連携
「…………あ、ああああ………………ぁ」
声すらまともに出ない。
こんな光景をどう例えればいいのだろう?
目の前にあったのはただただ″死″のみ。
「はぁ、ぁ、はぁぁぁ」
息が詰まる。ここにいるだけで死んでしまいそうだ。
一体どれだけの人がそこにはいたのだろうか。
ここにあるもはもう原形すら留めないモノ、グズグズになった液状化したモノ。
「う、え、ええぇぇぇぇッッッッ」
酷い悪臭、いや腐臭が鼻をつき、吐き気が込み上げ、その場にて胃の中のモノ全てをブチ撒ける。
だけど吐瀉物の臭いすら、この場に漂うこの悪臭を前にすれば生易しく、全然マトモだ。
「な、何なんだ……よ」
周りを見回す、やっぱり誰もこの場にはいない。
だがいつまでもここにいても仕方がない。ゆっくりと立ち上がり、歩き出そうと試みる。
「あ、ぐっ」
だけどダメだ。足が上手く動かずにすぐに足がもつれて転倒。口の中に泥が入り込む。
「く、っそぉ」
情けない。まるで生まれたての子鹿みたいだ。
口に入った泥を吐き出しながら口元を拭う。
「…………あ、ぁぁ」
目に入ったのは…………手だった。
一瞬人形か何かに見えたけどもそんなはずがない。
そこにあったのは間違いなく人間のソレだった。
それはかすかに、だけども確かにピクリと動いている。その手の持ち主は今し方まで、生きていたのだ。
だけど、姿は見えない。
分かっている、持ち主はもういない。
ジュワ、という音。
転がっていた誰かの手は冗談みたいに溶けていく。
この場に誰もいない理由はこれだ。
誰もかもがこうして溶けていく。
残されるのは薄気味悪い、腐臭と水溜まりのようなモノだけ。
もう原因は分かっている。
僕がそうだ。この惨状をもたらしたのは僕なんだ。
何がキッカケだったのかは分からない。
ただ、突然猛烈な頭痛に吐き気、そして心が激しく乱されるような感覚を感じた事は覚えてる。
身体の中を何かが蠢くような感覚を感じて、絶叫して……意識を失い、そうして目を覚ましたら場はこうなっていた。
こうして僕はその日。
これまで暮らしていた世界から外れた。
これまで知らなかった世界の裏側に足を踏み込み、少数派となった。
忘れるな、僕はいつかこの事を償うんだ。
そして誓おう。こんな事二度と起こさない為に何でもするのだと。
僕の身体にあるこの″毒″が引き起こしたような惨事を防ぐ、そう心に誓った。
◆◆◆
「星城くん、下がりなさい」
「でも副支部長──」
「いいから下がって!」
家門恵美は躊躇なく体当たりを喰らわせ、聖敬は後ろへ転がる。
「井藤支部長、これはどういう事ですか?」
ピシャリとしたその舌鉾が上司であり、また十年来の顔馴染みでもある相手へ向けられる。
日頃の井藤であれば、家門の言葉は届いたであろう。
だが、
「星城……きぃよたかぁぁぁぁぁ」
今の井藤の言葉尻から理性を読み取るのは困難極まる。
明らかに平静さを失っており、イレギュラーが暴走しかけているのかも知れない。
しかけているかも、と曖昧な判断であるのは井藤の″毒″が辺り一帯を覆い尽くしていないからである。
(平常心ではない。でも、暴走には至らない程度の最低限の理性は保っている)
それが家門恵美の判断。
原因は考えるまでもなく、西島迅による″誘導″だろう。
(実際、私自身誘導で一時的にせよ自分の意図せぬ行動を取る羽目に陥った。あのイレギュラーは危険だ)
西島迅は危険な賭けをする人物ではなかったはずだ。
にもかかわらず、何故井藤をこの様な状況に追い込んだのだろうか。
──エミエミ、どう思ってるーーー?
耳元に装着した骨振動式のイヤホン越しに林田由衣の声が聞こえた。
彼女もまた、井藤の状態について自分と同じ疑念を抱いたのだろう。
「副支部長っっっ」
聖敬の声に家門は即座に反応。咄嗟に後ろへ飛び退く。そして今まで彼女がいた場所には井藤の放った″毒″が飛んできた。
ジュジュウ、何もない通路が溶けていき、異臭が鼻を突く。
「大丈夫ですか!」
「問題ありません、助かりました」
家門が驚いたのは、聖敬の反応の速さだった。
さっきの毒、霧状のソレはまさに瞬き一つ程度の時間で迫っていた。見えてから声をかけたのではまず間に合わなかったに違いない。
(つまりは彼は支部長の【毒】がどう来るのか予測していた、そういう事か)
結論はただ一つだけ。
家門は考えながらも、右手に愛用のリボルバーを、そして左手に同様のリボルバーを発現させると構えて発砲。
「ぐうううううううあああ」
叫びながら井藤は即座に毒の霧で周囲を覆い尽くし、その銃撃を防ぐ。
イレギュラーによって創造された銃から発射される弾丸もまたイレギュラーの産物。
その威力は担い手たる家門恵美が如何にその弾丸に己が精神力、というリソースを投じるかによって大きく左右される。
それは無論、弾丸だけではなくそれを発する銃そのものにも当てはまるのであるのだが。
リボルバーの銃声がフロア内に轟く。
その都度、井藤は向かってくる弾丸を毒で防いでいく。
「まだ──」
通常の弾丸とは威力が明らかに異なるその銃撃からは、家門恵美に相手への一切の躊躇もない事を示す。
だがそれも当然である。井藤が何の躊躇いもなくあの毒を放ってくる以上、家門もまた手を抜く訳にもいかないからだ。
「星城君、あなた観えてるの?」
銃撃を続けつつ、後ろにいる聖敬へ声をかける。
「──はい、感覚的なモノなんですけど、来る瞬間を」
「分かりました、では……」
「……僕を信じるんですか?」
その言葉からは戸惑いが聞き取れる。
「ええ、何が問題なのですか?」
先に撃ち尽くした右手のリボルバーの回転式弾倉をスイングアウトさせ薬莢を素早く排出。そして左に構えたリボルバーを上へ投げ、瞬時に残った手に予備弾を入れたスピードローダーを発現。そのままシリンダーへ再装填。同時に頭上のリボルバーを左手で掴むと即座に井藤へ銃撃を再開する。その所要時間は二秒もなく、まさしく神業的な早さである。
「由衣、頼めるかしら」
──待ってましたぁーーー。
と、突如フロアの電灯が一斉に破裂。無数のガラス片が降り注いでいく。
そして更にスプリンクラーも作動。ジリリリリ、とけたたましい音を立てながら水を噴き出す。
「星城君、後ろへ下がりなさい」
「はい」
有無を言わさぬ口調で聖敬と共に後ろへとステップバック。
「足止めする、これを」
言うや否やで、左右のリボルバーを後ろにいる聖敬へとパス。
同時にフリーとなったその手に発現させたのはショットガン。それも中折れ式のモデルではなく、連装式の軍用ショットガン。
「う、っ」
フロア内には様々な音が入り混じり、聖敬は聴覚に違和感を覚える。
そして次の瞬間。
ショットガンが火を吹く。
凄まじいまでの発砲音に、およそ数百発にもなる散弾の弾着に伴う壁やら床やらの破砕音。
バッシャン、と何か大きなモノが倒れた音はまず間違いなく井藤であろう。
そしてよく見れば壁からケーブルらしきモノが露出しているのが目に止まる。
「由衣──」
──アイアイサーだよエミエミーーー。
そしてだらり、と床に垂れたケーブルから火花が上がり、床にぶちまけられた水に接触。漏電を起こす。
それはまさしくすんでの所だった。聖敬と家門恵美のすぐ手前まで水溜まりは広がっていたのだから。
「う、うっっ」
あっという間の出来事であったが、聖敬は唖然とするしかなかった。
井藤の躊躇ない攻撃は何らかの精神操作によるモノだから理解はしていたが、家門の容赦ない攻撃を目の当たりにして、寒気を覚える。
当の家門恵美は、と言うと淡々とした面持ちのまま、周囲を確認。
「これで少しは時間稼ぎが出来るはず」
と独り言なのかどうか分からない言葉を発すると、聖敬へと振り返る。
「星城君、今の内に作戦を立てるわよ」
「作戦、ですか。でもあれだけの攻撃を受けて無事だとは思えないです」
「ならその見方は随分と甘いわ。井藤支部長は歴戦のエージェント。それなりにダメージは与えたのは間違いないけど、あの程度じゃ致命傷には程遠い。由衣、状況はどう?」
──はいはーい。電流で絶賛足止め中だよぉ。でも何分電流の操作は出来ないから、そう長くは持たせられないと思うから急いでねーーー。
淀みない通信であり、口調も冷静ではあったが、だからこそ分かる。林田由衣の言葉は事実なのだと。
つまり、様々な音の鳴り響く中、視界を遮りながらの銃撃に、それから電流という奇襲も相手を無力化するには足りないのだと。
聖敬はかつての自身へと立ち戻りつつあったのだが、それでもこの二人の連携には驚かされる。
(どうやら僕は皆の事を、人の事を低く見過ぎていたんだな)
そんなのは分かり切っていたはずだった。
何故なら本来、彼がいた異界に人は決して来れないはずなのだから。出来ないはずの事を彼女は、晶は成したのだから。
「分かりました。どんな作戦でも協力します。支部長を無力化しましょう」
改めて聖敬は気を引き締めるのだった。