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変わった世界――The strange world  作者: 足利義光
第四話 The person whom I want to protect――守りたい人
35/121

脈動

 

 それは何だか妙な夢だった。

 それはとても悲しい夢だった。

 何故かはよく分からない。

 何故か心が揺さぶられる。

 気が付くと、すぐ近くに膝を付き、泣きじゃくる女の子が見える。

 でも顔は見えない。

 いや、違う。今の自分に見えるのはボヤけた輪郭だけ。女の子が誰かがなんて分からない。ただ、何処か懐かしい、とだけ思う。……知り合いだろうか?

 彼女は何をそんなに泣いているのだろうか?

 何か悲しい事でもあったのだろうか?

 ――分からない。

 こんなにはっきりと泣く声が聞こえているというのに。

 どうしてだろうか?

 こんなにも近くにいると分かるのに姿が見えないだなんて。

 どうしてだろうか?

 泣く声だと分かっているのによく聞こえない。

 ただ分かるのは自分がまるで綿飴みたいにフワフワとしている様な妙な感覚だけ。

 女の子が何かを口にしたみたいだ。

 一体、何を言っているんだろうか――――?

 何かとても大事な事を言っている様な気がする…………。

 そう思った途端に意識が遠のいていく。まるで大きな渦の中にでも放り込まれたかの様に、グルグルと何かとても大きな何か中心を回っていく。


 そこで夢は途切れた。



 チュン、チュンという雀の囀ずり。

 それからミーン、ミーンという蝉の鳴き声。

「う、あああ」

 星城聖敬は重く閉じられた瞼を開く。 

 朝日がカーテンの隙間から差し込んでいるらしく、何だか身体が少し温かい。

 今日もどうやら晴天なのかな、と聖敬は思った。

 ふと、窓に、視線を向けてみると、夏の陽射しが眩しく思わず瞼を閉じる。

 寝ぼけ眼を擦りつつ、時間を確認しようとベッドの脇に置いてあるはずの朝のお供を探すが見当たらない。

 そのままゴソゴソと夏布団から出ずに、お供こと目覚まし時計を探す事およそ数十秒。

 目覚まし時計はベッドの下に落ちていた。どうやら寝ぼけて落としたらしい。

 最も、最近は”加減”が利かないとうっかり目覚まし時計を破壊してしまうので、肝心の目覚まし機能は使ってはいない訳だが。

 代わりにスマホの目覚まし機能で目を覚ます事にしている。

 選曲は田島が「これでいいっしょ」と適当に選んだ曲で詳しい事は知らないが、どうやら今、人気急上昇の新人歌手……確か”歌姫ディーヴァ”とかいう女性歌手の曲だった。

 不思議な曲だった。聞いていると心が揺さぶられる。

 そしてとても穏やかな気分になれる、そんな感じがする曲だ。

 とは言っても、肝心のスマホはどうやらマナーモードだったらしく今朝は全く活躍していない訳だが。

「うーん、何か重いなぁ」

 そうボヤきながら首を回すとゴキ、ゴキ、と音がする。同時に肩も軽く回す。どうも疲れが取れていない。

 何だか良くは分からないけど、今朝はどうも寝付きが悪い様に感じる。ぐっすりと寝たはずなのに、身体が疲労していると感じる。

(そういえば昔もこんな事があったなぁ)

 聖敬は子供の頃にもこういった感覚に陥った事がある。

 寝ているはずなのに、寝た気が全くしなくて、そうした日々の中で遂に倒れた。

 病院に運ばれた聖敬だったが、医師の診断は原因不明、としか言えないと言っていた事を覚えている。

 別段、身体に異常も見受けられず、かといって何かしら精神的な要因も判明しない。だからとりあえず様子を見ましょう、と言われ検査入院する事になった。

 だが結局、原因は分からず終いだった。

 そうして何日か経過するとそれまでの事が嘘みたいに何ともなくなり、検査の結果、問題はないと診断されると退院。それからは気にする事も無くなった訳だが。今日までは。


(こんな感じが続きそうなら、病院に行こうかな)

 どのみち、今の彼は嫌でも病院(WG)に入り浸ってる訳なのだが。あそこなら医療設備も充実しているのでこの疲労についても何か分かるかも知れない。



「おはよー」

 聖敬が二階の自室からリビングに降りていくとそこには朝食を食べている家族が揃っている。

 一家の大黒柱である清志はいつも通りに新聞を広げながら、パンをかじる様に食べている。

 その様子を呆れ気味に見ているのは母親である政恵。いつも通りに遅い起床の息子を目にして、

「聖敬、起きたのね。朝ごはん用意出来てるからまずは顔を洗ってきなさい」

 とだけ言うと洗い物をするらしく台所に行った。

「おはよ父さん」

 聖敬の挨拶に対して清志は新聞を見たままではあったが、「おはよう」と返す。

 正直言って洗面所には今は行きたくはなかった。

 何故なら…………。

「クソ兄貴、まだ歯磨きしてんだから来るなよー」

 妹の凛が洗面所を絶賛占領中だからだ。

 相変わらずの口の悪さに、もう文句を言う気にもならない。

 仕方がないので階段に座り込むと、スマホに溜まったメールをチェックしてみる事にした。

 そのメールボックスを目にして聖敬思わず、うっ、と唸る。

 そこには無数の受信メールが溜まりに溜まっている。

 深夜から早朝にかけて一体何処からここまで来るのか分からない迷惑メールが数十件。いつもの事ながら色々なタイトルを考えるなぁ、と半ば感心する。

 とは言え、当然見るつもりにもならないので一括で消去。

 その上で知り合いからのメールへと目を通す。


 田島からは、いつも通りの内容だ。

 今日は街中でスッゴいキレイなおねいさんに声をかけてみたぜー、とか今度出るグラビアアイドルの写真集はどれを買えばいいだろうか? 等々の他愛のない用件ばかり。

(でも、あいつらしいな、はは)

 とりあえず、メールの返信をする。

 どうせおねいさんにはすげなく断られたんだろ、とかお前、この前は女子高生のスク水が最高だとか言ってただろ? あれは口だけか? 等の内容だ。


(さて、次は……)

 次は進士からだった。

 彼もまたどうせネトゲを一緒にやろうとかいう内容かと思っていたが違った。

「え?」

 思わず声が出る。

 その内容は昨晩、聖敬や晶が住んでいる団地の側にある農地で大規模な爆発があった事、それから……その際に起こった戦闘の結果、エージェントが一人意識不明になったという物。

 そのエージェントは”ファニーフェイス”。つまり怒羅美影。

 言葉も出なかった。

 彼女とは昨日、九頭龍支部で手合わせしたばかりだった。

 彼女は強かった。少なくとも自分よりも、だ。

 その彼女が意識不明?

 しかも、場所は自分のいる団地からほんの数百メートル。

(一体どういう事だ?)

 一般人は、フィールドを展開した事で対処出来るだろう。

 だがそれでも、マイノリティである自分が何も異常に気付かないだなんて。

(昨日は確か、委員長と手合わせしてから家門さんとも手合わせして、帰ったのは……そう九時過ぎだよ、そうだよ)

 だというのに、何故気付かなかった、気づけなかった?

 起きていただろ? いつもなら寝る時間は十一時過ぎだから。

 でも、昨日は手合わせで疲れていた。

 だから寝てしまったのか?


 困惑しつつも聖敬はメールのチェックへと戻る。

 晶からのメールだ。

 今日は体調が回復したらしい。だから、一緒に登校中しようね。と絵文字混じりに綴られていた。

「そ、そっか良かった」

 幼馴染みの隣人と今日は一緒にいられると分かり、聖敬は少し微笑む。


 最後にもう一件メールがあった。

「ん? リズから?」

 そのメールの差出人はエリザベスからだった。

(いつメアド交換したっけか?)

 そう思い、首を傾げながらもメールの文面に目を通してみる。


 〔昨日は助かりました。あなたのおかげです。今日も宜しくね〕


「ん?」

 何だろ、これ。そう思った。

 なのに、何故か納得出来た。

 何故か、ふっ、と心に、色んな疑問が腑に落ちた。

 さっきまでの疑念も何もかもが雲散霧消していく。


「ほらクソ兄貴、空いたぞ」


 凛がようやく洗面所から出てきた。

 聖敬は、ああ、とだけ言うと入れ替わる様に洗面所に入っていく。何事もなく一日が始まる。



 聖敬は手早く朝食を済ませて歯を磨くと、そこからものの五分程で家を出た。普段起きるのが遅いせいでいつの間にか準備だけは早くなったのだ。前日中に翌日の授業の準備を終わらせているし、カッターシャツやズボンを全然使わない机の前に置いてある椅子に引っ掛かっていたり等々。それを見た家族曰く、準備するのだけは無駄にしっかり、早いんだな、と。早く起きればいいのに、と。


「おはよキヨ!」

 丁度晶も家を出る所だったらしい。もっとも聖敬とは違い、少し慌てていた様にも見えた訳だが。

「ああ、ヒカ。おはよう」

 聖敬はそう挨拶を返すと晶の横に並ぶ。

 二人の会話は他愛のない物だった。

 晶がこの二日で何があったのかを尋ね、聖敬はそれに対して答えていく。クラスで何か変わった事はなかったか? とか、授業で寝ていたりはしないのか? 等、本当に他愛のない会話だった。

「へぇ、そうなんだぁ」

 横にいる晶の笑顔が眩しかった。何度その目にしても、いいと思った。自分はこの幼馴染みの少女であり、隣人でもあり、自分がずっと憧れていた少女の為なら何を置いても助けたい、そう思った。



 ◆◆◆



 聖敬が晶と一緒に登校し始めた頃。

「あー、ダルい。ほんっとにダルいぞ」

 言葉通りに気だるげに寮の部屋で目を覚ます男が一人。

「うががっっ、眩しっ」

 夏の陽射しは何の遠慮もなく、寝ぼけ気味のその眼を貫く。

「あ、何で夏ってのは、こう暑っついんだよもう!!」

 田島一は特に意味もなく、外を明るく照らす太陽にとりあえず八つ当たりしたいと思った。

 ベッドの側に放り投げる様に転がっている飲みかけのペットボトルのキャップを外すと、すっかり炭酸の抜けきったコーラをそのまま一気に流し込む。その甘さでようやくひと心地つけた。


 昨日は本当に最悪だった。

 あの生徒会長のお陰で帰り道は最悪だった。

 あの赤毛のドイツ人は「じゃ、お先に♪」と言うと自分だけその場から消えてしまったのだ。もうイレギュラーを見せたのだから、一緒に連れて行こうとか思わないらしい。

 そこから彼の受難の夜が始まった。

 まずは小屋から出て、夜の帳が落ちて真っ暗闇の森の中、元来た道へと出ようと試みた。

 行きは何だかんだで案内人がいたから何とかなったのだが、帰りは一人。おまけにここは携帯の電波の圏外。連絡も何も取れない。

 恐る恐る、一歩一歩を慎重に歩く。

 夜の森の中は余所者を拒絶するような不気味さに満ちている。

 耳を澄ませてみると、ワオオオオン、と遠くで何やら犬の吠える様な声が聞こえる。

 嫌な感じだと思った。もしも野犬だとして、こっちに気付いたら厄介だと思う。

 普段は身近にいる犬ではあるが、彼らの起源は元々は狼なのだ。

 人に捨てられて、生き延びる内に野生化し、狼だったその本質を取り戻すなんて事だってあるかも、と思う。そんなことを前に進士が真面目な顔をして言っていた。

 その際に田島は笑いながらこう言った「はいはい、そうだね」と。

 だが、実際にこうして夜中の山中の、森の中で一人でいると、あの戯言だと思っていた話が俄に真実味を増してくる様に思える。

(余計な事思い出したなぁ、俺)

 そう苦笑しながら、ゆっくりと歩く。

 ハァ、ハァ、と息が切れる。

 想像以上に夜の森を歩くのは疲労する。

 何せ足元がおぼつかないのだ。

 何分か歩く内にようやく少しは周囲も見えてはきたが、それでも精々ほんの数メートルが何となく見える位だ。

 その一方で、足元は草深いせいで殆ど分からない。

 さっきは前方に蛇がいたのだが、直前まで気付けなかったし、それに足元を駆け抜けていくリスらしき小動物の目がキラリと光り、肝を潰しそうにもなった。

 そうこうしている内にようやく元来た道へと出れたのが夜の十時くらいだろうか。正確な時間は分からない、何故ならスマホのバッテリーが上がっていたから。


 そこから今度は下へと降る。

 今度は一応は舗装された道ではあるから、さっきよりは大分楽だと思えた。だが、そこも田舎の山道。

 街灯などがあるわけもない。相変わらずの暗い夜道だ。

 夜なので気温も多少は下がっているものの、春の様な涼しさは感じない。じっとりと汗ばんだ身体を不快に思いながら、飴を一つ口に入れる。梅味でかなりすっぱい。


 山を降りても、まだまだ郊外だ。

 周囲を見回しても人っ気は感じない。

「はぁ、仕方ない」

 トボトボと歩く。ひたすらに。

 マイノリティだからといっても、喉は渇くし、腹も減る。生理現象は一般人と同じなのだ。

 そうして歩く事、どの位だったか。

 不意に眩しいライトを向けられる。

「オイオイオイオイオイ、なんだお前はよぉ」

 バイクに乗った男が声をあげる。見るからにガラの悪そうな雰囲気を醸しており、田島は小さくチッ、舌打ちを入れる。

「今、何かいったかぁ、おいコラァ」

 しかも、どうやら仲間もいたらしい。とりあえず周囲を見回すと、ここは元はコンビニらしい。今は真っ暗なので、見た目通りに潰れたのだろうが。人気は無いことからどうやらこの場所は目の前で学生に凄むいかにもなお兄さん方のたまり場になっているらしい。

「ガキはおうちでママのおっぱいでも吸ってろや」

「まぁまぁ、そう言うなって、丁度いいじゃないかよ、遊んでやろうぜ」

 そう二人で話しながら、チラチラと田島を値踏みする様な視線を向ける。

「お兄さん方、今は何時なんだ?」

「あ、時間も分かんねぇのかよお前。ギャハハ、十一時半過ぎだよ」

「そっか、じゃ」

 田島は用件は済んだとばかりに歩き去ろうとした。

「おい待てやガキがっっっ」

 怒声をあげながらバイクに跨がっていた男がバルルル、と無駄に大きな音を出して前に進み出る。

「俺、帰るんでほっといてください」

 正直言ってこんなのと遊ぶ気にはならない。

 さっさと街に出て、交通手段の確保をしたい。

 とは言え、当然、もう終電には間に合わない。バスもあるかどうか分からないが。最悪、タクシーも検討すべきかも知れない。

 そう思ったらここで騒がしいお兄さん方と遊んでいる時間は一分一秒たりとも無い。


「なめてんのか、おい」

 とは言え、それはあくまで田島の事情であって、バイクのお兄さん方には一切関係のない事だった。

 一応、彼らの立場で考えるなら、ここらは彼らの言わば庭だ。

 この辺りにはあまり大きな暴走グループはない。

 かつてはあったが、九頭龍が成立するのと平行して警察が徹底的にそうした無謀運転をする集団を取り締まった。大規模な撲滅作戦は全国ニュースや、特別番組にも取り上げられて大きく報道される程の規模と期間だった。

 その結果、主だったグループは壊滅。

 今じゃ、集団を形成しようものなら、すぐに取締りの対象となるので、十数台での爆走などは何年も九頭龍内では起きてはいない。

 結果、事件は減ったが、こうした暴走したい若者達は消えた訳じゃない。彼らの様に細分化され、小さな事件やトラブルは寧ろ増加しつつあったのだった。

 彼らにとっては一番大事なのは”メンツ”だ。自分達の庭(あくまでも彼らの中で、だが)でナメられた真似をされる訳にはいかない。こんな派手めな茶髪の学生一人でも見逃したら、その口から自分達が大した事はない、と言われるかも知れないとそう思った。

「オイオイオイオイオイ、少し痛い目にあわせなきゃなんねぇな」

「お前が悪いんだぜ、ナメた真似をするからよ」

 メンツにかけて、自分達を無視しようとした学生へと襲いかかった。


 数分後。


「ちょっと、もう少し静かに走れない訳? うっさいんだけど」

「あ、はい。スミマセン」

 田島は帰りの足を”無事”に確保出来た。

 正直言って、公共交通手段は朝まで使えない。

 かといってタクシーじゃ、えらい金額的負担となる。

 九頭龍支部にツケようにも一旦は払わないといけないが、持ち合わせは千円だけ。だから正直困り果てていたのだった。

 そんな中でバイクを見つけた。それも運転手付きで、だ。

 無視したのは彼らを挑発する為。

 いくら田島が戦闘員ではないといっても、最低限の護身技術は嗜んでいる。最低限とはいっても、一般人相手ならそれは凶器に近い。その証拠に彼ら二人はものの五秒もせずにノックアウトされたのだから。

 一人は帰した。二台のバイクで九頭龍の中心街を通り抜けて、学園前まで帰るだけだ。わざわざ目立つ必要はない。

「あ、つきました」

「あ、ああ。ども」

 田島は、二度と変な因縁つけるんじゃないぞ、と言い含めて学園内へと入った。

 バイクのお兄さんは、言われた通りに本人なりにさっきよりも静かに走り去っていった。

 そうして寮に辿り着いたのは深夜の一時前だった。

 遅くなったのは途中でコンビニで食べ物を買ったりした為。お陰で財布も残り百円と少しだけ。

 田島その日一番の集中力を発揮しながら静かに、静かに慎重に一歩、一歩と進んでいく。傍目から見ればまるで泥棒が抜け足差し足て歩いているかの様にも見えるだろう。

 その理由は、

「おい田島一。……何をしているか?」

 その声の前に田島は凍り付いた。

 その射抜く様な声を発したのは一階の階段の自販機の横、そこに備え付けられたベンチに座る人物から。

 恐る恐る、ぎこちなく首を声の方へと向けると、そこにいたのはこの学生寮の寮監。

 年の頃は恐らくは三〇代の初めらしい。

 身長は低く、確か一五〇ちょい、だった。

 だが、その双眸か発せられる鋭い眼光はまるで野獣の如し。

 歴戦の古兵ふるつわものの様な威圧感を醸し出す。

 名前は………何だっけ、と田島は硬直した頭脳をフル回転させるが思い出せない。とにかく寮監は寮監だ。そして上手い言い訳も思い浮かばない。

「さて、何か言い残す事はあるか?」

 ゆっくりとベンチから腰をあげる寮監からは圧倒的な圧力が漂う。何故かは分からないが、闘っても到底勝てる気が全くしない。

 必死で脳を働かせる事およそ数秒後。田島は決死の覚悟で挑み、

「あ、あの……これ食べます?」

 コンビニの袋から、お気に入りの特製出し巻き卵おにぎりを断腸の思いで差し出す。

「反省せんかああああああ」

 そして敢えなく返り討ちと相成る。

 深夜に寮監の獣の様な怒号が響き渡り、ここのみならず隣接する寮の学生までが飛び起きたのだった。


 それからおよそ一〇分後。

 たっぷりと絞られた田島は、ほうほうの体で自室に辿り着く。

 深夜だったので、お小言も拳骨も少なくて済んだのは不幸中の幸いだったが、代わりにこれから一ヶ月間、週末の寮の風呂掃除とトイレ掃除を命じられたのだった。

 ここを始めとした男子寮五棟と女子寮五棟の合計で一〇棟の寮が学園の敷地内にはある。

 これらは多少の内装の差はあるものの、中にいる人数はどれもおよそ三〇〇人だ。それだけの人数の寮の各階にある無数のトイレに大浴場の掃除はとてつもなく時間がかかる。

「もうやだ」

 そう呟くなり力尽きて、今に至る。


 結局寝落ちした為にスマホは充電し損ねた。

 更に授業までの時間はもう二〇分。

 コンビニで買ったおにぎりの賞味期限は今朝の四時。今は八時。

 だが、最早逡巡する時間はない。

 意を決しておにぎりを流し込む様に口に入れ、大慌てで身支度をして彼はダッシュで敷地内を疾走。

 何とか遅刻はまぬがれる。


 彼が昨晩自分が留守にしている間に起きた数々の出来事を知るのは、もう少し後の事であった。



 ◆◆◆



「おはようございまス」

 教室に入った聖敬にエリザベスが明るく声をかけてきた。

「ああおはよ」

「おはよリズー」

「おお、ヒカリ。もうだいじょうぶですカ?」

 エリザベスと晶は何だかんだ仲がいい。

 聖敬は軽く笑いながら自分の席について、横目で委員長、怒羅美影の席を見る。

「あいつなら今日はいないぞ」

 メールを見ただろ、と進士は小声で言葉をかけた。

「一体何があったんだ?」

 聖敬も同様に小声で親友に話しかける。

「詳しい事は俺も分からない、だが、あいつは九頭龍ウチのエースだ。……敵は相当の強さって事になるな」

「それより、だ」

 進士は神妙な面持ちで咳払いをする。

「お前は昨晩何処にいた?」

 その問いかけに聖敬は一瞬、凍り付く。

 何を聞いているのかが分からない。

「昨晩、ファニーフェイスが戦った場所はお前の家からすぐ近くだった。なのに何も気付かなかったのか? それとも気付けなかったのか?」

「な、何を言ってるんだよ?」

「いや、すまん。お前にも連絡したはずなんだが」

「メールならもらったぞ、これだ」

 そう言うなり聖敬は、自分のスマホの受信メールを見せる。

「ん?」

 今度はそれを見た進士が沈黙した。そうして何を思ったか、彼は自分のスマホを取り出すと二つの画面を交互に確認。

 そして、進士は聖敬に二人のスマホの画面を見せた。

「…………これを見ろ」

 聖敬は進士が何を言いたいのかがよく分からなかった。

 だが、その表情は何処か暗い。

 思わず気圧されてしまい、ゴクリ、と唾を飲み込む。促されるままに、その液晶画面に視線を向けると、

「――え?」

 すぐに何かがおかしい事に気付いた。

 進士からの送信メールの時間は昨晩の十一時五分。

 だが、それは未送信じゃなく送信ボックスに入っている。だから問題なくメールは送信されたはず。

 それなのに。

 それを受け取る側の聖敬のスマホにそのメールは届いてはいない。いや、そんなはずはない。

 メールは送信されたのだ、受け取れていないはずがない。

「考えられる可能性はいくつかあるが、誰かが、電気系統に接触出来るイレギュラーを持ってる奴が盗んだ可能性は除外だ。俺たちの端末にはWGが手を加えている、簡単にはデータを抜き取れやしない」

「じ、じゃあ何だよ……」

 聖敬の”鼓動”が高まった。

 何故だろう、とても嫌な予感がする。

 進士が口を開こうとしている。

(嫌だ、言うな、聞きたくない)

 不安が全身に纏わりつく様な感覚。

「……誰かが直接メールを消したって事だ」

 そして進士は険しい顔で聖敬をジッと凝視する。

「――お前、昨晩何処にいたんだ?」


 その言葉を聞き、聖敬の中で何かが広がっていく。

 それは”真っ赤な布”の様にヒラヒラ、と舞いながらこちらに向かって飛んでくる。

 その真っ赤な布が近付くにつれてその大きさが認識出来た。

 それはおよそ家を一軒丸ごと包めそうな大きさだった。

 明らかにおかしい、そんな布などある訳がない。

 それがまるで自分に覆い被さる様に落ちてくる。

 当然避けようと試みる、だけど。

 足が動かない。

 足だけじゃない、手足の指の一本たりともピクリとだ。

 本能では理解している。

 これが何か危険な物だと。

 そして不意に気付く。

 本能とはまた別の何かが聖敬の全身をがんじがらめにしているのだと。その何かが、まるで全身を鉛の様に重くしていると。

 そうこうしている内に真っ赤な布が聖敬の全身を覆い被さる。


 ――貴方は私の物。


 そう囁く声が聞こえる。

 いや、聞こえるのではない。

 肌を伝わり、血管を伝わり、細胞の一つ一つに至るまでに伝わるのだ。

 そうして、聖敬が目を覚ますと、そこには金色の髪をした少女が佇んでいる。

 少女はとても美しくその顔をまともに見ることを憚れる。

 くい、と聖敬の顔が引き上げられ、そこに少女が口づけをする。

 その刹那に感じるのは例えようもない悦楽。

 心が溶けていく。溶けて、緩んで、もうどうでもよく感じる。

 他の事など些末な事で、自分はこの金色の髪を持つ少女の事を最優先にしなければならない、そう思える。


 ――おい、どうした?

 声が聞こえる。

 でもどうでもいい。

 ――しっかりしろって、おい。

(このままほっといてくれ)

 そのまま聖敬の意識は微睡みの中に沈んでいく。

 赤く、深い沼の中へと。



 ガタン。突然、教室に机が崩れる音が響いた。

「きゃあ」「何だよ?」「星城?」

 クラスメイトがざわめく。

 晶が全身に悪寒を感じて振り返る。

 その目に映ったのは、倒れ込む聖敬の姿。

 その目は白目を剥いており、顔色は蒼白。

 晶の中で何かがざわめく様な感覚がした。

「き、キヨ? どうしたの? ねぇ?」

 晶の中で不安が湧き上がる。

「どうしたのよキヨっっっ」


「ちぃーーす、って何だよ? 変だなぁ」

 田島が教室に入る。何だか様子がおかしい。

 クラスメイト達が円を描く様に集っている。

「田島っ、手を貸せ」

 そこに怒鳴る様な声が飛ばされる。

「何だよ?」

 欠伸をして、重い瞼を開き、切羽詰まった声の主の側に歩み寄って、彼も何が起きたのかを知る。

 思わず、あっ、とだけ声が出る。

「キヨちゃん、おい大丈夫かよ」

「分からん、とりあえず保健室にまで運ぶぞ」

「分かった、せーの」

 聖敬の身体を進士と田島が二人がかりで持ち上げた。

 そして、身体を揺らさない様に注意を払いながらも最大限の速度で教室から出ていく。

「待って、私も」

 晶も三人に続いて出ていく。




 突然の事にざわめきを隠せないクラスメイトの中で彼女だけは違っていた。

 表向きは周囲に合わせて心配そうな表情を浮かべながら、その心中で彼女は周囲のクラスメイト達に対して嘲りの言葉を吐き出してやりたかった。

 同時にたった今、目にした光景を鑑みる。

(思っていたより早く動かないといけないわね)

 予想ではもう少しゆっくりと仕掛けるつもりだった。

 だが、こうなった以上、もう時間の猶予はない。

 怒羅美影が行動不可能ならまず上出来だ。

 武藤零二は今、九頭龍にはいない事は判明している。

 その上で付け加えるなら、あの目障りだったパペットがこちらに干渉する事もしばらくは考慮しなくていい。

 そう、今が仕掛けるのには唯一にして最高のタイミングだろう。

 かくして彼女は、”先導者ベルウェザー”は動き出す。

 ポタリ、とその血の一滴を床に落とす。

 かくして、事態は動き出す。


「おい、キヨちゃん。大丈夫だからな」

「キヨ、しっかりしてよ」

 田島が、晶が聖敬に声をかける。

 彼らはまだ気付かない。

 敵がすぐ側にまで近付いている事に。

 

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