束の間の休息
「じゃ、行ってきまーす」
翌朝。
何処か高らかに声をあげ、聖敬は休日の、しかもいつもよりもかなり早い時間に家を出た。
服装は休日だけあって私服だが、黒いシャツに緑色のカーゴパンツというシンプルな物だ。
この想像だにしない事態に、家族は一応に驚きを隠せなかった。
「何で起きてんの? クソ兄貴」
そう唖然とした表情を浮かべたのは妹の凜。
「……熱でもあるのか? どうしたんだお前?」
父である清志は思わず手に取った新聞を落とす。
「あららぁ、今日は大雨かしらねぇ」
政恵だけは一見いつも通りの表情だが、言葉はきつい。
とまあ、三人共に酷い言い様だったが、普段の寝起きの悪さを考えればそれもまた無理の無いことだろうか。
理由は極々単純だった。
昨夜、約束したからだ。
急いで向かうのは家を出てすぐ、と言うかお隣。
実のところ、聖敬は昨晩寝ていなかった――気が昂ってしまったから。
昨夜、聖敬は作戦対象に逃げられてしまい、WG支部に戻った後、どうにも気が高ぶった彼はしばらくそこでトレーニングをする事にした。
聖敬に襲いかかった一般人だが、細心の注意を使って戦っていた甲斐があり、とりあえず重傷者はいなかった。流石に全員無傷とはいかなかったものの、これはここ二ヶ月程の訓練の成果だと思った。
あの場に姿を見せた武藤零二が同じ相手を追っていた事には驚いたものの、同じくトレーニング中の田島曰く「大方、WDヘのスカウトじゃないの」という言葉を聞き、以前、自分にも誘いをかけた事を思い出す。
そう言えば結局、あれから零二は特に聖敬に勧誘はしてこなかった。
クラスでも特に何も起こらない。仮にも敵対組織であるにも関わらずに、だ。聖敬の疑問に答えたのは進士だった。
「ああ、九頭龍じゃ、基本的にWGもWDもお互いに休戦状態なんだ。敢えて問題を今、起こす理由がない」
以前も確かそういう話を聞いた様な気がしたが、改めて何故そういう展開になったのかは聞いた事が無かった。
それを尋ねると、進士は途端に渋い表情を作った。
その様子を見て、田島が言っていた事を思い出す。
――進士は九頭龍支部の監視役も兼ねてるんだ。
支部にいる他のエージェントは九頭龍所属である中、進士は未だに日本支部所属とされている。
その事で、支部の人々は最初はあまりいい顔をしなかったそうだ。
進士は、他のエージェントとは違い、ある程度の機密情報にもアクセス出来る権限を持っているそうだ。
その為に、他のエージェントが知るはずの無い情報も把握しているらしい。
「分かったよ、話せる範囲でなら教えるよ」
進士は聖敬の真剣な眼差しに根負けしたらしく、話を始める。
「いいか、俺もこの件の全容は知らない。……その上で知ってる事は教える……いいか?」
「ああ、分かった」
進士は周囲を伺い、「場所を変えよう」と言う。
その後を追い、辿り着いた場所は、情報管理費室。
ここには、九頭龍支部のネットワークが集積されている。
びっしりと所狭しと並ぶ無数のPCに回線。
常に全ての機器が稼働しており、電子音が常に聞こえる。
「ここなら、誰かが聞いている可能性はほぼ除外出来る」
進士が言うには、この部屋には防音及びに盗聴対策がきっちりしているそうで、だから内緒話には都合のいい場所だそう。
「俺もこの件の詳細については知らない。それは承知しててくれ、いいか?」
聖敬は黙って首を縦に振る。
「この休戦はそもそもいつからなのか? それがハッキリしない」
「……どういう事なんだ?」
「言ったままの意味さ、正式に休戦協定が締結された訳じゃないって事だ。前の支部長は締結しようと動いていたんだけどな。
あくまでも休戦【状態】って事だよ、お互いの組織が自主的にな」
「何で九頭龍だけそういう事になるんだ?」
「さあな。何らかの理由はあるとは思うが、いかんせん開示されてる情報は少なくて、な。悪い」
結局、詳しい事情については何も分からずじまいで、それ以上は何を聞こうがはぐらかされた為、聖敬は今一つ釈然としなかった。
そうこうしている内に、もう帰りなさい、と支部長の井藤に言われ家路についたのは二十二時。確かに遅い時間だと思った。
家族には友達と遊ぶとは伝えておいたが、高校生が帰るには正直遅い時間。
(こりゃ、怒られるかもなぁ)
思わず苦笑しながら、頭を掻いていた時だった。
ピピッ。
何の飾りも無い、初期設定のままのメールの通知音。
「誰だろ?」
そう言いながらスマホに届いたメールの内容に目を通す。
――明日だけど、一緒に行かない?
それは幼馴染みで同じクラスの女子、おまけにお隣さんの西島晶からの誘いだった。
「え、マジで?」
聖敬は驚きつつも慌てて返信する。返事は勿論、いいよ、だ。
晶からの返信もまた早かった。
――じゃあ、ちょっと行きたい所あるから早いけどいい?
聖敬に断る理由など無い。すかさず返信。大丈夫だよ、と返信。
そういうメールのやり取りの末、今日の今。朝七時に西島家の玄関に彼は立っていた。
結局、昨晩の遅い帰宅については家族は特に聖敬を怒りはしなかった。ただ、妹の凜には「彼女とデート?」とおちょくられた。
「え、えーと……」
時間にはなったがまだ晶は出てこない。待っていても仕方がないそう思い、聖敬は意を決してインターホンを押す。
ピンポーン、とチャイムが鳴る。
「はーい」
そう言いながら、ドアを開いたのは西島迅。晶のお兄さんで、唯一の家族。両親は十年前に自動車事故で亡くなった。それ以来、この西島家には晶と、十歳離れた兄の迅だけがこの家の住人だった。
「おや? 久し振りだね聖敬君。ヒカに用かい?」
迅は穏やかな雰囲気を纏った人で、聖敬にとっても身近にいる理想の大人だった。近所付き合いもよく、人当たりもいい。
「おーい、ヒカ。聖敬君が迎えに来たぞ」
迅の声に上から「はーい」と声が聞こえる。
晶はまだ寝起きだったららしい。白のシャツとホットパンツ姿で、のそのそ姿を見せる。
「はぁーあ、お兄ちゃんおはよ。……あれ? キヨ」
「あ、おはよ、ヒカ」
聖敬は思わず目を反らした。子供の頃は何も思ってはいなかったが、今こうして幼馴染みの女の子のホットパンツ姿を見るのは色々と刺激的過ぎる。微妙な沈黙が起きた。
「お兄ちゃん、起こしてよぉぉぉぉぉ」
その沈黙をぶち壊したのは晶。慌てて部屋に戻る。
「ははは、起こしたぞ、ヒカがまだあと五分って言うから」
上からは、もう、という晶の慌てる声が聞こえる。
バタバタと忙しなく足音が響き渡る。
「――まぁ、ここにいつまでもいるのも何だし、上がってよ。あの様子じゃ今から二十分はかかるしさ。いいだろ?」
「あ、はい」
聖敬はその言葉に従って何年か振りに家に上がった。
西島家のリビングは、一言で言えば質素だった。
二人暮らしだから、置いてあるのは最低限の物だったのだが、綺麗に整っている。写真立てには四人でハイキングに行った時の写真。確か、この時星城家も一緒に行ったはずだった。
「ああ、その写真。十四年前だね」
懐かしいなぁ、と言いながら迅が淹れたてのコーヒーを出してくれた。久し振りに飲む、そのコーヒーは鼻孔を程よく刺激して、聖敬はこれだけでもここに来た甲斐があったと思えた。
「それにしても、こうして聖敬君と話をするのもほんと久し振りだね。どうなんだい?」
「ん、え? ……何がです」
「ヒカに告白はまだなのかい?」
「……へ、ぶしゅっっっ」
思わず口に含んだコーヒーを吐き出す。迅は、ははは、と笑いながらタオルを渡す。
「バレバレだよ、僕は二人はお似合いだと思うし、キヨ君なら安心だ」
「そ、そんな。僕は、その……」
思わずあたふたする少年を見ながら迅は穏やかに微笑んだ。
そうこうしている内に「どうかしたキヨ? 顔が赤いよ」と、晶が仕度を終えたらしく、リビングに降りてきた。
彼女の服装は、白のTシャツと同じく白のロングチュニックにキュロットパンツは黒、それにスパッツを合わせていた。活動的な彼女らしく、動きやすさを重視しているらしい。それでも充分に可愛く見える。
「じゃ、じゃあ行こうか」
それを幸いとばかりに慌てて席を立つ聖敬に迅が耳元で囁く。
「応援してるからね」
そう言うと理想の大人はニコリと笑ってみせた。
「――ヒカも朝弱いんだな、安心したよ」
「キヨ程じゃ無いけどね」
言い出した自分が寝坊した手前、晶は少し罰が悪そうに笑う。
聖敬は正直言って嬉しかった。こうして二人出歩くのは一体いつ以来だろうか。こうして彼女の笑顔を間近で見るのはいつ以来だった?
いい気分で目を閉じて耳を澄ますと、聞こえてくるのは蝉の鳴き声。梅雨明けももう近いのだろう。
思えばあっという間にもう七月。もう二週間もすれば夏休みだ。そんな事を考えている内に、寄り道の場所に到着した。
「いい、キヨ。……行くよ」
晶は真剣そのものだった。
「ヒカ、早起きはこの為なのか?」
聖敬は半ば呆れ気味にそれを見ていた。
晶は、とーぜん、とだけ言うと待ち受ける”戦い”を前に入念にストレッチを始めた。
学園前駅すぐそばにあるパン屋通り、通称”小麦通り”には大勢の人が集おうとしていた。全員、同じ戦いの為に来たのだ。
ここでは、土日の朝八時からの恒例行事がある。
それは、九時までの一時間だけ全てのパンが百円というタイムセール。
普段は、買えないあんなこんななパンも並んでさえいれば百円。
そういう学生達、主婦、果ては近所の子供達、と大勢の修羅がその時の始まりをじっと待っていたのだった。
「な、なぁ、ここまでして……」
「キヨ、私はどうしても知りたい。未だまみえぬ新たなパンを。
――あの店にはまだ知らない出会いがあるの」
「い、いや、そこまで真剣にならんでも……」
「これは戦いなの、互いのお目当てが何かを探りつつ、先手を打たないと勝てない。キヨと私はある店に入る、目的は――」
晶が言いかけた時だった。
「――目的はなンだってンだ?」
その声の主は悠然とそこに姿を見せた。
ツンツンした短髪にフードつきの緑のタンクトップ。下はダメージジーンズで、左膝から下はない。それから今日は珍しく帽子を被っている。
その好戦的な目は聖敬にではなく、真っ直ぐに晶に向けられていた。
相手を認識した晶が言う「来たわね、悪魔」と。
それに対し「おいおい、悪魔とは酷いンじゃねェか……女王さま」と零二は返す。
二人は互いに不敵な笑みを浮かべる。まるで、長年の好敵手を見るようなその視線に聖敬は、唖然とする。
「あ、あのさ。たかがパン屋さんの特売なんだ……」
「「たかがじゃない」」
二人は同時に吠え、思わず聖敬は怯む。そこにいた二人の修羅からは、まるで古強者の様な威厳すら漂う。
どうやら、二人はこの中では有名人らしい。周囲から声が聞こえる。
「おいおい、悪魔と女王だぜ」
「マジかよ、今回は二人ともいるのかよ」
「絶対、奴らと同じ店に入らないように祈ろうぜ」
しかも、それは悪名らしい。
(何したらこんな言われ様なんだよ)
問題児である零二はともかくにも、幼馴染みまでそう言われているのに呆れるしかない。
「二人がかりたぁ……へっ、そこまでして欲しいってワケか。いいぜ、なりふり構わねェその執念、嫌いじゃないぜ西島ッッッ」
「負ける訳にはいかない、分かってるでしょ……武藤くん」
まるで、戦友みたいなノリで会話する二人の様子を見る限り、二人は、どうやら互いに敬意を抱いてもいるらしい。
互いにふふっ、と軽く笑うと離れる。
「いい、ワタシは奥にある【御喜家】で名物のカレーパンを買うわ。キヨには通りの真ん中にある【笹木パン工房】でメロンパンを三つよ。ライバルは多いわ、充分に気を付けて」
晶はそれだけ言うと、反対側に移動した。目的地に一直線するつもりらしい。いつもとは違う、真剣な眼差しを向け、口を真一文字に結ぶ。
「言っとくが、オレは誰にも負けねェ」
入れ替わる様に零二がそう言う。その目は全く笑っていない。以前戦った時よりも真剣そうに見える。
「いや、勝つとか負けるとか大袈裟じゃ……」
「……言っとくぜ、この戦いでそンな甘い考えは通用しねェ。……痛い目を見るぜ、お前」
聖敬の言葉に被せる様に、即座に言葉が返ってくる。
「イレギュラーは使わないでくれよ」
こう言うのが精一杯だった。
「バッカ、ンな事すっかよ。これでも一般人には使わねェンだ」
問題児が口角を吊り上げると、ビービー、というアラーム音。零二のスマホが鳴ったらしい。
おっと時間だ、と言いながら問題児は距離を取る。
誰が言い出したのではなく、その場の人々が同時にカウントダウンが始めた。
「十、九、八……」
それと同時にこの場を覆う空気が一変した。
さっきまでのお祭り気分の緩い感じから、張り詰めた緊張感に満ちた空気へと。
「……七、六、五……」
その場にいる人々の目の色が変わっていく。
まるで、フリークとの戦いの様な雰囲気になっていくのを肌で感じる。
「……四、三、二……」
いよいよ、その時が迫る。
全ての人々が前傾姿勢を取り、飛び出せる様に構える。思わず聖敬まで緊張してきたのか、手に汗が滲む。
「一…………零ッッッ」
戦が始まった。
規制の為のロープが取り払われると同時にその場の空気が弾ける。
誰がそう言ったわけでもない。でも、誰もが心の中で「ゴー!」という声を聞いた。
うわあぁぁぁぁッッッ、という声が響き、パン屋通りに人の波が襲来――それぞれに狙いの店に殺到していく。
そして。
「はぁ、す、すごかった」
聖敬は溜め息を付く。
まさに初めての体験だった。
大勢の人が駆け抜けた小麦通りから特売品が売り切れたのは開始から二十分。
晶はその小柄な体格を活用し、隙間を駆け抜けていった。
零二は明らかに体格で負けているにも関わらず、巨漢相手に正面からぶつかりながら、しっかりお目当てのパンをゲットしていた。
よくよく見ると、不利だと思われる子供達はすばしこく、すいてる店の前でパンをゲットしていたし、お店も十分程で追加のパンを並べ出す等の手法で、来たお客さんに全くパンが行き渡らない、という事態を避けていた。
聖敬も最初こそ周りの空気に圧倒されたものの、そもそも身体能力で明らかに一般人から逸脱していたのが幸いし、晶が注文していたメロンパンを無事にゲットしていた。
「キヨ。どうだったー?」
晶が駆け寄って来るのが見え、振り向くと思わず仰天した。
持てる限りのパンを買った様で、持ち込んでいたエコバックはパンパン、とても一人で食べる量には見えない。
「うん、買えたよ。にしても……」
凄いね、としか言葉が出ない。そのエコバックはズッシリ重い。
「どうやら今回はワタシの勝ちね」
晶は、向こうにいたもう一人の修羅に声をかけ、勝ち名乗りをしていた。
当の、修羅こと零二はへっ、と鼻を指で弾く。
「いいや、オレの勝ちだねッッッ」
そう言うと、後ろに隠していた真っ赤なエコバックを相手に見せつける。
「いいか、見ろ。この限定二個しかない特製あんパンを――それからこのメガツナサンドを!」
聖敬にはイマイチ分からないが、それはどうやらかなりのレアなものだったらしく、晶は地団駄を踏んでいる。
それを満足気に見ている零二だったが、好敵手の反撃に次の瞬間には表情を急変させた。
「これを見なさい」
晶がエコバックから取り出したのは、カステラだった。
「そ、そいつは小麦通りの名物の特製黒カステラか――!! 毎回何処で出るか分からない品をゲットしやがるだとぉ……くっ」
今度は零二がきぃぃ、と悔しげに声をあげた。
(うん、何て言うか、平和なんだな)
何とも力の抜ける修羅二人の戦利品自慢対決に呆れていると、「おい」と突然声をかけられた。
「で、キヨ。この勝負、ワタシの勝ちだよね?」
とは晶。ドヤ顔でそう尋ねる。
「いンや、オレだね。……だろ?」
零二は自分が負けるはずがない、と言いたげに鼻を高くしていた。
「「で、どうなんだ?」なの?」
正直、どうでもいい。思わずそう言って聖敬は二人に責められた。
◆◆◆
戦いが終わり、聖敬と晶は再度歩き出す。
エコバックは聖敬が肩にかけ、手にはカレーパン。
晶も同じ物を手にして頬張っている。
まだ温かいそのパンには、ほくほくしたジャガイモが入っていて、とても美味しかった。
残った大漁のパンはこれから向かう先で食べるらしい。
「どうだった?」
そう尋ねてきた晶の口にはカレーがちょっと付いていた。
思わず笑ってしまう。そして一息付くと聖敬は答える。
「結構楽しかったよ、大変だけどさ」
でしょ、と笑う幼馴染みの笑顔は眩しくて、こんな時間が続けばいいな、と心底思えた――そんな時だった。
「……ね、最近大丈夫?」
「えっ?」
不意にかけられたその言葉に、思わず聖敬は横を歩く幼馴染みの少女の顔を見た。
その眼差しは真っ直ぐに少年へと向けられている。
「だ、大丈夫さ。何でそう思うのさ?」
「キヨが何だか最近、前と違うからかな」
そう言葉を返す少女の目には、憂いの色が浮かんでいる。
その時ふと、十年前の事が思い出される。そう、あの事故直後にしていた事が思い出されていく。
あの事故は高速道路のSAで起きた。突然、大型トラックが暴走し、駐車場にいた大勢の人を轢き殺した。
聖敬を始めとした星城家は駐車場にいなかったから無事で済んだものの、西島家は兄の迅と妹である晶はトイレに行っていて無事で済んだが、二人の両親は車毎潰され、帰らぬ人となった。
その巨大な鉄の塊が赤く染まっていたのを、今でも覚えてる。
晶はそれをただ見ていた、その”目”はただ鉄塊を見ていた。
事故以来、晶はショックの余りに塞ぎ込んでしまい、全く外に出なくなった。
何度となく聖敬は隣の家にいる幼馴染みを元気付けようと試みた。
晶が大好きなお菓子を持っていって失敗した。
当時、家で飼っていて彼女がお気に入りだった犬のマーチを連れて行ったが入れない。
自分が一番気に入っていた玩具を持っていっても失敗して、どうしたらいいのか分からなくなり、とうとう聖敬まで塞ぎ込んでしまった。
そうしたある日の事だった。
ふと思い付いた聖敬は、窓を開けて歌を歌った。
今となってはその時に何の歌を歌ったのかはもう覚えていない。
当時、子供番組で流行った歌だったと思う。
その歌は嫌な事があった時に二人でよく歌ったから。
精一杯歌った――隣の家のあの子に届く様に。
そして……窓が開いて、そこから顔を出したのは自分が大好きなあの子の笑顔だった。
二人は窓から顔を出して大いに歌った。心からの笑顔を浮かべて、互いを見つめて。
その時だった、自分がこの子を本当に好きだと気付いたのは。
この子の傍にいたい、そう思った。
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと夜更かしをし過ぎただけだし」
仕方がない、嘘を付くことになったけど。
彼女に本当の事なんか言えないから。
本当に大事に思えるから、この子には決して知られたくない。
自分がもう、普通の人間じゃない、と。
それにもう二度と巻き込みたくない。
その思いが一番大事な女性に対して嘘をつかせた。
「そう……ならいいんだ」
晶はそれ以上追及してこなかった。
(それにしても……)
聖敬は思う。何故、あの事故を思い出したのか、を。
晶はただ、自分の今の事を心配していただけなのに。何故?
(たまたまかな、そうだよ。久し振りにヒカとこうして一緒だからだな)
そう思い、浮かんだ疑念を追い払った。
◆◆◆
そうして、目的地である九頭龍学園に足を運んだ。
二人は高等部の校舎に向かう。休日でも学園には大勢の生徒がいる。敷地内の寮で暮らす者もいるし、敷地内にあるコンビニや、図書館に用事のある一般人もいる。
学園には、いくつかの”門”があり、それぞれに警備員がいる。
そこを通るには、個人認証可能な身分証が必要。
主に免許証とか、パスポートとかである。
いちいちそれを目視で確認はしない、身分証を持っていれば、スキャナーが自動的にそこにあるデータを読み取れるから。
聖敬や晶といった学生の場合は学生証がその役割を果たす。だから、学生証を忘れると、大変な事になる。
門で身分確認が終わるまで中に入れてもらえないからだ。
そうして遅刻になる生徒も意外と多い。
聖敬も去年、一度それで遅刻したのだ。
二人は、いつもの教室に入る。すると、そこにいたのはクラスメイト達。人数は大体半分の二十人といった所だろうか。
「「おはよ」」
二人の挨拶に視線が一斉に向けられ、途端にヒューヒュー、と冷やかしの声が入った。
「デートかよ」
「いいなあ、私も彼氏欲しいなぁ」
勿論、悪意があるのでは無く、いつものちょっとした冷やかし。
「い、いや、こいつはそんなんじゃないよ」
思わず聖敬は反論してしまい、横にいたそいつに視線を向ける。
「ハイハイ、さっさと仕上げようよ」
晶は特に気にするでもなく、クラスメイトの輪に入っていく。
「はぁ、何やってんだろ、俺」
小さく呟いていると、そこに突然の体当たり。
「おはよッス、キーヨちゃん……今日は早いなぁ」
田島が突進してきたらしい、手には職員室から借りたらしい、マジックがどっさり入ったカゴを持って。
「仕方ないだろう、彼女に誘われたらウキウキもする」
その後ろからは進士がマイペースにやって来た。彼は今、来たらしい。
何故、休日にクラスメイトが教室にいるのか?
それには理由がある。
九頭龍学園の創立祭が、一週間後にあるからだ。
創立祭は、毎年七月のこの時期に行われる学園最大の行事だ。
小等部や中等部は歌を合唱したり、創作劇を学園の大ホールで披露するのが恒例。
高等部や大学部については、店を出したりするのも許可されていて、各々が出店を出店する。
この時期は学園中が迫る一大イベント一色になるのだ。
ちなみに、このクラスではお好み焼きの屋台を出すことになっていて、今日はまずその為のレシピのチェックと、後で実際に食べてみてどれをメニューにするのかを決める予定だった。
「みなさん、おはようございまス!」
元気よく入ってきたのは茂美エリザベス。
輝くような金髪に白のブラウスに襟にリボン。ラッフルスカートに黒のストッキングといった装いは上品かつ可愛く、まるでモデルの様に見えた。
思わず、おおー、というため息がクラス中に響く。
「す、凄いな」
田島は見入っている。
「これは、いい」
進士も呟きながら写真を撮ろうとしている。
「お人形さんみたい」
「我がクラスは凄いな、委員長に晶ちゃん、そしてリズ……レベル高いぜ」
「同じクラスで良かったぁ」
「やだー、男子の目がやらしい」
と、すっかり本来の趣旨を忘れつつあった、クラスの空気を変えたのは「ハイハイ、そこまで。もういいでしょ!」と声をあげる委員長の怒羅美影だった。服装は白いポロシャツに膝までのボトムでスポーツでもしに来たようなスポーティーな印象。
彼女の艶やかな腰まで届く黒髪は今日はポニーテールになっている。眼鏡を外せば顔立ちの良さもあり、ちょっとやそっとの女優顔負けだろう。
「せっかく皆集まったんだから、まずは屋台のメニューに集中!」
その仕切りにワイワイ言いながらも、クラスメイトは本題に立ち戻った。
そこで聖敬は見た。晶があのメロンパンを委員長に手渡すのを。
どうやら、彼女があのパンを欲しがったらしい。満面の笑顔を見せている。
何だかんだと意見がたくさん出た末の試食。その間食に晶は買ってきたパンを大盤振る舞い、皆大喜びの中、こうしてあっという間に昼は過ぎていく。
「しっかし、楽しいなキヨちゃん♪」
田島の言葉が全てだった。聖敬は心底思った、この瞬間を守りたい、と。そして、何よりもクラスの中心で笑う幼馴染みのあの笑顔の為に、自分の力を尽くそうと。
◆◆◆
その頃、WG九頭龍支部はちょっとした騒ぎになっていた。
突然の施設訪問者を受けていたからだ。
その人物は百九十センチを越え、体重も恐らくは百キロ程。引き締まった身体をしている。
その装いは、スキンヘッドに顎には無精髭。それからサングラスに高級時計、高級スーツを身に纏った姿はどう見ても一般人には見えない。その筋の人間の様な雰囲気を漂わせている。
だが、彼はこの支部、いやこの九頭龍そのものの”出資者”の一族の一員であり、無下に出来る人物では無かった。
迎えに出た井藤が手を差し出すものの、男はそれを無視して病院に偽装した九頭龍病院の南棟に入った。
「ふん、なかなかに金をかけている」
しばらくの間、支部を見学した男は顎を親指で触り、ジョリジョリと音を立てる。
「だが、所詮表に出れぬ組織だな、くだらん」
つまらなそうにそう言うと、さっさと支部から大股に出ていく。
それを見送る井藤はふぅ、と思わず溜め息をついた。
「……困ったお人ですね。いつもあんな感じなのですか?」
肩が凝った伸ばしつつ、小声で横にいる旧知の人物に聞いてみる。
「ええ、いつも通り不機嫌でした」
家門恵美はいつも通りに冷静に、淡々とそう答える。
普段感情を表に出す事の無い彼女にとっても、彼は決して愉快な人物とは言えない。はっきり言うなら嫌悪するに値する人物といって過言ではない。
その人物、つまり”藤原新敷”。
――藤原一族。
それはかの藤原氏をその祖に持つとされる血筋の末裔とも言われ、この国の歴史の裏に常にいたとも噂され、暗躍してきたとも囁かれる存在。
彼らは長い月日の中でその力を蓄え、ある時期を境に表の世界に姿を見せた。
それまでに培ってきた人脈、力を行使し莫大な富を元手に財閥を造り上げた。
大戦後にその力はさらに拡大、今や動かせる金とそれに伴う権力は世界経済に密接に結び付き、その企業グループはこう呼ばれる。
”藤原コンツェルン”と。
彼らは、この国家戦略特区九頭龍の設立にも大きく関与しており、その莫大な資産を投資、さらにWGの設立にすら資産を提供している、言わば”オーナー一族”とも言える。
その一員である以上、新敷もまた粗略には扱う事の出来ない厄介な存在だ。
「……井藤支部長、だったな」
車に乗り込む直前、何かを思い出した様に男は口を開く。
「ええ、何でしょうか?」
「九頭龍学園に興味がある、至急アポイントを取っておいてくれ」
それだけ言うと新敷は車に乗り込む。
動き出す車を見ながら、井藤は嫌な予感を感じていた。
何かが起こるのでは、という嫌な予感を。
そして、それは間もなく現実の物となるのだった。