させる。そしてその麻痺は全身へと広がっていき、最終的には仮死状態となるのだ。

 唯一本来のテトロドトキシンとは違う点は、この毒はマイノリティにしか影響しない事だろうか。


「は、ふう……何とかなりましたね」


 井藤はそう言うとよろけた上で倒れる。疲労困憊であった。



 ◆◆◆



(ん、聖敬が倒れたの?)

 ベルウェザーは自身の人形からの映像で、聖敬が倒された事を理解した。

 彼女はこの学舎内に無数の人形を放っていた。

 それらの人形にはそれぞれ役割を与えている。

 学舎の外に配置した戦闘用の人形。学舎の状況把握の為の蝿の姿を取った人形。これは一種の監視カメラの役割を受け持つ。

 音声を拾う事こそ出来ないが、大まかな状況はこれでも判断は出来る。今現在、学舎内で動いているのはクラスメイト達を除けば彼女達に進士と井藤。

 今、クラスメイト達は一目散に逃げているつもりだろう。

 だが、彼らは気付いていない。

 自分達が逃げ道を誘導されている事に。

 そもそも、今、この学舎内は彼女の結界の様な物なのだ。

 逃げているつもりの彼らは気付く由もない。

 自分達はフィールドの張られていない、通路を走っている事に。


「おかしいよ……リズ」

 異変に気付いたのは晶だった。

 彼女はクラスメイト達の後を追いかけていたのだが、逃げている先がおかしいと気付く。

 逃げるのならば、真っ先に玄関に、もしくは一階に逃げるのが正しい選択だ。

 それなのに……彼らは上に向かっている。

 この先にあるのは屋上だ。

「ねぇ皆。なんで上に行くの?」

 と疑問が口を出る。

 だが、同時に彼女は違和感を感じてもいた。

 何故か下へと降りるのが嫌だった。そう考えるだけで何故か意識が朦朧とする様な感覚を覚える。

 本能的に察知した。

(皆も同じ感覚なの?)

 クラスメイトと晶の違いは、その違和感を察知出来る否かであり、それは彼女が無意識下でマイノリティとして目覚めつつある事だろうか。


(それから……)

 晶の感じる違和感はもう一つあった。

 それは自分の後ろを走る金髪の友人。

「………………」

 エリザベスはさっきから無言だった。

 教室を出てからというもの、彼女は一言も言葉を発しないのだ。

 何故かは晶には分からない。ただ漠然とではあるが、不安を覚えるのだった。


 バアン。

 大きな音を立てて、屋上のドアが開かれる。

 そうして彼らはようやくひと心地付いた。


「アイツらは何だったんだ?」「分からないよそんなの」

「でも怖かったよー」「私も」「本当にねぇ」


 安堵からかクラスメイトの口数が増える。

 バッッ。

 そこに雨が降った。

 その雨は不思議な事に温かい。

 誰もがその雨にまみれた。妙に生暖かいその雨に。

 おかしな事にその温かい雨は無色じゃない。

 その雨は鮮やかな赤。鮮血の色。


 僅かな時間――誰もが現実に我を忘れる。


 そうして巻き起こる絶叫の声。


 阿鼻叫喚という表現が相応しいその叫びの源を晶は目にした。

「そ……んな――っっっ」

 彼女の目に飛び込んだのは、上半身を失った無数の下半身。

 そこから吹き出す真っ赤な雨だった。



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