深紅の零――クリムゾンゼロ
「はぁ、はぁ」
中心街から繁華街へと聖敬は駆けた。その姿こそ、人間そのものではある。
パッと見は忘れ物や待ち合わせを急いでいる様に見えるだろう。その速度はまるで短距離ランナー並で、しかもそれをずっと維持していると云う点を除けば、だが。
聖敬は走る内に気付いた。
繁華街に足を踏み入れてから明らかな違和感を感じる。
心無しか、やけに”暑い”。
何も事情を知らない街の住人や恐らくは観光客らしき人々は口々に「暑いな」とか「喉乾くなぁ」とボヤきながら、繁華街から少しずつ離れていく様にも見える。
時間はまだ夜の八時過ぎ。派手なネオンが光輝く繁華街にとってはここからがまさに稼ぎ時。本来であるならここの大通りにはこれでもか、と云わんばかりに人の波が発生するはずだ。
だが今、この繁華街には通行客はほんの僅かしか姿を見せない。
勿論、全ての人がここから出ていったではない。
店にいる人はそこから出たく無くなったり、家や或いはデートホテルにいる人は出かけるのを躊躇う、その程度の事だ。
普通の事といえばそうだろう、だが、それが何千、何万人も同時に一ヶ所で起きれば、そこはもう”非日常”の世界だ。
理由はここが”フィールド”の影響下だからだろう。
田島が、先日話してくれた。
フィールドとは、”マーキング”みたいなイレギュラーなのだと。一旦展開したフィールドの周囲にいる一般人は、そこにいるのが辛くなる。
そう思う要因はフィールドを展開したマイノリティによって様々、それぞれに”個性”があるらしい。
ここは俺の支配する場所だ、関係のない連中はさっさと出ていけ。乱暴に云うならこういう理屈になるらしい。
何にせよ、マイノリティ同士の戦闘に一般人を巻き込まなくする為には有効で、便利な能力だといえるだろう。
感じる暑さが上がっている実感がある。同時に、人の姿はもう誰もいない。あるのはきらびやかな光に彩られた、非日常の世界。
(近い、すぐそこだ)
聖敬は、息を整え、そこへ、路地裏へと足を踏み入れた。
そこにいたのは、間違いなく、一般人とは無縁の世界。決して踏み込んではいけない異空間。
それはおおよそ戦闘とは思えず、まるでサーカスか何かのショーの様な光景だった。
巨大蟷螂のフリークの繰り出す鎌は、虚しく空を切り続ける。
決して、動きが遅いのでは無い。実際、かなりの速度で振り回されていて、しかも恐らくはその風圧だろうか、通過した周辺の地面や、壁にはピシピシ、と切れ目が入った。
そんな相手に対して、彼は平然とした様子で躱しつづける。
触れれば即その身体が両断されかねない、死をもたらす鎌を、まるで公園にある遊具と戯れる子供の様に無邪気に笑いながら。
やがて巨大蟷螂は、両腕の鎌をバツの字を描く様に繰り出す。鋏で紙を切るように。
(間に合わない)
聖敬は全力で走ったが、そう思った瞬間だった。
ドズン。轟音が響く。
まるで超大型のハンマーで何かを殴った様な鈍い音が聞こえた。
何が起きたのか一瞬分からない。
次の瞬間、巨大な蟷螂の巨体がグラリと揺れる。
その細長い胴が不自然に歪むのが見える。
そして――それは見た事がない光景だった。
その一瞬、フリークの身体に火が灯ったように見えた。
火が瞬間巻き起こり、消える。それは、まるで命を原材料にした花火の様に。
同時に、フリークの身体が瞬時に崩れていく。
そのまま原型を留めない程に、灰へと変わる。
微かに吹いた風に乗って灰は散り散りとなっていき――彼と目が合った。
そこには自分の知り合い、同じ学園の同学年の、クラスメイトが――――武藤零二が立っていた。
「な、何で君が……」
「ン? オレは【フィールド】張ったよなぁ。いつの間にか切れちまったってのか?」
困惑している聖敬を尻目に零二は、あれ? と言いつつ、不思議そうな視線を相手に向けた。その様子は普段学園で見せる気だるげな彼では無く、何処か生き生きしている様にも見える。
「ンじゃ、もっかい」
そう呟いた零二が目を閉じ――意識を集中。そして息を吐く。
キィィィン。
途端に、耳鳴りの様な音が響き、感じるのは強烈な暑さ。
聖敬は確信する。さっきから感じていたフィールドを張った人物を。
一方、その場を離れない同級生をマジマジと興味深く見た零二は、
「へーーー、何だよ、やっぱそうか。――お前……」
マイノリティだな、そう言うや否やで聖敬に突進してきた。
早い。その動きには躊躇いが無く、あっという間に間合いを詰められる。一般人であれば咄嗟に反応出来ない事だろう。
だが、聖敬にはその動きが全て”視えていた”。自身のイレギュラーによって発達したその動体視力は、素早い動きの一挙一動を見極め、反射神経は相手を上回る速度で自身の四肢を動かし、後ろへと飛び退かせた。その直後に零二が弾丸のようにその場所に立つ。
「おおっ」
感心したような声をあげ、零二はヒューと口笛を吹く。その表情にはこれまで見たことの無い、好奇心に満ちた笑顔が浮かぶ。
「やるじゃン、今の動きだと……お前【ボディ】ってトコだな」
ははっ、と笑いながら、零二はにやけた。その笑顔に聖敬は全身が粟立った。相手の危険さを本能的に感じたらしく、筋肉が強張るのを認識していた。それは、目の前にいる相手が戦闘狂である、と感じたから。
(強い、それもとんでもなく)
聖敬の表情の変化に気付くと零二はふーん、と感心したような声を出す。おもむろに両手を後ろ手に組み、笑う。
「何のつもりなんだ?」
意味が分からず、聖敬は尋ねる。
「へっ、ハンデだよハンデ。まともにやっちまったら瞬殺しちまうからなぁ――ま、とりあえずかかって来なよ」
そう言いながら、しかも零二は目を閉じた。二人の間合いはたったの四歩程。今の聖敬がその気になれば文字通り瞬時に肉薄出来る距離でしかない。にも関わらず、明らかな挑発を平然としてくるその相手を聖敬は正気とは思えない。だがそこから感じられる圧倒的な自負を感じた為に迂闊に仕掛けられない。膠着がその場を支配しつつあった。それからおよそ十秒程後。
「何だよ……かかってこないのかよ? ったくガッカリだぜ」
零二は聖敬からの動きが無い事に心底ガッカリしたのか、はぁ、と深く溜め息をつく。
「ンじゃ仕方ねェなぁ……」
気を取り直したのか、呟きと共に零二は、トン、トン、とその場で軽くステップをする様に飛ぶ。まるで踊る様に。
「……いくぜ」
そうして、一定のリズムを刻みながら――やがて動いた。
まずは軽く飛び付きながらの左ジャブを放つ。
聖敬はそれを上半身だけで躱す。
続いて、踏み込みながらの右でのハイキック。
想像以上に蹴り足が伸びてくる。
聖敬は、自分から前に飛び込み、蹴りの威力と勢いを殺す。そのまま逆に右のボディブローを放った。
上等ッッッ、と笑いながら零二が肘でその一撃を止め、間合いを取った。
「おいおいおいおい、お前意外とやるじゃねェかよ」
「あんまり嬉しくないんだけどね。武藤君もボディなのか?」
「いンや、オレは一応【自然操作能力】だったかな」
バカにするように不敵に笑う。
聖敬は冷静に状況を判断してみる。
(今ので分かったのは、何処まで本当かは分からないけれど、彼は【肉弾戦】を得意にしている。なら……)
それなら自分にも太刀打ちは出来る、それが出た結論だった。
「ンじゃよ、ボチボチ準備運動は終わりにしようぜ」
零二が腰を落とし、構えた。
あくまでも今のはお互いに能力を使わない、単なる小手調べでしか無かった。もっとも、その身体能力は優に常人を凌駕していたが。
「僕はあまりケンカしたくは無いんだけど……」
言葉を返しながら、聖敬も応じる様に構える。
「じゃあよ……オレから仕掛けンぞ」
そう言うや否や零二の右手が瞬時に白く光り出し――右肘から先が仄かに燃え始め、チリチリとした音が聞こえてくる。
「ほ、炎。【炎使い】なのか?」
聖敬の言葉に零二はチッチッ、と左の人差し指を動かす。
「ちぃとばかし違うかな」
と言うと、飛び込んできた。
正直いって、それは今の聖敬には遅過ぎる動きにだった。さっきの様な速度が出るとは思えない、ゆっくりとした踏み込み。何かの冗談かと思う程に遅い仕掛け。
だが。
次の瞬間、零二は聖敬に肉薄――そして燃え盛る右手を放つ。狙いは腹部、鳩尾。
気付いた聖敬は瞬時に筋肉を固めた。その堅さは至近距離でのマグナム弾をも弾く。なまじっかな攻撃は弾き飛ばせる筋肉の鎧。
「しゃああああっっっっ」
切り裂くような叫びと共に零二は右手を振り抜いた。
それはまるで、自分の身体が弾丸にでもなったのか? そう思わせる勢いだった。
気が付くと、聖敬の身体は吹き飛ばされ、建物の壁に叩きつけられていた。そこからワンテンポ遅れで衝突の衝撃が全身を駆け、一気に走り抜けた。壁はバリバリと崩れ、瓦礫に土煙がその場を覆いつくした。
がっ、呻きながら聖敬が感じるのは激しい痛みと、焦げるような”熱さ”。目を向けると、自分の鳩尾が拳の形に焼け焦げており、文字通り”焼かれた”のだと理解した。
「おいおい、あン位どうって事無いンだろ? さっさと出てこいよ」
零二は、なかなか出てこない相手に対して、いかにも面倒くさそうな声を浴びせた。
「今のは、単なる挨拶だぜ? 死ぬ【ハズ】無いじゃねぇか」
さらに出てこない相手に少し苛立った声をあげる。
すると、その声に応えるかの如く、ガラン、という瓦礫の崩れる音が聞こえ――気が付くと聖敬が目前に迫っていた。
聖敬の強烈な肘打ちが直撃。
今度は零二の身体が宙を舞い、電柱に激突。
電柱は砕け、その身体がグシャリと地面へ落ちる。
「は、はぁはぁはぁ」
聖敬が膝を着く。手応えはあった、間違いなく相手の肋骨等は砕けたはずだ。いくら”リカバー”が作用してもすぐには動けないはず。
「ハハハハッ、やンじゃねぇかよ。思わず【貰っちまった】ぜ」
だが、相手は何事も無かったかの様に立ち上がっている。
逆に、聖敬の鳩尾には痛みが走った。さっきの一撃がまだ後を引いていたのだ。
その隙を見逃さず、零二は接敵。頭を軽く回すと一気に頭突きを聖敬に喰らわせ、姿勢を崩した相手の肩を掴み――突き刺す様な膝をめり込ませる。
がっは、と呻きながらよろめく聖敬。そこへ、零二の右拳が直撃した。全身が沸き立つ。まるで焼き尽くされた様なこれまでに感じた事の無い一撃。
「かがっっ」
呻きながら、聖敬は倒れる。
「あーー、もうお寝ンねかよ。ま、いいや。
オレの拳は効くだろ? 【ホット】でよぉ」
倒れた相手を見下ろしつつ、零二は破顔しながら右手を振り上げる。そして一気に手刀を振り下ろした。
その追い撃ちは聖敬の頭部に直撃した……ハズだった。
だが、手応えは無い。そこにいたはずなのに、直撃したはずなのに。
パパパン。
代わりに零二の身体に銃弾が襲いかかった。その銃撃は零二の腹部に胸部を直撃し、よろめかせる。
「ってェな、誰だコラア!!」
怒りを露にした零二が銃弾の先を睨む、そこにいたのはグロックを構えた田島の姿。
「てめぇ、田島?」
「今だっっ」
そのかけ声と共に死角から飛び込んだ聖敬の一撃が零二の顎を打ち抜く。
不意を突いたその一撃は間違いなくマトモに入った。
あぐっ、という声をあげ、その身体は簡単に宙に舞った。
だが、それでも零二は身体を反転させる。そうして衝撃を逃すと壁に着地……そのまま地面に降りた。
「くそっ、バケモンめ」
舌打ちしながら田島が聖敬へと駆け寄り、大丈夫かと尋ねる。
聖敬は何とか立ち上がる。だが、足に来ているらしく、よろめいた。
一方、零二は予期せぬ田島に水を刺され、苛立ちぎみの表情で睨みつけた。
「おいおいおいおい、田島ぁ。何で、てめぇが……邪魔すンじゃねェよ!!」
「キヨちゃんはWGの関係者だからな。悪いが、囲ませてもらうぜ。【深紅の零】さんよ」
勿論、仲間等はいない。完全にハッタリ、だが、これで少しでも相手の足止めになるのなら。そう思ってのブラフ。
だが。
「そっかよ、仲間ねぇ」
零二は全く気にする様子も無く、歩み寄る。
「オレは構わないンだぜ、何人でも来なよ」
歯を剥き、獰猛な笑みを浮かべた。
その迫力に田島だけでは無く、聖敬も後退りしている。
くそっ、と言いながら足止めを図った田島がグロックの引き金を引く。パパン、と乾いたクラッカーの様な音と共に吐き出された弾丸を零二は身を屈ませ躱し、左手を突き出す。
それは、敵の注意と隙を突く為に田島が”不可視の実体”で作り上げた虚像。それは目論み通りに気を反らせたはずだった――だが。
「くっだらねェゾッっっ」
不意に零二は腰を捻りながら軌道を変える。左手刀を横凪ぎに振るった。
一見すると、そこには何も無い様に見えたが、実際には田島がいた。見破られるとはおもっておらず、完全に油断した状態の田島にその一撃は直撃――胸部を痛打され、あぐっ、と呻きながら倒れた。
「あんまり、オレをなめンなよ。ネタのバレた手品にゃ引っ掛からねェぜ」
零二は相手を見下ろしながら、吐き捨てる。そしてもう興味は無いとばかりに大袈裟に周囲を伺う。
「ンで、結局仲間なんていねェみたいだなぁ……」
はっ、と笑った。
「……さてと、こンでもう邪魔は入らねェよなぁ」
そうしておいて、改めて聖敬へとその視線を向ける。
応じる様に聖敬も何とか立ち上がる。
「ンじゃいっくぜぇぇ――」
零二がそう吠えて、一気に襲いかかろうと構えた時だった。
キィィィィン。
何者かがこの場に再度、フィールドを展開した。
そして、まるで爪で黒板を擦った様なあの独特の不快な音が聞こえる様な錯覚に陥り、その場にいた三人の動きが止まった。
「チッ、邪魔すん――!!」
何かに感付いたのか、舌打ちまじりに言いかけた零二の目の前が突如、抉られる。
遅れてガガガガッッ、という轟音が響く。それはまるでそこだけがドリル等の切削機械で抉った様な有り様。
――レイジそこまで。
女性の声が聞こえた。聖敬は周囲を見回すが、人の姿は見えない。近くにはいない。声の調子から若い女性らしい。
「今、いいとこなンだ。止めンな!!」
零二は怒りを露にし、姿を見せない相手に怒鳴る。
――別に、レイジがどうなっても興味ないけど、こっちにしわ寄せ来るのは嫌。
その声には感情の起伏が殆ど無い。
――ピースメイカーからWGと必要のない衝突は無し、って聞いてるでしょ……こっちは責任とかめんどくさいから嫌。
淡々としたその声に、調子が狂ったのか零二は構えを解いた。
「わーってるよ、やめりゃいいンだろ。ったく調子狂うぜ」
チッ、と盛大な舌打ちを一ついれると、んじゃな、と言ってその場を立ち去る。
その場に残された聖敬は緊張の糸が切れたのか、その場にへたり込む。
「何だったんだ今の?」
ようやく田島も立ち上がると、息苦しげにしながら親友に近寄る。
「さぁな、何にせよ、俺とキヨちゃんが助かったのは間違いない」
困惑したまま、この日は後始末で終わった。
◆◆◆
翌日。
聖敬は警戒していた。
登校したのはいいが、同じクラスにWGではないマイノリティがいると分かったのがショックだった。
それも、WDのメンバーがここに。
そう考えるとゾクリとしたものを感じる。
そんな危険な組織の一員が、僕達の……いや晶のすぐ近くで平然と歩いていたのだ。
ひょっとしたら、昨夜で彼に殺されていたのかも知れない。
そう考えた瞬間、脳裏に浮かんだのは昨夜の光景。
零二の手によってあのフリークが崩れ去った姿。あの騒ぎの後で、調べた所によると、一般人の犠牲者数は六人。
そのいずれも”斬殺”――それも相当に大型の刃物で、という話だった。
――じゃ、とりあえず【クリムゾンゼロ】の仕業じゃないな。
奴の手口なら相手は大火傷か、もしくは灰にされちまう。
田島にそう言われても、聖敬には納得出来ない。
あのフリークみたいな死に方じゃ、証拠も何も残らない、そういう事になる。
そんな事を考えていたら、昨夜はあまり寝ることも出来ず、気が付いたら朝日が昇っていた。
部屋のテレビでは、昨晩の繁華街での一件は通り魔による凶行という事になった。犯人は駆けつけた警察官により射殺。身元は、まだ十代の少年で、いわゆる”ドロップアウト”と呼ばれる不良少年らしい、そう事件を伝えていた。
何も事情を知らない、コメンテーターが、やれ社会の闇がどうとか、事前にこうした凶行の兆候は無かったのか、等々言っている内に不愉快になりテレビを消した。とりあえずは、WGが手を回したのだけは間違いない。
仕方が無いので、居間に降りると、
――ちょ、くそ兄貴。何で起きてんの?
と妹の凛にジト目で心底鬱陶しそうに睨まれ、
――あらあら、今日はどうしたの? 熱でもあるの?
と母である政恵からは心配そうな視線を向けられ、
――いやに早起きだな。……このトーストは私のだ。
と父である清志はトーストを口に入れてこれが自分の物だと強く主張され、つまりは三人から「お前、何で今日はそんなに早起きなワケ?」と突っ込まれて一日が始まったのだ。
田島は、何やらWGに立ち寄ってから来るらしく、遅れる、とメールが届いていた。
そんなこんなで、結果的にいつもより電車も二本は早いし、教室に着いた時、先に教室にいた小林と木村からお前どうしたの? とここでも心配される始末。苦笑しながら教室にいると、程なくして再び、教室内にどよめきが起きた。
「よぉ」
それは零二だった。
いつも始業ベルのギリギリにしか来ないはずの零二がいつもより三十分も早く教室に入ったのだ。
零二は教室を見渡すと、迷わずに聖敬の横にツカツカ歩み寄る。
聖敬も相手に気付く――すると、零二は、来いとばかりに首を横に振ると、出ていく。聖敬も迷わずに席を立つとその後を追った。
「……今の見たか?」
「見た見た、……只事じゃないって雰囲気だった」
「もしかして、レイジ君が……ヒカリに告ったとかだったり」
「うおぃ……マジかよぉ、三角関係来たぁーー」
今の流れを見ていたクラスメイトはそれぞれに無責任な想像と妄想を膨らませた。
しばらくして、学園の旧校舎。その屋上に二人はいた。
既に人払いの為にお互いにフィールドを展開済みだ。マイノリティ以外の無関係な学生がここに来る事はまず有り得ない。
零二は、空を見上げている。聖敬はじっと相手から視線を外さない。
「ンで、どうだったよ?」
「何がだよ?」
不敵に笑う零二と真剣な眼差しを相手に向ける聖敬。
「昨日の続きをやらねェか? ってンだよ」
口火を切った零二は今にも吠えかかりそうな表情を浮かべる。
好戦的な雰囲気にまるで獣の様だ、と聖敬は感じた。
「何であんな……」
「ンあ? 何だって?」
「何であんな簡単に人を殺せるんだ、君は!」
聖敬は思わず言葉を荒らげ、その両腕をメキメキ、と変異させる。零二はその聖敬の様子を何処か満足気に見ている。
「何で、殺すかって? じゃ何か、お前は誰の命も奪った事は無いのか? …………違うだろ? 知ってるんだぜ、オレは」
その言葉は聖敬に突き刺さる。その脳裏にあの狂った怪物――木島秀助の不気味な姿が浮かび上がる。
――お前は、あの時、俺を殺したよなぁ。
そう木島は耳元で囁く。
――お前は、俺を殺さなくてもいいと思ったのか? 違うだろ?
明らかに動揺を見せる聖敬の様子を見て、零二はやれやれと嘆息した。
そして、何を思ったのか突然、殺意を剥き出しに相手に詰め寄った。
聖敬は咄嗟に、本能で相手にその変異した腕を――爪を繰り出す。
バシャッッ。
その感覚、感触、臭い。
まるで噴水の様に血が噴き出す。
零二の身体を獣の爪はまるで紙切れの様にアッサリと切り裂く。それ常人であれば間違いなく絶命するであろう一撃。
「あ、あぁぁっっ」
「へっ、どうした? 何を驚くンだ」
瞬時に傷は塞がり、飛び散った血は蒸発していく。
シャツの破れさえ無ければ何も無かった様に見えるだろう。
「何をそんなにビビってンだよ、オレはマイノリティだぜ?」
ははっ、と笑いながら零二の右拳が白く淡い炎に包まれる。
聖敬が右拳に意識を向けた瞬間、左膝が肋を直撃していた。
その衝撃は、至近距離でも充分に重く、肉体を突き抜けていく。思わず、がかっ、と呻きながらよろめく。
「おいおい、しっかりしなよ。オレはまだ【右拳】をお前に叩き込んで無いンだぜ?」
そう言いながら、零二は右拳を掲げる。
「はぁ、はぁ」
聖敬は肋を手で触り、状況を確認する。
間違いなく、肋骨は何本かが粉砕されている。リカバーにより骨折はすぐにでも回復するだろう。
「もっと抵抗して見せろよ」
踏み込みながら、零二の燃えうる右拳が襲いかかる。下から上へと腰を捻りながらのアッパーカットだ。
昨日の一件でハッキリと分かった事が一つ。
目の前にいる武藤零二は、自分よりもずっと戦闘馴れしている、と。
そして、”右拳”に絶対の信頼を置いていると。
だから、反撃のきっかけになるのは――。
聖敬は左手を繰り出し、アッパーの勢いを削ごうとした。
押し切られたら、右手を繰り出す。
押さえ切れたら、右手でカウンター。
この為に両腕共に変異させたのだ。
これで一矢報いるはずだった。
ガキン。
鈍い鈍器の様な音。聖敬の身体に力が入らない。
正確には、力が抜けたのだ。
がくりと、膝が崩れるのが分かる。聖敬は困惑しながら何をされたのかを冷静に目を向ける。
何を喰らったのかはすぐに分かった。
肘を喰らったのだ。アッパーを繰り出すと見せかけての一撃。
聖敬の左手のガードを容易く突破し、顎を撃ち抜いたのだ。
いくら聖敬の肉体が文字通りの鋼でも、脳を揺らされては意味を為さない。身体を動かせないのだから。
右前蹴りが鳩尾を突き刺さり、聖敬は後ろへと倒れた。
「何だよ、もう少しは本気でやらせろよな。
ま、いいや。でも、最初の一撃はなかなかだったぜ」
聖敬は返事を返さない。いや、返せないというのが正しいのかも知れない。
「こっちとしても不本意なンだけどよ。本気を出せないなら、お前の幼馴染みにでも人質になってもらおう――――」
「――――やめろ」
殺気が零二に叩き付けられた。思わず、全身をぞわりとした震えが走る。
「ようやくその気に……」
言いかけて、咄嗟に後ろへと飛び退く。そこを爪が通過した。その勢いは凄まじく、風圧で老朽化していたとは言え、転落防止用の手すりが吹き飛んだ。
「……なったわけだ」
零二はニヤリと笑う。
目の前にいるのはさっきまでの何処か甘さを捨て切れない聖敬という人間では無い。
そこに立ち塞がるのは、殺意を剥き出しにした狼。
メキメキ、とその全身を変異させていく。
やがてそこに姿を現すのは、黒狼。溢れんばかりの殺意の塊と化した一匹の獣。二メートル級の肉食獣。
ガアルルル!!
その咆哮は零二の身をも一瞬すくませる。
そして、その必殺の爪を突き立てるべく、飛び掛かる。
瞬時に零二の左腕がもぎ取られた。
さらにその巨体で体当たり、敵を吹き飛ばす。
「くはは、お前最高だゼッッッ」
零二は痛みに顔を歪めながら、しかし笑う。
「かああああっっっっ」
意識を左腕に向け、集約させていく。
すると、千切れた左腕が火と共にその姿を復元され、狼の千切った元の腕はシュウウウ、と蒸気をあげて消え失せる。
くはは、と甲高い笑い声をあげながら再生させた左腕を鞭の様に振るって感覚を確認。指をコキコキと鳴らしつつ感触を味わう。
「そう来なくちゃな、やっぱ戦闘は、それなりに【命】の駆け引きがなきゃあ、ダメだよなあっ」
嬉々とした表情を浮かべ、零二の両腕から”湯気”の様な靄が上がる。それは、全身へと広がっていく。
「――へっ、久々に【マジ】で殺れそうだ、あンがとよ」
黒狼がその爪で再度切り裂こうと向かってきた。
圧倒的な速度も加わったその必殺を零二は首を一度ゴキン、と鳴らしつつ待ち構える。
空を切り裂く狂暴な右手が今にも肩口へと迫る。
トン。軽い音を立て、零二の左手の甲が狼の初撃を弾く。だが、狼は左手を横凪ぎに放つ……首を撥ねる勢いで。
かっっ、零二は咆哮。その直撃を受けた。狼は何処か満足気に唸る。
だが、その感覚は妙に軽い。そして敵のシルエットが、まるで”幻”の様に揺らいだかに見えた時だった。
狼の身体に何かが迫る。空気にチリッとした熱さを感じる。
それは、零二の右手。あの白く燃える様にうっすら輝く必殺の拳。その極限まで研ぎ澄まされた動体視力と、反射速度の前には単なるパンチや、蹴り等は止まって見える代物に過ぎなかったはずだった。
しかし、その右拳はその獣の最大速度を優に上回り、直撃。
「らあああああっっっ」
まるで至近距離でバズーカでも喰らわせた様な衝撃が、狼を吹き飛ばす。
「激情の初撃」
実の所、一見それは何の変哲も無い、単なる右ストレート。ただ、尋常ではない速度とパワーにより大砲の様な破壊力を備えている。
さらに全身を突き抜けるその衝撃と共に黒狼は宙を舞い、そのままコンクリートの地面に強かに叩き付けられた。
それでも勢いは止まらず、擦れる様に地面を抉りながら転がっていき、やがて止まった。狼はシュウウウと見る間に元の姿へ、聖敬の姿へと戻っていく。あれだけの巨体と筋力への変貌にも関わらず、黒のアンダーウェアとスパッツ状のレギンスは破れていなかった。
「いい素材使ってンな、WGも」
零二も戦闘態勢を解除、満面の笑みを浮かべた。
しばらくして――一時間目の始業ベルが鳴り響いた。
「う、ううっっっっ」
呻きながら聖敬が目を覚ます。気付くと、地面に大の字で倒れていた。身体に激しい疲労感が残り、服装を見て、間違いなく”獣化”したのだろう、と理解した。
聖敬の獣化にはいくつかの段階がある事がこの一ヶ月で分かっている。
まずは、手足の肥大化。これは一部の変異の為、もっともコントロールしやすく、一番多用出来る状態。
次に、人間をベースにしながらの獣化。異形ではあるものの、そこまで身体が変異するわけではない。どちらかと云うとスピード重視の変異。
最後が完全なる獣化。これにより、見た目自体が狼へと変異する。
色は白、黒の二つのパターンがあって、白は自分の自我が残っている状態。
黒の場合は”暴走”を表す。
この獣化を解除すると、全身にしばらく激しい倦怠感が残る。
状況を理解しようと起き上がる。ズキリ、とした痛みが腹部に走り、顔を歪める。
「よぉ、起きたか?」
声をかけてきたのは零二だった。
さっきまでよりもスッキリした表情をしていて、無残に破けたシャツを着ていなければ、とてもさっきまで戦っていたとは思えない。
「……僕は負けたんだな」
「ああ、そりゃもう、見事にな」
零二はははっ、と笑う。さっきまでの好戦的な雰囲気はそこには感じられない。
「お前、まだ目覚めてどン位だ?」
「……一ヶ月だよ」
その返答に零二はマジかー、と言いながら思い切り笑い転げる。
「お前、一ヶ月でそれだけ殺れるのか。すっげぇじゃンか」
そう言いつつ零二は立ち上がる。
そして、不意に聖敬に振り返ると真顔になり、
「お前、WDに来いよ」
そう言った。