解体者の誕生
ドクドクとした血がとめどなく流れ続ける。
それは白い床に真っ赤な池でも出来たかのようにすら見える。
(さってと、これでどの位やられちまったか?)
当の本人である春日歩はその光景にも眉一つ動かさない。
そのあまりの傷の多さに、もうそれを数えるのも億劫になっていた。
相手であるブッチャーは、その名に違わぬ強さを発揮し、対して自分はと言えば、ろくな反撃も叶わず一方的に攻撃され続けている。
全身のあちこちを抉られ、削がれ、出血量から見ても普通であればとうに失血死に至っているに違いない。
なのにも関わらず春日歩が未だにリカバーすら使わないのには理由がある。
まずは彼のイレギュラーが血液操作を基調としている事。普通の人間よりも血の量が単純に多いのと、それから実は出血量が実は見た目程多くはないからである。
(にしても、まぁ随分と派手にやられちまったよな──俺もさ)
思わず自嘲気味の笑みが浮かぶ。
大事な事はこの一見不利な状況からでも反撃に至れるか、という一点のみ。
そしてその達成を相手に悟らせずに準備していく。それだけである。
(さってと、もうそろそろいいよな)
大事なのは今のこの状況。
傍目から見れば一方的に攻撃され、反撃など不可能にも思えるこの時。
集中すべきは、相手が自身の敗北など露にも思わなくなり、心の間隙が生じる一種を見逃さない事のみ。
(【仕込み】次第でどうなるかは全く分からないけど、まぁなるようになるだろうさ。何たって俺は死神さんに酷く嫌われちまってる訳だし、な)
ふらり、と足元がふらつくのは芝居ではなく、彼の血がいよいよ足りなくなってきた証左。
命の危険にまで出血量が達しつつある、という事であり、その顔色は青くなりつつある。
──そろそろ限界らしいね。君のイレギュラーが分からないままなのは少々残念ではあるがこれも巡り合わせ。
運命の神様という存在はどうやら君に挽回の機会を与えるつもりがないらしい。
その声からは、もう自身の敗北を想起していないのが聞き取れる。
歩には確信出来る。間違いなく、次で仕留めに来るだろうと。
辛うじて踏み留まる。
──哀れだね。いっそそのまま倒れ込んでしまえば容易く死ねるだろうに。
「へ、そいつぁ悪かった、……な」
──私は、君について大した精神力の持ち主だと褒めるべきなのかもな。
だが生憎だが私はそういった精神論というのがもっとも嫌いなものでね。
「は、……まぁ。根性なんか、くそ……くらえ、だ」
膝が折れそうになるのを辛うじて耐える。
いよいよ限界に達したらしく、比例するようにその呼吸の荒さも尋常ではない。
顔を上げるのすらキツいらしく、下を向いたまま。
誰の目にも半死半生の有り様。
場にいた誰もが見逃していた。
そんな状況下にも関わらず、歩の口元だけは釣り上がっている事を。
◆
解体者こと背外一政は事ここに至り、この場に於ける自身の優位を確信しつつあった。
最初こそ三対一で始まりはしたが、特に波乱もなく三人を制圧。トドメを刺す前になり姿を見せた予期せぬ乱入者には不意こそ突かれたものの、受けた手傷は最初のそれだけ。
(思ってたよりもぬるい。もっと、)
背外一政は自身の事を戦士だとは思っていない。
芸術家、とは評してはいるものの、あくまでも自分という存在の本分は″殺し屋″である事を自覚している。
だからこそ、このイレギュラーは自分にこそ適している、そう思えた。
イレギュラー、というモノはその担い手の写し身。
それを聞いた際に確かに、そうだ。と解体者は納得した。
″臆病者″。
それが解体者、と呼ばれる最悪の殺し屋が自身のイレギュラーに対しての名称。
英語でなら″COWARD″。
いくつかある臆病者、というニュアンスの言葉の中でももっともネガティブな意味を持つとされる言葉であり、自分を評する際にもまずは選ばれない言葉。
いくじなし、という意味合いでもあり、他者に使えば強い侮辱と受け取られる言葉。
だが背外一政はこれこそが自分自身を評するに最も相応しい言葉であると思った。
子供の頃から理由も分からないままに周囲からよく虐げられた。
最初こそは反抗もしたが、その後にもたらされる暴力を前にしてやがて抵抗する事を彼は諦めた。
自分を育てた養父母は最低の連中ではあったが、自分から従順になりさえすれば御しやすい相手でもあった。
だからひたすらに従順に、言われた事に従った。
勉強をしろと言われれば勉強をした。
誰よりもいい点数を取り、クラスで、学年で一番にもなってみせた。
養父の家業を、つまりは医学を修めろと言われれば医大に入り、医師への道も心がけた。
そうしてただ従順に生きていたはずだった。
だが、いつの頃からか何かがおかしいと思うようになっていた。
学業はすこぶる順調で、養父母の期待にも応えていたのに。
何かが決定的におかしい。
その疑念はやがて酷い違和感を生じさせ、彼を少しずつ狂わせていく。
学業はみるみる急降下していき、……そして彼は医大を退学させられた。
養父母は自分達の期待を損なった青年を叱責した。
″何の為にお前みたいな餓鬼を拾ったと思っている″
″所詮はあのろくでなしの、一家の恥曝しの餓鬼だ″
″こんな事ならもう一人の餓鬼みたいに何処かの施設にでも放り出せば良かった″
″お前なんて一家の名折れが何処ぞで孕ませた餓鬼。今からでもお前の父親同様に追い出してしまえば″
その言葉が彼の中で何かを決定的に狂わせた。
気付けば一面が血塗れだった。
湧き上がるソレを抑え切れなかった。
あれだけ大声でなじっていた豚みたいな養父はもうピクリとも動かない。
ありとあらゆるモノをバラバラにされ、死んでいる。
養母は腰が抜けたらしく、その場にへたり込んでいる。ガタガタ、とその身を震わせ、小便を漏らしている様は何というか滑稽であった。
この気分が何なのか、もっと知りたい、ならばやるべき事はたった一つだけ。
(ああ、そうか。分かった)
壁に床に窓に、古めかしい柱時計に至るまで全てが鮮血に染まる。
そこには二つの、肉塊となったモノだけがある。
無駄に豪奢なシャンデリアからは赤い雫がポタポタと、小雨のように降り注ぐ。
「ああ、そうだ。これだったのか」
それは解剖をしている時に感じたのと同様のモノ。
心臓が高なるのを実感する。
そして同時に、自分が周囲の人間達とは決定的に何か違うのだと理解した。
何故なら、この結果を彼はメスや電動ノコギリではなく、その手で為したのだから。
この手で触れただけで肉を断ち切れた。
「もっとだ、コレをもっと試してみたい。だがもうこの家は必要もない」
元々家には何の愛着も抱いていなかった。
肉塊となったモノをどうすれば始末出来るかも、今なら容易である。
その日ある医師一家の家が炎に包まれた。
その勢いは極めて激しく、消防すら延焼を防ぐのが精一杯という惨事だった。
鎮火後に焼け跡から見つかったのはもはや誰なのかすら判別不能なまでにその全てが灰となった誰かの成りの果て。その分量から三人分だと推測され、後日周囲に残された遺品からそれが裏付けられた。
放火なのか、事故なのか不明なその火事で、一時期近所には様々なマスメディアが連日取材に訪れ、色々と噂にも上がったのだが、やがて他の事件が発生するとそれも立ち消えていった。
かくて戸籍上存在しなくなった背外一政は、自分が得たこの力を″カワード″を試す事にした。
まずは自分の顔を全くの別人へと変えた。
様々な顔のデータを参考に何の印象も抱けないような、極々平均的な顔にしてみた。
そして多くの人を″解剖″していく内に理解した。
彼らを解剖するのが楽しいのではなく、その事切れる寸前に浮かぶ表情こそが自身をもっとも高揚させるのだと。そこにあるのは絶望、困惑、恐怖、とか様々。
まさに千差万別であり、それらを見届けるのが愉しくて仕方がなかった。気が付けば″彼ら″は″共々″に裏社会での有名人と成りつつあった。
◆
「ぐうっっ」
獲物は今、限界を迎えた。
医学的な検知からまず間違いない。この出血量に負傷の度合い。相手は今にも事切れる寸前であるのだと。
(ああ、いかん。見逃す訳にはいかん)
自身を臆病者だと自認する解体者は動き出す。
死に瀕した獲物の死の寸前、そこに何が浮かぶのかを。これを見逃しては芸術家、死の収集家である自身の名折れとばかりに動き出した。