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蠢く者

「うっっ」


 進士は意識を取り戻した。まだ頭がグラグラするのか、視線は少しボヤけている。

 どの位、気を失っていたのかは分からない。

 ただ一つ言えるのは、自分は窮地にいると言う事だろう。

 手足はロープで頑丈に縛り上げられている。自力で脱するのは無理そうだった。周囲を見回すものの、ロープを切れそうな物は見当たらなかった。

 そこに声がかけられる。

「気が付きましたか、大丈夫ですか?」

「う、何とか。それより一体何が?」

 進士の問いかけを受けて井藤も問いかけた。

「そうですね、話してはいただけませんか――」

 視線のその先に誰かがいる。それは声をかけられてこちらに向かってくる。

 特徴的な容姿の男だった。身長は一六〇位で、体重は七〇キロ程といった所だろう。だが小太りという雰囲気はなく、引き締まった筋肉が黒のポロシャツ越しでもよく分かる。軽装ではあるが山岳用の服装をしていて、履いているブーツは耐水性に優れた登山用だ。

 だが、一番目を引くのは何と言ってもその髪と髭だ。伸び放題とはまさにこの事かと言うべきだろう、真っ白なそれは何年もまともに手入れもしていないらしく、何処か浮世離れした印象を与える。

「WG飛騨支部長の黒岩くろいわ森厳しんげんさん」


 かけられた言葉にその男、黒岩森厳は微かに歩みを止める、だがすぐにツカツカと大股に近付くといきなり井藤の顔面を蹴りあげる。

 手足を拘束され、無抵抗の井藤は成す術なく転がった。

 続けて進士も同様に腹部を蹴られた。

「ぐうっ」思わず呻き声をあげる進士は、その人物が履いている登山用のブーツを目にし、この男が間違いなくさっきの襲撃者だと理解した。


「ほう、私の顔を知っているとは」

 井藤が自分の事を知っていたと分かり、その男――黒岩森厳は感心したらしい。少しその表情を歪めた。

「それは当然でしょう、今回の件で最も疑わしい人物だったのですから」

 その言葉に森厳はピクリ、反応した。その言葉を口にした井藤へとズカズカ歩み寄ると、倒れている相手の身体を無理矢理引き上げる。そして腹部に膝を叩き込む。

 かはっ、と言いながら井藤の身体は九の字に歪む。

「ほう、私が疑わしい、だと?」

 そう耳元で囁くと、井藤を無造作に放り投げ、問いかける。

「どうしてそう思った?」


 井藤は膝を叩き込まれた腹部が痛むのか、しばらくその場で悶絶していた。だが、やがて収まったらしく、ゆっくりと壁に寄りかかりながらその身体を起こした。

 ふぅ、とゆっくり深呼吸をしながら痛みの原因である相手へと鋭い視線を向ける。

「やれやれです。死ぬかと思いましたよ」

「ふん、マイノリティが只の膝蹴りで死ぬものかよ。……いいから話せ。時間は気にしなくていい、私にはたっぷりあるからな」

 森厳は椅子に座る。そのキャスターを滑らせ、井藤の目の前で止まる。

「まず、私は元々あなたとは面識があったんです」

「……そうだったかな?」

「ええ、一年前に日本支部で行われた各支部長を集めての会議で。私は警護として参加していました」

「なるほど、君にあった記憶は無いが、確かにあの会議場の警護は戦闘部隊ストライクが行っていたな。それで君はその一員、それなら君とも会っていてもおかしくは無い」

「あなたは休憩時間にたまたまそこにいた私にこう言いました。

【こういう堅苦しい場所は苦手】だと」

「あぁ、そう言えばそんな事もあったな――」

「――嘘ですよ。それで…………あなたは誰ですか?」

 井藤は鋭い視線を森厳と名乗る人物に向けた。

「…………」

「実際には、私があなたと会ったのは【半年前】。私用で休暇中に飛騨支部を訪ねた際に話をさせてもらったんです」

「………………かっ。はははははっっ」

 森厳は沈黙を破り、哄笑。その表情を大きく歪めた。

 薄暗い室内にその笑い声がよく響く。

「流石は日本支部の直属部隊にいただけの事はあるようだな。こういう駆け引きも出来るとはな。いや、すまん。みくびっていたよ」

 ははは、と更に笑い声を轟かせるその男と睨みつける井藤。


 そのやり取りを見た進士は心底驚いた。

 一見、頼りなかったあの支部長がここまで出来る人物だった事に。依然、不利な状況には変わりがない。だが、井藤がおおよその察しをした上でここに来たのなら、何らかの算段は用意されているのかも知れない。

「それで、ここから先の事だが……考えているのかね?」

 ひときしり笑い終えたらしく、森厳は敵に視線を向けた。さっきまでの様な余裕に満ちたそれとは違い、今度は敵意を剥き出しに。

 その手や足はあらゆる事態を想定しているのだろう、いつでも動ける様に油断なく身構えている。

「ところで、君のイレギュラーだが、あれはどういうシロモノだね? 私も君については調べたんだ。

 だが、支部長権限での検索でさえ、君のイレギュラーについては明らかに出来なかった。これは異例だよ、そこまで保護されているとはね……」

「……それで、外で【犬】をけしかけたんですね?」

「ほう、気づいていたか?」

「えぇ、本物の森厳氏にお会いした時に彼は一匹の【犬】を常に連れていましたから。

 彼の通称コードネームは【フォレスト猟犬ハウンド】。その名の通り、一匹の猟犬を操作する空間操作能力エリアコントロール人形使ドールマスターいの併用と伺いました」

「ならば、同じじゃないか。私も同じく犬を使役するイレギュラーを持っているのだ。何故、疑う?」

「同じではありませんよ。あなたのは【無数の犬】を使役する言わば傀儡としての操作能力。森厳氏のそれとは似て非なるものです。彼のは、もっと強力でした。いつから入れ替わったのですか?」

「ははは、これは参ったよ。もはや、これまでか、な」

 その時だった。

 いつからそこにいたのか、突如それは姿を見せた。

 数匹の野犬がいきなり飛び込んできたかと思うや否や、森厳を名乗るその男の周囲を囲んだ。

 そうして、その周囲をクルクル回りながら、いつでも襲い掛かれる様に姿勢を低く保っている。

「さっきの野犬」

 進士が思わず唸る。

「そうだ、先程は小手調べに少し試してみたんだよ進士君。

 それにしても君はなかなかの曲者だと聞いていたのだが、思った以上に何も出来ないのだな? 確か、視えるんだろ、未来が?

 ま、いいさ。何も出来ないならそのまま大人しくそこで死んでくれ」

 森厳だった男はそう言うと、ピュウ、と口笛を鳴らす。

 それを契機に野犬の一匹が唸り声をあげながら進み出る。

 そうして、その首をクルリと回し――飛びかかってきた。口を開き、鋭い犬歯を剥き出す。狙いは井藤。その喉笛目掛けて一直線に向かっていく。

(さて、見せてもらおうか)

 森厳だった男は敵の動きを……能力イレギュラーを見極めようと油断なく目を凝らす。


 ギャン、襲いかかった野犬は叫びながら床に落ちた。

 その身体はピクリとも動かず、悪臭を漂わせ、肉が徐々に溶けていく。

 同時に空気が変わったのを進士は身体で感じた。

 それまではここは地下らしく、何処か涼しげなひんやりとして、埃っぽい空気だった。

 それが一気に変わった。

 涼しげだった温度は俄に湿気を帯びている。漂うのは生き物が腐っていくねっとりした腐臭。

 そして、いつの間にか手足を頑丈に縛られていたはずの井藤が立ち上がり、何事も無かったかのように手足をプラプラさせている。

「これはこれは、驚いた」

 森厳を語る男は感心したように大仰に両手を広げた。

「ようやく確信出来たよ、君は【毒】を使うのだな。だが……」

 そう言って、その場から飛び退く。

 それに合わせてピュウ、と再度口笛を鳴らす。

 すると身構えていた野犬達が一斉に井藤へと襲いかかっていく。

「……一斉にかかればどうかなぁ?」


 進士は見た。

「かはああああ」

 井藤は息を大きく吐き出すのを。その息は冬でも無いのに白く湯気が見えた。

 そして、その息はみるみるその色を白から禍々しい紫へと変色していく。

 それがどういう性質なのかは本能的に理解出来た。

 紫のそれは井藤の周囲をうっすらと覆う。そこに野犬が飛びかかり――即座に地に伏していく。いずれもそのまま微動だにする事も無く、絶命していく。井藤は呟く。

「無駄です、この程度では私に触れる事は出来ない」

 だが、そこに相手の姿はすでに無かった。


「進士君、大丈夫ですか?」

「ええ、大した事は無いです」

「ここのデータをコピー出来ますか?」

「駄目です、セキュリティを突破出来ないので」

「仕方ないですね、ここは破壊しましょう、紙の資料だけでも回収してください。…………その間に、野暮用を片付けます」

 井藤はそう言うと、すっくと立ち上がり部屋を出ていく。

 進士は指示に従い、散らばっている紙の資料をかき集め出した。


「ははは、全く。怖いイレギュラーだ」

 森厳と名乗った男を井藤は追い詰めた。

「もうここからは逃げられませんよ」

 そう言うと出入り口を背にし、敵の逃亡を遮る。

 その様子にチッ、と舌打ちをする男。

「一つ答えてください。いつから入れ替わっていたのですか?」

 井藤はそう問いかけた。

 森厳を語った男は、少しの間沈黙した。だが、その視線は周囲を見回していて、隙あらば逃げようとしているのが見て取れる。

 それを諦めさせる様に井藤は再び、息を大きく吐き出した。

 紫色の靄が今度はうっすらと出入り口を覆っていき、完全に塞ぐのが目に入った。

「仕方ないな、殺し合おうじゃないか」

 やれやれと肩を竦める男。もう、手駒だった犬は一匹残らず、すでに倒した。彼は今、丸腰といっても過言では無い。

 なのに、その表情には焦りの色は伺えない。

 まだ何かを隠している、そう言った態度を隠そうともしない。

 井藤は訝しむが、何もしない訳にもいかない。この男は危険だ、そう本能的に感じる。

「さぁ、何でも聞くといい」

 男はそう言うと歯を剥き……笑った。

 その時に井藤は気付いた。この男の視線が一瞬、上を見た、と。

 嫌な予感を覚え、咄嗟に横っ飛びする。

 すると、そこに何かが飛び降りてきた。

 それは真っ直ぐについ今、井藤が立っていた場所に降り立つ。

「ガルルルル…………」

 唸り声をあげるそれは怪物だった。

 口からは二本の牙が剥き出しになっており、涎がだらしなく垂れている。その両手と足にはフォークのように尖った爪を備えている。

 そして、何よりこの怪物が怪物たる所以は、剥き出しになった胸部にもう一つの口がついていた事だった。

 まるで悪い冗談みたいなその姿は、自然界に決して存在してはいけない事を確信させるに充分な、醜悪な物だった。

 井藤が息を吐こうと口を開く。しかし、怪物の体当たりが胸部を直撃。そのまま勢いよく壁に叩き付けられ――床に転がる。

「かはっっ」

 呻く井藤の腹部を森厳を語る男のブーツがめり込んだ。

「さて、これで形勢逆転だ。あの毒を吐ければ吐くといい。

 最も、息継ぎが出来るならな」

 グリグリとブーツの靴底を動かす。井藤の腹部が圧迫され、息を出来ない。

「私のイレギュラーは生きた動物の操作だ。最も、マイノリティを操るのは厳しくてね。だから、知能の低い相手をこうして操るんだよ。

 ちなみにこの怪物君だが、これはここでの実験の失敗作だったそうだよ。……何でも一般人と、イレギュラーに目覚めた狼との合成を試みたらしい。

 結果はご覧の通りで、知能など無い化け物だ。だからこそ、こうして意識を乗っとる事も出来たのだよ。わざわざ君たちをこの研究所にまで呼び寄せたのは、これを開放するのに少々時間が必要だったからに過ぎない」

 カチャリ。

「でも、あんたを撃てば事態も変わるんだろ?」

 進士がそう言いつつグロックの銃口を敵に向けた。

「そう言えば、もう一人いたんだな。忘れていたよ、すっかり」

 ははは、と男は笑った。自身に銃口が向けられているにも関わらず、相変わらず全く焦りの色は無い。

「撃ちたければ撃てばいい、私は構わんさ。

 ――別にこの身体が無くなっても困りはしないのだからね」

「どういう意味だ? それ」

 進士は問いかけ、男は満足そうに表情を歪めた。

「そのままの意味だよ、この身体は言わば借り物に過ぎない。そういう事だ」

 男は何て事の無い、そう言わんばかりに笑った。

「だ、から、ですか?」

 井藤が息も絶え絶えに言葉をかける。

 男はそうだ、と言い肯定する。

「この身体は紛れもなく黒岩森厳の物だよ。だからこそ、私がこうしてWG飛騨支部に入り込んでも誤魔化せた、そういう訳だよ」

 驚く二人の表情が楽しくて仕方が無いのだろう、笑顔を浮かべる。進士は信じらない、といった表情で呟く。

「そんな事が可能なイレギュラーなんて聞いた事も……」

「いや、もう知ってるだろう? その答えをな。正確にはイレギュラーではなく【システム】を、ね」

 男の言葉に、進士はハッとした。さっき見た資料にそれは書かれていた。

「……マリシャスマース」

 その言葉に満足したのか、男は大きく頷き肯定した。

 そしてまるで、子供に言い聞かせる様にゆっくりと言う。

「良く出来ましたねー、そうですよ。マリシャスマースの一人。それが私の正体なのです。

 だから、この森厳の肉体が殺されようが、私の本体が無事である限り本当の意味で死ぬ事にはならない。

 まぁ、尤も他の連中とは違って私の場合は【自覚】があるから死なないのだがね。

 他の連中は、自分こそが本物のマリシャスマースだと信じ込まされている。バカな連中さ、マリシャスマースに本物も何も存在なんかしやしないって言うのに、ははははっっ。奴等は自覚も無いから、借り物が死ねば自分自身もショックで死ぬだろうさ、全く……」

 愚かな連中だ、森厳を語った男はそう小馬鹿にした様な笑みを浮かべた。

 進士は井藤の表情を見てゾッとした。

 驚く程に冷たい、醒めた目をしていた。

 敵もそれを見たのか、少したじろぐ。こほん、と咳払いを入れて気を取り直す。

「 ……さて、些かしゃべり過ぎてしまったな。もう、知りたい事は話しただろう? そろそろ死ぬといい」

 男は口元を真一文字にすると、わざとらしく人差し指でシー、と言う。そして、井藤を踏みつけている左足を上げる。入れ替わりに右足でその顔面を蹴り「死ねっ」と叫んだ。

 怪物がほとんど瞬時に進士の懐に飛び込んでいた。早い、そう思った時にはその鋭く尖った右の爪は腹部を貫く。

 かは、と声にならない声と共に血を吐き出す。無造作に爪を引き抜いた怪物は左腕を振るう。強烈なラリアットが顔面を直撃。進士は倒れた。

「これで、彼はしばらく戦闘不能だ。だが」

 男が言い終わる前に怪物が井藤へと標的を変える。

 さっきと同様、素早く距離を詰める。そして右足を振り上げ――一気に踏みつけるべく降ろす。

 グチャリ、気味の悪い音がした。

 それは傍目から見ていたなら、怪物が井藤を踏み潰した音だと判断するだろう。現に右足は振り下ろされたのだから。

 だが、それは違った。その音の正体は、井藤からではない。

 不自然に曲がった怪物の右足だった。細い木の枝でも折れたかの様にあっさりと足首から先が半ば”溶けている”。

 男は「バカな」と驚く。同時に危険を感じ間合いを取る。

 怪物も同様に後ろに飛び退く。

 シュウウウ、と音を立てて右足の溶解が進んでいく。男が舌打ち混じりにピュウ、と口笛を鳴らす。それを受け、怪物は右手で自分の右足を膝までで切り落とす。グラリ、と姿勢を崩し、両手を床に付け三本足で身構える。

 悠々と井藤が立ち上がる。男も、進士も互いに一瞬、見間違えたかと思った。

 井藤の姿が変わっていた。さっきまではどう見ても重病人の様な顔色だったというのに。

 その肌は血色の良い肌色になっている。

 それだけでは無い。痩せぎすだった見た目まで変貌している。

 みるみる内に五十キロ程だったのが、七〇キロ程に増量した。

「な、何だと?」

 男が呻いた。井藤は服に付いた泥を叩いている。

 その様子を見て「舐めやがって!」と怒気を露にした男はピュウウ、と口笛を大きく鳴らす。

 怪物は三本足でもその俊敏さを損なってはいなかった。肉薄し、牙で喉笛を咬み千切ろうと口を開く。

 だが、それは叶わない。井藤は右手を翳し、怪物の全身が瞬時に溶けていく。

 だが、男の表情は笑ったままだ。手駒を失ったというのに。


「支部長、上だ!!!」

 声が聞こえ、井藤は咄嗟に飛び退く。上から怪物がもう一体襲いかかってきた。胸部を爪が掠めていく。

「次は右から!」

 怪物が右爪を突き出す。だが井藤はすんでの所で躱した。お返しに左手を翳す。その手の周囲が紫の何かに覆われている。

 その何かが怪物を覆う。即座にシュウウウ、という音と、薬品臭が鼻につき――怪物の身体がボロボロと崩れ、溶けていく。

「そ、そんな何が……」

 呆然とした男は進士に視線を向けた。何が起きたのかを把握出来ず困惑した表情で。


 進士のイレギュラーである”不確実アンサーテンなそのゼア”はその使用条件が難しい。

 そもそも自分自身には使えず、かといって誰にでも適用出来ない。田島も聖敬もこの能力を未来【予知】だと思っているが実際には別物だ。

 見えているのは、正確には相手の未来ではない。

 あくまでも相手が遭遇する可能性のある出来事を無数に予測しているに過ぎない。

 それは、言うなれば赤信号を歩けば、車に轢かれる。そういう類の簡単な【予測】の拡大延長だ。

 それにこれを適用するには、その相手の事をよく【理解】しなければならない。どういう性格をしていて、どんな人間関係を築いて来たのか? それを知らねば、その適用対象がどういう行動に出るのかの予測が付かない。

 無視して予測した所で、相手の事も知らずに出る物は精度が著しく低くなる。

 だからこそ使いどころは難しい。だが、こうして井藤がどういう人間なのかを少しずつではあるが知ることが出来た。

 朧気だった可能性が無数に見え、その中から一番確率の高い予測を選ぶ。それが出来て初めて成立するイレギュラー。

 無数に存在する、不確実なその先を冷静に分析出来る進士だからこその、他の誰にも扱えない能力だ。


「進士君、助かりました」

「いえ、それより……」

「この見た目ですか? これが元々の私の身体なんです。私のイレギュラーは全身から漂う強い【溶解性の毒】です。

 普段はこれを意識して身体に封じているので、反動であんな見た目になるんですよ」

 説明を終えた井藤はさて、と言いつつ残された男へと振り向く。

 男には最早、何も隠し玉は無いのだろう、さっきまでの余裕は消え失せている。

「言っておきますが、殺さない程度にあなたを【溶かす】のも可能です」

 ゆっくりとした動きで右手を近付ける。

「く、来るな!!」

 絶叫しながら男は携帯を取り出す。

「こ、こいつはここを爆破して生き埋めにするだけの爆薬の起爆装置を兼ねている。俺がその気になればお前らなんかここで……」

 男は駆け引きしようと試みた。だが、

「……どうぞ」

 相手は、井藤は脅しに一切動揺していなかった。

「へ? な、何を」

「やればいいでしょう、あなたは死んでも本体は無事なのでしょう? ではさっさとその爆薬を使えばいい、躊躇わずにね。

 それをこうして振りかざす、つまりあなたは使いたく無いのですね?」

「そうか、本体もここにいるんだ」

 進士の言葉に男が動揺を見せた。明らかにその目が泳いでいる。

「あなたの任務はここに近付く者の始末でしょう。

 だったら爆破すればいい…………で、どうしますか?」

 その言葉がだめ押しになり、男は携帯を落とした。

「わ、わかった、何でも聞け。知ってる事は全て話す」

 男はアッサリと降伏した。

「な、何を聞きたい」

 怯えた目を向けながら男は二人を交互に見る。

 まず進士が尋ねた。

「マリシャスマースは簡単に言えばプログラム人格なんだな?」

 その問いかけに男はうんうん、とばかりに何度も首を縦に振る。

「そ、そうだ。擬似的な仮想人格ネットワーク。私もここで調整を受けたんだ」

「誰に?」

「それは……二ノ宮博士だろう。彼にしかこの【システム】は扱えない、そう聞いている。私だけは【研究所】の守備の為に近くに待機していたんだ。それである日、指示を受けた。システムを用いてこの人格を別の器に移す、と」

 男は必死に話す。進士がその様子を見る限りでは嘘は言っていないらしい。尤もあの怪物の末路を見たら当然かも知れない。

「次は私です、半年前に研究施設から盗んだのは何なのですか?

 それからそこで殺された”ガントレット”というWGのエージェントを殺したのはあなた方でいいのですね?」

「く、詳しくは知らない。ホントだ、私は他とは違って独立した存在だからな。ただ、詳しくは知らないんだが、【実験】をしたいらしい。何でも、エリザベスだとか何とかってのを【苦しめたい】らしい。

 ガントレットって奴を殺したのは、多分【ボス】だ。誰なのかはマリシャスマースの誰も知らないだろう。だが何といっても、ボスが研究施設への襲撃を指揮していたのは間違いない、マリシャスマースの意思はボスの思惑でどうとでも出来るんだからな」

 その言葉を井藤は目をつむって聞いていた。一つ一つの言葉を反芻しているのかしばらく沈黙していた。

 だが、やがて一番聞きたかった事を尋ねた。

「森厳氏を殺めたのは誰ですか? ……私の知る限り、彼は強かった。あなたのイレギュラーでは彼を殺せるとは到底思えません。

 答えてもらいますよ」

「そんな事か。ま、まぁいい。森厳を殺したのは【ブッチャー】だ。奴をボスが雇ったらしい、何でもツテがあったそうでな。

 見せて貰ったが見事なものだったぞ、心臓だけを瞬時に抜き出すあの手際……まさに…………ぐぎゃひゃひゃっっガガッッ」

 それは唐突だった。男はその場で倒れる、その全身は感電したように激しく脈動。不自然なまでに身体をくねらせ、悶絶。口からは泡混じりの血を吐き出した。

 何もされていないのに、その胸部にはじっとりとした赤い染みが浮き出ていく。

 男は困惑したままだった。自分に何が起きたのかを理解することなく死んでいた。


「やれやれだ、これだからアマチュアは困る。そう思わないか?」

 声が聞こえた。妙に甲高い声が。

 そこに姿を見せたその人物には、特徴らしい物が無い。

 その身長は一七〇位、体重は六〇キロ程だろうか。

 だが、その目も顔も鼻も、目に見える何もかもが平凡な青年。

 まるで意図的に全てを揃えたかの様に見える。

 ただ、その左手からは血が滴り落ちている。何かを握っているらしい。

「ん? ああこれか、ほら」

 青年が平然と二人に見せたのは、紛れもなく人間の心臓だった。それもまだ微かに鼓動していて、その脈動の度に血が吹き出る。

「綺麗だと思うだろう? 私は人間の内部でこれが一番好きなんだ。こんな小さなものが全身の血流を一手に担っているんだ。

 これを綺麗なまま抜き出し、相手が息絶えた後、元に戻す。

 それだけで、死因は不明、自然死として処理される」

 青年は高揚していた。頬には赤みがさしている様だ。

 進士はこの相手が間違いなくフリークだと確信した。それも途方もなく危険だと。

 ふと、井藤に視線を向ける。

 井藤の表情に明らかな動揺が見えた。その顔は青ざめ、微かに身体が震えている。目には憎しみが滲んでいる。

「お前は――【解体者ブッチャー】だな」

「そうだ、確か君とは初対面だったと思うが……」

「……十年前に、お前は刑事を殺した。私は、その刑事の弟だ」

「ああー、成る程。あの時の刑事さんの家族ね。あれは今考えても良くなかったな…………もっと楽しめば良かったよ、全くね」

「貴様ぁ!!!」

 怒りに身を任せた井藤が毒の霧を相手に放つ。

 ブッチャーは、後ろに飛び退くとピンを抜いた手榴弾を転がす。

 瞬時に床が弾け飛び、井藤はその衝撃で吹き飛ばされた。

「流石に近寄られたらまずそうだからな。ま、そちらのイレギュラーは拝見したからこちらも少しくらいは見せておかないと。

 では――」

 ブッチャーはそう言うと自分が殺した男の心臓を握り潰す。そして携帯を拾うと、迷わずに起爆させた。

「――生きていればまた会おうじゃないか。井藤謙二君」

 ブッチャーはそう言い残すと、壁と一体化していき、消えた。

 我に返った進士は倒れている井藤に駆け寄る。

 気を失ったらしく、動かないその身体を背負うと、急いで動き出す。そして観えた。咄嗟に井藤の身体を壁に投げつけ、自身は崩れてきた瓦礫に呑まれた。



 ◆◆◆



「ううう、生きてたか……俺」

「たりめぇだっつーの、全く無理しやがる」

 進士が目を覚ますとそこは見慣れた九頭龍支部の病室だった。

 田島が笑いながら目を覚ました進士を小突く。結構、痛いのは彼が笑ってはいるが、本音ではかなり怒っているのだろう。

「勝手に出かけたかと思えば、重傷で帰ってきやがって。キヨちゃんにも怒られるぞ、ぜってぇよ」

「そいつは勘弁だ、あいつに小突かれたら死ぬ」

 バツが悪く思わず苦笑いを浮かべる進士に合わせて田島も笑った。久方振りに進士は笑った。まだまだ問題は山積している。

(けど、今位はいいよな)

 そう思いながら。



「すみませんでした、家門さん。危うく進士君を死なせる所でした。…………支部長失格ですね」

 同じく病室で寝込んでいるのは井藤だった。

 こちらは怪我は大した事は無かった。

 ただ、イレギュラーの多用で精神的な疲労が蓄積された為、こうして入院している。ちなみに、今はまた痩せこけて重病人のような姿に戻っている。

「無茶をし過ぎです。あなたのイレギュラーは【負担】が大きいんですから。でも、お疲れ様でした。

 支部長が毒で瓦礫を溶かして、道を開けなければ……」

 家門は珍しく心配そうな表情を見せた。

「これでも上司ですから、それより……」

「……研究所にあったデータはその殆どは修復不可。でも、辛うじて残されていたデータから何かはわかります、【ネットダイバー】は張り切ってましたから」

「それは頼もしいです。由衣さんなら必ず糸口を見つけるでしょうね」

 井藤は、はは、と軽く笑うが、すぐにその表情を戻す。

 家門も分かっている。

「ブッチャー、彼と遭遇したのですね?」

「ええ、情けない事に返り討ちでしたよ」

 手を額に乗せてため息をつく。

 冷静になって浮かんだのは自身の軽率さだった。

 あの場にいた進士を巻き添えにする所だった。

 井藤の毒は、他のマイノリティと同様に感情でイレギュラーの操作精度や威力が変わる。もしも、怒りに身を任せでもすればその周囲全ての生き物を死滅させかねない死を振り撒く毒。

 ”コームやかな執行者パフォーマー”。

 このコードネームが嫌いだった。

 自分のイレギュラーは執行ではなく虐殺にこそ向いているから。

 三年前、覚醒したキッカケを思い出すから。

「でも、次は負けません」

 そう呟く表情には新たな決意が滲んでいた。

「そうですね、皆の力で勝ちましょう」

 家門が手を差し伸べ、井藤は掴んだ。



 ◆◆◆



 同時刻。九頭龍に程近いある町で。

「良かったのか、【端末】の始末だけで?」

 その相手にブッチャーは質問した。

 これでもうこの依頼人からの仕事も何度目だろうか。

 彼は基本的には同じ依頼人からの仕事は受けない。

 理由はいくつかあるが、一番は他者の事情に立ち入るのが嫌だからだ。

 何度も仕事をしていれば嫌でも何らかの進展は起きる。

 それは場合によっては思わぬ事態を引き寄せる。

 十年前は、そういう意味で大失敗だった。

 依頼人がある企業グループで、短期間に複数の相手を殺害したが、結果的に”防人”に嗅ぎ付けられたのだから。

 あの頃はとにかく与えられたこの祝福イレギュラーを試したかったのだ。

 全国に小規模点在していた防人という自警団も今や世界規模のWGの一部となった。

 自分が誰かに後れを取るとは思わないが、万が一という事もある。そのリスクを避ける為に同じ依頼人からの仕事を避けてきたのだが、そういう意味で、目の前の依頼人は異例だった。


 彼には何度も会ったが、その姿は毎回別人だった。

 自分の様に肉体操作能力ではない、全くの別人の姿。

 だが、そのいずれも間違いなく同一人物だ。

 姿も声も性別も違おうが、一つだけ変えようの無いものがあったから。

「どうしたんだい? 君が考え事とはね」

 そこにいる相手の”目”にはハッキリとした狂気の光が宿っていたから。

「いや、何でもない」

「ククフフ、しかしあの研究所の情報が洩れるとは……ま、大方あの自称【平和ピース使者メーカー】の仕業だろうね。

 厄介な人だよ、ホントに」

 依頼人はやれやれだと肩を竦めてみせる。芝居がかった仕草の裏でまた何かしら思惑を巡らしているのだろう。

 ブッチャーはコーヒーを口にすると言った。淡々と当然の事の様に。

「必要なら殺してやろうか、パペット?」

 その質問に子供の姿をしたパペットはクスリとほくそ笑んだ。

「今はいいや、それよりも……これから起きる事を楽しもうじゃないか」

 ククフフ、独特の笑い声をあげパペットは空を見上げる。

 空に昇る月は分厚い雲に覆われていき、光は失われる。

 人形の異名を持つ彼にとってそれは、これから起きる事を暗示する様に見えた。

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