吠えろ
はるかに続く地平がありました。
大地には、もり上がったりくぼんだりしている段差が見えています。そのうねったもようは、いくつかに重なってとなりあうシワのようでもありました。
段になっている低い所と高い所とには、その差をおおいかくすようにして、木木のじゅうたんがしかれています。
葉っぱはふかふか。とてもやさしいさわりごこちをしていました。
ですが、少しばかりぎゅっと押しこんでみると、たちまち手の平にちくり。枝の先の手にささる感しょくが伝わってくるのでした。あたりには、木木がひしめき合ってできた森が、大きく、大きく広がっていました。
少しはなれた場所には、外側に出っぱった、ささくれのような地形も見えていました。
うねりにまみれ、濃い色によって見えなくなっている境目の先には、きらきらとした水辺が、ずうっと奥のほうまで伸びているのでした。
この森のすぐそばには、一けんのお茶屋さんがありました。
その一か所だけがぽつんとしていて、まわりに人の住む家などは見あたりません。
あたりにぞわぞわと広がっていたのは、自然をそのままに写し出した風景だったのです。
ぽつねんと一けんだけでたたずみ、それでいて、どこか誇らしげにも見えるそのお茶屋さんは、木によってつくられていました。
ちょっとばかりお店の中をのぞき込んでみると、そこには大きくて頑丈な大黒柱が立っています。そのまわりを何本かの柱がたて横に伸びており、それらの柱には、割れた筋がぴしり、ぴしりと走っていました。
道に面した入口の外に出てみると、お店の軒下に沿うようにして長細い台が横へのびていました。
お店の建物と同じく、木によってつくられているこの台の上には、一枚の布が簡単にしかれています。
ここはお客さん達が腰をおろして、おだんごを食べたり、お茶を飲んだりするところだったのです。
よいお天気の日には、少し涼しい風が、森から木の匂いをいっぱいに吸い込みながら、お店の前を通り抜けていきます。
あたりでは、どこからともなく鳥のさえずる声が、ぴぴ、ぴぴ、と聞こえ、ずっと向こうの方にはかすかに見えるか見えないかと言った様子で、きらきらとしたものがあるようでした。
昼間には旅人達の行き来がありましたので、ひょっとしたら少ない人数だったのかもしれませんが、お店には来客の姿がちらほらと見えていました。
お客達はお店に足をとどめると、それぞれに思い思いの注文をします。
お店でふるまわれる品物には、種類に限りがあったのですけれども、お客達はそこで足を休めて旅の疲れをいやし、ひとときの休息をとっていったのでした。
ここではなにしろ、まわりが自然のままの状態だったものですから、お店から見ることのできる風景というものには、一目見ただけでどんな人でも深く感じ入ってしまうような、たくさんの色どりがありました。
その風景は、表の道の上を歩く旅人達の目をときに楽しませ、またときに、お店の前で台の上に座っているお客達の心をじんわりとさせ、そしてときには、ごくまれにではありますが、見る者をしょんぼりとさせてしまうこともあったのでした。
それでも、お茶屋さんに立ち寄ったお客達は、しばらくそこで食べたり飲んだり、お話をしたり、またゆっくりと体をのばしたりして一息をつくのです。そして、腰を持ち上げ、荷物がある場合は荷物をまとめ、それぞれの目的地に向けて、ふたたび歩き始めるのです。
木木の葉が、吹く風にそやそやとなびく午後になり、そのまま日差しが低くなってくると、目に入ってくる景色はおぼろげなものへと変わっていきます。
そして、そのころになると、最後に店を出たお客の背中というのは、いつしかずうっと遠くのほうへと、小さく小さくかすんでいくのでした。
その後になってしまうと、お客の姿は全く見かけることができませんでした。日が落ちてから朝が来るまでの間には、とにかく一人の来客もなかったのです。
ところが夜ふけをすぎてもまだ、お茶屋さんはお店を閉めようとはしませんでした。 夜になって、いつしかお店の中に灯された明かりは、入口から外へと、じんわりともれ出ています。前の道が半円の形を作るようにして、少し明るくなっていました。
遠くのほうから見たその光景は、あたりを包み込んだ暗がりの中に、ぼうっとした光が静かににじみ、そして、ゆっくりと、ほのかに揺れているようにも見えました。
実をいうと、この時間になっても、まだ来客が居たのです。
そのお客は森から姿をあらわすのでした。
いつも夜になると、お客はゆっくりと、少しずつお店の方へと近づいていきます。近くを歩いている者は誰もいません。まるで真っ黒い一つの影が動いているようです。
そしてまた、それはおかしなお客でもありました。
お店の中にそのお客が入ってくると、いつも決まった席に腰を下ろします。それからなんの注文も出さないままに、誰にともなく、こう言うのでした。
「木の梢を、きちんと合わせてみた」
それは奇妙な意味の言葉でした。どうやら、地面に落ちた木の梢を枝先に継ぎ合わせているということらしいのです。
このお客がいったい誰なのか、そしていったいどこに住んでいて、何の目的でお店にやって来るのか。そういったことは、よくわかりません。ただ来るたびに、木の梢のことを言っていたのです。
夜はいっそう更け、お店の中はしいんと静まり返っていて、外では暗闇が、いく重にもお店の周りを取り囲んでいます。お店の前には、誰もいないまっ暗な道があるはずですが、それも今では、あるのか無いのか、よくわからなくなっていました。
ときおり、遠くから獣の鳴き声が聞こえてきています。森からのお客が、ただ、お店の中に座っていました。そしてこの夜やって来るお客というのは、いつも日が昇る前に帰っていくのです。
一日が始まって終わり、そしてまた始まって終わる。それを何度もくり返します。そして、また夜になりました。
今日も、あのお客がやって来ています。ところがそのお客が、いつもとはちがうことを言い出しました。
「あの大地に向かって歩いているんだよ。雲雀は人だよ。しかもそれは一人だ。そして、それを見ることができるのも、たった一人だけだ。しっかりと目をこらして、見てごらんよ。大地は向こうのほうから歩いて来る。ほら、すぐそばまでやって来た。だが、そこで怖がってはいけない。それは区別のつく時でもあるんだ。見ればわかるよ。たちどころに理解する。雲雀にお願いして、両手を置いてみなさい。けど、木の梢を合わせなければならないよ。それを忘れてはいけない」
静かな夜でした。お店の明かりが、暗闇の中にぼうっと浮かび上がっています。
「ですが、それはいったいぜんたい、どういうことなのでしょうか?」
お店の主人は、ついにたずねたのでした。
「わたしには、まるでさっぱり、わからないのですけれど」
主人は困ったようにしてお客に聞きました。すると、お客はこう言ったのです。
「ああ、という声が、群青色が、干し草から立ち込める匂いが、形という中身が、全ての一部が、語りかけてきた。さあ、どうするね? 今すぐに、こたえなければならないよ」
「そのようにおっしゃられましても、すぐにお答えすることなど、とうてい、できません」
「本当にそうかい? もうこたえているのではないかね?」
「………」
主人は、しんそこ困ってしまいました。お店の明かりは、天井の高いところにある黒々とした柱をくっきり写し出しています。
お客は、続けて言いました。
「これは、とても良いことなんだ。きっと良くなるよ」
「なぜ良くなるのですか?」
主人は問い返します。けれどもお客は、それには何も答えませんでした。ゆっくりと立ち上がり、そのまますうっとお茶屋さんから出ていったのでした。
主人は、森に向かって帰っていくお客の背中を、ただじいっと見つめていたのです。
お茶屋さんは、森に連なっていました。しかし、森ははるか向こうに、小さく見えているだけなのでした。
木が葉っぱを落とします。つぼみが開いて緑色をした芽が顔を出しました。森は前よりも、もっと深い色に染まっていったのでした。
おしまい