脅威
「がああああああああああ」
まるで、いや、まさしくそれは野生の獣の咆哮だった。
自身こそが、絶対の捕食者である事を示すかの様に猛々しい咆哮。
空気がビリビリ、とひりつく。
その獣の咆哮を放ったのは聖敬。
目の前に立ち塞がる、自身の敵へと敵意に満ちた眼光を向ける。
「…………困ったものです」
一方、敵と認定された相手。つまり支部長である井藤は苦戦しているが、その理由はいくつかある。
まずは単純に聖敬の速度。まだ彼は狼の姿へ変異はしていない。だが、それでも圧倒的な速度差が二人の間には存在している。
バシュ、爪先が井藤の右腕を裂き、血を吹いた。
井藤も元は戦闘部隊の一員だけあって、迫る鋭い爪先が迫る中でも冷静に身を翻す。
お陰で未だ深傷こそ負ってはいなかったが、このままではそれも時間の問題であろう。何故なら聖敬の速度は徐々に上がっているのだから。まるで試運転走行の車の如くに。
理由の二つ目。それは二人の”射程距離”だ。
聖敬の攻撃手段はあの鋭い爪先に、変異後は口から覗く牙。それらを高速で接近しながら振るい、噛み付く事だ。
その為に攻撃の間合いは近接戦闘に特化しているのだが、実際にはあの速度の為に十メートル位ならばあっという間に間合いに入り込める。つまり思った以上にその攻撃範囲は大きい。
一方で井藤が”体内”に封じている毒の間合いは本来なら数十メートル。だが、今もそうだがその体内の毒は周囲全体を殺し、腐らせるという性質上、迂闊に放てる物ではない。被害が甚大になりかねないから。
その為に、手先から僅かに泡の用な形状で捻出。
それは色そのものは白くて無害にも見えるが、れっきとした毒。
現に、ついさっき聖敬の肩に僅かに触れた泡は一瞬でその服を溶かし、肉をも腐食。ジュウウウ、と嫌な臭いを出して焦がした。
聖敬は井藤のイレギュラー自体は聞いてはいたが、実際に見たのはこれが初見。思わぬ反撃とその威力を前にして、さっきからジリジリと間合いを保ちつつも、一瞬で肉迫。そして相手の身体を刻んでいったのだ。だからというのか、間合いについても今は聖敬の方が勝っている。
そして最後は、二人の決意の差、だろうか。
聖敬の目には最早敵意しかない。目の前の敵を確実に仕留めようしているのがハッキリと感じ取れる。
だが、一方の井藤は、何処か迷いを感じさせる。だからさっきからの戦闘も何処か消極的で、ああして手傷を増やしているのだ。
(でも無理もないさ)
進士はそう思う。何故なら、聖敬は仲間であり、何よりも友達だったからだ。
進士将という少年は、幼少時に親を失った。
犯人は分かっている、通称”殺戮中毒者”という名のマイノリティだ。WDに所属する殺し屋であり、通り名の通りの凶悪な人物だ。
彼が”仕事”をすると無関係の一般人にも多大な犠牲者が出る事からいつしかあの忌み名がついたそうだ。
進士少年は、目の前で両親を失い、そして仇の声を耳にした。
――思ったよりも殺せたな。
たったこれだけ。たったこれだけの言葉に、途方もない悪意が内包されている事を進士は子供ながらに理解した。
それは果たして事故での重傷が原因かそれとも両親の死という精神的な打撃の為かは分からない。彼はマイノリティに目覚めた。
彼はいつか両親の仇を取る事を誓い、救助に駆けつけたWGに対して自主的に参加を希望。身内の無い少年の願いは叶えられた。
だが、彼の仇討ちという目的は程なくして遠退く。
彼のイレギュラーは、戦闘向きとは言い難い物だったのだ。
”不確実なその先”という名の彼のコードネームであり、そう名付けられたイレギュラーは、未来予測の能力。それだけ聞けば如何にも便利なイメージを受けるかも知れない。
だが、不確実、という言葉にもある通りこのイレギュラーには欠点が多い。
まず、誰にでも適用できないのだ。
彼のイレギュラーはあくまで”予測”であり、”予知”ではない。無数の可能性を同時にシミュレーションし、その中から選ぶ必要がある。その精度を上げるには対象となる人物を観察し続ける他に無い。だからこそ進士は常日頃より、人間観察を欠かさない。
どんな人間にも特有の癖があり、無意識にそのサインを見せるのだから。
だが今、進士は何も出来ない。
予測出来ている。それなのに。
言葉に出来ない。
理由はそれに確信が持てないからだ。
今の聖敬からは、殺気しかない。
相手に対する途方もない程に深い、深い殺気しかない。
こんな姿は、初めてだった。
暴走している時でも予測出来たのは、あれがイレギュラーの暴走に起因する物だったから。ベースは間違いなく聖敬本人だった。
だが、
今の聖敬は精神自体が歪んでいる、そう進士には見えた。
目の前で猛威を振るうのは、聖敬の姿を借りた別人、そう思った方が正しい。だから予測の精度が著しく悪いのだ。
さっきから浮かぶ光景はいずれもろくな物ではない。
例えば今しがた見えたのは、聖敬が井藤の喉を引き裂いた光景。
その前に見えたのは、聖敬の一撃が井藤の心臓を刺し貫いた光景。それ以外にも、無数の可能性が浮かび上がっては消えていく。
その中で聖敬は井藤を殺し、また別の予測では井藤の毒が聖敬を直撃し、その身体を溶解させていた。
どれもこれも確信が持てない。
イレギュラーを制御するのには強い精神力が必要だ。
未熟な精神ではイレギュラーを効果的には扱えない。
今の進士の精神状態は最悪といって差し支え無かった。
そんな自分の状態を誰よりも理解出来ているからこそ、進士には曖昧な予測を口には出来なかったのだ。
(くそっっ、俺は何て弱いんだ)
唇を噛み締め、進士は見守る。
下手な介入はどちらかの死を引き寄せる、そう確信出来ていたから。
(だからこそ、俺は見ないといけない)
静かに心を落ち着ける。
聖敬を見極め、二人が共に死なずに済む可能性を予測する為に。
「があああっっ」
聖敬の上段蹴りが放たれた。本来であれば技術的には未熟なその一撃だったが、ボディのイレギュラーを持つ彼にとってはそれでも充分だ。備わった並外れた筋力と瞬発力の合わさった攻撃はそのどれもが必殺の一撃。
驚異的な速度で自身へと襲いかかる猛撃を井藤は最低限度の動きで躱し、反撃していく。身体能力で大きく劣る井藤が相手に勝るもの、それは彼よりも豊富な実戦経験だ。
無数の戦闘経験の中で彼は様々なマイノリティ、そのイレギュラーと対峙してきた。
いくつもの死線を乗り越えてきた井藤にとっては身体能力の差など大した問題ではない。
そもそも、マイノリティ同士の戦闘に於いて、最も重要な事は如何に自分の武器を効果的に用いる事が出来うるか? およそこの一点に尽きる。
そもそも、井藤の毒は多少の不利などお構いなしに問答無用で敵対者を殺し得る猛毒だ。
この毒に対抗出来る可能性を持つのは主に自然操作能力のイレギュラーだろう。
例えば、
炎熱は毒を蒸発させる。
雷は毒より遥かに早くこちらへ届く。
暴風は毒を四散させる。
水は毒を押し流してしまう。
等々の可能性を秘めているからだ。
だが実際の所、これ迄にそうした事が可能なナチュラルのマイノリティ等はいなかった。
ましてや、いくら強いとは言え、相手はたった一人だ。
対集団戦に対応する事すら可能な彼の実力ならば、どうとでもあしらえた。
例えば、今現在、自分へと放たれた上段蹴りならば。
実戦戦闘に於いて蹴りというのは、隙が大きい為に安易に用いる物ではない。現に、今の蹴りも軸足を払うだけで簡単に姿勢を崩す事が出来る。そこに合わせて左手での掌底。無理に力を込める必要等ない。ただ添えるようにごく自然に前に。
「くがっっ」
たったそれだけの事でも相手の勢いが合わさる事で充分な威力を持たせる事が出来る。聖敬の身体が後ろに転がり、ベッドを倒した。
右手に集約させた毒は使わない。
流石に聖敬が警戒しているのが分かる。
(さて、どうする?)
聖敬は未だ本来の力は発揮していない。
彼の本領は狼の姿になった時こそ発揮される。
一応、聖敬の戦闘時の記録は以前チェックした事がある。
彼が本気を出せば、流石に小手先はもう通用しないだろう。
「!!」
だが、この膠着状態が崩れるまでもうあまり猶予はないだろう。何故なら、聖敬の身体が狼へと変貌していったから。
「グルルルルアアアアアア」
咆哮に身体が竦む。
そうして……凶悪な爪先が襲いかかった。
◆◆◆
(くそっ、そこをどけっっっ)
聖敬は叫んでいた。
彼の目の前にいるのは敵。
それも無数の敵の群れ。
戦いたくはなかった。こんな所で時間を潰している場合じゃないのだ。
何故なら、聞こえるからだ。
彼女が自分を呼ぶ声が聞こえる。
彼女が、助けを求めているのだ。それも必死に。
聖敬は敵を薙ぎ払おうと変異させた爪を振るう。
その一薙ぎ、一薙ぎ毎に敵は倒れていく。
そうして今は、残った一人と対峙している。
その一人はこれ迄の相手とは桁が違った。
圧倒的に速度で勝っているのは聖敬だ。
だと言うのに。
この相手は聖敬の速度に対応してきた。爪先を無理に躱すのではなく、受け流す。また手首に手刀を入れて勢いを削ぐ。
さらに右手には何かはハッキリとはしないが、何かしらの強化をされているらしい。少し掠めただけで激痛が走った。
(ぐかっ)
そして蹴りにもきっちりと対応。軸足を払われ姿勢を崩された所に待ち受けていたかの様な掌底を喰らう。
ダメージこそ殆どないものの、相手が自分よりもずっと実戦馴れしている事は確信出来た。
(このままじゃ駄目だ)
そうこのままでは目の前の相手を突破出来ない。
そしてそれは彼女の”窮地”を意味する。
彼女を守る事こそが、聖敬が自分がマイノリティである事を受け入れた一番の理由だ。それを失う事だけは何としても避ける。
だからこそ、
彼は自身の身体を変異させた。
メキメキ、と異様な音を立て、筋肉が隆起していく。骨格が変化し、四足歩行に適した形へと。
顎は発達し牙が覗く。全身を銀色の毛皮が覆っていく。
「ガルルルル――」
地の底から響くような唸り声を鳴らし、聖敬は、白銀の毛並みに覆われた狼は相手を凝視する。
(急がないと)
もう一刻の猶予もない。
これ以上時間をかけずに、何としてもこの場を突破して、彼女の元へ。そう自分が愛する金色の髪をした少女、エリザベスの元へ。
だから聖敬はもう躊躇しない。
全力で全速で相手へと襲いかかった。
◆◆◆
「さて、どうしたものかな?」
赤毛のシュナイダーは如何にもやる気なさげに、気だるい声で相手に言葉を投げかける。
彼の周囲には血溜まりが出来ているが、これは彼のものではなく、無論、今対峙する相手の物でもない。
「おい、生徒会長さんよ、何でもいいけど早くしてくれよな」
その背後では田島が苦虫を潰した様な表情で構えた銃の引き金を迷う事なく引く。
パンパン、と二発の弾丸は狙い通りに敵の胴体に命中。
普通の相手であれば心臓がある場所を撃ち抜いた訳だか、田島の表情は険しいままだ。
「…………」
その理由は単純だった。敵にはおよそ表情というべき物が無かったからだ。そもそも人間ですらない。その全身はドス黒い赤。手足は一応、五本ずつで作成者が人に似せようという意図はあったのかも知れない。
その敵の全身はブヨブヨでまるで寒天かゼリーの様だった。
その一歩の歩みは極めて遅く、子供でも容易に躱せそうにも思える。
しかし、そこが敵の悪質な所だった。
その赤黒い色の正体は血液。血液操作能力のイレギュラーにより作成された人形が敵の本性。
その血液は、強力な”酸性”だったのだ。
さっきから何発の弾丸をその身に撃ち込んだかがもう分からなくなった。撃てども撃てども、相手を倒す事は愚か、吹き出す血が降り注ぎ、襲いかかってくる。
その血が落ちた地面がジュウウウ、と焦げていく。
田島は一定の距離を保ってはいたが、それでも現状自分の方が不利である事を自覚していた。
何故なら、田島にとってこの相手をこれ以上前進させる訳にはいかないから。田島が背負うのは学舎だ。もう後ろには下がれない。
この赤黒い人の形をしているブヨブヨの人形がもしも学舎内であの血を撒き散らせば大惨事になるだろう。
(こういうとき、俺のイレギュラーじゃ足止めにもならないな)
彼のイレギュラー”不可視の虚像”は幻覚を、虚像を浮かばせる効果。これでは他者の妨害は出来ても倒す事が出来ない。そもそもこの人形に幻覚が有効なのかすら怪しい。
(仕方がない)
確信は無かったが、あのいけ好かない赤毛の生徒会長殿のイレギュラーならこの化け物を何とか出来る、そう思った。何故なら生徒会長の様子からは焦り等は皆無で、何処か余裕に見えたから。
「……どういう風の吹き回しだい?」
気が付くと、田島はシュナイダーに自身の背を預けていた。
「俺って荒事には向いてないんで、手伝ってもらえますかね?」
「……つまり君はおれにこう言いたいのかな? 手を貸して下さい、と?」
シュナイダーの問いかけに田島は黙って頷く。
「くく、はははっっ。これは愉快だ、まさか君にそう頼まれる時が来るとは、ねぇ」
シュナイダーは愉快で仕方がないらしく大声をあげる。
その様子などお構いなしにブヨブヨの人形は近付いて来る。そして赤毛のギルドの顔役の正面に立つ、無表情はただ無言でその場に立ち尽くしている。
「いいだろう、少し手伝うよ。でも先に言っとくよ、おれはそこまで強くはないよ。……あまり過度な期待は抱くべきではないからね」
はは、とそう苦笑を浮かべた……次の瞬間だった。
シュナイダーが動く。
素早い、信じられない程に。
あっという間にアサーミアへと肉迫した彼は相手の目の前で飛び上がるとそのまま横っ面めがけて蹴りを一閃。
完全に不意を突けたらしく、能面の様な顔をした相手はまともに蹴りを喰らい、倒れた。同時に彼は指先を動かす。
「悪いね、そこで寝ていてくれ」
何処から持ち出したかは分からない。だがその手にいつの間にか大振りの鎌を握り締め、縦に振り下ろした。
バアッ。
その鎌は相手の身体の身体を裂く。肩口から大きく二分されたアサーミアは血を吹き出しながらその場に崩れる。
「悪いね、遊んでいられなくて」
さっきまでのへら、にへらとした表情は一変。
何処か軽薄な印象だった、その顔に浮かぶのは冷徹な視線に歪んだ笑み。そこにいたのは紛れもなく犯罪組織ギルドの名代として派遣されてきた裏社会の住人。
「思ってた以上の怪物じゃないかよ、あんた」
「これでも荒事は嫌いなのは事実さ。……出来れば無意味な殺しは避けていたいからね――でもま、これで二人で戦えるよ」
鎌についた相手の血を払いつつ、残った相手、ブヨブヨの人形へと向き直る。
田島は思う。
ブヨブヨの血で出来た人形には今の状況を分かっているとは思えない。もしもこのグロテスクな人形に意思があるのなら、もっと直接的な攻撃を、具体的にはその全身を形作るドス黒い血を撒き散らせばいいのだから。
それを実行しないのはコイツには一定以上の知恵がないからかも知れない。
(だが、ならあれはどうだ?)
田島は気絶させた生徒へ視線を向けるが、人形はそちらには全く興味を示さない。目とか耳らしい物がないのにどうやってこちらを認識しているかはよく分からないものの、その動作から狙いはあくまで学舎から出ていて今も動く二人だという事か。
気絶させた生徒を狙う様子が無いのはさしあたって、目先の脅威では無いからだろうか?
(標的の優先順位をつけてくる位の知恵はあるって事か)
ならば今、逆に学舎内は安全だとも言えるのかも知れない。
(学舎に逃げ込んだらどうなる?)
学舎へと逃げ込み、そこから出ない意思を示せばコイツは排除をやめる可能性はある。
だが、もしも標的の排除を優先するなら……学舎に逃げても無駄だ。寧ろ被害が拡大する一方となる。
(だけど、多分大丈夫なんじゃないか?)
そう思えるのは、今、恐らくはこの騒動の張本人であろう、ベルウェザーがこの木造の学舎にいるであろうからだ。
彼女がどういう思惑を持っているかはまだ分かってはいない。
「えーと、とりあえずはおれがこの鎌で切りつけてみるよ。君にはあいつの【核】を見つけて欲しい」
シュナイダーはそれだけ言うと即座に仕掛ける。
改めて目の当たりにしたが、尋常ならざる速度だと思う。
走っている事を認識した時には既に鎌を振り下ろしているイメージだ。あのブヨブヨの人形ののろまな動作では、あの速度にまともに対応するのは不可能だろう。
実際、シュナイダーの振るう鎌は確実に相手を切り裂いていく。鈍重な人形にその速度に追従する事は出来ない。一振り毎に手や足、が切り落とされていく。そうして無様にその場に崩れ落ちた所を下から上へと一閃。切り上げた。
バシュウ、人形はその全身から血を吹き上げる。
普通であればリカバーが発動する様な、もしくは発動しても致命的にも思えるダメージだと思ったが、人形にはあまり関係がない。
人形は生き物ではない為に、通常なら致命的な傷からも回復、修復してくるのだ。ウジュウジュ、と気色悪い音と共に断ち切れた手足から無数の血管の様な管が伸びていく。その管同士が互いに結び付き、癒着。元に戻ろうと動き出す。
「せああっっっ」
気合いの籠ったかけ声をあげ、シュナイダーは得物である鎌を振りかざし、その身体をさらに切り裂いていく。
切断時に飛び散ったジュ、ジュウウウ、と音を立て、地面を溶かしていく。鼻をつくその異臭にシュナイダーの表情が思わず歪む。
だが構わず黙々と切り裂き続ける。返り血を浴びれば無事では済まないにも関わらず、淡々と。
シュナイダーという名は彼の本名だ。
ミドルネームは捨てた、正しくは捨てられた。彼は、彼の一族は何世代も昔から男はギルドに関わっており家業でもあった。その役割は組織の運営だったり、実際に犯罪に手を染めたり、何を受け持つのかは個人の適性で判断される。
彼の場合は、”才能”を持っていた事で、それも”暗殺”に優れた才能を見出だされた事から”暗部”で仕事をする事になった。
実際、彼はどんな相手も殺した。
子供であっても、老人であっても、それが自分の母親であっても。標的がギルドにとって危険だと判断され、またマイノリティであるか、それに近しい者は暗部が始末する。それが決まりだった。
――あなたを自由にしたかったの。
それが母の今際の際の言葉だった。
彼には自由が何か分からなかった。だから、知ろうと考えた。
幸い、彼はこれまでの実績から年少ながらギルドの幹部でもあった。その権限を使い、距離を置く事に……一線から引く事にしたのだ。説得の時に、どういう言葉を口にしたのかは覚えてはいない。
だが、彼の嘆願は聞き届けられ、この地へと足を運んだ。
言うなれば九頭龍でのこの三年半程はギルドからすれば溜まりに溜まった有給休暇みたいな物だろうか。
(まぁ、そこそこ楽しめたっけ)
始めこそカルチャーショックに驚いたものの、彼はギルドで学んだ懐柔の手段や自分の容姿を活用して、街に溶け込んでいった。
何よりも心地良かったのは、ここでは彼が本来の仕事から解放された事だろう。
彼はあくまで、ギルドの名代として派遣された身。言うなれば支部の支部長みたいなものだ。何か犯罪行為を行うにしても彼は自分の手を汚さずに済む。あくまで裏方として、サポートに専念してきた。
九頭龍に来てから彼は徐々に変わっていた。表向きではあるが。
これまでなら、他者には最低限の関わりを持たなかった。
暗殺を生業としていた身の上から、どうしても彼は他者に近付く事が出来なかった。他者に印象が残らない様に腐心したものだ。
それでも形だけでも、と思い彼は周囲に馴染む様に、彼らが望む様に、望みの姿を演じてみた。
最初こそ新鮮だったが、やがてそうした事にも馴れて……いつしか飽きてきた。
(くだらない)
そう思い始めたある日の事だ。
赤毛の少年は、彼に出会う。
田島一。
WG九頭龍支部に配属された彼と顔を合わせた瞬間、彼はこれまで感じた事のない感情が溢れるのを実感した。
田島としては、WGの一員として一応は顔役であるこの赤毛の年長者に挨拶しただけの事だった。
だが、シュナイダーには彼の姿がとても懐かしく思えた。
勿論、田島一というWGのエージェントとギルドの暗部だった自分とでは、裏社会に関わる者同士とは言ってもまた違う世界に生きている事は分かっている。
シュナイダーが、彼に共感したのはそういう立場等ではなく、彼の精神とでいうべきか、生き方とでも言うべきだろうか。
見れば見る程に、彼の行動、立ち振舞いの一つ一つが、とても滑稽に思えた。
他者に近付き、信用を得る。そうしておいて自分は情報を得るが他者に自分の事を決して話さないし、明かさない。
軽薄そうな装いをして、道化を演じる姿も、彼の計算。
自分が劣っている、と誤解、錯覚させる事で、自分という存在を意図的に卑下し、侮らせる事がその目的だろう。
それは自分とは真逆の立ち振舞いでありながら、得る結果は同じであった。実に興味深かった。真逆の行動をしつつも、彼とは自分とても近しい物を感じたから。シュナイダーは彼を観察し続けた。
そして気付いた。自分が彼に何を見ていたのか、を。
それは実に単純な事だった。シュナイダーは、田島を見ている内にまるで”自分”を見ている様に思えたのだ。
思えばずっと必死だった様に思えた。
他者にこう思わせたい、そうすればいざという時にこう役立つ。
そんな下卑た目論見、打算ばかりで生きてきた。
だが、赤毛の少年は田島一に出会った事で分かったのだ。
時には、そういう駆け引き等度外視してでも他者に関わるのもいいんじゃないか、と。
その相手が自分に何処か似た人間であるのなら余計に。
だから事ある毎にシュナイダーは田島と話をした。
話題の大半は全然仕事とは関わりのないくだらない話だ。
こんな話を打算無しでするのが新鮮だった。
(もっとも、彼にすれば迷惑だったろうね)
思わず苦笑。
シュナイダーのイレギュラーは一種の”空間移動能力”だ。
”空間操作能力”の一種の派生系だとでも思えばいいだろう。
テレポートというと何処でも自分の望むままに好きに移動出来る様にも思える。だが、そんなに都合のいい類いのイレギュラーではない。あくまでもシュナイダーの持ったソレはそういう物だった。
制限があり、移動はあくまでも点と点が一直線である事。
これを至近距離で扱えばまさに瞬間移動でもしたかの様にも見えるだろう。奇襲には最適だとも言える。
だが、それが離れた距離となると話は別となる。
例えばA地点からB地点へ移動しようと思い立った場合。この二つの点が直線上になければ移動不可能なのだ。中継地点であるC点を介する必要が生じるのだ。
それにそもそもテレポートには大きなリスクもある。
移動した先が何処かによって危険が増大するのだ。
もしも移動先が火事にでも合っている最中なら、シュナイダーは瞬時に炎の真っ只中に突入する羽目に陥る。
他にも、例えばビルが爆破されていれば、そもそもビルが既に瓦礫と化していたら――等々といった行き先の都合によって命の危険に遭遇するのだ。
だからこそ、シュナイダーは滞在する街を隅々まで見て回る。
そして地図を覚え、記録し、有事に備えて予め”移動点”を設定するのだ。
そして移動点の近くにはカメラを仕掛け、移動前には安全を確保してからテレポートする。
この鎌は、彼が近くの倉庫に保管してある物で対マイノリティ用に開発された特殊金属製の一品だ。
この鎌を取り出した仕組みもテレポートであり、直線上にあれば、手だけ移動させ、そこからこちらへ物を運ぶ事も出来るのだ。
シュナイダーは街の各地にこうした倉庫を保有しており、いざという時には何処からでも武器を取り出せる、という訳だった。
「せああああああっっっっ」
シュナイダーの鎌が人形の五体を刻んだ。
飛び散った血が噴水の様にも吹き出ていても彼は意に介さない。自分の周囲の空間をすぐ近くではあるが別の地点に繋ぐ事で、血が彼に触れる事はない。
これは戦闘時に銃弾を躱すのに用いるイレギュラーで、一種の盾、結界の様なものだろうか。
「見えたッッッッ」
田島はその瞬間を見逃さない。
五体が刻まれた瞬間、ゼリー状の人形から飛び出した小さな肉片の様な物が瞬時に五体を繋ぐべく管を伸ばしたのを。それこそがこのブヨブヨした血の塊で出来た人形の中枢、核だ。
田島の銃口から弾丸が放たれ――そこを寸分違わずに撃ち抜いた。
瞬間、ゼリー状の人形がべチャリ、と地面に崩れ落ちた。
そのまままるで溶けたアイスの様にドロドロした物質は、地面に拡がり、水の様にも変化し……消えた。
「やった」
「ああやったよ」
田島が喜び、シュナイダーも応じる。
シュナイダーには田島の気持ちが分かる気がした。
彼はずっと自分を”お荷物”だと心の何処かで思っていたのだ。どれだけ経験があっても、自分は戦闘では役に立てない、という引け目を無意識に。
彼が思うにその思いが一層強くなったのは、聖敬の覚醒後だろう。自分の身近な者の不意な目覚め、そしてそんな彼に戦う事を、やむを得なかったとは言え、勧めた事に対する引け目。それらがむくむくと沸き上がり、抑えが効かなかった。だからこそ彼は今、自分が戦えた事実に歓喜したのだ。
だから、だろうか。
この瞬間、彼らの中に微かだが弛緩した空気が流れた。
敵を排除した、その事実で安堵を抱いてしまったのだ。
普段の二人であれば生じる事の無かった”間隙”を敵は突いた。
メキメキッッッッッ。
その一撃は唐突。
そして強烈無比。
「がはっっっっ」
一撃をまともに受け、身体をくねらせたのはシュナイダー。
「あ、」
田島は何も出来なかった。
そこにいる敵に。
「……お前は教えてくれるのか?」
そう呟くのは能面の様な無表情の男――アサーミアだった。